第十九話
耳を優しくくすぐる音がある。脳裏の雑念をすべて洗い流してしまうような清らかな音に誘われて瞼を開くと、目の前には規則正しく、ゆっくりと打ち寄せる小さな波があった。
ここは水辺のほとりで、テージャスは緑の下草の中に膝を突いて座っていた。したたる緑と清涼な風、打ち寄せる白い波と透きとおる水。顔をあげると視線の向こうには、群れ生える木々の蓄えた深い緑から清廉な風が吹いてくる。テージャスは、ゆっくりと何度もまばたきをした。
水の中に呑み込まれていた時間は、長いものであったようにも思えるし、あっという間の出来事でもあったかのようでもあった。
目の前にはトリナヴァルタがいた。あれほどの水の中にあったにもかかわらず、ふたりの衣服も髪も、まったく濡れていない。
「ここは……?」
ふたりは目を見合わせ、突然放り込まれた未知の状況に、ただ何度もまばたきをするばかりだ。触れる風は清涼で澄みきり、心地よく体を包む。その感覚は戸惑うほどの安堵を呼んで、テージャスの体に心地よく馴染む。
テージャスの知っている湿気を含む風も乾いた熱い空気も、ここにはない。激しく降りしきる雨でもない。ここはランカー国ではない。それではいったいどこだというのか。
「このようなところに」
不意に、頭上から声がかかった、顔をあげると、男がいた。短い髪は波打つ濃い金色、少し身動きするだけで揺れるさまはまるで金色の海に打つ千波だ。彼は多くのランカー国の民のように浅黒い肌を持っていて、印象的なのはその赤い瞳だ。
体の奥深くまでを穿ってくるような赤い眼をすがめて、男はテージャスたちを見つめていた。薄い唇は不快そうに歪み、ゆっくりと開いた。吐き捨てるように言葉を紡ぐ。
「北西方天ヴァーユ。スラーディパは、どこにいます」
「……は?」
テージャスはまじまじと彼を見た。言葉は理解できるが、何のことを言っているのかまったくわからない。戸惑うばかりのテージャスを、男は苛立たしげに見た。
「北西方天? スラーディパ……とは?」
しかしテージャスの問いかけに、男は何も言わなかった。ただ、その赤い眼をじっとティールタに注ぐ。赤い眼が光ったような気がした。
「あなたの気が、スラーディパを連れてきたのはわかっています。どこに隠したのですか」
頭が痛んだ。まるで頭の奥を探られているようだと思った。男は、望む答えをテージャスの口からではない、頭の中から探り出そうとしているかのようだ。
「さっさと教えればいいものを、隠し立てはためになりませんよ。それともこの私の、八守護天としての証をその目で見なければ承伏できませんか」
「な、に……?」
男の言葉は、テージャスにはわからないことばかりだ。それでいてその言葉に脳裏をかき回される。言葉そのものが力を持っているかのように、頭の奥がきりきりと痛む。彼の瞳を見つめていてはいけないと思うのに、目が離せない。
だんだん呼吸が苦しくなる。大きく息を吸うと、入ってくるのは焼けたような熱さの空気だ。どういうことだ。男の眼の力が、あたりの空気の温度を上げているとでもいうのか。熱い空気を吸い込む苦しみは、体中に染み渡り内側から焼け爛れていくようで、テージャスは何度も荒い呼気を吐いた。
「……あ、ぁ!」
「テージャスさま!」
誰かに突き飛ばされた。と、目の前にはトリナヴァルタの背があって、彼が大きな呻き声を上げた。
「やかましい!」
赤い眼の男は叫び、素早く手のひらをトリナヴァルタに向けた。途端、トリナヴァルタは身を硬直させる。
目の前が真っ白に眩しくなって、何も見えない。手を差し伸べようにも、光の熱さに遮られて近づけない。トリナヴァルタの絞り出すような、耳にするだけで苦しくなるような呻きが聞こえ、それはややあって、消えた。
体を焼くような高い熱を発する光が減じ、やっと目を開けられるようになった。そうやって目の前に見たものに、テージャスは驚愕する。そこにあったのは、トリナヴァルタの変わり果てた姿だった。
トリナヴァルタは一瞬のうちに、あまりにも無惨な姿に変えられてしまっていた。彼はすでに炭の固まりにしか過ぎない。鼻を衝く匂いがあたりに広がっていて、それは耐え難いまでの悪臭だ。トリナヴァルタであった黒い固まりは、テージャスの腕の中からゆっくりと下草の上に倒れ伏す。
「な、に……?」
視線の向こうにはなおも手のひらをかざしたまま、赤い眼でトリナヴァルタを睨みつける男がいた。トリナヴァルタの惨たらしいさまに、満足したように微笑む。
「トリナヴァルタ!」
名を呼びかけても、焼け焦げた体から返事が返ってくることはない。煙を吐き燻る肉塊は、それがトリナヴァルタであったなどと信じられないほどに、すでに人の形をなしていない。テージャスは勢いよく顔を上げて、男を睨みつけた。
「あなたの手管なのですか!」
「だったら、何だというのです」
さも煩わしそうに、男は言った。
「私の邪魔をするからですよ。スラーディパの居場所を教えてくださればよろしいのに」
トリナヴァルタにしたことを何とも思っていないような彼を前に、どうしようもない怒りが体の奥から湧き上がる。体の奥で何かが熱く沸き立つ感触は、王宮の王の間で、惨たらしくも殺されたラーヴァナを見たときと同じものだと思った。
胸の奥に、何か大きなものがつかえている。それに呼吸を阻まれながら、絞り出すようにテージャスは言った。
「なぜ、このようなことを……? トリナヴァルタに、何の、罪が……」
男はただ、赤い眼でテージャスを見ている。その眼は大きく見開かれた。男は一歩、後じさる。テージャスは立ち上がり、彼に近づいた。差し伸べた手が、指先まで熱い。身を震うと大きな風が生まれた。それはテージャスを包んであたりの下草を揺らし、木を揺さぶり葉が舞い落ちる。男の髪も衣の裾も大きく翻った。
「……あ!」
炭の固まりになったトリナヴァルタの体が崩れて、細かい塵になって飛び散るのが目に入った。テージャスは大きく目を見開く。しかしテージャスの体内から生まれた強い風はとまることを知らず、なおも大きく吹きすさぶ。自分自身も吹き飛びそうな強い風の中、背後から大きな声が聞こえた。
「ヴァーユ!」
いきなり響いた声に身を揺すぶられた。それは聞き覚えのない名で、それでいてテージャスは、声の主が自分を呼んだのだということがわかった。驚いて振り返る。
そこにいたのは小柄な男だった。肩ほどまでの長さの髪は青みがかった薄い銀髪、肌はテージャスよりさらに白く目は鮮やかな青で、背後の水面の色を写し取ったようだ。
彼はじっと、赤い眼の男を見た。誰が見てもふたりが相反目する間柄だということがわかる。銀髪の男はテージャスのもとに歩み寄ってくると肩に手を置き、それにふっと体中の力が抜けたように思った。
「ヴァーユ、落ち着いて」
それは先ほども聞いた言葉だ。男の手はテージャスをなだめるように肩を、背を撫でる。それに、自分をヴァーユと呼ぶ彼が敵意を持っている人物ではないことが知れた。
「……西方天」
呻くような声は、赤い眼の男のものだ。彼の目は現れた男に向けられていて、テージャスを見たときとは裏腹に、鋭く尖っている。赤い眼の男が嘲笑うような声音で言った。
「何をしにきたのです、西方天ヴァルナ。あなたの出る幕ではありませんよ」
「それは僕の台詞だ。西南方天スーリヤ」
ふたりの言葉は刺々しく、それだけでこのふたりが反目し合っているのがわかった。ふたりの間の空気はぴりぴりと固く、近くにいるだけで身震いするほどだ。
「よけいなことはやめてもらおう。ここは僕の支配する土地。ここで君がヴァーユを傷つけることは、すなわち西南方天が西方天との戦いを望んだということになるけど、いいの」
「ふん……」
スーリヤはヴァルナを見据え、その赤い目を注いだ。男はひるむように足をとめたが、スーリヤは彼の背後を見やる。顔を歪めて舌打ちをした。スーリヤの見やる方向、背後から感じられるのは重いほどの圧力だ。テージャスは振り返る。
そこにいたのは、小さな男だった。テージャスの腰あたりまでしか身長がなく、背が大きく曲がっている。肌の色は浅黒く、髪も顔の半分を覆う髭も真っ黒で縮れていた。厳めしく重々しい印象なのに、覗く小さな黒い目もと丸い鼻が、その姿に愛嬌を加えている。
しかしその眼差しは鋭く、彼はスーリヤをじっと睨みつけていた。
「北方天クベーラ……」
スーリヤは呻くようにつぶやき、なおも悔しげな顔をしている。しかしヴァルナともうひとりの男が睨みつけるまなざしの前、彼の姿は空気に溶けるように消えてしまった。
「八守護天を三人、一度に相手にするのは不利だって考えたか。逃げ足の速い」
背の低い男が、憎々しげに唸った。その場の緊張が、スーリヤが消えることによってほどかれたように感じた。テージャスがその場に座り込むと、かつてはトリナヴァルタだった黒い炭のかけらがふわりと目の前を舞った。
「トリナヴァルタ……」
彼は、消えてしまった。唖然と、トリナヴァルタのいた場所を見つめているテージャスのかたわらに、ヴァルナが膝をつく。
「かわいそうだけど。もう、ジヴァラマンディラに行ってしまったみたいだね」
ヴァルナはつぶやいた。その言葉にテージャスは彼を振り返り、大声を上げた。
「ジヴァラマンディラ……? トリナヴァルタは、いったい……」
「死んだ、ということだ」
言ったのは、小さな男だ。彼の髭の中にある口は、淡々と言葉を紡いだ。
「ジヴァラマンディラは南方天ヤマの支配地。死んだ人間はジヴァラマンディラに入って、やがて霊魂か悪鬼となり、永遠にそこで暮らす」
心配そうな顔をしたヴァルナは手を伸ばし、テージャスの額にそっと触れた。人の手が触れたという感覚はなかった。まるで水の固まりを押しつけられたように感じた。
「ヴァーユの意識は、完全に抜けているみたいだね。今は、テージャス、だったっけ」
しかし、彼の言葉は耳に入らない。あまりにもたくさんのことが一息に押し寄せて、混乱のただ中にあるテージャスの目の前を、黒い炭のかけらが舞う。
「ジヴァラマンディラ……人間は死んで、そこに行って……。なら、トリナヴァルタも」
ラーヴァナも、ヴィシュラヴァスも。彼らのことを脳裏に浮かべ、テージャスははっと目を見開いた。振り返ってヴァルナを見た。
「トリナヴァルタは、ジヴァラマンディラにいるのですか。父上も……兄上、も?」
トリナヴァルタはいきなり灰になって、消えてしまった。ヴィシュラヴァスも、そしてラーヴァナも。あまりにも突然に、テージャスの目の前から消えてしまった。
「死んだ人間は、皆そこに?」
ヴァルナは、戸惑うテージャスを凝視している。うなずいたのは、黒髪の男だ。座り込んだままだったテージャスは地面から腰を上げ、手を伸ばしてヴァルナの腕をつかんだ。
「そこには、どうやって行くのですか」
そう問いかけると、ヴァルナは眉根を寄せて目を伏せた。
「本当に……忘れちゃったんだね」
ヴァルナはつぶやいた。彼の悲しげな色に胸をつかれ、テージャスは息を呑む。
「仕方がなかろうが。転身したのだから」
そう言う男の視線の前、ヴァルナは口の中で何かをつぶやいた。そのまま立ち上がると、踵を返してしまう。黒髪の男はヴァルナの後ろ姿を、ため息とともに見送った。
「ヴァーユ。いや、人間としての名はテージャスとやらだったか」
彼は振り返り、テージャスを見やる。手を差し出してきたのは、自分と一緒に来いということだろう。
テージャスは首を振り、言った。呻くようなその声に、男は眉根を寄せる。
「ジヴァラマンディラに、まいります」
彼は瞠目した。なぜそれほどに驚くのかと訝しむほど、信じられないことを聞いたというように彼は仰天していた。
「行ってどうする。命を取り戻せるとでも思うてか? 死んだ人間が蘇ることなど、ない」
その言葉は、テージャスの胸に突き刺さった。わずかな灰の残った地面に手をつき、何度も首を左右に振る。
「どうするかなど、……そんなこと。ですが、私は……」
突然どこともわからない場所に投げ込まれ、知らないものに囲まれて、テージャスの心は自分でも抑えられないほどに昂ぶっていた。
ラーヴァナの近習であったトリナヴァルタとは、特に親しいというわけではない。しかし目の前で灰になってしまった彼、わけもわからないままに消えてしまったこと。
それは、この世界に来たがゆえなのだろう。このようなところに来なければ、彼はあのような理不尽な最期を迎えることなどなかったはずだということだけはわかる。
それは、テージャスが蜃気楼の森の王であるからなのか。彼がここに来たのがテージャスのゆえであるのなら、テージャスは彼の主人であるラーヴァナを助けることができなかったばかりではない、彼自身をも不条理に死に追いやってしまったのだ。
「ただ。……会いたい、だけです」
会って、そして彼に謝りたい。それしかテージャスにできることはないと思った。蜃気楼の森の王と呼ばれながらも何もできない自分へのもどかしくも胸苦しい思いが、今まで感じたうちでももっとも強く、呵責となってテージャスをさいなんだ。
そう願う心はテージャス自身にもどうにもならず、テージャスは両目を手で覆った。額に十本の指の痕がつくくらいに力を込め、奥歯を噛み鳴らした。
「ジヴァラマンディラに……、まいります。私は」
そして、繰り返しつぶやいた。