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第十三章

 窓から吹き込んでくる激しい雨の降りしきる中、王の間に集まった藩侯たちは、皆一様に青ざめていた。無理もない。突然の王の死の報せに戸惑わずにいられるわけがない。

 それはテージャスも同じだ。その報せは、まるで用意されていたように素早く広がった。

 ヴィビーシャナは王の間の円座に腰を下ろし、報せを聞いてやってくる者たちの相手を取り仕切っている。彼らを困惑させているのは、急告の内容のみではない。ヴィビーシャナの座る円座の横で、屈強な武官が四人も目を光らせていて、その足もとにふたりのアプサラスがいることだ。縄こそかけられていないものの、泣き濡れるローカマターと彼女を護るように横に座り肩に手を置くウルヴァシー、ふたりは身を寄せ合ってそこにいた。

 藩侯のひとりが、口を開いた。

「まことでございますか。王が……身罷られた、などと」

「ああ」

 藩侯のわななく声に、ヴィビーシャナは神妙な面持ちでうなずいた。その表情は苦りきり、父でも主でもある王を失った悲嘆が見て取れる。しかし、とテージャスは唇を噛む。

「手を下したのは、そこなアプサラスだ。父上のお飲みものに、毒を盛った」

 居並ぶ者たちの間に、どよめきが走った。あたりを埋める戸惑いと悲嘆の空気を切るように現れたのは、ラーヴァナだった。

 息せききった彼の装いは乱れ、埃っぽく汚れている。どこかに出かけていて、戻ってきたばかりといったようだ。彼を追って、従者のトリナヴァルタも姿を現わす。彼はラーヴァナの後ろに膝をついたが、その髪もやはり砂にまみれていて、慌てて主人を追ってきたのだということが見て取れる。

 ラーヴァナは肩をいからせ、ヴィビーシャナを睨みつけた。歪んだ口もとから、声を絞り出すように呻いた。

「どういうことだ、これは……?」

「どういうこと、と言われましても」

 ヴィビーシャナは、戸惑いを隠せないといったままの調子でそう言った。顔を動かさずに視線だけをラーヴァナに向け、ふたりは睨み合う。かち合うふたりのまなざしの鋭さにテージャスははっとしたが、それは間近で見ていたテージャス以外には気づく者はないと思えるほどに、一瞬のことだった。

 ヴィビーシャナは、すぐに表情をもとに戻した。じっとラーヴァナを見、そして呻くようにつぶやいた。

「なるほど、兄上は何もご存じではないと。そうおっしゃるのですね」

「当たり前だ。何が言いたい」

 ラーヴァナは、苛立ちを隠しもせずに声高に言い募った。その大声に、幾人かの大臣たちが眉を潜める。しかしそのような周りの反応など目に入ってもいないように、ラーヴァナはなおも声を上げた。

「お前はいつも奥歯にものが挟まったような物言いをする。はっきり言え!」

 ヴィビーシャナが、さっと右手を挙げた。すると現われたのは屈強な男たちだ。ラーヴァナとトリナヴァルタはたちまち後ろ手にとらえられ、剣が取り上げられる。ふたりは暴れたが、そんなふたりの抵抗をわかっていて特に屈強な捕吏を選んだに違いない。

「ヴィビーシャナ兄上! 何をなさるのです……いったい、何を!」

「お前が、お前の母は犯人ではないと言ったのだ。だから、真犯人を捜したまで」

 ヴィビーシャナは表情を引きしめた。唇を結び、ラーヴァナを見、そして宣言するかのようにゆっくりと口を開く。

「父上に毒を盛ったのは、ラーヴァナ兄上ですね」

 ヴィビーシャナの言葉に、誰もが唖然と彼を見た。ラーヴァナが、大きく目を見開く。

「何を……」

「証もあります。いや、お見せするまでもなく、兄上ご自身が一番よくご存じでしょうが」

 ヴィビーシャナは、典医のマドゥを手招いた。マドゥの手には小さな壺がある。

「確かめられましてございます。即効性の、毒でございました」

 頷いたヴィビーシャナは、その場にいる者すべてに宣告するように声をあげる。

「兄上はバラタ国の賓客でありながら、バラタ国の混乱に乗じたといって帰ってこられた。その目的が何なのか、私はどうにも掴めずにいた。しかし……」

 ヴィビーシャナのかたわらに現れたのは、

「マドゥの調べで、得心できました。兄上は、バラタ国の間諜ですね」

「な、に……?」

 ラーヴァナは瞠目した。彼の黒い目は大きく見開かれ、鏡のようにヴィビーシャナを映す。そんなラーヴァナのまなざしを振りきるようにヴィビーシャナは大きく首を振った。

「この毒は、バラタ国の寒冷な気候でしか育たない植物から抽出したもの。バラタ国といえば、どなたか……誰にでもわかりましょう」

「バラタ国は鎖国をしているわけではない。毒薬くらい、いくらでも手に入れられよう!」

 ラーヴァナは叫んだが、しかし彼を取り囲む誰も声を上げようとはしない。皆がふたりの王子の応酬に聞き入っている。

「女に溺れて、それを見抜けなかった父上はお情けない。しかしその手にまんまと乗って、みすみす王を死に至らしめた自分たちの愚かさも、あまりにもふがいない」

「ヴィビーシャナ兄上、そんな。ラーヴァナ兄上が犯人だなど……」

「黙れ、テージャス!」

 鋭い叱責の声が飛ぶ。テージャスは、射抜かれたように息を呑んだ。

 まわりを見ると、諸侯たちは納得した表情をしている者、驚いている者、戸惑っている者、ラーヴァナを憎々しげに見やっている者。しかしラーヴァナをかばおうという者はいない。さすがのラーヴァナも、言うべき言葉を失っているようだ。

 一歩、後ずさりをしたラーヴァナに、トリナヴァルタがかばうように寄り添った。

「ふざけるな! 誰が、バラタ国の……? お前、正気か!」

「自ら、己が間諜だと認める間諜はおりませんよ」

 冷静な声でヴィビーシャナは言った。ラーヴァナも、ヴィビーシャナの背信は想像していなかったのだろう。口調はいつもの彼のままに厳しいものの、戸惑いは隠せない。

 神殿の書の間を住み処にしていたテージャス、異国住まいだったラーヴァナ。比べてもっとも政務に近く、諸侯たちにも馴染みのあるのがヴィビーシャナだ。その彼が犯人はラーヴァナだと言えば、皆が誰を信用するのか。その答えを、まざまざと目の前に見た。

「謀ったな。私を追い落として、己が王座につこうという魂胆か」

「何をおっしゃっているのです、兄上」

 ヴィビーシャナは、眉をしかめた。ため息をつき、首を振る。

「ただ、私は正義を貫きたいだけです。王座などと……考えたこともなかったな」

「繰り言を!」

 ラーヴァナの叫びに、戸惑った顔をする者もいる。ヴィビーシャナとラーヴァナを比べて見やり、どちらを信じるべきか迷うような若い藩侯の前、ラーヴァナが拘束を振りきった。それは一瞬の出来事で、捕吏も何が起こったのかわからないようだ。

 彼は、身のこなしも軽く床を跳躍した。手はその藩侯の腰にかかり、剣を抜き取る。しなやかな獣のようなラーヴァナの動きに、誰もついていけなかった。

 しかし、さすがに剣技に聞こえの高いヴィビーシャナだ。彼は、振り下ろされたラーヴァナの剣を紙一重で避けた。すかさず自分の腰の剣を引き抜き、構える。ふたりの剣が宙を舞い、刀身がぶつかった。

 火花を散らす剣の向こう、睨み合うふたりは声をあげる。

「後ろ暗いところがおありだからこそ、このように抵抗なさる。お諦めください、兄上」

「ふざけるな!」

 ラーヴァナの握る剣は、細い刀身に模様の彫刻された装飾用のものだ。実質近衛兵しか剣を持たないランカー国では、藩侯でも実用の剣を持つことはない。一方のヴィビーシャナの剣は、無骨ではあるが大きく刃の部分も厚い。まるでこのときを予想していたかのように、研いだばかりの輝きを放っている。

 剣の技術は、ラーヴァナのほうが格段に上だっただろう。しかし彼の手にした剣はあまりも細く、頼りなかった。三度目にふたりの剣がぶつかったとき、高い音を立ててラーヴァナの剣が折れた。銀色に光る刀身が床に転がる。素早く空を斬って振り下ろされたのは、ヴィビーシャナの剣だった。

「あ……っ!」

 肉を裂く鈍い音が上がり、鮮血が弧を描いて飛び散った。呻く声が上がる。ラーヴァナの体が床にたたきつけられ、また血しぶきが上がった。

「ラーヴァナ様っ!」

 叫んだのはトリナヴァルタだ。しかし後ろ手に捕縛され、体の自由を奪われている状態では声を上げることしかできない。傷ついた徒手のラーヴァナを、ヴィビーシャナの剣が二度三度と襲った。ラーヴァナは床に倒れ伏し、動かなくなった。

「……っ、あ……」

 部屋は、しんと静まり返った。その間を、雨の音が縫う。剣に裂かれたラーヴァナの、胸から腹にかけての傷からどくどくと血が流れて広がる。それが流れていく先、部屋の隅から流れ込んでくる水と混ざった赤の色は薄くなり、テージャスの足もとまで床を染めた。

「兄上……!」

 テージャスは、ラーヴァナのもとに駆け寄った。ラーヴァナは小さく呻いたが、しかし起きあがることはできないようだ。目を見開き歯を食い縛り、その額には粒になった汗が浮かんでいる。触れるのも恐ろしいようで、テージャスはただ、息を呑むばかりだ。

「う、わっ!」

 声が上がって振り返った。トリナヴァルタが捕吏を振りほどいたのだ。彼はテージャスを突き飛ばす勢いで呻くラーヴァナのかたわらに膝をつく。その衣は、血に汚れた。

「ラーヴァナ様、ラーヴァナ様っ!」

 彼はなおも、大声で主を呼び続ける。ラーヴァナは誰の目にも蒼白な顔で、紫になった唇を震わせて、何かをつぶやく。しかしテージャスには聞き取れなかった。

 ラーヴァナは目を大きく見開いたまま、唇は凍ったように動かなくなった。彼の指先が床に落ちる。糸が切れた人形のようだと思った。

「ラーヴァナ、様……っ!」

 トリナヴァルタの声は、悲痛に響いた。テージャスはよろめき、その場に膝をつく。広がる血潮に衣が濡れる。

「兄、うえ……」

 父王、そして兄。続く者の死を前に、テージャスの声は掠れた。トリナヴァルタの、喘ぐような声が聞こえる。彼は、すがるような声でテージャスを呼んだ。

「テージャス様は、蜃気楼の森の王で、いらっしゃるのでしょう……?」

 彼の声は、テージャスの体の奥に、脳裏に、否、もっと深い場所に響く。蜃気楼の森の王。嘆く声が紡ぐその言葉が、奥に眠っている何かを揺り動かす。

「ラーヴァナ様を、お救いください……!」

 人を救う力が、自分にあるのか。差し伸べられる手が、救いになる力が。トリナヴァルタの声に、テージャスは震えた。

 あたりは静かだ。たくさんの者たちが集まっているはずなのに、針の落ちる音も聞こえるほどだ。いきなりつんざく轟音がして、テージャスは目を見開いた。

「あぁ、……ぁ……」

 それは、体の奥から生まれた音だ。体が熱い。テージャスは自分の体を抱きしめる。体内のそれは滾る炎のような、それでいて熱い水の急流のようでもある。自分自身も押し流されてしまいそうな、あまりにも強い圧力だ。

「……あ、!」

 部屋を悲鳴が埋め尽くし、それにテージャスははっと目を見開く。今までの静寂が嘘のように、あたりは騒ぎに包まれている。見開いた目に、赤いものがよぎった。床に流れる血は、ラーヴァナの体から流れ出したものであるはずだ。しかしそれは流れ込んできた雨水と混ざって、生きもののように床をうねり空を躍っている。

 それはまるで、テージャスを手招いているようだと思った。身のうちに生まれた水脈が溢れ出て、大きな音を立てて血と混ざった水が隆起し、生きもののように太い水の管が目の前で暴れて跳ねる。

 視界の向こうに、ラーヴァナの体を抱いたトリナヴァルタがいた。彼は目の前を躍る血潮に唖然と瞠目していたが、突然大声を上げた。

「うぁ、あ……っ!?」

 トリナヴァルタの声は水流に呑み込まれ、そして彼の姿も消えた。唖然と見つめるテージャスの後ろで、弾けるような女性の声が響く。

「水の、ナーガ……? 道が開けたのだわ!」

 叫んだのはウルヴァシーだ。常の彼女には決してない大声で、彼女は続けて叫んだ。

「テージャス様、気の乱れが整いました! この隙に、お早く!」

「な、に……?」

 今まで蜃気楼の森とこの世界のつながりを切っていた気の乱れが、整ったのだとウルヴァシーは言う。しかしなぜ、この場にあって突然つながったのか。

 しかしテージャスの疑問は、声にはならなかった。ウルヴァシーのかたわらのローカマターも、大きく目を見開いている。

ウルヴァシーは顔を上げた。テージャスを見上げ、そして何かを言おうとしたらしいが、しかし彼女が口を開く前に、その姿が視界から消える。血の混じった水が幕になって、すぐに何も見えなくなった。

「……あ!」

 生きたような水脈の中に呑み込まれたのだ。水は大きくうねってテージャスを包んだ。

 いきなり血の混じった水に呑み込まれ、何も見えず上下もわからず、しかし息が苦しいということはない。顔を上げても水面が見えないほどに深い中であるのに、地上にいるときと変わらず息ができることに驚いた。むしろ人肌程度に温かな水に包まれて、いつまでもここにいたいと思ってしまうような心地よさだ。

 懸命に目を開き、深く青い水がどこまでも広がっているのがわかった。その青はあまりにも濃く深く、暗くて伸ばした手の先も見えない。もがいてみても前後もわからず、手を伸ばしても触れるのは水の感覚だけで、暑くもなく寒くもなく、何か柔らかいものに包まれるまま、しかし不安はひとかけらもなかった。

 どこか懐かしく、胸に沁み渡る感覚がある。それはラーヴァナの体から流れる血の熱さに触れたとき、湧き起こった熱に似ていた。もっともあれほど強い衝動ではなく、もっと穏やかにテージャスを包み優しくいざなうような温度で、それは何の違和感もなくテージャスを招き入れる。

 水が動く。揺れて流れて、岸にたどり着く。そこはテージャスの血の源――天界であることが、誰に言われずとも体も心も、すべてに沁み渡っていた。

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