第十一話
その日は、ここしばらく降りしきっていた雨がなりを潜めていた。しかしテージャスが見上げる空は一分の隙間もなく雲に覆われている。露台は濡れたままで乾く暇もない。これがサーウン月やバタウ月のことであるのなら、これほどの雨も問題はない。
しかし今はアソズ月だ。これほどの雨量があっては実りを迎える前の畑が流されてしまうかもしれない。今までにも不作の年はあった。史書にも気候の乱れが収穫に影響を与え、飢饉があった時代のことが記してある。
話があって訪ねたヴィシュラヴァスの私室の前では、女官がテージャスを出迎え出た。先触れを聞いていたらしい女官はテージャスを前に胸の前に手を置き、丁寧に頭を下げた。
「ただいま、朝餉のお時間でいらっしゃいます。殿下も、どうぞお相伴を」
「……は」
話をしようと思ってやってきたのに、いきなり食事の相伴と言われて、テージャスは面食らった。女官は恭しくテージャスを王の私室の奥に招き入れた。立ち入ることのできるのは限られた者たちだけ、テージャスも、ここに入ってきたのは数えるほどだ。
「おお、テージャス。よくぞ参った」
機嫌よく迎えたヴィシュラヴァスの姿に、テージャスはぎょっとした。円座の上、脇息を枕代わりに寝そべっている。その手には杯があり、柔らかい果実酒の香りがテージャスにまで伝わってきた。
「父の相手をしろ。ほら、そこに座るがよい」
しかもその酒は朝から口にする種類のものではなく、晩餐用の濃いものに違いない。ほのかに頬に赤みが差し口調も妙に陽気で、朝もまだ早いこのような時間に相応しい様子ではなかった。少なくともテージャスは、父のこのように自堕落な姿を見たことはなかった。
勧められるがままに腰を下ろしたテージャスは、マディラーで満たした杯を渡された。思ったとおり、強い酒の匂いがした。
「食べるがいい。ローカマターの好きだというものばかりだ。特に言って、揃えさせた」
「畏れ多いことでございます」
ローカマターは両手を床について頭を下げた。彼女の長い髪が床を彩るのを、ヴィシュラヴァスは満足げに見やる。
「テージャス様、どうぞ」
女官が、皿を差し出した。蜂蜜を混ぜた乳酪を乗せた黄色いアーンプに木をくりぬいて作った匙が添えられている。傍らの籠にはアナーやアインセルの実が盛られ、特に輝く赤い宝石のような小さな実がぎっしりつまったアナーは見ているだけで食欲をそそる。
「ローカマターはもう欲しいものはないのか」
「わたくしは、もう充分いただきました」
艶やかな唇に指を押し当てて、ローカマターは小さく笑った。小鳥の鳴き声のような笑いはヴィシュラヴァスの笑みをも誘い、ふたりが特に何に対してではない、ただふたりでいることそのものが楽しいと笑い合うさまを、テージャスはあっけにとられて見ていた。
ヴィシュラヴァスがこのように、柔和な笑顔を見せることなどあっただろうか。子供のころ、ときおり学問の手ほどきをしてくれた父は優しくはあったが同時に厳しく、息子を鍛える父親の厳格さがあった。
しかし目の前にいるヴィシュラヴァスは、愛妃と睦み、過ごす時間の楽しさを隠しもしない。マディラーの杯を手に、テージャスはぽかんとその様子を見つめていた。
「何だ、テージャス」
照れたようなヴィシュラヴァスの声は、ますますテージャスを唖然とさせる。ローカマターは、ヴィシュラヴァスのそばから離れようとしない。ヴィシュラヴァスも、それを喜んでいる。ふたりが楽しそうなのは結構なことだ。しかしこのような表情を臣下の者たちが見ればどう思うか。そこにいるのは王でも何でもない、ただの老人だ。
ラーヴァナに聞いたような、バラタ国の状況などヴィシュラヴァスの頭の中にはまったくないようだ。ただただ目の前の愛妃のことしか考えていない。
「母上とのお時間をお過ごしになるも、結構なことと思います。ですが、王としての責務を放棄されるのはいかがかと……」
ヴィシュラヴァスのもとを訪ねてきた理由を、テージャスは思い出した。窓の外を見やる。雨は変わらず降っていて、静かな部屋には雨の音がことさらに大きく響く。
「この雨のせいで、耕地が大きな被害を受けているという報告を聞きました」
このままでは大きな被害が生じる。その前に手を打たなくてはと焦燥する群臣の中、ここに来たのは上大臣のナラカの依頼だ。ヴィシュラヴァスのお気に入りの息子であるテージャスなら、進言を聞き入れるだろうという考えらしい。
ランカー国の王位は、人生の半分をバラタ国で過ごす長子によって受け継がれている。ラーヴァナに万が一のことがあっても、ヴィビーシャナがいる。テージャスに王位が回ってくる可能性はまずなかった。だからテージャスは政務に関わることもなく、古文書を紐解く学者としての日々を送っていたのだ。
だから今までテージャスは、政治向きのことには特に関心を持ったこともなく、その必要もなかった。しかしそんなテージャスでさえ焦燥を感じるほどに、状況は逼迫している。テージャスがここに来たのは、そうと頼まれたからというばかりではない、自分自身でも危機感を持ったがゆえだ。
しかしテージャスの言葉に、ヴィシュラヴァスは少しばかり居心地の悪そうな顔をした。それはどこか叱られたような子どものものにも似て、テージャスは思わず彼を凝視した。
「父上……?」
「耳に痛いことを言うわ。そなたがそのようなことに口を出すとは思わなかったが」
ヴィシュラヴァスは、テージャスを睨みつけたようだった。しかし続けて、大きな声を立てて笑った。驚いているローカマターにも視線を投げかけ、ふたりして笑い合う。そこには、テージャスの伝えた状況を真剣に受けとめた様子はなかった。
「ターラカの報告も聞かねばなるまい。あれに任せたままであった」
ターラカとは、ランカー国の将軍だ。もっともランカー国は、対外的にはバラタ国の領土だ。バラタ国の軍としては自衛のためのものしかなく、軍の規模も小さい。
ヴィシュラヴァスは、また酒を口に運んだ。酔った目を、ゆっくりと見開く。何か、ナラカたちの焦燥を解き放つようなことを言うのかと期待したテージャスだが、ラーヴァナはテージャスの期待とはまったく違うことを言った。
「そうだ、テージャス。近々ローカマターがほかのアプサラスたちと、音楽の宴を催してくれるとのことだ。アプサラスはいずれも音楽の名手ぞ。楽しみにしておれ」
「それは結構なことです。ですが、しかし」
しかしヴィシュラヴァスは、もうテージャスを見なかった。ローカマターと何かを話し合い、笑ってはまた寄り添い合う。それは確かに微笑ましい光景ではあったが、務めを放棄して陽も高いうちから酒宴に耽っているというのは、堕落以外の何ものでもなかった。
「父上、今しばらくお話を」
テージャスが重ねる言葉も耳に入らないというように、ヴィシュラヴァスはローカマターと戯れ合っている。話を繰り返しても、ヴィシュラヴァスの話はすぐにローカマターのことになり、まるで知らない言葉を話している同士であるかのように、話が通じない。ナラカの焦燥を目の前に見た。万策尽きて、テージャスにヴィシュラヴァスを説得するという役を願い出るほど業を煮やしているというのが、よく理解できた。
ヴィシュラヴァス自身、政務を面倒とはぐらかしているわけではなく、ただ彼の頭の中にはもう仕事向きのことが残っていないようなのだ。彼の意識の中にはもうローカマターのことしかなく、何を見ても聞いても、もうローカマターとつなげてしか考えられなくなっているようだった。
なおも説得を試みて、しかしテージャスの言葉は何にもならなかった。落胆したまま部屋を辞したテージャスは、後ろからかけられた声に振り返った。ヴィビーシャナだ。壁にもたれて腕を組み、テージャスの出てきたほうを、目を眇めて見つめていた。
「お前は、蜃気楼の森の王とやららしいな」
いきなりのヴィビーシャナの言葉に、息を呑んだ。そう、テージャスは『蜃気楼の森の王』なのだ。それなのに人ならぬ力が使えるわけでもなく、学んできた知識も堕落した父を説得する役には立たない。どのように言葉を尽くしても、ヴィシュラヴァスを説得することすらできないのだ。そのことはテージャスを打ちのめした。自分の役立たずぶりに、心底嫌気が差した。そんなテージャスを追い詰めるように、ヴィビーシャナは続ける。
「お前の力で何とかできないのか。父上はアプサラスに骨抜きになって、政務を省みることもなさらない。何もかもを諸侯に任せ、ご自分は部屋にこもっているばかりだ」
ヴィビーシャナの言葉に、テージャスはうなだれた。ゆっくりと、左右に首を振った。
「私には、何も……。父上にはお話さえ聞いていただけません」
ヴィビーシャナの口にした、自分の肩書きがもどかしい。自分の無力さを思い知らされて、その上ヴィビーシャナの言葉にそれを再確認され、ますます落胆するばかりだった。
「そうか。お前さえ相手にしないというのは、よほどに重症なのか」
テージャスの落胆に、何もできない無力な者だと罵られるのだと思った。しかしヴィビーシャナは、唇を歪めて微笑んだのだ。
「もっとも父上がお前をかわいがっていた理由は、ローカマター様ゆえだろう。ローカマター様の忘れ形見だから、だからご本人が戻ってこられては、お前が父上の珠である理由は、もうなくなったというところだな」
ヴィビーシャナは言った。その言葉には、彼が意図したのかどうかわからない棘があって、テージャスは怯む。彼はこのような話し方をする者だっただろうか。その言葉にテージャスがどう反応するか伺っているような、隠されているものを暴こうというようだった。
戸惑うテージャスにヴィビーシャナは歩み寄り、肩を掴む。見上げるテージャスに、確かめるような口調で問うた。
「お前は、どう思う」
「どう、とは?」
「今の、この国の状態だ。父上は愛妃に溺れている。兄上はバラタ国からの脱却のために働き、アプサラスなどが現れ、そしてお前はこの世ではない、蜃気楼の森の王などだという。そして、この尋常ではない雨だ。この異様を、どう思う」
そうは言われても、テージャスは今まで国政のことなど考えたことがなかった。今まで紐解いた書物の中の歴史、そこにある例になぞらえて考えることはできる。しかし、国としてどうあるのがいいのか。そのようなことを急に問われても、にわかには答えられない。喘ぐように、テージャスは言った。
「父上には……もとの父上であっていただきたいと思っております」
だから、ナラカの話に耳を傾けたのだ。ヴィシュラヴァスは国王で、国の中枢であり、そんな彼が政務を省みないということがどういう結果につながるか。想像はできる。
「なるほど。では、以前までのランカー国の状態が最良であった。それがお前の考えだな」
「え、……ええ」
そうと確認されれば、確かにそのとおりだ。テージャスは、ヴィシュラヴァスにもとの彼に戻って欲しいと思っているし、雨がやみ常のとおりの天候が戻ればいいと思っている。
「それなら、構わない」
ヴィビーシャナはテージャスの視線に心のうち読み取ろうとでもいうように、たじろぐほどに見つめてきた。テージャスが心の奥に隠しているものを探ろうとでもいうようだ。
ヴィビーシャナは、再び唇の端を持ち上げる。歪んだ笑み、そのまなざしに込められたただならぬ色に、テージャスは目を見開いた。
謀略の色を感じた。彼には何か企みがあって、テージャスがそれに反する者か否かを確かめようといったようだった。
「兄上、いったい何を……!?」
テージャスの問いに答えずに、ヴィビーシャナは踵を返す。テージャスは彼を追ったが、強い足取りのヴィビーシャナの背は、たちまち見えなくなってしまった。
顔を上げた。雨はもうやんでいたが、柱廊の屋根の向こうに見える空には、まだ分厚い雲がかかっている。
乾季に降るはずのない雨は、不吉だ。それはランカー国が異変に陥れられる前触れだ。テージャスは、ぞくりと身を震った。