第十二話
テージャスの目を覚まさせたのは、激しい雷雨の音だった。
寝台の上で、その音をしばらくぼんやりと聞いていた。ここまで激しい雨になるとは、とうとう本来の雨季の到来か。しかし今はまだプファーグン月になったばかり、いくらなんでも時期が早すぎる。
体を起こし、御簾の向こうを見やった。水桶をひっくり返したような雨がサラの木を叩き、間断ない雨に緑の葉は地面に垂れて、細い枝は折れて地面に落ちている。
雨は地面を池に変えていた。雨だけではなく、強い風もやむことはない。テージャスは、唖然と表の様子を見ていた。
今が真昼かと思わせるような眩しい雷が、あたりを貫く。向こうの宮から脅える女官たちの悲鳴が聞こえるが、その合間を縫うように、また雷が鳴った。
この雨が始まってからこちら、雷は初めてだ。しかもこれほどに大きな雷など、バタウ月にも稀なことだ。
「……あ!」
そのとき背を走った感覚は説明ができない。ただ、確かに何かを感じ取った。しかも何か、よくないことだ。なぜそのようなものを感じ取れるのかと自問してみてもわからない、ただいても立ってもいられない直感のようなものだというだけだ。これが蜃気楼の森の王としての力だというのなら、そうなのだろう。
もっともそのようなことを考えている余裕はなかった。せっつく何かに押されるままにテージャスは部屋を飛び出し、柱廊を駆けた。一番大きな宮、王の宮の前にいた立ち番の従者たちは驚いてテージャスのために道を空けた。テージャスはヴィシュラヴァスの宮に駆け込み、廊下を渡ってもっとも奥の私室へとたどりつく。部屋の前に立ち、声を上げた。
「父上、テージャスでございます!」
しかし返答はない。幾重にもかけられた紗をくぐるも、女官の姿も見あたらない。飛び込んだ部屋の奥、薄暗さに視界を奪われて、テージャスは何度かまばたきをした。
「テージャス様?」
震える声は、ローカマターだ。テージャスは固唾を呑み、ゆっくりと紗幕に近づいた。
寝台の上から垂れた天幕が開き、最初に目に入ったのは薄赤い色の夜着一枚のローカマターだった。その姿にテージャスは目を逸らせた。その傍らに横たわっている人影に、大きく目を見開く。
「父上……!」
テージャスは駆け寄った。寝台に仰向けになっている様子は、決して眠っている者の姿ではない。両手を投げ出すようにして目を閉じているヴィシュラヴァスの顔色は、あまりにも白かった。
「父上、父上!」
「テージャス、様……」
すがるような呼び声に振り返ると、ローカマターは泣き濡れた顔をしていた。白い頬を涙に濡らし、しきりに嗚咽を漏らしている。ローカマターはわななく声で、消え入りそうにつぶやいた。
「ヴィシュラヴァス様は、身罷られました」
ローカマターは泣き声の中、静かに言った。
「差し上げたお酒を口にされたとたん、このように……」
「……な、ぜ……?」
わななく声を、懸命に抑えた。奥歯を噛みしめて、できるだけ声を荒げることがないように、ことさらに落ち着いた声で言った。
「なぜ、このようなことに?」
戸惑うテージャスの言葉に、ローカマターは泣き濡れた顔を向けた。彼女はテージャスをじっと見つめ、頬を濡らしながらつぶやいた。
「ヴィシュラヴァス様。せっかく再びお目見えいたしましたものを。このような形で……」
ヴィシュラヴァスの手には、杯が握られたままだ。寝台の上にこぼれて広がっているのは彼の好む果実酒だ。
まさか。脳裏を走った考えに、指先までが一気に冷たくなる。テージャスはとっさに、声を上げた。
「ウルヴァシー!」
ローカマターは己の悲しみに耐えるだけで精いっぱいのようだ。それでは、ウルヴァシーやティールタに聞けば、何かわかるかもしれない。彼女の名を呼んだのはそんな意図からだったが、間近にウルヴァシーの声が聞こえて驚いた。
ウルヴァシーは、テージャスの目の前にひざまずいている。突然、空中から現れたかのようだ。驚くテージャスに、ウルヴァシーは何も言わなかった。ローカマターに寄り添い、そっと腰を下ろす。
ウルヴァシーの姿に、ローカマターは彼女よりも薄い色の目を見開いた。ウルヴァシーはローカマターの肩を抱き、話しかけている。その声は小さくて聞こえず、ともすれば声には出さず、アプサラス同士にだけわかる何らかの方法があるのかもしれなかった。
部屋の表が、急に騒がしくなった。複数の乱暴な足音がテージャスが乱したままの紗幕をくぐり、入ってきたのは数人の男たちだ。
「兄上……?」
現れたのは、ヴィビーシャナだ。先日見た、彼のまなざしを思い出した。それがただならぬ不吉さを感じさせたことが同時に蘇り、体中を痺れのような悪寒が走る。
ヴィビーシャナは、早足でヴィシュラヴァスの寝台に近づいた。驚くウルヴァシーとローカマターを押し退け、ヴィシュラヴァスの手の杯を取り上げる。縁を汚す酒を指先に取った。鼻先に近づけると、彼は顔を歪めた。
「毒だ」
ヴィビーシャナの言葉に、ローカマターが大きく震える。ヴィビーシャナは、杯をかたわらの者に手渡した。典医長のマドゥだ。マドゥの耳もとに耳打ちすると、彼はうなずいて、部屋を出て行った。
「兄上、どういうことなのですか」
テージャスはヴィビーシャナに駆け寄る。しかしヴィビーシャナは、無駄のない動きで腰の剣を抜き、その鋭さに怯んだテージャスの目の前、震えるローカマターの咽喉もとに剣の切っ先を突きつけた。彼女は大きく目を見開き、ウルヴァシーは低く息を呑む。
「この女だ。この女が、毒を盛ったのだ」
そのようなわけがない。ローカマターがそのようなことをする理由がないという以上に、テージャスには確信があった。それは鳴り響く雷が呼び起こした直感のようなものだ。自分の体の奥深くに眠っていたものが、にわかに目覚めたような。殻を破って生まれ出た、身の奥を揺るがすように熱い何か。それに揺さぶられてテージャスは大きく目をみはった。
何か、見えるものがあった。その光景は、まるで目の前にあることのようにはっきりと脳裏に浮かんだ。そして毒が、誰によって盛られたのかということも。
「……あ」
しかし、それは本当なのか。ただの幻ではないのか。いきなり目の前に浮かんだ映像を受け入れることができず、テージャスは呻いた。
騒ぎに気がついたらしい女官たちが、部屋に駆け込んでくる。彼女たちは足を踏み入れた部屋の状態に驚いて、悲鳴を上げる。ヴィビーシャナは声を荒らげた。
「黙れ!」
彼がそのように乱暴に叫ぶことがあるとは思わなかった。いつも寡黙で、何を考えているか読み取れないほどに表情の変化も少ない彼だ。しかし今の彼は荒々しく、激しかった。テージャスが声を上げようとしても、強く睨みつけてくる。その迫力に押されて、テージャスは口を開くことができなかった。
今まで見たことのない恐ろしいまなざしのヴィビーシャナは、剣を持ったまま改めてローカマターに向き直った。
「この女は、王殺しだ。神官や司法官に諮るまでもない、王殺しには、死罪だ。古来より、そう定められている」
きらめく刃は彼女を傷つけてはいないものの、ヴィビーシャナがほんの少し手を動かしただけで彼女の白い肌には緋色の線が描かれるだろう。ローカマターは、薄青の瞳を見開いてヴィビーシャナを凝視している。
「ローカマター。いや、ティローッタマーか。どちらでもいい。お前を捕縛する」
「兄上!」
テージャスは、真犯人に呼びかけた。ヴィビーシャナは目をすがめてテージャスを見やり、その態度からすると彼が犯人だなどと思う者は誰もないのだろうに。
「なんだ、テージャス」
しかし、テージャスは幻で見ただけだ。それが何の証拠になるというのだろう。テージャスは引き下がるしかなく、ヴィビーシャナはふんと侮るようにテージャスを見た。
ローカマターの、涙に濡れた睫毛がしばたたかれる。髪よりも濃い色の長い睫毛に小さな涙の粒が宿っているさまは、雨上がりにきらめく細い糸でできた蜘蛛の巣を思わせた。そこにたまったしずくが、白い頬を涙が転がり落ちた。
ヴィビーシャナは、寝台の傍らにつり下げられた紐を乱暴に何度も引いた。鈴がやかましく鳴り響く。
「誰かここに! 王殺しの女をとらえよ!」
いくつもの足音が聞こえた。従者たちが駆け込んでくる。いずれも屈強な従者たちは、部屋の中の様子に驚く様子もなくヴィビーシャナの前に膝をついた。
「縄を持て。アプサラスだ、おかしな力を使うかもわからないからな。決して逃げられないように、よく見張っておけ」
ヴィビーシャナの指図に、三人の従者がローカマターに駆け寄った。ウルヴァシーを押し退け、彼女の細い腕を後ろ手にし、粗い目の縄で縛り上げた。抜けようとしてもがいてもほどけないような、固い結び目を作る。ひとりの従者が縄の端を持ち、ふたりはローカマターの両肩を押さえる。まるでこの状況に備えて待機していたかのような手早さだ。
「兄上、おやめください……このようなこと!」
彼の目の前にひざまずき、テージャスは床に手をついて叫ぶ。真犯人の是非は証明できずとも、ヴィビーシャナの行為が横暴であるということはわかる。
「母上が父上を殺めたなどと。そのようなこと、あり得ません!」
ヴィビーシャナは、テージャスを見下ろして煩わしげに表情を歪める。しかしやおら、唇の端を持ち上げて笑った。
「なるほど、この女が殺したのではないと。お前はそう言うのだな」
呻き声を上げてしまうくらいの強い力で、ヴィビーシャナはテージャスの腕に指を食い込ませる。ひるむテージャスの腕に、ヴィビーシャナの手がかかる。剣技で鍛えた彼の力は強く、逃げられない。顎に指をかけられ、上を向かされた。
目の前のヴィビーシャナの視線には、凄まじい毒気があった。叩きつけてくるような、あふれるような悪意だ。まるでテージャスを憎んでいるような、否、テージャスだけではない、この場にある者すべてを、ともすればランカー国そのものを憎んでいるかのような。
ヴィビーシャナは、ゆっくりと唇の端を持ち上げた。
「蜃気楼の森の王たるお前がそう言うのなら、そうなのだろうな。それでは、下手人はほかにいるのだろう。誰が父上に毒を盛り、死に至らしめたのか。探す必要があるな」
彼が、これほど喋々と話すところは初めて見た。テージャスはいささか唖然と彼を見たが、問いかけの形で投げつけられた言葉に、目を見開いた。
「お前も協力するだろう? 父上が殺されたのだ。お前の母でないというのなら、真の罪人は誰なのか。知りたいだろう。当然だな」
「そ、れは……」
ヴィビーシャナはテージャスの腕を掴んだ手はそのままに、右手に握ったままの剣を空にかざした。そのきらめきに射抜かれて、ローカマターは大きく身を震わせた。自由にならない体をねじって、ヴィシュラヴァスの亡骸に目を向ける。
従者たちが、揃って声を上げる。十七年の時を越えて再会した妻を放さないと宣言した彼は、その細い腕にしがみつかれても指一本動かさず、瞼を閉じたままなのだ。ローカマターは彼を見つめ、そしてまた、何粒も新しい涙をこぼした。
「……母上」
蜃気楼の森の王などと言われながらも、テージャスには何もない。何もできることがない。父を殺した下手人を前に何もできず、ただ歯噛みするしかない。
(ヴィビーシャナ兄上が、真犯人だと……証明する方法があれば……!)
胸のうちで、テージャスはそう叫んだ。