第十八話
ウシャスが部屋に飾った、器に生けた花がひとつだけしおれているのが目に入った。
スーリヤはそっと手をかざしてみた。手のひらに集まる熱を感じながら、それが枯れた花に向くように念じた。すると光を浴びた花はみるみるうちに瑞々しさを取り戻す。まるで剪ったばかりのように、鮮やかな色で開いていた。
「まぁ……」
声がしてそちらを向くと、ウシャスは目を丸くしていた。よほど驚いたらしい彼女は、何度も同じ言葉を繰り返した。
「素晴らしい……素晴らしいことですわ」
「あなたも、そう思いますか」
「ええ、もちろんですわ!」
ウシャスは両手を打って喜んだ。このたび驚くのはスーリヤの方だ。長きにわたってスーリヤの側仕えをしているウシャスだが、いつも気遣わしげにスーリヤを見つめ、瞳を曇らせている。そんな彼女が、これほどに喜んでいる。
「天界に茂る草木は、わたくしたちの源ですもの。それを癒すお力をお使いになれるとは……素晴らしいことですわ」
自分のことのように喜ぶウシャスを前に、スーリヤは北西方天の眷属であるガンダルヴァ、アプサラスたちが歌うイティハーサの内容を思い出した。
世界の創造は一本の木から始まったという古伝説を、スーリヤは信じたことはない。天界人でありながら八守護天でありながら、スーリヤにはとても信じられなかった。
「イティハーサの内容はばかばかしいと、私は思いますけどね」
スーリヤがそう言うと、ウシャスは首をかしげた。
「世界が一本の木から生まれたなどと。たかだか木が世界の創世者であるなど、そんな滑稽なことはありえません」
樹木など、太陽と水の力がないとただ枯れゆくだけの、ラークシャサにも劣る存在だ。スラーディパに導かれるまでは、スーリヤも同様のものでしかなかった。否応なしに流れ込んでくる太陽の光を受け止め、己の体を供物と供するしかない、無力な存在。
しかし今は違う。今のスーリヤは太陽の使役者だ。今はまだその術を覚えたばかりだが、そのうち八守護天の誰よりも強い力を使役できるようになってみせる。そのためには、植物を癒す程度ではだめだ。
「この程度ではないのですよ。私は……もっと大きな力を操って然るべきなのです。今まで苦しみに耐えたぶん、私は与えられたものを使う権利がある。そうは思いませんか」
スーリヤの言葉に、ウシャスは顔を曇らせた。その表情はスーリヤの心を逆撫でする。
「何ですか。何か、不満でも?」
「……いいえ」
ウシャスは首を左右に振った。彼女の柔らかそうな髪が波打って揺れる。
「ただわたくしは、スーリヤ様のお苦しみになるお姿を見ることがなくなるのかと思うと、それが嬉しゅうございます」
スーリヤはウシャスを見つめた。その視線に戸惑うように、ウシャスは俯いてしまう。彼女の薄赤い長い髪がふわりと膝あたりに落ちるのを見ながら、スーリヤは踵を返した。
弟であるアグニの訪問は、前触れもなかった。彼は女官たちの先導の声を無視してスーリヤの居室の帷を開き、驚くスーリヤの前、遠慮の欠片もなく茵に腰を下ろした。
赤い髪の下に光る、縦に金色の線が入ったやはり赤い眼がスーリヤを見つめる。アグニはにやりと笑った。
「面白いことを聞いた。兄上にご執心の女ができたと」
本来ならソーマもアグニも、スーリヤのことを兄と呼んで然るべきなのだ。しかし彼らがそう呼ぶのは、特にスーリヤを侮るときだけだ。
「月の光はソーマの支配するものだ。その下で起こることを、ソーマの目から隠せると思うか。しかもそれが……」
スーリヤは顔を歪めた。そんな彼に目をやるアグニは、なおも面白そうに見た。
「スラーディパだと? いったい何のつもりだ。お前に東方天を籠絡する手管などあるとは思わなかったな。それとも何だ、その哀れな身を挺して同情でも買ったか?」
アグニの嘲笑はいつもならスーリヤに羞恥を感じさせ、どこなりと身を隠してしまいたいとの衝動にかき立てる。しかし今のスーリヤには、アグニの嘲笑を許す理由はない。
スーリヤは顎を逸らし、アグニを見やった。その目つきはどのようなものであったのか、アグニはにわか怖じ気づいたように目を見開き、体を固くした。
「アグニ、その生意気な口は閉じることができないのですか」
「……なに?」
スーリヤは右手をかざした。手のひらをアグニに向け、気を集中させる。植物たちに向けた要領で、体に宿る熱をアグニに注いだ。
アグニは目を見開いた。たちまちあたりには、肉の焼け焦げるいやな匂いが漂う。目の前のアグニは、苦悶の声を洩らして床に転がった。それを目に、スーリヤは低く息を吸い込んだ。そして熱い手のひらを再び開き、渾身の力をそこに込める。
目映い光が部屋中に満ち、アグニは再び声を上げて仰け反った。
「やめろ……スーリヤ。やめ……!」
アグニの苦しむ呻き声は、スーリヤの耳に心地よく響いた。天界に生じて以来の長きに渡って、この弟にはどれほどばかにされてきたことだろうか今までのスーリヤはその屈辱に耐えるしかなかった。彼らの言うことは本当だったから。
しかし今は違う。スーリヤの扱う光の力にアグニは抵抗できない。焼かれる苦しみにのたうち回り、スーリヤの前に屈服するしかない、彼こそが哀れな存在なのだ。その思いはスーリヤを深い快楽に誘った。今まで味わったことのない、長い長い間心に鬱積した淀みが一気に晴れていく、笑い出したいほどの快感だった。
「ご感想は? 私がこのような力を手に入れたことを、褒めてはくださらないのですか」
スーリヤの手のひらが眩しく光る。アグニの声が途切れた。よもや事切れたのかと、スーリヤはアグニを見下ろし、編み靴のつま先を彼の腹の下に押し込み、体をひっくり返した。アグニの顔は、火傷に爛れている。まるで今までのスーリヤのように。
「ねぇ、アグニ。あなたたちは私が何の力もないと始終心配してくれていたじゃありませんか。喜んではくれないのですか」
アグニは呻き、スーリヤから逃れようとする。しかしスーリヤはそれを許さず、彼の腹の上に足を置き、踏みつけた。体を捻って逃げようとするアグニを押しとどめようと、手のひらをかざす。徐々に手のひらが熱くなり、再び部屋は眩しい光に満たされはじめた。
「スーリヤ様、おやめください!」
後ろから抱きつかれて、スーリヤはとっさに手を閉じた。ウシャスだ。強い光はなりを潜め、アグニが呻きながら少しでもスーリヤから遠ざかろうとでもいうようにうごめいている。そのさまは地の底でうごめくラークシャサよりも醜く哀れで、スーリヤは唇の端で笑った。しかしウシャスが手を離さないことに、苛立って振り返る。
「これ以上はおやめください、アグニ様のお体を炭にしておしまいになるのですか!
衣服は焼け焦げ髪は半分が炭のようになり、全身に火傷を負ったアグニは、脅えた目をスーリヤに向ける。
アグニがその赤い眼を脅えさせたところなど、見たことがない。その色にスーリヤは微笑んだ。アグニは脅えて、目を合わせるのも恐ろしいというように横を向く。
「離しなさい、ウシャス」
スーリヤは、乱暴にウシャスの手をふりほどいた。そのままアグニのもとに歩み寄り、彼の前に膝を突く。手を伸ばし、アグニの顎を取ると彼は大きく震えた。
「今の私なら、今まであなたたちに受けた非礼を返すことができるようですね」
スーリヤの言葉に、アグニは震えた。焼け爛れた瞼で潰れた目を必死にこじ開け、そんな彼の様子は、あまりにも愉快なものだった。スーリヤは笑った。もっとも今まで声を立てて笑ったことがないので、それはくぐもったものでしかなかったが。
スーリヤが手のひらを広げる仕草を見せただけでアグニは大きく身をわななかせ、傷ついた体で逃げようとする。スーリヤは冷笑した。
「これ以上ひどい目に合わされたくないのなら、誓いなさい。私を長兄として敬い、私に従うと。私に逆らわないと。私の僕になると」
スーリヤの言葉に、アグニは目を剥いた。しかしその視線はスーリヤの手に向けられる。彼は口ごもり、火傷を負った唇で何かつぶやいた。そして嘆息すると、小さく言った。
「……わかった」
ウシャスは、気遣わしさを隠しもせずにスーリヤを見ていた。しかしそのようなことは、スーリヤにはどうでもいいことだ。
「わかった、だけですか? そのようなものでは、力は生じない。言葉の誓いを。アグニ」
アグニは歯噛みしたようだった。しかし起きあがることもできない体で、スーリヤが再び手のひらを彼に向ければ、アグニにもう逃げ場はない。今の彼は脅えるばかりで動くこともできない、木や草にも劣る存在なのだ。
「……兄上に従う。兄上の、僕に」
スーリヤは満足していた。今までの鬱屈が晴れていく。デーヴァでありながら、八守護天でありながら。身体的な苦しみ以上にスーリヤにのしかかっていたすべてが霧散し、スーリヤは自分が生まれ変わったように感じていた。
「ウシャス、ソーマに遣いを」
振り返らずに、スーリヤは言った。
「私がお招きしたいと言っていると伝えなさい。是非、こちらに来ていただくように、と」
ウシャスは何も言わず、彼女が深く頭を下げたのが気配でわかった。彼女の腰巻き(ファリヤ)の、衣擦れの音が遠くなる。それを聞きながら、スーリヤはじっとアグニを見つめていた。
アグニの目が恐怖と困惑に彩られているのを、スーリヤは優越の思いとともに目を眇めて見つめた。