地の章 第一章
ふたりの王子の運命を描きました。見守ってやってくださると嬉しいです。
地の章
ある者は彼を、闇夜にただひとつ光る星だと言った。
またある者は、黒絹にしたたった乳の染みのようだと言った。
彼は、このランカー国の人間にしてはあまりにも淡い色彩の持ち主だった。肌は白く瞳の色は淡い青で、髪は亜麻色。この国の者の常として長く垂らした髪を後ろでひとつに束ねているが、それが彼の容姿をますます際だたせた。
誰もが浅黒い肌と黒い目、黒い髪を持つこのランカー国で、彼は異端だった。どこにいてもその姿は人目を惹いたから、彼が人の目から逃れることはできなかった。
彼は王子で、王の三番目の息子だった。彼の主な居場所は神殿の書の間だ。その毎日は古典に歴史、詩歌に言語を学び、また古の文字を読み解くことに費やされている。
物音がして、はっと顔を上げた。ここは神殿の書の間で、見れば窓から差し込んでいたはずの陽の光はすっかり力を失っている。道理で手もとが見にくいと思ったのだ。
手もとの石にある文字は、誰にも読み解くことができない。ここしばらくのテージャスは、神殿の書の間の奥で見つけたこの碑文石に刻まれた文字の解読に熱を注いでいる。
それは古代にも現代にも、ランカー国にはない文字で書かれた短い讃歌のようなもので、その内容はとんと見当がつかない。しかし書庫の奥深くにあったとはいえ、今ではもう採掘されることのほとんどない極上の黒曜石に、丁寧に刻まれているこの文字の内容がつまらないものであるはずがない。そう思うとテージャスの好奇心はかき立てられ、以来これにかかりきりになっている。
なぜ、これほどに心惹かれるのかはわからない。しかし書物に親しむのはテージャスの常だし、今までにもたくさんの難解な書物に挑んできた。それらを読み解くことができたときには、この上ない喜びを感じた。この碑文石もそうなのではないか。手のかかる子供ほどかわいいという言い習わしがあるように。
王宮のほうが騒がしかった。日ごろ足音も立てずに歩く女官たちが慌てている。何ごとかとテージャスは書の間を出た。柱廊に出ると、女官のひとりとぶつかりかける。
「どうしたんだ、何があった」
「も、申し訳ありません!」
若い女官は、慌てていた。そのわけを、テージャスは尋ねる。
「何でも、ラーヴァナ王子がお戻りになったとか」
「ラーヴァナ……兄上、が……?」
テージャスは唖然と声を上げた。女官は頭を下げ、慌ただしく柱廊を駆けていく。テージャスは小走りに、王の宮へと向かった。
「父上……」
向かった場所は王の私的な宮で、四方の柱で支えられただけの装飾も少ない簡素な部屋だ。数人の従者や女官が控えていて、一番奥には父王であるヴィシュラヴァスが円座に胡座で座っている。その前に、ふたりの男がいた。
上衣も下衣も汚れきりぼろぼろで、かろうじて体を覆っているだけだ。ふたりは黒い髪黒い肌、ランカー国の人間であることを如実に示す外見をしている。
前に座っていた男が、テージャスを振り返った。男の眼光が、鋭くテージャスを射抜く。
「兄上……?」
そのまなざしだけで、彼が未だ会ったことのない兄――ラーヴァナであることがわかった。突き刺さるような視線がテージャスをたじろがせる。早くに母を亡くしほかの者とは違う容姿に引け目を感じることがあるとはいえ、父の庇護のもと安心できる場所で暮らしてきたテージャスが、初めて目にする鋭さだ。捕食者を前にした力のない動物のように、テージャスの足はその場に縫いつけられてしまった。
「いかにも。お前の兄の、ラーヴァナだ」
答えたヴィシュラヴァスには、三人の王子がいる。第一王子のラーヴァナ、第二王子のヴィビーシャナ、そして第三王子のテージャス。
この世界には『孤独な巨人』と呼ばれている島国であるランカー国以外に、四つの国がある。北の『氷の乙女』、ヴィダルバ国、北東の『咆哮する虎』、パンチャーラ国、西の『深緑の獅子』、コーサラ国。そして東にあるのは『烈風に舞う鷹』、バラタ国だ。
ラーヴァナは慣習通り、バラタ国の人質だったはずだ。彼が戻ってくるのは王であるヴィシュラヴァスが死んだとき、ランカー国の王位を継ぐためあるはずだ。ヴィシュラヴァスは目の前にいる。それなのに、なぜラーヴァナは帰ってきたのだろうか。
テージャスの腕に、鳥肌が立った。いつもの通りのぬるい風の吹く夕刻、肌寒いことなどあるはずがないのに、ラーヴァナのまなざしにテージャスは震えた。彼の視線はテージャスを脅えさせ、しかし同時に、そこには目を離すことのできない魅惑があった。
いきなり駆け込んできたテージャスを、満足いくまで観察し終えたのだろう。ラーヴァナはふいと視線をほどき、改めてヴィシュラヴァスに向き直った。
「父上、人払いを」
まなざし同様、鋭い声でラーヴァナはそう言った。そんなラーヴァナに気圧されるように、ヴィシュラヴァスは頷いた。そんなヴィシュラヴァスの様子は、いつもの威厳ある父ではない。どこかラーヴァナを恐れているような、突然帰ってきた息子に遠慮しているような、そんな雰囲気があった。
「テージャス様、ご退出ください」
立ち尽くすテージャスを従者が促す。再び振り返ったラーヴァナが、テージャスを見つめている。鋭い目つきはそのままに、皮肉めいた笑みを浮かべたような気がした。
テージャスは慌てて頭を下げた。ラーヴァナはそれには答えず、ただ鋭い目で見つめてくるだけだった。