かえるの話
「好きな人ができないんです、私。」
少し酔っていたのかもしれない。ぼう、とする頭で、そう呟く。
「ふうん」
あまりにそっけない答え。
「それだけですか?」
「それだけだねえ」
そう云って、境田はグラスを飲み干した。卓上に戻されたグラスの中で、からん、と氷が崩れた。
「これから口説こうって娘に、そう云われちゃあねえ。立つ瀬がない」
「ごめんなさい」
「謝ることでもない」
境田はきっぱりと云いきり、ふふ、と笑った。
「しかし、そうだね…。『好きな人ができない』と言葉にしたというのは、どうなんだろう?『好きな人がいない』自分を自覚しているってことだよなあ…」
「はい?」
「無いものはねだれないんだ、自分の中に。『~がない』と自覚する、『~がない』があってはじめて、人は無いものをねだるんだよ。井の中の蛙大海を知らず、だけれど、蛙は海を知らないでもへっちゃらだ。空の青さを知っているからね」
でもね、と境田は悪戯っぽく笑う。
「井戸の上から蛙に囁いたらどうだろう?井戸の外には「海」というものがあって、それはそれは広くて、深くて、青くて、綺麗で、美味いものもあって、それはそれはすばらしいところがあるんですよ、って。」
「意地悪ですね」
「本当に。ひどい奴だ」
「蛙はどう思うんでしょう?」
下らない話なのだが、不思議とその先を続けてみたくなった。
「それはその蛙によるでしょう。その話を信じないかもしれない。でも、信じたら…」
「海を見たくなるかもしれませんね」
私がそう云うと、境田は黙って一度頷いた。
「そこまで積極的にならなかったとしても、考えるだろうね」
「考える?」
「そう、「海」ってどんなか、ってさ。その広さを、深さを、美しさを、さ」
そして、と境田は続ける。
「分からなくなる」
境田は氷だけのグラスを傾けた。からり、と氷が音を立てる。
「分からなくなる?考えたのに?」
「だって、『知らない』から」
知ら『ない』。つまり、無い、のだ。
「仮に、井戸から蛙を引っ張り出して、「湖」を見せたら「海」と信じると思うよ」
境田はバーテンに声をかけ、「同じものを」と伝えた。
「好きな人ができない、となぜ考えるの?」
境田は唐突に言った。
「え?」
「『人を好きになったら、恋人ができたらこんなにすばらしい』みたいな話は世に溢れている。その逆もしかりだが、まあ、それは置いといて。なんだか人を好きでいなきゃいけない、みたいな風潮はどうかと思うね。ま、これは個人的意見だけど」
「はあ」
「しかもさあ、そんな話はどれもこれも似たり寄ったりだと思わない?」
「似たり寄ったり?」
「僕が思うに、ね。キミはキミなりに、これまでも、これからも、人を好きになってきたし、なっていくよ」
でもね、と境田は告げた。
「それはキミが聞きかじったものや、思い描いたものとは違ったかもしれない。違うかもしれない。ただそれだけなんだ」
それじゃあ…
「それじゃあ、私はどうしたら…」
「目の前が沼だろうが、湖だろうが、池だろうが、水溜りだろうが、とりあえず飛び込んでみたら?それも一つの手だけれど…」
「………」
「………」
「帰ります」
「送ろうか」
「結構です」
「…早まったかな」
「詰めが甘いんですね」
「よく言われる」
まさか読んでいただいた方々に厚く御礼申し上げます。
ただの酔っ払いのおじさんですが、個人的に気に入っていて2~3年前からちょこちょこ書いてるシリーズです。
大した話はしませんが、よろしくおねがいします。