第二十話
頭の後ろを、強く殴られたような衝動があった。テージャスは大きく目を見開く。体を包む空気が変化したのがわかった。先ほどまでの温かな水に揺らぐような優しい感覚ではない。ここは湿っぽくて、黴くさいところだ。
ゆっくりと、目を見開いた。そこは今までいた水辺ではなく、ヴァルナも、黒髪の小男の姿もない。目の前にあるのは黒い壁だ。手を伸ばし、そっと触れてみるもそれは固く冷たく、外部からの侵入者を拒んでいるように見えた。
小さな動物の鳴き声のようなものが聞こえ、はっとそちらを振り返った。
目の前にいるのは、膝をついたテージャスと同じくらいの身長の生きものだった。大きな顔に手足がついている。首はなく、体に顔がついていると言った方が正しいだろう。
胸には大きな目が、腹部には大きく裂けた口がある。口からは無数の尖った歯が見え、濁った黄色をした目はきょろきょろと落ち着きなくあたりを見ていた。手は異様に長く、体中が黒い太い毛に覆われている。
その生きものは、キキキ、と軋むような鳴き声を立て、テージャスをじっと見てきた。
黒い生きものは、いきなりテージャスの手を引っ張った。促されるままに立ち上がる。その生きものは思いのほか強い力でテージャスの手を引き、驚く早さで駆け出した。テージャス自身、自分がこれほどに早く走ることができるとは思わなかったほどの勢いだ。
「ちょっと、待ってください……!」
生きものは大きく跳ねた。手を掴まれたテージャスもその場で一緒に跳ねることになり、しかし地面に足が突く衝撃がない。驚く間もなくあたりは真っ暗になり、上も下もわからないまま転がり落ちていっているように思える。
悲鳴を上げようとしたが、あまりに驚いて声も出ない。どのくらい転がったのか、いきなり光が目に飛び込んできて驚いた。テージャスは複雑な織り模様の施された絨毯の上、髪を乱して無様にしゃがみ込んでいた。
「こ、こは……」
顔を上げると横に立っている従者の姿が目に入り、その姿にぎょっとした。彼らは右手には鋭い剣を握り、金属片を鱗のように連ねた鎧を纏ったその男には首がない。兜をかぶったそれはその左腕に抱えられている。目をぎょろりと見開き、ときどき動くのが無気味さを助長している。
大きな犬が近寄ってきた。大きな赤い舌を出していきなり頬を舐めてきたことにも驚いたが、白と黒の斑の犬に、よく見ると四つの目があることにも驚いた。犬は二匹いて、どちらがどちらか見分けのつかないほどによく似ている。
「よい、サーラメーヤ」
声がした。低い男の声だ。テージャスが声を上げると二匹の犬は声の主のもとに駆け寄った。見れば、先ほどの黒い生きものは、声の主の周りをぴょんぴょんと跳び跳ねている。
絨毯よりもさらに細かい模様の縫い取られた円座の上に、男が胡座で座っていた。長く真っ直ぐな髪は床の上に流水のような模様を描き、その色は深く濃い緑色だ。金属のように硬質に見えるのに、それでいて柔らかい絹糸のような艶を放っている。
肌は浅黒く、テージャスを見る目は銅色をしている。年のころはテージャスと変わらないようだが、その目だけが百の老人のように臈長けていた。その手には鈍い金色に輝く錫杖を持っている。男はまるで像のように微動だにせず、そこに座っている。
「あの……」
呼びかけても男はやはり何も言わず、じっとテージャスを見つめるばかりだ。その視線に気圧されて、テージャスは固唾を呑む。
そんなテージャスを、男はじっと見ていた。やがてつぶやくように言った。
「北西方天などに用はない。そなたの居城に帰れ」
そう言って、男はじろりとテージャスを見た。銅の色の目が感情を持って動くさまは石のように動かなかったとき以上に恐ろしく、テージャスは怯んだ。彼の円座の周りにサーラメーヤと呼ばれた犬たちがまとわりつき、男に撫でられて四つの目を細める。そのまなざしから、彼は恐ろしい者ではないということがわかる。しかし男はテージャスのことなど忘れてしまったかのように犬たちに話しかけるばかりで、テージャスは所在なくその場に立ち尽くした。
「帰れ、とおっしゃられましても」
戸惑った挙げ句、テージャスは言った。
「ここは、どこなのですか」
その言葉に、男は目だけを動かしてテージャスを見た。その表情はテージャスの言葉を面白がるように見えたが、しかし口もとは固く引き結ばれたままだ。
「私は、どこか水のほとりに出て……。金色の、髪の方が。銀髪の方と、小さな黒い髭の方が……」
いきなり見知らぬ場所に出て驚いていたばかりのテージャスは、そうだ、と声をあげた。
「私の兄の従者が、殺されたのです。死んだ人間は、ジヴァラマンディラというところにいると聞いて。そこに、私は……!」
そう、ジヴァラマンディラに行けばトリナヴァルタを捜すことができると思った。この天界にやってきたとたん、無惨に殺されてしまったトリナヴァルタに謝りたいと思った。そう口にしたとたん、テージャスはここにやってきたのだ。
「私は、ジヴァラマンディラに行きたいのです。どうやって行けばいいか、ご存じですか」
そんなテージャスを横目で見やった男は、ため息をつく。
「まったく、騒がしいことだ」
さも煩わしというように、男は唸った。
「西南方天や西方天あたりの揉めごとを、このヤマプリーに持ち込むのではない」
「突然の訪問の無礼は、幾重にもお詫びいたします!」
テージャスが叫んだので、男は驚いたように目を見開いた。しかし動いたのは目だけで、それ以外はやはり像のように動かない。
「ですが、話くらい聞いてくださってもいいのではありませんか。それに私がここに来たのは、その黒い生きものに手を引いてこられたからです。それはあなたの眷属でしょう」
「ほぅ……」
男は胡座をほどき、立て膝になってじっとテージャスを見た。テージャスを試すような色をその目の中に見て、テージャスはますます高ぶった。
「それではお前は、自分がこのヤマプリーに立ち入る資格のある者だと言うのだな」
「そのようなことは、知りません!」
このようにもどかしい思いに苛立つことは、常のテージャスにはほとんどなかったことだ。しかし男との、雲を掴むような会話に苛立ちながら、テージャスは彼を睨みつけた。
「この南方天ヤマを前に、それだけの口を利いた者は久々だな。なかなか肝が太いと、褒めてやろう」
ヤマは立ち上がった。驚くテージャスの前で、衣装の裾を翻したヤマはテージャスが見上げるほど大きく、長い髪は床に届くほどだ。
「お前の威勢のよさに免じて、ジヴァラマンディラに連れて行ってやろう」
テージャスは、はっと大きく目を見開く。そこはまさに、テージャスの目的地だ。
「しかし、何を見ようと何が起ころうと、私に面倒をかけるな」
「それは、どういう……」
問うテージャスを振り返らず、ヤマは裾を引きずる衣装を翻して先を行く。その足もとに、四つ目の犬たちがまとわりついた。
ヤマは部屋を出て、真っ暗な渡廊に入った。燭もなく真っ暗な中を恐る恐る歩くテージャスたちに構うことなく、ヤマと犬たちはさっさと前を行く。足もとは湿ってぬるぬるしており、テージャスは滑らないように足に力を入れた。
あたりは真っ暗で、ヤマの髪と衣装がどこからか入ってくる光をかすかに反射しているのだけが目印だ。渡廊は長く、滑らないように足に力を入れているせいで疲れてくる。
「……あ!」
いきなり目の前が開けた。そこは灰色の煉瓦で囲まれた、窓のない大きな広間だ。向こうの壁が見えないほどに広く、壁には等間隔に薄く篝の燃える燭台がかかっている。
そこには、何もないように見える。しかしどことなくざわめいていて、目を懲らすとたくさんの、半透明の人間たちが見えた。皆、それぞれ輪になったりふたりで向かい合ったり、酒を酌み交わすような陽気な雰囲気でありながら、その声ははっきりとは聞こえない。どこか遠くでざわざわとする声が、風に乗ってほのかに耳に届くばかりなのだ。
「わ、っ!」
テージャスは声を上げて、その場に尻餅をついた。ヤマが振り返って銅色の目でテージャスを睨む。そして手にした錫杖を床に突き立てた。金属音が響き渡り、あたりはしんと静まり返った。
「やかましい。ピトリたちが驚くではないか」
「ピトリ……」
テージャスは目をみはった。
「死んだ人間はジヴァラマンディラに入り、こうやってピトリとなり、永遠にここで暮らす。同時にピトリになった人間は、人間であったころのことをすべて忘れる。そなたが求めてやってきた人間も、すでにピトリとなっているだろうよ」
「あの……あの者たちは皆、ピトリなのですか?」
テージャスの問いへの返事の代わりに、ヤマはじろりと睨んできた。
ヤマは大きくため息をついた。そのため息に押されるように後じさったテージャスに、ヤマはなおもうんざりしたような目を向けてくる。
「こうも面倒ごとが増えてはかなわない。どこかにいるはずだ。勝手に捜せ」
言って、男は人間たちの間を歩いて行く。その姿はあっという間に小さくなった。男に手足を踏みつけられようがその衣装の裾が触れようが、彼らは気づきもしないようだ。まるで別の次元にでもいるように、男の足は彼らの体を素通りする。
「待ってください……!」
慌てて追いかけるテージャスの手を取ったものがある。この居城に招き入れてくれた、あの黒い生きものだ。それに手を取られると、まるで足に羽でも生えたかのように早く駆けることができる。
「カバンダ……」
走りながら、その生きものは掠れた聞き取りにくい声でそう言った。
「カバ、……ンダ!」
「あなたの、名前ですか?」
テージャスがそう言うと、その生きものは笑ったように見えた。口の部分の皮膚がべろりとめくれ、みっしりと生えた歯が見えた。それは無気味な姿ではあったがどことなく愛嬌もあって、テージャスもつられて微笑む。
ヤマが突然立ち止まった。カバンダの方を見ていたテージャスは、勢い余ってその大きな背中にぶつかった。
「す、すみません……!」
しかしヤマは、先ほど見せた饒舌など忘れたかのように、やはり石像のように微動だにしない。カバンダが手を離してくれて、ヤマの背中越しに向こうの光景を覗き込んだ。
先ほどの窓ひとつない大きな場所とは違い、そこは見渡せるほどの大きさの場所だ。そこにはやはり半透明の人間たちがいる。
先ほどの部屋と違うのは、ヤマが入ってきた途端ここにいるものは皆、ヤマに視線を集めたことだ。まるで主を前にした従者たちのように、ある者は恐れるように、ある者は喜ぶように、皆が揃って平伏した。
「ここ、は……?」
背後からのテージャスの声に、ヤマは振り返らず低い淡々とした調子で言った。
「ジヴァラマンディラで暮らすことのできるピトリになるのは、生前に善行を積んだ人間だけ。ここにいるのはその裁定を待つ、死んだ人間たちだ」
男、女、子供、若者。老人に赤ん坊、さまざまな者たちがヤマの前に頭を垂れる。先ほどジヴァラマンディラにいた者たちの穏やかな表情とは裏腹に、緊張した顔で床に突いた手も震えている。
ヤマはそれらの者を睥睨した。最初テージャスと会ったときのように無表情に、どんな心の動きも見せない。張り詰めた静けさの中、テージャスは小さな声で尋ねた。
「ジヴァラマンディラで暮らすことが許されない者は、どうなるのですか?」
「悪鬼になる」
ヤマは何でもないことのようにそう言った。しかしその言葉に、その場にいる者は皆大きく震え、ひれ伏した。
見渡した中、広間の奥に透明ではない者の姿を見つけた。テージャスは声を上げる。
「母上!」
ティローッタマーが座っている。彼女の前にはやはり半透明の人間がいて、それがヴィシュラヴァスであることが遠目からもわかった。テージャスは彼らに向かって駆け出す。
「父上!」
跪く人間たちの間を駆け抜けても、彼らはテージャスには見向きもしない。ただじっと、ヤマに向かってひれ伏すだけだ。
ティローッタマーは、小さな声でしきりにヴィシュラヴァスに話しかけている。しかヴィシュラヴァスには声が届いていないかのようだ。近づくと、彼女の声が聞こえる。ひたすらにヴィシュラヴァスに、自分を見てくれるようにとすがっている。
「父上、母上!」
テージャスの声に、ティローッタマーは顔を上げた。驚愕の表情を見せ、細く悲鳴を上げて床に頭を擦りつけた。
「テージャス様、お願いです。どうぞヴィシュラヴァスさまに、わたくしを見るようにおっしゃって……」
テージャスはその場に膝を突いた。ひれ伏すティローッタマーに顔を上げるように言い、そしてヴィシュラヴァスに目を向けた。
ヴィシュラヴァスは、ただ正面を見つめるばかりだ。テージャスはそっと声をかけた。
「父上。テージャスです」
今まで微動だにしなかったヴィシュラヴァスが、はっとしたように目を見開いてテージャスを見た。ティローッタマーが歓喜の声を上げる。
しかしヴィシュラヴァスは、テージャスを息子として認識はしていないようだった。生きてはいない者の証そのままに、澱んだ目でぼんやりとテージャスを見るばかりだ。
父の意識を引き戻す手がかりはないか。テージャスはあたりを見回し、皆がひれ伏すその向こう、ひとり叩頭していない者を見た。片膝を立てて座り、上目遣いにこちらを睨んでいる姿に、目を見開いた。
「兄上……!」
ラーヴァナだ。走り寄るテージャスを見上げ、ほんの少し警戒を解いたような顔をする。ヴィシュラヴァスの反応とはまるで違う。尖った視線はそのままに彼は唸るように言った。
「テージャス。ここは、どこだ」
彼の瞳が動く。睨みつける視線でヤマを見上げ、ますます鋭いまなざしを見せる。
「兄上……」
テージャスは、呆然とするばかりだ。振り返って男を見る。彼の銅色の目は見開かれ、ラーヴァナを見ていた。ふたりの目がかち合って、火花が散ったように感じた。
ヤマは、テージャスたちに向かって歩いてくる。すれ違う者たちは皆平伏する中、ラーヴァナは姿勢をそのままに、やはり上目遣いに長身のヤマを見上げていた。
「そなた、記憶があるのか」
「当然だ」
不快を隠さない口調で、ラーヴァナは言った。ひるむことなくヤマを見上げ、睨みつけると吐き捨てるように言った。
「お前が、この宮の主か。ここはどこなのだ。私をどこに誘い込んだのだ」
「ジヴァラマンディラ。そなたたちの言葉では、冥府とやらになろうな」
ヤマの言葉に、ラーヴァナは少しひるんだようだった。そんなラーヴァナにヤマは、唇の端を持ち上げた。彼が微笑んだことに、テージャスは驚愕して後ずさりした。
「お前は死んだのだ。死んで、人間界から離れた。そなたの魂の色次第で、私はそなたを霊魂となすかラークシャサ(悪鬼)となすかを定めるのだが」
彼の緑の髪がふわりと揺れて、不思議な艶を放った。
「では、テージャスはなにゆえここにいる」
言って、ラーヴァナの視線はテージャスに移った。睨みつけられて、テージャスは身をすくめる。
「お前も死んだのか」
低く響く笑い声に、テージャスはまた驚いた。それは男の笑い声で、彼が笑うなどと思わなかったテージャスは思わずまじまじと彼を見た。
「これは北西方天だ。八守護天はデーヴァの中のデーヴァ。私たち八守護天は、天界の支配者。ただの人間のお前と同等に考えろとは、あまりにも不遜だな」
「ふん」
しかしラーヴァナは、そのようなことはどうでもいいといった態度を崩さない。
「天界の王だと。なら、それなりの力があるのだろう。私をもとの場所に返せ」
「それはできぬな」
なおも楽しそうに男は言った。彼が楽しげな顔をするたびに、ラーヴァナは不機嫌な表情を色濃くする。
「そなたは死んだのだ。死んだ人間は、蘇らない。それが世界の理というものだ」
男はラーヴァナから視線を外し、かたわらを向く。彼の目の先にいるのはヴィシュラヴァスだ。ティローッタマーも彼にすがったまま、男の視線を受けて床に額を擦りつけた。
「見ろ。あれが普通の人間の反応だ。比べてお前の無礼なこと、ラークシャサにされても文句は言えんぞ」
「そのようなこと、知ったことか」
鼻を鳴らしたラーヴァナに、男はますます面白いといった興味を隠さない。
「そなたは、私が何者であるかわかっているのか」
「そのようなこと、知るはずがないだろう」
顔を歪めてそう言うラーヴァナに、男は楽しげな表情をする。そしてまるで、子供に恐ろしい話をして聞かせるときのような顔をして言った。
「私は、南方天ヤマだ。冥府の支配者であり、すべてのラークシャサの王」
「王、だと?」
ラーヴァナは、眉をしかめた。テージャスのほうを向き、問う。
「テージャス。お前は蜃気楼の森の王とやらではなかったか。何だ、北西方天とは」
「北西方天は、ガンダルヴァとアプサラスたちの主。風の支配者で、蜃気楼の森の王」
答えたのはヤマだった。ヤマは試すようにテージャスを見、唇を歪めて笑う。
「転身した姿のまま、天界にやってくるとは思わなかった」
ヤマはラーヴァナを見る。その笑みは、ラーヴァナにも向けられた。
「そしてお前もだ。『人間の王』よ」
テージャスは目を見開いた。ラーヴァナも瞠目してヤマを見ている。
「人間の、王……だと?」
ヤマは唇の端を持ち上げて、低い笑い声を立てた。
「そなたは、ただの人間ではないようだ。ジヴァラマンディラに入っても意識のあることといい、そのような生意気な口が利けることといい」
じっとラーヴァナを見て、ヤマはつぶやく。
「そなたはどうやら、『人間の王』。人間でありながら天界人の気をも持つ存在。長くこの天界にあって、私も初めて見たが……」
楽しげに話すヤマを、ラーヴァナはじっと睨みつけている。
「身は人間なれど、その流れる血は天界人の者だという、『人間の王』。ナーガ以外に天界と人間界を行き来できる存在だ。そなたの血が、北西方天やその眷属を天界に呼び寄せ、あまつさえそなた自身はピトリにもラークシャサにもならず、ジヴァラマンディラに留まっていたというわけか」
ヤマは、声を立ててて笑った。
「兄弟ともども、私を楽しませてくれて感謝している。何しろ天界はつまらぬところだ。退屈のあまり八守護天同士で反目し合ったり、人間界に手出しをするようなことしかすることがない。スラーディパが愛想を尽かして、転身を求めるのも無理はなかろう」
「スラーディパを知っているのですか!」
スーリヤはスラーディパを渡せと言って、そしてトリナヴァルタをあのような目に合わせたのだ。そのときの悲しみと怒りが蘇り、テージャスは身を震わせながら尋ねた。
「スラーディパとは、何者なのですか」
元凶といってもいい存在だ。テージャスの声音にヤマは眉を上げ、唸るように言った。
「東方天スラーディパは、八守護天の長。この天界の中心だ」
「天界の、中心……?」
それはいったい、どういう存在であるのか。想像でもできない言葉にテージャスはただまばたきをした。
「何ですか、それは。中心とは……」
「西方天あたりに尋ねろ。あの男なら、喜んでお前の問いに答えてくれるだろうよ」
面倒そうにヤマは言った。西方天とは、確かあの銀髪の男。ヴァルナといった。テージャスに記憶がないといって、悲しそうな顔をしていた。
「スラーディパの気は消えたままであるしな。それを探して、八守護天たちは大騒ぎだ」
ラーヴァナが唇の端を持ち上げる。ゆっくりと息を吸い込んで、宣言するように言った。
「私は、スラーディパの居所を知っている」
その言葉に、ヤマは目をすがめた。その表情は彼が驚いたゆえだということには、しばらく気づくことができなかった。
「なら、ば」
ヤマの言葉が少しだけ淀み、言葉を詰まらせる様子を見せなかったら、その驚きにはいつまで経っても気づくことはできなかっただろう。
「ならば、西南方天に教えてやるがいい。あれは血眼になって東方天を探している」
「西南方天、とな」
その呼び名を繰り返しながら、ラーヴァナはゆっくりとうなずいた。西南方天。その呼び名に、テージャスははっとしたあの男、金色の髪と赤い眼を持ったあの男が、西南方天――スーリヤといったはずだ。テージャスは大声を上げた。
「いけません! 西南方天は……スーリヤが、トリナヴァルタを殺したのですよ!?」
「トリナヴァルタを、だと?」
ラーヴァナが目を見開いた。まじまじとテージャスを見、ためらいながらテージャスがうなずくと、跳ねるように立ち上がった。テージャスの胸倉をつかみ、決して偽りを言わせない調子で声を荒らげた。
「どういうことだ。トリナヴァルタが、ここにいるというのか」
せっつかれるままに、テージャスは話した。スーリヤの放つ光に、トリナヴァルタが炭の固まりになってしまったこと。吹く風に砕け、粉になって消えてしまったこと。
「ば、かな……!」
ラーヴァナは、勢いよく立ち上がった。彼はヴィシュラヴァスを、かたわらのティローッタマーを、そして居並ぶ者たちを見据えた。そして勢いよくヤマに目を向ける。「死んだ人間は、ここにいるといったな。トリナヴァルタはどこだ」
「さて、な」
その涼しい顔は、ラーヴァナが激昂するのを楽しんでのことか、それとも関心がないのか。銅色の目だけが、ラーヴァナを見やった。
「私は、このジヴァラマンディラにやってくる者を迎え入れるだけ。来ない者を招き入れるようなことは、私の好むところではないな」
「ということは、来なかったのか。トリナヴァルタは、どこなのだ」
「さてな。その者はただの人間とはいえ天界にて、天界人に灰にされたのだ。私のあずかり知らぬどこかでさまよっているのかも知れぬな」
忌々しいというように、ラーヴァナはヤマを睨みつけた。そのまま彼に踵を返し、テージャスに背を向けた。
「兄上、どこに行かれるのですか!」
テージャスは追い、ラーヴァナの手をつかむ。引き止められて、振り返らずにラーヴァナは言った。
「知れたこと。トリナヴァルタを捜しに行くのだ」
「しかし、行くべき先をご存じなのですか」
テージャスの言葉に、ラーヴァナは振り返った。憎々しげに睨みつけられたが、それがテージャスの言葉が図星であったということを示していた。
「なら、お前は知っているのか。知っているのなら教えろ。トリナヴァルタはどこだ」
彼を引き止めたものの、しかしテージャス自身、自分に何ができるのかわからない。何の力があるのかを理解していない。
「申し訳ございません、私も、トリナヴァルタの居場所はわかりません」
ラーヴァナはしばらくテージャスをじっと見据えた。テージャスが何を言うかと、待っているようだった。
「ですが私は、私にはそれを知る力があるはずです。私は、蜃気楼の森の王なのですから」
テージャスの言葉に、ラーヴァナは微笑んだ。彼の笑みは、めったにこぼれ落ちるものではないからこそ、価値のあるものだと思えた。ラーヴァナは顎を引いて口調を糺す。
「なら、助力を請う。トリナヴァルタを捜してくれ」
しかし、頭上から落ちてきたのはヤマの声だ。彼は咽喉の奥から笑うような声をあげて、さも楽しげに言った。
「ここがどこか、わかっているのか」
彼を振り仰いだ。見上げる先にある銅色の目は細められ、テージャスたちを見つめる。
「ジヴァラマンディラ……このヤマの居城、ヤマプリーのうちだぞ。ここに入ることも出ることも、私の許可なくしてはかなわない。それにそなたらは、私を楽しませてくれそうなのでな。そうやすやすと出すわけにはいかんな」
「ふざけるな」
ラーヴァナは、憎々しげに言い捨てた。
「お前の楽しみなど、知ったことか」
そして、退けと彼を押し退けるようにして先を行く。彼を追いかけようとしたテージャスの足をためらわせたのは、唇を震わせながらこちらを見ているティローッタマーと、そのかたわらにいるヴィシュラヴァスの姿だった。その視線の先にラーヴァナも気がついたらしい。ふと表情を固くし、目を伏せる。
「ヤマ殿」
テージャスは、ヤマの前に向き直った。胸に手を置き、頭を下げる。
「父上と、母上をお救いください。母上は父上を求めておられ、しかし父上には母上が見えておられぬよう」
ヤマが目もとを緩めてにやりと笑い、その意味ありげな笑みにテージャスは声をあげた。
「私にできることなら、何でもいたします。どうぞ、父上と母上を……!」
ヤマは錫杖を持っていない方の手を挙げ、ばさりと衣装を翻してテージャスの背を引き寄せる。いきなり抱きすくめられて顔を寄せられて、テージャスは目を白黒させる。
「私を、それほどにすげない者と思ってか。願いなど聞き入れない、石の心の持ち主と?」
「いえ、それは……」
ヤマの、不思議な色の目が近くに迫る。間近に迫ったヤマは、なおも意図のわからない笑みを浮かべている。それにテージャスは、困惑しきった。
「では、どうすればいいのですか。どうぞお教えください」
天界には天界の礼の尽くし方があるのかも知れない。テージャスが知らないだけで、このような場合になすべき儀礼があるのかも知れないと考えた。テージャスは背を正し、ヤマの顔を見つめた。
ヤマは小さく笑い声を立てた。最初、彼を見たときの石像のような無表情ぶりからは想像できないような顔だ。彼はなおも顔を寄せ、そしてささやいた。
「私のことは、ただヤマと呼べ」
「……は?」
「お前は、自由にこのヤマプリーに立ち入ることを許す。たびたび訪ねてくるのだぞ」
「……ヤマ、殿?」
戸惑った声でそう呼びかけると、ヤマの銅色の瞳がテージャスを睨んだ。
「ヤマと呼べと言うておろうが。それともこのヤマプリーに閉じこめ、二度と出られないようにしてやろうか」
ヤマの意図がわからないまま、テージャスは首を左右に振った。ヤマは目を細める。
彼の意図がわからず、テージャスは困惑するばかりだ。彼の瞳にじっと見つめられ、誘い出されるように言葉を継いだ。
「ヤマ。父上と母上を、お救いください……」
そう言うと、彼は微笑んだ。すぐに顎を逸らせて、笑みを消してしまう。そのまま、ティローッタマーとヴィシュラヴァスのほうを見た。
ヤマは立ち上がり、大きく錫杖を鳴らす。ティローッタマーは脅えたように大きく体を震わせた。ヴィシュラヴァスを見、その身に寄り添い強く目をつぶる。
ヤマの錫杖の音に、ヴィシュラヴァスは肩を震わせた。そして眠りから覚めたかのように、大きく目を見開いた。
「ローカマター、は……」
「ここにございます、ヴィシュラヴァスさま」
ヴィシュラヴァスはローカマターに気づき、ふたりは抱き合った。体を寄せ合い、震えている。握りあった手だけは固くつながれ、何があっても離れないように見えた。
ヤマはまた錫杖を鳴らす。その音とともに、ふたりの姿は溶けるようにかき消えた。
「そなたたちは互いをヤブユムの半身となし、大気に溶け永遠に空をさまよう存在となる」
目の前にあったはずの存在が突然なくなったことに、テージャスは息を呑んだ。
「テージャス、見ろ!」
ラーヴァナが、窓に目をやって声を上げた。テージャスもそちらを振り仰ぐ。
「あれ、は……」
大きな窓には青い天界の空が広がっていて、そこに薄い煙のようなものがたなびいているのが見える。その煙はヴィシュラヴァスとローカマターの姿をかたどっていた。
「面倒をさせおって」
ヤマが、面倒そうに言った。そして再びテージャスを見やる。長身の彼に覗き込まれ、銅色の瞳で見つめられて体が動かなくなってしまう。ヤマは微動だにせずテージャスを見つめた。その薄い唇だけが動き、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「約束を、忘れるなよ。このヤマプリーをたびたび訪ねるのだ」
そう言うとヤマは踵を返そうとする。それをラーヴァナが、鋭い声で引き止めた。
「お前は、私を人間の王だと言った。しかし私は王ではない。王になる前に、殺された」
「それは、人間界での話だろう。人間界でのことなど、私は知らぬ」
ヤマは煩わしそうにそう答えた。しかしラーヴァナは、そのようなことはお構いなしだ。
「本人も知らぬことを、なぜお前が知っている。なぜ私が人間の王だとわかった?」
「すべては、時の流れの中に」
歌うようにヤマは言った。ラーヴァナは、眉をしかめる。
「カーラ?」
「この世を支配するもの。すべての運命を決めるもの。流れゆく時、流れゆく運命」
ヤマの答えに、ラーヴァナはますます厳しい顔をする。
「今、ランカー国は常ならぬ大雨にて被害甚大。畑は流れ死者が積み重なり、そんな中、王も理不尽に死んだ。ランカー国の悲運も、そのカーラとやらの定めだとでも?」
ラーヴァナの言う『悲運』という言葉には、バラタ国の従属国である立場も含まれているのだろう。ヤマは、そうだともそうではないとでも言わず、ただラーヴァナを見た。
「カーラとはなんだ。人間界に災いをなすものはいったい何だ」
ヤマはじっとラーヴァナを見た。ラーヴァナは苛立たしく口もとを歪め、侮るようにヤマに言葉を叩きつけた。
「お前は知らぬのか。お前は死者の王だと言ったな、それでは、それなりの身分のある天界人なのであろうに」
まわりに控える彼の異形の従者を見やりながら、ラーヴァナは言った。
「お前は天界人だろうが。人間の問いひとつにも答えられないというのか」
「それは、誰にもはっきりとは答えられない問いだ」
今までのヤマらしくもなく、どこか戸惑うように彼は言った。
「カーラの源を知りうるのは、スラーディパのみ。スラーディパはメール山の頂上、アマラーヴァティにいる。今は行方知れずではあるが……気は、近くなったようだな」
ヤマは神妙な顔をして言った。
「アマラーヴァティは常に雨が降り雷の響く場所で、その雷雨はスラーディパの眷属だ。アマラーヴァティには結界が張り巡らされ、余人を入れることはない。ゆえに誰もアマラーヴァティに立ち入ったことはない」
「私はそこに行く。アマラーヴァティとやらに向かい、カーラの源をこの目で見てやる。人間に惨禍をもたらすもの、すべて壊してくれる」
「それは……」
ヤマの戸惑う表情など見物だ。このたびはラーヴァナが唇の端を持ち上げ、目を眇めてヤマを見た。
「お前の言いなりにはならぬ。私が行きたいから、行くのだ。それ以外の理由はない」
ラーヴァナは勢いよく立ち上がった。叩きつけるように、ヤマに言う。
「ここから私を出せ。私はアマラーヴァティに行く。お前も、着いてきたいのなら来ても構わないぞ」
唇を歪めてラーヴァナがそう言うと、ヤマはほんの一瞬、あっけにとられた顔をした。そしてすぐに、再びの薄笑みを浮かべてラーヴァナを見る。
「そうだな、そなたになら今の天界の秩序を正すことができるかも知れぬ。そのような気概があれば、この天界を手中に収めることも可能やもしれぬぞ」
「天界の秩序など私は知らぬ。ましてや天界を手中に収めるなどということにも興味はない。私は人間だ。私は人間の、いや、ランカー国のためにしか動かぬ」
「だからそなたは、面白いと言うのだ」
ヤマはなおも楽しそうに笑った。
「しかし覚えておけ。そなたは『人間の王』。人間の気も持つが天界人の気も持つ。ひとつの体にふたつの異なる存在の気を宿した者を、私は知らぬ。そんなそなたが動くことで、どのようなことが起こるのか。ひとつ、私はここで見物させてもらうことにしよう」
座り直したヤマは四つ目の犬のうち、一匹を傍らに引き寄せた。
「サーラメーヤだ。これは私の目になる。連れて行け」
「……ふん」
サーラメーヤは主に四つの目を向けて、そしてラーヴァナの足もとに寄ってきた。こくりと頭を下げたのは挨拶のつもりか。ラーヴァナは肩をすくめ、そしてヤマに背を向けた。
「行くぞ、テージャス」
「あ、はい」
テージャスが振り返ると、ヤマが面白そうな顔をしてふたりを見ている。テージャスは軽く頭を下げて、そして慌ててラーヴァナを追った。
個人的に、ヤマさまがお気に入りです。