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第十五話

 天高く上っていた太陽がようやく西へ傾き、今まさに大地に沈もうとしている、その時刻。

 私は、泉の近くで女神の召喚のために準備を行っていた。

 ノーマンディールから久しぶりにジェムナンド山の聖域にやってきたが、やはり、そこには何の変化もなかった。

 美しく、清らかな赤い薔薇は、いまだ甘いにおいを漂わせ、大輪の花をほころばせている。

 澄んで透明な泉は、日の沈む光を反射し、精一杯きらめいている。

 鳥たちの声も、虫たちの音も耳に心地よく鳴り渡る。

 いつもと変わらない、穏やかな泉。


 それなのに、水獣はオーガ・リーに立ち上がったままだ。井戸は枯れたままなのだ。

 私は、簡素な祭壇を昼間から泉のそばに組み立てた。そしてそこに女神のための供物である水と穀物の種を置き、その横に手折られた薔薇の花をささげた。そして捧げた聖水を手に取り、大地に振り散らる。


 召喚術を始める。

 そのために、長い長い御言を唱える。

 女神さまに、私の言葉を聞いてもらうための、召喚の真言だ。


「どうかどうか、天なる慈悲深きわが女神さま、地に降り注ぐ清らかな、生命の根源である水の女神さま、小さき身なるわれの言の葉をおききくださいませ」


 水の女神に声が届きますように。

 どうか、私の前にそのお姿をお見せいただけますように。

 どうか、私の声を聴いていただけますように。

 

 ざわざわと、木々の梢が鳴る。

 泉に反射していた太陽はもう沈んでしまい、うっすらと暗闇が広がりつつある。

 天に広がる空は、いつかのように紫から紺に変わってきている。


「‥‥‥きらめくしずくの、ほんの一部のわずかなかけらからなるこの身をもってふして希います」


 女神の召喚のために集中していた私は、気づかなかった。

 神域の気配が変わったことに。


 そして、後から聞いた。

 ノーマンディールから姿を消した私のことを、里人たちは「ノーマンディールから逃げた」とうわさした。突然いなくなった私。そして逃げた、といううわさに、水不足で苦しんでいた里人たちはの不安は一挙に膨れ上がった。

 ノーマンディールは終わりなのではないか。この地は、もう二度と水の恩恵を受けることができないのではないか、どうすることもできない清泉の巫女は、逃げたのではないか、と。

 そして、誰かが言った。「清泉の巫女は、泉に逃げ帰ったのだ」、「そこなら水がまだあるから」と。

 混乱し、もうすでに冷静さを失ってしまっていた里人たちは、その虚言を信じてしまい、制御困難であった。

 誰からともなく、清泉の巫女の逃げた、ジェムナンド山の頂上へ行こう、いや、行くべきだ、そう言いだした。血走った目で、もう我慢できないとばかりに清泉の巫女のもとに駆けつけようとした。‥‥‥神域を侵そうと、決意した。

 もちろん、今日の夕刻から清泉の巫女が召喚術を行うことを、里長たちと、聖騎士は知っていた。

 聖騎士たちは約束通り、困難に取り乱す里人たちを前に制止しようとした。

「よせ、彼女はノーマンディールから逃げたわけではない」

「彼女は、私たちが聖域に立ち入ったことの責を負ってくれているのだ」

「今、聖域で清泉の巫女が、我々のために、祈りをささげてくれているのだ」

 聖騎士たちが制止しようと、里人たちの怒りの矛先を自分たちに向けようと、必死で説得した。しかし、里人たちの暴動は止まらない。

‥‥‥三人の聖騎士たちではどうすることもできなかった。

 里人たちは、大挙してジェムナンド山の頂上を目指す。

 境界の巫女たちは、暴動を起こした里人たちをみていた。その恐ろしい雰囲気と、狂気に満ちた常あらざる里人たちの姿に、自分たちの詰所で固まって震えていたのだという。


「‥‥‥時に優雅で、時に猛々しく、時に癒しで、時に糺し、時にきらめき、時に荘厳たる、生きとし全ての根源である水の女神さまに、誠実に、うそいつわりなく、いっしんにこの身、この魂、この実を持って希います」


 集中していた私には、直前まで気付けなかった。

 聖域が破られたことに。

 怒声を上げながら、里人たちが聖域を踏み込んだことに。

 里人たちが、聖騎士たちの制止を振り切って、こちらに詰め寄ってくることに。

 目の端にその姿をとらえ、気づいて初めて目を見開いた。

 彼らは、怒りを持って、聖域を踏み荒らしていた。

 守るべきものを、彼らは自分たちの手で、壊そうとしていた。


「‥‥‥いま神の定められたわが身に授けられた、たえなる言の葉とそのしらべをもって希います。わがいっさいの清らかな身、みたま、じつをもち、女神さまに希うことはただゆいいつ、この地、この泉、この大河、全てのいっさいの聖なる女神さまのなみだをかくしたまわれたそのゆえ、おんこころそのよしを、おろかなる小さき身のわれにおしめしいただきたく‥‥」


 しかし御言を中断することはできない。

 真言が途切れれば、召喚の真言にはならない。

 ともすれば、神域が里人たちに侵されていることに意識の集中が途切れながらも、ただ口だけは御言をしっかりと紡いでいた。

 何人もの里人が怒りを持って聖域に入り込んでいる。


 いったいどうしてこうなったのか。


 ここは禁足地。

 足を踏み入れることができるのは、巫女であり、泉の守護者である私だけ。

 それ以外のものはこの地にたどりつくことはできない。

 踏み入ることは許されていない。

 そう、ここには、だれも立ち入ることができない聖域。

 立ち入ることが許されていない神域。

 だけど。


 どうしてこんなにも多くの里人が足を踏み入れることができたのか。

 どうして大事な今に、里人たちが踏み入ってくるのか。

 どうして。

 どうして。


 そして、混乱する私の目の前で、突然泉からしぶきが上がる。


「‥‥‥!!」


 突然のことに御言をつむぐ声が、一瞬途切れそうになる。

 驚愕に見開く私の目の前の、清らかな泉から飛び出してきたのは。

 そこにいたのは。


 背高く、水の流れをまとった。


 ‥‥‥水獣だった。


 怒りの雰囲気をまとい、目をランランと光らせた、水獣だった。


“真言”には、一応お手本があります。

しかし、自分流のアレンジをふんだんに取り入れておりますので、ご了承ください。

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