第三話
境界の巫女の詰め所にたどりついた私の目の前には、二人の男が立っていた。
初老に差し掛かった恰幅の良い里長と、次期里長とも呼ばれる、ひょろりと背の高い里長の息子だ。
境界の巫女は、詰所で控えているのだろうか、姿をみせない。
「清泉の巫女よ」
里長が固い声で言った。
私は二人から不穏な空気を感じた。
「里長様、いかがされました」
「夕刻、禁足地に足を差し入れたものがいる‥‥ご存知でしたか?」
彼の瞳には冷たい色が浮かんでいる。
「‥‥いえ」
まさか。
それと同時に、やはり、という思いを抱く。
違和感は、夕刻から感じていた感じは侵入者であったのか。
‥‥‥しかし、なぜ。
誰が聖域に踏み込んだと、里長は問いただしている。
禁足地に足を踏み入れた者がいるということなど、前代未聞のことだ。
驚愕の中にも、疑問が浮かぶ。
しかし、なぜそれを、里長が知っているのか。
そう感じながらも、先ほどみた美しい風景を思い出す。
幸いなことに、薔薇は乱されていない。聖域が汚されている不快感はなく、その思いも抱かなかった。
私には、ジェムナンド山の泉の変化を感じ取ることができる。
これは歴代の巫女、全て同じであると前任の巫女から聞いた。この地に一人で住まうようになってから感じることができる感覚だ。
人気のない閉ざされた場所にいるせいなのか、何らかの力が働いているのかはわからない。清泉と連動したような、何とも不思議な感覚が得られて、変化を感じることができるのだ。泉の中で動物が泳いでいるとか、小鳥のひなが薔薇の茂みに落ちて飛び立てず絡まっているだとか、微笑ましい変化が、いままでに感じられた。
それなのに、今日は感じたことのない違和感を覚えた。
ただ、心配ながらも違和感がおもに感じられたことであったからこそ、そこまで焦ることはなかった。
「‥‥“いえ”?聖域を汚されていながら、あなたは気づかなかったのですか!」
息子がきつい言動で私を責める。
その瞳にあるのは、怒りと憤りと―――恐怖。
彼は何かにおびえている。
なぜ?
ジェムナンド山は禁足地。
美しい薔薇を守るための。
汚された?
守護者である私が違和感は感じたものの、汚されたという強い嫌悪を感じないのにもかかわらず。
彼はなぜそんなことを言うのだろうか。
さらに疑問を抱きながらも、私は里長の息子に向かう。
「‥‥失態は認めます。侵入者には気づきませんでした。しかし、薔薇は汚されておりません。いつもど」
おり、美しいままです、そう言葉を続けようとした私に、里長の息子が我慢できないようにかぶせる。
「何をバカなことを!禁足地に立ち入った皇国の騎士は、あまつさえ、薔薇を手折ったというのにっ!それでもそのようなことをおっしゃりますか!」
‥‥‥薔薇が手折られた?
まさか、そんな。
禁足地に踏みいれられただけでなく、薔薇が手折られたというのか?
それなのに私は違和感しか、感じられなかったというのか‥‥?
彼の言葉が信じられず、思わず声に出ていたようで、息子はさらに侮蔑の色も加える。
「あなたはっ、それすらもわからなかったというのですかっ!!」
「やめぬか、私が言おう」
「しかし、父さ、里長」
不満がのこる息子を遮り、里長は高圧的な態度で私にむかう。
「巫女よ。日が暮れる一刻前、どこにいた?」
どうしてこのように責められねばならないのか。
私が仕事を放棄していたとでもいうのだろうか。
「‥‥その時刻なら、不可侵の森近くから聖域内に迷い込んだ猟師たちを連れ戻し、境界の巫女の所に引き渡していました」
この辺りには時々猟師が訪れる。ノーマンディールの猟師もそうだが、居住区を持たない流浪の猟師、あるいは、いよいよ冬の訪れのために食うものがなくなった村の猟師らが、豊かなノーマンディールのうわさを聞き、時折流れてやってくるのだ。
自然豊かな不可侵の森は、魔が出ると称されなければ格好の猟場だ。魔が出るとの風評により、人々はなかなか荒らすことをしない。それが不可侵の森近傍の生態系を守り、豊かな猟場にしているのだ。
そしてどういったわけなのか、このあたりには大型の肉食獣がいない。それ故に、比較的安全に草食動物たちを狩ることができる。本格的な冬になる前に、格好の猟場で越冬できるだけの食物を狩ろうと、不可侵の森近くに、猟師たちが流れてやってくるのだ。
といっても、猟師たちはジェムナンド山が神域であり、踏み込んではならないことを知っている。訪れるものが、そうノーマンディールから遠くない地に住まうものであったり、あるいは伝承を大事にする山人であるためなのかもしれない。
そして、これも何のせいなのかはわからないが、方向感覚の優れた猟師でさえ、時折不可侵の森近くでは迷うのだ。そのまま、神域であるジェムナンド山に踏み込もうとなるのは、やはり不可侵の森に住まう魔の穢れゆえのことなのか。
そういった迷い人を保護するのが、境界の巫女なのだ。
今日のように、清泉の巫女―――薔薇を守護する私自身が猟師を連れ戻すことはほとんどないことではある。
それなのに、昼過ぎに境界の巫女らから何の連絡もなく、猟師たちの姿が小屋から近い、もう少し山麓の付近に見えたのだ。驚いて小屋を飛び出して、猟師たちのもとへ直ちに向かった。猟師たちは困惑した表情で、巫女である私を見た。私が元の道への方向を示すと、感謝するように表情を緩め、そんな彼らを境界の巫女のもとへと届けたのだ。
「その間に変わったことは?」
里長の声は冷たい。
猟師たちを境界の巫女のもとへ案内している間、特別何も感じなかった。
しかし。
「‥‥その後から、違和感がありました」
そう、漁師たちを境界の巫女に引き渡したころから、何ともいえない違和感が出現してきたのだ。
「やはりその時だな。侵入者が入ったのは」
私事であけていたのではないことを確認し―――おそらく境界の巫女にも確認を取っているのだろう、猟師がジェムナンド山の中腹にまで侵入していたことに、あまり驚いた感じはない。
しかし里長の私を見る目は鋭く、そして見下すようだ。
「巫女よ、あなたは大きな厄介を引き起こした」
冷たい声が私を貫く。
「どうしてこの泉に守護者を置いて禁足地にしたのか。いまから、この泉の真実を述べよう」