第十六話
メール山頂近くの草原に頻繁に足を向けるようになったのは、いつのころからだったか。それ以上を進むことを恐れる馬の手綱を引き、スーリヤは広い広い草原に目を向けた。
見渡す限り青草の茂る緑野には無数の木々が立ち並び、清涼な空気に満ち、鳥が飛び交い小さな動物たちが走り回る。
しかし十ヨージャナも向こうに視線を向ければ、そこには濃く雲が立ちこめている。その雲はただの雲ではない、東方天スラーディパの眷属である雨と雷だ。
雲が覆うのは、アマラーヴァティと呼ばれるメール山の頂上だ。雲の下には結界が張られ、誰も踏み入ることができない。立ち入ることができるのは東方天スラーディパただひとり。雲の下を見たことがある者もいなければ、東方天を見たことのある者もいない。
踏み入った者の誰もないメール山の頂上を前に、馬上のスーリヤはまた深く呼吸をした。山を登れば登るほど太陽に近くなる。そうすることはアマラーヴァティに近づくことだ。アマラーヴァティに、スラーディパに近づけば、施された結界ゆえに苦しくなる。足が重く、体が前に進もうとしなくなる。
しかしそれでも、スーリヤはときおりここを訪れた。スーリヤを生んだ太陽により近い場所であるからかもしれない。なぜ自分にこのような使命を課したのか。それに対する答えがここに来れば得られるような気がするからかもしれない。
ともすれば世界の創世から存在したというスラーディパなら、スーリヤの存在する意味を教えてくれるような気がするからだろうか。しかし結界は固く、スーリヤの意志ではなく体が恐れてそれ以上近づけない。馬は足を震わせ、帰ろうとしきりにスーリヤを促す。
スーリヤ自身、結界に近づく恐怖を感じないわけではない。しかしそれ以上に、自分の生まれのゆえを知りたいという気持ちが、スーリヤをこの場所へと誘う。ここに来れば何かがあるのではないかと、スーリヤ自身根拠のわからない衝動に駆られるのだ。
その日、スーリヤは陽が落ちてもそこにいた。その夜の月はいつもに増して丸く眩しく輝き、月光に照らされた草原はいつもとは違う気配に満ちていると感じた。
月の支配者であるソーマも、結界の強いこの地に入ってくるようなことはない。スーリヤはただじっと、そこにいた。
この世に生じたばかりのころは、太陽の光がなくてはこうやって馬に乗っていることも不可能だった。しかし西南方天として太陽の楯として長い時間を過ごしたスーリヤは、今では太陽の光がなくとも動くことができる。
もちろん、それは長い時間ではない。しかし少しずつ、太陽が目覚めている間にその力を体の中に蓄えておけるようになったのだろう。太陽の光は、苛烈に過ぎるとスーリヤの体と心を蝕む。しかしそれがないとスーリヤは生きていけない。長くを生きる間、そんな太陽の力を少しばかり己のものとできるようになったというわけだ。
草原の木々が風に揺れる。その向こう、人影が見えてスーリヤは顔を上げた。
月の光はその影を照らし出す。浅黒い肌が輝き黒く波打つ髪が背を覆う。月の光に照らされたそれは、紛うかたなく女の姿だった。
スーリヤは目を瞠った。彼女はスーリヤを振り向き、黒檀のように真っ黒な目を向けた。
「……スラーディパ?」
スーリヤの声に、彼女は困ったように微笑んだ。その女性自身とは初対面であるが、放つ気から彼女が東方天スラーディパであることに気づかないわけがない。
誰も見たことのない、会ったことのないといわれている東方天だ。スーリヤはいささか唖然と彼女を見た。スラーディパが女性だなどと、思いも及ばなかった。
スラーディパはスーリヤを見上げ、まるで悪戯を見つかった子供のように言った。
「西南方天。あなたがここにいらっしゃるとは思いませんでした」
まるで繊細に作られた玻璃の鈴をゆっくりと揺らすような耳に心地いい声だ。東方天がこれほどにたおやかな、またこれほどに見目麗しい女性であったとは。スーリヤの目はただ彼女に注がれて、スラーディパはスーリヤのまなざしを前に少し、肩をすくめて見せた。
「太陽のない時間に、このようにしていて大丈夫なのかしら」
太陽の力がなければ何もできないということは、常日頃からスーリヤの劣等感を煽る事実だった。ソーマなどはあからさまにそのことを侮り、アグニは口にはしないものの、やはり明らかに使役者ではなく支配されている者である兄を侮蔑している。
そのことを口にされるたびに、スーリヤの体内では怒りが渦巻いた。しかし同じことを言われたはずなのに、スーリヤの胸に湧いたのは羞恥だった。スーリヤは馬から下りた。
「東方天こそ……このようなところで何をしておいでですか。アマラーヴァティから出られることはないと聞いておりましたが」
「アスマティの夜には、特別な力が働くの。この間だけ、わたくしは人型を取って結界から出ることができる。ほんの少しの時間だけだけれど」
「結界から?」
スーリヤは眉を顰めた。今のスラーディパの言ったことからは、まるで彼女は囚われ人で、結界の中に閉じこめられているかのようだと感じる。
「私たちは、あなたが余人を近づけぬためにアマラーヴァティに結界を張っているのだと思っていましたが」
疑問をぶつけると、スラーディパは何も言わずに首を左右に振った。そのさまがあまりにも寂しげで、スーリヤの胸を強く掴んだ。
「あなたも、囚われ人なのですか」
思わずそのような言い方をしたのは、スーリヤ自身太陽の虜囚者で、それから逃れたいと常に強く思っていたからだろう。
スラーディパはじっとスーリヤを見た。射干玉の瞳に射られてスーリヤは体を硬直させる。スラーディパは微笑んだ。その微笑は月の青い光の中で煌めくようにスーリヤの心を奪う。スラーディパは目を細めた。
「西南方天。あなたは、西南方天であることが苦しい?」
彼女は、切ない声でそう尋ねた。
「そのような顔をしている。わたくしは、あなたにひどいことを強いてしまったのね」
それでは、スーリヤにこのような運命を与えたのはスラーディパだというのか。しかしスーリヤにはスラーディパを詰る気持ちは生まれなかった。それ以上にスラーディパが辛さを堪えるような顔をしていたからだ。
スラーディパはスーリヤの手を取った。取られた手からは心地よい温もりが伝わってきて、スーリヤは深く息をついた。
「けれど、太陽は世界に必要なもの。そしてわたくし自身が存続するにも不可欠なもの」
スラーディパは切ない顔をスーリヤに向け、そしてやはり切ない目で微笑んだ。
「せめて、少しでもあなたの苦痛が和らぐように」
細く長い指はスーリヤの手のひらをなぞり、そのくすぐったさにスーリヤが身を引くと、スラーディパは小さく笑った。
「太陽の力があなたの体に注ぎ込まれたとき、苦しいでしょうけど……その力を手のひらに集めることを考えて。熱が手のひらに溜まるように。天界人であるあなたがそう言えば、その通りになる。そうすればあなたも、太陽の熱を操ることができるようになるわ」
「私が、太陽の熱を操る……?」
うなずいたスラーディパは、スーリヤの手を取った。手のひらに熱が集まる。しかしそれはしばしばスーリヤを苦しめるようなものではなく、それどころか温かく心地よく、思わずため息をついてしまうような優しい熱だった。
自分の手のひらが、月夜の薄闇を裂いて光るのに驚いた。驚くスーリヤをスラーディパは微笑んで見つめた。そしてスーリヤの手を取った。
「こうやって、手をかざして。そう、陽の当たらないところに生きているものたちに、光を与えてやれるように」
スラーディパは、その手のひらを大木の影の小さな細い若木に向けさせる。溢れる光を浴びた若木は、大きく全身を震ったように見えた。同時に掴めば折れそうに細かった幹はどんどん太くなり、みるみるうちにしっかりとした木になった。
「素晴らしいわ。それは、あなたにしかできないこと」
「私、だけに……?」
そのようなことは考えたことがなかった。スーリヤはスラーディパに触れられた手のひらをそっと握り、また開き、言われたことを思い出して熱を集めてみる。スーリヤの中に息づく太陽の光が、このような力を持っているのだ。今までただ恨んできた自分の存在意義を、初めて喜ぶ気持ちになった。それはすべてスラーディパのゆえだ。
顔を上げるとスラーディパが微笑ましいというようにスーリヤを見ていて、スーリヤは恥じ入って俯いた。
「そのような顔をしないで。あなたの存在は世界になくてはならないもの。あなたの苦しみゆえに世界は存続し、ひいては天界の平安のため。あなたの存在は欠くべからざるもの」
スラーディパの笑顔は、スーリヤにすべての苦痛を忘れさせた。太陽の熱に焼かれる苦しみも、八守護天でありながら何の力も持たない自分への苛立ちも、スラーディパの黒く輝く瞳と重ねてきた手の温もりに吸い取られるように、消えていくように思えた。