第二章
テージャスは足音を忍ばせて歩いた。王の私室につながった柱廊に立っていた警固兵は第三王子の姿に驚いていて、彼らが声を上げそうになったのをテージャスは慌てて制する。
「お邪魔をしたくはない。案内はいらないから」
警固兵は、戸惑ったように頷いた。足音を忍ばせて、テージャスは王の私室の緞帳の横に出た。王の周りに控える従者たちが出入りする場所だ。
部屋の中を窺った。静まり返っている部屋の奥、一番上の段には円座に座ったヴィシュラヴァスがいる。その前にはラーヴァナがいて、厳しい目で父を見上げていた。
いったい何の話をしているのだろう。好奇心に駆られて、テージャスは中を覗き込もうとした。しかし後ろから肩に手を置かれて、驚く。
「……っ!」
振り返る。手の主は、テージャスの従者だった。
「立ち聞きをなさる必要などありません。あなたは、王の第三王子。どうぞ、中へ」
戸惑うテージャスの後ろから、大声が上がった。テージャスは思わず背を震わせた。
「父上は、このままでいいとおっしゃるのですか!」
声の主はラーヴァナだ。対してヴィシュラヴァスの声は聞き取りにくい。ラーヴァナはなおも叫んだ。
「父上には、悔しさはないのですか。他国に蹂躙されるまま、これでいいとお思いですか。腹は満たされても誇りは満たされない。このまま漫然と、バラタ国に支配されるがままでいいのですか!」
ラーヴァナの言葉に、テージャスは目を見開いた。
「私は、このままでいいとは思わない。これは好機です。私は、自分の息子を人質にして平然としていられる王にはならない」
「ラーヴァナ!」
ヴィシュラヴァスが恫喝の声を上げた。ラーヴァナは口を噤んだが、従者たちがざわめく中、乱暴に立ち上がった。音がするほどに勢いよく後ろを向いて、部屋を出る。ラーヴァナの向かう方向に彼の従者は早足で向かい、反射的にテージャスも彼を追った。
「ラーヴァナ様」
乱暴な足取りで柱廊を歩いていたラーヴァナは、従者の呼びかけに正面を見たまま頷いた。その眉間には深い皺が寄っていて、黒い瞳は最初見たとき以上に鋭い光を放っている。
彼は、ふと足を止めた。先ほどまでの足取りと同じほどの勢いで顔をこちらに向けた。いきなり彼のまなざしに射抜かれて、テージャスはたじろいだ。
ラーヴァナは、こちらに歩いてきた。手が伸び、いきなりテージャスの腕を掴む。
「お前がテージャスか」
その力の強さに、テージャスは息を呑んだ。ラーヴァナは吐息がかかるほどに近くに顔を寄せてきて、テージャスは押されたように頷く。ラーヴァナは、にやりと笑った。
「細い体だな。剣や弓矢を扱ったことがあるのか」
冷やかすような口調はテージャスに気後れを感じさせたが、いやな心地はしない。テージャスを見る者は、まず髪の色肌の色、瞳の色に言及する。しかしラーヴァナにとってはそのようなことはどうでもいいことなのか、まったく関心を払わない。
その点からも、ラーヴァナは今までテージャスの知っていた人間とは誰とも違った。くわえてその長い手足、しなやかな体躯は豹よりも早く走れそうだし、筋肉の陰影が美しい腕はどんな大きい剣でも振り回せそうだ。真っ黒な瞳はテージャスの顔から離れ、見つめられてたじろぐテージャスの腕を見た。
「腕も細い。このような腕で、いざというとき己の身を守ることができるのか。それとも、何か怪しげな術でも使うのか? 砂漠に水を呼んだり、火種もないのに火を熾したり」
ラーヴァナの手の力は指の食い込む強さで、テージャスは小さく声を上げた。ラーヴァナは唇の端を持ち上げ、微笑んだ。不敵な笑みは、そのきらめく瞳と相まって恐ろしく、それでいて目の離せない魅惑があった。
睨みつけていられながら目を逸らさないテージャスに、ラーヴァナは面白がるような顔をする。彼の、厳しいまなざしが少し緩んだ。そうすると彼の表情は親しみやすく感じられるものに変わり、テージャスはなおもラーヴァナを見つめた。
「ラーヴァナ様、ニカシャー様がお呼びです」
ニカシャーとは、ラーヴァナの生母だ。従者の声にラーヴァナは唸るように返事をした。テージャスの腕から突き放すように手を離す。
「行くぞ、トリナヴァルタ」
従者を呼び、ラーヴァナはテージャスの前から去った。彼の掴んだ手の痕は赤くなっていて、そこを押さえながら、テージャスはラーヴァナの去っていった方向を見つめた。