第十章
この嵐の中では、手練れの騎手もうまく馬を操ることができなかったようだ。トリナヴァルタが手綱を握る馬はラーヴァナとはぐれてしまい、ティールタを乗せたトリナヴァルタの馬が城についたときには、雨は前が見えないほどになっていた。
「ありがとう!」
「ティールタ様、お待ちを!」
トリナヴァルタを待たずにティールタは叫び、下馬を手伝ってくれる厩番の手が差し伸べられる前に鞍からすべり降りた。
大きな雷が鳴った。足がすくんで立ち止まったが、自分を鼓舞して先を進む。ラーヴァナの宮に飛び込んだが、誰もいなかった。取り次ぐ女官の姿を捜し、よく見ると部屋の隅に身を寄せ合って震えている女官たちがいる。
「ラーヴァナはどこ!?」
ティールタの勢いに、女官たちは慌てたように立ち上がる。しかしまた雷が鳴って、女官たちは震え上がった。
「ラーヴァナは、奥にいるの?」
震える声でそうだと言う女官たちの間を抜けて帷を抜けて、奥の部屋に駆け込んだ。
「ラーヴァナ、スラーディパ様は……」
奥の円座に、ラーヴァナが腰を下ろしている。彼の前には一抱えほどの籠が置いてあって、ラーヴァナはその中を見つめていた。顔を上げて、ティールタを見やる。
「……あ!」
ティールタの体を射抜いたのは、再び落ちた雷ではなかった。その気は目の前の籠から放たれていた。ティールタは反射的にひれ伏して、受けた衝撃が消えたことに恐る恐る、顔をあげる。四つん這いになったまま、籠に向かってゆっくりと這った。
「ティールタ。この赤ん坊たちは、何者だというのだ」
ラーヴァナの問いに答える余裕はなかった。そっと籠を覗き込むと、中には白い布に包まれた赤ん坊たちがいた。
ふたりの目は、ぱっちりと見開かれていた。互いの手をおもちゃにするように小さな拳をつつき合わせている。小鳥の鳴くより小さな声で、ささやくような、つぶやくような声を上げている。右の子が声を上げれば左の子が応えるように手を動かし、それはまるでふたりだけの秘密を言い交わしているようにも見える。何を言っているのかを聞き取ろうと、耳を澄ませた。
しかしその口から、意味ある言葉は聞かれなかった。ティールタは赤ん坊たちを凝視した。こうやって姿を見ると、それがスラーディパであるなどとは思えない。果たしてあのとき感じたものは錯覚であったかと首をひねった。
赤ん坊のひとりが、小さく声を上げた。目を開いてこちらを見たような気がした。その視線に射抜かれて、ティールタは自然、その場にひれ伏した。
「スラーディパ様……」
ティールタは、掠れた声でつぶやいた。このような場所で、このような姿で。東方天に直接対面するなどと(・・・)、今までに考えたこともなかった。こうやって東方天の気を感じることがなければ、決して信じることはできなかった。
「スラーディパ様、なぜ人間界へ? なにゆえ、そのようなお姿をされているのですか」
話しかけても答えはない。右側の赤ん坊が大きく黒目がちの目でティールタを見たように思ったが、やがて鈴の震えるような声を上げ始めた。いったい何かと思えば、それはそのあまりにも小さな赤ん坊の上げる泣き声なのだ。つられるように左側の子も泣き始め、ふたりの泣き声は競い合ってでもいるかのように、だんだん大きくなった。
「どうぞ、お泣きにならないで」
慌てて籠に手をやって、抱き上げた。懸命にあやすが、ティールタは赤ん坊になど触れたこともない。その不安定さをいやがるように、泣き声はますます大きくなった。
最初、東方天スラーディパの気を感じたときには、その畏れ多さに身が震えた。しかしこうやってしかしそれは、意味のある言葉の連なりではない。ただ不快を訴えて泣き叫んでいるだけの感情しか伝わってこない。その声に、赤ん坊たちはスラーディパの気を持ってはいても、その意識はないのだということがはっきりと理解できた。
それに落胆するような、それでいてどこかほっとするような気持ちもあった。スラーディパに触れるなど、あまりに畏れ多いことだったから。
そっと、震える指先を赤ん坊に頬に添わせた。小さな唇が開き、ティールタの指先に吸いついた。音を立てて吸い始め、何も出ないとわかったらしく、口を歪めてまた泣いた。
「ティールタ。どういうことだ」
ラーヴァナの困惑した声に、ティールタは顔を上げた。そしてひとつ深い息をし、宣言するようにはっきりとした口調で言った。
「この方は、東方天スラーディパ様です」
「なに、東方……?」
困惑した声で唸るラーヴァナに、ティールタはそっとうなずいた。
「東方天スラーディパ。メール山頂のアマラーヴァティに住み天地開闢から君臨し、ただ一度の堕天も転身もなしていない、デーヴァの中でも最も高きところにおわすお方」
「……地位のある者だということか」
天界人ではないラーヴァナにも、スラーディパがただならぬ身であることは伝わったらしい。ラーヴァナが、ごくりと息を呑む。
「わたくしにも、なぜスラーディパ様が人間の子供としてここにいらっしゃるのかはわからない。けれど」
ティールタは、悲痛な視線を赤ん坊たちに向けた。恐れるように、震える声を綴った。
「スラーディパ様を捜して、雷と雨は暴れ狂っているのよ。地の気が乱れているのも、そのせいなのだわ。だからナーガが去ってしまって、私たちは戻れない」
「その子供たち、なぜここにいるのだ」
ラーヴァナの物言いに、ティールタは困惑した。理由など、ティールタにもわからない。
「わからないの。この子たちにスラーディパ様の気はなくて……。でも、ウルヴァシー様ならご存じかもしれないわ。ウルヴァシー様に伺ってみる」
赤ん坊たちを東方天だと考えるとこうやって抱いていることは畏れ多いことだが、しかし泣き叫ぶことしかできず、食べ物を求めてティールタの指先を吸う赤ん坊たちを見ていると愛おしさが湧いてくる。赤ん坊たちは温かくて小さくてかわいらしく、市でティールタの腰巻き(ファリヤ)を引っ張った子供を見たときと同じ気持ちが湧き上がってきた。
「ねぇ、宮殿に子養いに長けた者はいる?」
顔を上げると、ラーヴァナがじっとこちらを見ている。彼は自分の考えの中に陥っているらしく、ティールタの言葉を聞いていなかったようだ。
「クシャと、ラヴァ、だな」
ラーヴァナのつぶやきに、ティールタは首をかしげた。
「なぁに、それは?」
問いかけには答えず、ラーヴァナは慌てたように口をつぐんだ。しかしなおもティールタが問うと、どこか恥ずかしそうな顔をして小さな声で言った。
「幼いころに読んだ物語に出てきた名前だ。主人公の勇者の妻の生んだ子が、双子で」
ラーヴァナはなおも何かをつぶやいたが、聞き取れなかった。ただ物語だの勇者だのという言葉は魅惑的に響き、知らずティールタはつぶやいていた。
「素敵ね」
そして赤ん坊たちに目を落とすと、ふと思いついたことを口にした。
「この子たちを、その名で呼んでもいい?」
そう言うと、ラーヴァナは驚いた顔をした。
「だって、この子たちはスラーディパ様だけど……その意識がおありでないのですもの。スラーディパ様とお呼びするのは、なんだか変な感じで……」
そっと上目遣いにラーヴァナを見ると、目が合った。視線がかち合うと彼は慌てたように目を逸らせ、口早に言った。
「好きにしろ」
そう言ったラーヴァナは、手を打った。二度打って、やっと女官が現れた。なおも豪雨や雷に怯えたままの顔で、ティールタの腕の中の存在には仰け反って声を上げた。ラーヴァナに叱りつけられて彼女は姿勢を正したが、二度とティールタのほうは見なかった。
「……あ」
また、当たりをつんざくような雷が鳴った。女官の悲鳴があちらこちらでこだまする。