第十四話
この豪雨は、東方天スラーディパの眷属である雷と雨が暴れているからだ。
これがただの雷雨ではない、意志を持って狂う東方天の眷属の叫びだということは伝わる気からはっきりとわかる。なぜスラーディパが人間界などにいるのか。なぜあのような姿をしているのか。それはわからないままに、しかしアプサラスとして生じたばかりのティールタにも、雷と雨が何を捜しているのかはわかった。
雷と雨は、主である東方天を捜して暴れ回っている。外は、滝のような暴雨だ。クシャとラヴァを抱きしめたまま、ティールタは窓の外を見つめていた。
「それほどに、暴れないで……。スラーディパ様は、ここよ……!」
ティールタは、先ほど報せを聞いた。この国の王が死んだという。その報せを受けて飛び出していったラーヴァナはここにはおらず、だから赤ん坊たちを抱きしめて不安に駆られるティールタを助けてくれる者はない。もっともラーヴァナがここにいたからといって、助けてくれるかどうかは疑問だったが。
ティールタの耳に、女官たちの声が届く。
「どうしたの、いったい!?」
「このような、恐ろしい雨……」
とたん天を雷が裂き、目の前が真っ白になった。女官たちは自分の声で雷の音を消そうとでもいうように、大きな悲鳴を上げた。
逃げる場所を求めてか、飛び込んで来たのはふたりの女官だ。彼女たちはティールタを見つけ、目の前にひざまずいた。脅えた目を上げてティールタを見る。
「ティールタ様、お救いください! この恐ろしい雨に、雷……アプサラスたるティールタ様なら、私たちを救ってくださるのではないのですか。その、不思議な業を使って……」
「あなたたちは……」
市で、人間たちの前でイティハーサを歌ったときの皆の表情を思い出した。天界人であるアプサラスならどうにかしてくれる、そう期待する者たちのまなざしは、アプサラスとしての誇りをかき立てられるものだ。
「わたくしを、アプサラスと認めてくれるのね……?」
そう言いかけたティールタの言葉は、最後まで綴られなかった。庭先で大きな音が鳴り響いたからだ。ティールタも女官もそちらを見る。庭の大きなサローの木から薄く煙が上がっていた。それもすぐに、吹きつける雨に消えてしまう。
「雷が……木に落ちたのだわ」
しばらくは、雨の叩きつけるように降る音だけがあたりを占めた。女官たちは、じっとティールタを見つめている。
ティールタは、すっと息を呑んだ。雷雨が東方天の眷属なら、ティールタたちアプサラスは北西方天の眷属だ。しかし持つ力は同等でもすべての雷雨が寄り集まって嘆き、主を捜して暴れているというのならば、ティールタひとりの力など太刀打ちできるものではなかった。それでも、この声のひとかけらでも彼らに届くのならば。
「皆様……スラーディパ様は、ここに! お姿は変わられても、ここに!」
「ティールタ様?」
東方天の眷属に話しかけるティールタを訝しんで、女官が声をかけてきた。彼女と目を合わせ、何でもないと視線で知らせてティールタは再び気を集中させようとする。
「どうぞ、北西方天の眷属の声をお聞き届けくださりませ!」
ティールタは、東方天の眷属たちに話しかける。しかし彼らは、すでに意思疎通ができる状態ではないようだ。ただただ暴れ狂い、哮り立つばかりだ。
「どうか、今しばらく……!」
ティールタは必死に自分の気を集中させ、力を呼び起こそうとする。しかし東方天の眷属たちの放つ強い圧力から逃れられず、それどころか圧倒されて倒れそうになるのを、赤ん坊たちを抱きしめたまま必死にこらえた。
「……っ、……!」
勢いの強い雨の中でティールタは、はっとした。天界の気配。東方天の眷属たちの放つものではない、確かに別の、ティールタの知っている気配――。
「水の、ナーガ!」
いったんは途切れたはずのそれが、ランカー国にやってきている。西方天ヴァルナがナーガを遣わせてくれたに違いない。クシャとラヴァを抱いたまま、外に駆け出す。
「あ、ティールタ様!」
雨の勢いはティールタを苦しめるが、苦痛はしずくの冷たさや叩きつける痛みゆえではない。直接雨に打たれ、また彼らに話しかけることで体内の気が乱れる。自分の感覚との釣り合いが取れずに息が上がっていく。激しく呼吸をする口にも水滴が入り込んでくる。
「ナーガ! わたくしはここよ、わたくしは、ここ!」
ティールタは、懸命に叫ぶ。しかし水のナーガの気配は強くなり弱くなり、そののちに、消えた。肌を打つ雨は痛いほどの勢いで、その向こう、真っ暗な空に消えていく水のナーガの姿を見たような気がした。
「テージャス様……」
テージャスは、ナーガに乗ったのだろうか。しかしティールタは、気づかれることもなく取り残された。西方天ヴァルナも、これだけ東方天の眷属の力が乱れているランカー国に再びナーガを遣わそうとは思わないだろう。たかだかアプサラスひとりのために。
絶望が、全身を駆けめぐる。ティールタは、しっかりとクシャとラヴァを抱いた。雨に煙る天を見上げる。目に落ちてくるのは雨の粒ばかりで、もう水のナーガの気も感じない。
「テージャス様……」
テージャスが眷属を見捨てるようなことするはずはない。それはわかっていて、しかし天界に戻ることはできないという絶望がティールタを包んだ。その絶望は身の底からティールタを支配し、体内の気の乱れは雨よりなお冷たく痛く、全身にはびこった。
「あ、あ……」
「ティー、ルタ……様?」
女官たちの声が遠くなる。水音だけが耳にはっきりと聞こえる。それは天から降る雨のもののようでもあり、ティールタの体を包み込む気の流れであるような気もした。
しかしそれは苦しい気だ。体を引き裂かれるような苦痛に、ティールタは身悶えた。何か、体の奥にある澱を無理矢理かき出されるような、耐え難いまでに苦しく重いものがまとわりつく。自分の身が裂かれるように痛みに、ティールタは呻いた。
「何、あれは……!」
悲鳴が聞こえて我に返った。雨の音をも突き破る、一際甲高い声は女官のものだ。女官たちは床に座り込んでいて、何か恐ろしいものを見たとでもいうような表情だ。
「化けもの!」
貫くような声に、ティールタは大きく身震いした。
「なに、今の……ティールタ様のお姿が、大きな黒い……」
「大きな、黒い……?」
頭が痛む。そこに、女官の言葉が錐のようになって貫いてくる。女官は何を言っているのだろう。化けものだなんて。ティールタは、アプサラスなのに。蜃気楼の森で竪琴を弾き横笛 (バーンスリ)を奏で、王を慰める、天界の美の具現なのに。
とたん、体を痛みが襲った。身を引き裂かれるような苦痛は、体を走る気をおかしくさせる。上手く体の釣り合いが取れず、ともすれば自分が自分でなくなってしまうような感覚。異変は、激しくティールタを苦しめる。
「う、っ……、……」
ティールタは呻いた。自分の体に異変が起き始めたことに気がついた。目の前が暗くて、何も見えない。
耐え難いまでに重いものがまとわりつき、重ねて東方天の眷属が掻き回した不安定な気に煽られることで、体を引き裂くような苦痛に襲われる。体の奥にある澱を無理矢理かき出されるような感覚に、ティールタは身悶えた。
指の手の、足の感覚がなくなっていく。男の怒鳴り声、女の悲鳴が聞こえた。それはティールタを恐れるように響き、人の気配が遠のいていく。
「わたくしは、アプサラスよ……北西方天の眷属、澄んだ声で唄を歌い楽器を奏で、天界の美の化身と謳われる……アプサラス」
「ティールタ、様なのでございますか……?」
「ええ、そうよ。わたくしはティールタよ」
女官のつぶやきに、ティールタは何度も頷いた。しかし女官にはそれがわからないようだ。なぜ女官は、ティールタの言葉がわからないのだろうか。こんなに必死に話しかけているというのに、彼はまるで魔物でも見るような目でティールタを見ているのだ。
「わたくしは、ティールタよ。……北西方天の眷属、アプサラス」
しかしティールタの声は言葉にならない。調律の狂った楽器のように耳障りな、がさついてひび割れたような噪音だ。
「わたくしは、わたくしは……!」
ティールタの言葉は低く濁った音となって、響くばかりだ。
◇
アプサラスに、なりたい。
そうつぶやいた声は太くがらがらと耳障りで、耳にするだけで怖気が走る。朝未きの薄い光の中に、その声は低く響いた。
『アプサラスになりたい。澄んだ声で唄を歌い楽器を奏で、美の代名詞である、麗しいアプサラス。それに、なりたい』
耳障りな声とは裏腹に、口調は悲痛だった。切ない声で繰り返す願いを、聞く者がある。
遠く、薄い茜の朝日が見えるものの、あたりはまだ真っ暗だ。男は周囲を嬉しそうに見やり、そして首あたりを撫でてくる。その手は優しく温かく、甘えるように彼の手に頭を擦りつけた。
「おやすいご用だよ」
彼は、嬉しげに笑いながら言った。
「君は転身して、アプサラスになる。ウルヴァシーに言っておこう。新しいアプサラスが近々生まれる。僕の恩人だから、特に大事にしてあげてって」
『ありがとう、ございます』
その優しい言葉に、地面に頭を擦りつけた。彼のつま先にくちづけを落とす。
『ありがとうございます、ヴァーユさま』
「お礼を言うのは僕の方だ」
男は、嬉しそうに笑った。咽喉もとに手が伸びてきて、顔を上げると頬ずりをされた。目を細めると、彼はまた笑う。
「君のおかげでここに来られた。ヴァルナがナーガを使わせてくれるわけはないからね。だから、君の力を借りるしかなかったんだから……」
ありがとうございます。礼を繰り返すと、
『冥暗のナーガである私がアプサラスとして転身できるなど、夢のようでございます』