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花物語

日々草

作者: 美幸

 晴天の月曜日、外でせみの鳴く声が聞こえる。

 大学が夏季休暇の今、演劇部の部室で、柔道衣を着込んだ明日香は、


「ね、話ってなに。急ぎだっていうから、練習が昼休憩だってのに、飛んできたのよ」


 と、平常を装いながら健治を見上げた。

 高い位置で結ったポニーテールを揺らしては、緊張したように息を吐いた。

 健治ははしっこの大道具を見つめ、眼を合わせていなかった。


 しかし、それもつかの間、意を決したように向き直った。


「僕、早苗のことが好きみたいだ」


 明日香の眼が、大きく見開かれた。

 仄白(ほのじろ)い健治の表情が、明日香には、今にも泣き出しそうにさえ見えた。


「ああ、参った。本当に参った。明日香、どうしよう」


 厚い信頼をこめて、健治は前へと踏み出した。

 明日香は速く打つ胸に、そっと手をそえて、昼の陽射しに照らされた健治を見つめた。


 健治は大変なはにかみやで、授業で音読をさせられるようなことがあっても、教科書で顔を隠して、早口に読み進めてしまう。

 親しい明日香の前でも、こうして自らの思いを打ち明けるということは、よほど勇気がいったに違いない。


 そんな彼に、明日香は真顔で答えたのだ。


「馬鹿じゃないの」


 えっ、と首をかしげて、彼は場をなごませるための笑みを浮かべたが、


「健治には無理でしょう、のろまで、頼りがいがなくて、頭が悪くて。迷惑になるから、女と付き合うなんて妄想は、やめなさいって言ってるの」


 明日香が肩をすくめると、むきになった健治は、


「あ、えっと、その。僕だって、やるときはやるよ」

「舞台とは違うでしょう」

「どうして!」

「現実に台本なんて、ありゃしないの。あんたこの前、バイトでまた、やらかしたんだって? レジの打ち間違えで、他のスタッフに在庫確認させて、残業させたらしいじゃない。DVDの返却も、いまだにできないみたいだし」


 傷つくことを怖れたらしい健治は、あれやこれやと言い訳した。

 明日香はその態度に、より腹がたった。


「あんたの面倒見てくれるほど、物好きな女なんていないんだよ、ヘタレっ」

「でも君は今まで」

「何よ?」


 明日香の厳しい目つきに、健治は黙ってしまった。


「つまらないことで、呼び出さないでよ。私、道場戻るから」


 明日香は、そう言い捨てると、(きびす)を返した。

 待ってくれ、と健治が情けない声で、柔道衣の帯をつかんだ。


「どうして、いつもみたいに助けてくれないんだ」

「放して」


 にらまれた健治は身体を小さくして、はじかれたように手を放した。

 態度がいつにも増してきつい。

 健治に背を向けて、早足に部室を出ようとした。

 そのとき、ひとりでにドアが開き、明日香の足が止まる。

 あれ、と陽気な声がした。


「明日香?」


 ドアの向こうにいた早苗が、驚いた顔をした。

 小学校から一緒だった三人が、一部屋に集う。

 早苗は明日香と健治を見比べると、ゆっくりドアを閉めた。

 滑らかなウェーブのかかった髪が揺れて、ほんのり甘い香りを、部屋の中に運んでくる。


「もう練習終わったのに、どうして戻ってきたのさ」


 と、健治がその場の雰囲気を何とかするように言えば、


「この後、補講があるから、ここで食べようと思ったの」


 早苗は柔らかな、品のいい顔を、ふっと緩ませた。また喧嘩したの、と彼女はいた。


「全部、健治が悪いんだから」


 弁解しようと、何か言いかけた健治だったが、出てきたのは、うー、という子供じみた声だけだった。


「健治君。いつも明日香に迷惑かけてるんだから、気をつけないと。ね?」


 早苗の笑顔で、健治の表情が一変し、ほがらかになった。

 さっきまでの彼はどこに行ったのやら、たちまち上機嫌になった。

 口数も多くなり、早苗に椅子をすすめた。


 その様子を見ていられなくて、明日香は不機嫌を隠そうともせず、入口まで歩いて、ドアを乱暴に閉めた。








 

 熱のこもった道場に、残っている部員は少ない。

 入口の引き戸を開けて、明日香が仏頂面で入ってきた。

 早足で来たため、額を汗が伝って、頬が赤い。


 それを見た部員たちは、はちでも飛んできたような様子で、食事を中断してから、刺されまいと避難した。


 明日香も弁当を食べるため、壁にもたれていた翔子の元へ行くなり、たまっていたものを一気に吐き出した。

 翔子は明日香の話、健治が早苗を前にして、鼻の下を伸ばしていたことを聞きながら、ごはんに乗った紫の部分だけを口に入れていたが、 


()いてんね」


 と言ったので、明日香がむすっとして黙っていると、


「いつもだったら、健治君が頼まなくても、世話焼きに行くのに」

「そうですね」


 と強い語気で返事する明日香に、翔子は呆れた。


「なんなの、そのつんけんした敬語」


 うるさい、と明日香は、ごはんを口にかき込んだ。

 売店で買った弁当のからあげは、冷めて美味しくなかったから、マヨネーズをぎゅっと絞り、多めにかけてから噛みついた。


 味わうことなく食べ終えると、明日香は隅に置いてあった荷物を持ち、マットや筋トレに使う道具が収められた、ほこり臭い倉庫へ入って行く。


 確かに早苗はかわいい。男にとって、彼女は魅力的に映るはずだ。今に至るまで、身体をきたえたり、勉強ばかりしてきた明日香は、健治にあんな顔をさせる術を知らない。


 もっと自分も、かわいかったらいいのに……。

 先ほどの健治を思い出しながら、不均一に積まれたマットの山へ、身を放り出した。


「先輩も昼寝ですか」


 どこからか声がした。

 驚きそちらを向くと、積まれたマットの影から、男子柔道部の涼介が上体を起こし、顔をのぞかせていた。マットから首だけが生えているように見える。


「あれ、大丈夫ですか、元気ないですね」


 別に何も、と明日香は取り合わなかった。


 明日香は涼介と、男子柔道部のうちで一番よく話す。

話していると感じが良いのだが、軟派な雰囲気を惜しげもなく漂わせていて、部以外の女友達に一緒のところを見られるのは、少し気が引けるような人間だ。

 時折、授業の教室移動中に、廊下のあいだですれ違うようなことがあっても、彼の方を見ずに、明日香はさっさと足を速めてしまう。


 しかしそれが面白いのか、涼介は、


「先輩」


 とこのように、嬉しそうに呼びかけては、困らせるのである。


「眠いから、静かにしてろ」


 あ、大丈夫ですね。

 涼介は気がねすることなく言った。


「だったら、コーラ買ってきてもらえませんか、コーラ。もちろんカロリーゼロのやつで。飯食ったばっかで、動きたくありません」


 また寝返りをうって、涼介の方を向いた。


「だから、なんでお前は、先輩に向かってそんな口がきけんだよ。上下関係を、体で教えてやろうか」

「やですねー、弱いものいじめですか。柔道部全員、先輩より弱いから、誰をいじめても、弱いものいじめですよ」


 おどけた調子の涼介に、我慢ならなくなった明日香は、上体を起こして、表へ出ろ、と倉庫の入口を指した。彼はまた、意地悪な調子で、


「先輩はガサツですね。そんなだと、男寄ってきませんよ。もっと、おしとやかにしないと」


 と、含み笑いをした。


 高校時代、有名だったプレイボーイ――まじめに練習していなかった彼は、一度明日香にかつを入れられて痛い目を見ているのに、まだこりていないのか、時折こうしてつっかかる。そして明日香の怒りが爆発しそうになったところで、さっと身を引くのが、彼の手口なのだが……。


「先輩?」


 明日香を見ながら、不思議な顔をした。

 いつもならここで、何か言い返されるはずなのに、そうでないのが妙なのだろう。


「どうせ私は」


 暗い調子で呟いた明日香に、ええー、と涼介が驚いた。


「すいません、すいません、言いすぎました。ほら、もう出ていきますから、その、泣かんでください」


 泣いてない、と呟いた。

 涼介が扉に手をかけると、よく耐えた、と明日香は自分をほめて、出ていったかを確認するため、ドアの方を見た。


「あの、先輩」


 ふいに涼介が振り返った。


「本当の本当に、大丈夫ですか」


 薄暗い倉庫の中に、部員たちのにぎやかな声が入ってくる。

 明日香は気まずくなった。彼は、たまに不意打ちをする。こうしてちらと、優しさを見せることがあるのだ。


「しつこいな。何でもないって」


 小さな声で言う。だからさっさと出てって。へーい、という声の後に、扉が閉まる音が聞こえた。









 午後からは部活を再開した。

 明日香は翔子と打ち込みをしながら、気が付いたら受身を何度も失敗して、身体がいつもと違う痛み方をしていた。


 顧問にしかられながらも、明日香はぼんやりして、健治と会ったときのことを思い出していた。


 健治と出会ったとき、明日香は小学生だった。

 親同士の近所付き合いで、同い年の健治だと紹介されたとき、人見知りだった彼は、母親の背後から顔をそっと出した。

 その綺麗な顔を見たとき、驚くほど胸が高なった。


 健治は普段、ひかえめな態度で周りに接した。

 少女漫画に出てくる美形のクールキャラみたいな男だったけれど、仲良くなってからは、気弱な性格だから、あまり自分から話さないのだとわかった。

 行動力がないので、いつも明日香が引っ張っていた。


 十五年も続いた友達という関係からは、発展らしい発展もせず、漫画の貸し借りなどして、お互いの家を行き来した。


 彼のベッドに、明日香は寝そべりながら、何度期待したことだろう。それは大学に入って四年生になった今も、変わることなく続いている。


 時間が経つにつれ、もっと健治と親密になって、良い雰囲気にならないかと期待していた明日香だったけれど、やはり現実はシビアだった。


 練習が終わり、明日香は柔道衣姿で、道場の隅にあぐらをかいていた。

 こんなことじゃいけない、と気を引き締めようとしたとき、


「先輩。今日、調子悪そうでしたね」


 いつものように、練習後のおしゃべりをするため、涼介が寄ってきた。


 彼はもう私服に着替えている。

 練習に身が入っていなかったため、心配しているようだ。大丈夫、と首を横に振る。


「演劇っていいなあ。自分と違う、誰かになれるから」

「どうしました、いきなり」


 不思議そうに涼介に、いやね、と笑った。


「昔のこと、思い出しててさ」


 明日香は天井を仰いで、つり下がった照明を見ながら、まばたきした。


「そうそう、演劇といえば、あの早苗って先輩、美人ですよね」


 涼介はかわいい子がいたら、必ずチェックを入れる。

 明日香は黙り込み、それから同意するよう、少しだけ微笑んだ。


「涼介は、あんな子が好み?」


 明日香が、膝を抱えながら訊いた。


「いやあ、あれくらいまでいくと、男なら普通気になりますよ」


 あっけらかんと言い切った。明日香はそれを聞きながら、早苗だもんな、と思う。

 部員が少しずつ、数を減らしていく。

 明日香は寮で、涼介は家が近くだから、電車組に比べてゆっくりしていた。


「先輩は、明日も練習に出るんですか」


 やめとく、と首を振った。


「明日は朝から、就職先へ行くの」


 明日香は今夏、就職が決まって、部活を引退した。

 こうして部活に顔を出しているのは、後輩育成のためだ。


「じゃあ、どこか遊びに行きましょうよ」

「お前は部活だろ」

「最近、休んでないですから」


 そういえば、と明日香は思った。

 ここのところ、明日香も連日で顔を出しているのだが、毎日のように、道場で涼介を見ている。


 ふと、彼は壁の時計を見て、


「すいません、待ち合わせがあるので、出ますね」


 軽く頭を下げた。誰と、と明日香がく。


「女ですよ。先輩は、この後どうするんですか」

「演劇部見てくる。まだあいつら、いるかもしれないから」


 涼介は、そうですか、と立ち上がった。

 明日香が更衣室に移動し、着替え終えて靴を履く。

 道場の入口では、涼介が茶髪の女と立っていた。


「おつかれ。今からどっか行くの?」


 と訊いた明日香に、いえ、と彼は首を振った。


「この人は、部活の先輩。口には気をつけろよ、怒らすと仁王像みたいになるから」


 涼介は明日香のことを、面白おかしそうに教えると、失礼じゃない、と女が笑った。

 自覚があるものの、明日香はやはり不機嫌になりながら、遊んでるくせに女の扱いを心得ていないな、と思ってまゆを寄せた。眼中にないからか、と予想すると、今度は少し腹がたってきた。


 涼介の横にいる女は、短いスカートを履いて、肩を出した服を着ていた。

 明日香は着飾った女が嫌いだ。色気なんてどこかに捨ててきたはずなのに、こんな子を見ていると、胸の裏を針でなぞられるような心地悪さを覚えながら、どうしても比べてしまう。


「私、美咲っていいます。ここって、男女一緒で練習するって聞きましたけど、本当ですか」


 訊いてきた彼女に、場所ないからさ、と明日香は笑った。


「涼介は弱いから、よく組んで、教えてあげてるよ。私が男の方も、面倒見てるって感じ」


 やだ自慢ですかー、と美咲は笑った。甘えた話し方が少し気になる。こんな子ってさみしがりが多いよね、と明日香が思っていると、彼女は思い出すように、


「男の面倒も見れるってことは、涼介の言うとおり、仁王みたいにお強いのですね」


 明日香は苦々しく笑った。会話を続けるため、涼介とはよく会うの、と訊く。


「涼介とは、一緒に住んでまーす」


 ねー、と涼介に言いながら、腕に手を回したので、明日香は少し驚いた。

 涼介の方は慣れているのか、女とくっついているのに、眉ひとつ動かさない。


 ああ、そうか――どうして彼女がこんな行動をとったか、ぼんやりと明日香は理解した。彼女もやはり、二十二歳の女だった。


 こんな女性特有の感情には、嫌悪を覚えずにいられない。その理由は、女であることを忘れようとして今まで生きてきたためであり、明日香自身、しっかりと自覚していた。

 







 明日香は部室棟の二階、演劇部部室の前にいた。

 ドアをノックする寸前、中から健治の声が聞こえた。他にも何人かいるみたいだ。

 耳を近づけてみると、好きだの何だの言っている。


「どうしてって、僕と早苗はただの幼馴染だし、なんていうか、それ以上でも、それ以下でもないっていうか」


 健治の声だ。反応がおかしいのか、女たちが笑った。何だよ、と健治は気分を害している。


「女って、男の視線に敏感なんです」


 健治の顔が真っ赤になるのが、ドア越しにもわかった。

 普段の演戯が下手な彼は、すぐ感情が顔に出る。


 好きなんですよね。女が健治を問い詰めた。

 しばしの沈黙の後、観念したのか、はい、と健治が肯定した。


 黄色い声が、明日香の耳に届く。

 女たちは面白がって、どんなとこが好きなんですか、いつくらいから気になり始めたんですか、など様々な質問を浴びせた。


「でも、これは僕の片思いで、気持ちを伝えようなんて気は、これっぽっちもないから」


 と、段々小さくなっていく声で言った。どうしてですか、と語気も強く反論される。


「早くしないと、健治先輩の気持ちが、賞味期限切れで腐っちゃいますよ」


 僕なんかがつり合わないよ、と声のトーンが落ちた。


「健治先輩って、結構脈あると思いますよ」


 えっ、と健治が、期待の声を出した。


「この前の練習で、健治先輩、格好良かったです。あれには早苗先輩も、くるものがあったんじゃないですか。何より先輩は、美形ですし」


 以前明日香も、健治から次の公演について聞かされたことがあった。夢中だっただけだよ、と健治が弁解する。


「そんなことないです。あのときの先輩を、今度は恋愛で出しましょうよ」


 うんとうなって、健治は悩んだ。そうだ、と彼女は、何か思いついたように、


「去年、早苗先輩と、夏祭りに行きましたよね」


 行ったよ、と健治は肯定し、女子柔道部の子も一緒だけど、と付け加えた。

 去年は早苗と健治、明日香の三人で回った。


「今年は、早苗先輩だけと行きましょう。で、告っちゃってください。練習でロミオしてるときみたいに、君の小鳥になりたい、とか言っちゃってくださいよ」


 健治が仰天した。

 しましょうよ、と後輩たちは言う。

 しないよ、と健治がむきになって言えば、好きなんでしょう、と言われて、そうだけどさ、と気まずそうに返す。

 まずいな、と明日香は呟いた。中に入っていこうかと思っていると、


「落ち着いてください。ここは様子を見ましょう」


 声を潜め、涼介が制止の声をかけたので、ごめん、と冷静を取り戻した。

 というか、と明日香は涼介の方を見る。


「どうして、ここにいるの」


 いつの間にか、後ろに立っていて、一緒に聞き耳をたてていたらしい。

 どうも、と彼は無邪気に笑い、暇だったんで、と答えた。美咲はどうしたのだろうか?

 帰れよ、と明日香が追い返そうとすると、いきなり部室のドアが開いた。


「明日香? 涼介君も」


 健治はまた情けない顔をしていて、明日香を見た瞬間、一瞬だけ明るくなったが、すぐ影を落とした。視線をわずかに外らしながら、


「部活じゃなかったのかい」


 と訊く。今日はもう終わり、と明日香が答えれば、女子三人が、逃げないでくださいよ、と健治に寄ってきた。何度か遊びに来ているため、知った面々だった。口々に先までの話を振ってきて、明日香は気後れした。


「そういう話は、この子としてあげて」


 女たちの視線が涼介に集まると、咄嗟に明日香は健治の手を取りながら、駆け出したのだった。


「ねえ、どうしたの」


 と、健治が困惑したような声を出して、明日香の後ろをついてきた。

 そして、明日香が健治を見ると、ちらっと目で合図して、耳元へささやいた。


「さっきのことでね、話があるのよ。寮の時間、まだ大丈夫でしょう?」

「えっ?」


 健治は驚いたような表情を見せたが、そのままうなずいた。

 階段を降りてから、外に飛び出る。紅葉が波立つ向こうの空では、山ぎはが茜に色づいて、かげりを迎えようとするばかり――。


 間もなく、明日香が足を止めたのは、学生たちがよく昼食を楽しんでいる、端に植わった銀杏の下だった。


 息を切らした明日香が、やっと手を放すと、


「ねえ、明日香、話って何さ」

「握力強いから、痛かったでしょう」


 明日香は素早く振り向き、健治の傍で言った。


「あの子たち、あたし話したことあるんだけど、冗談が過ぎることがあるの。悪い子たちじゃないんだけど、健治は苦手でしょう。ごめん、強引で、痛かったでしょう、ごめんね」


 健治が心配そうな顔をした。


「明日香が弱気なんて、本当にどうしたの? さっきね、ちょっと困っていたから、助かったよ。言えないようなことを、訊いてくるから……。でも僕がいけないんだ。思ったことを、はっきり口にできないのが悪いんだ」


 男のくせに。健治はこう言いながら、息を飲んでいる明日香へ、丁寧に謝った。


「明日香の世話にばかり、なってちゃいけない」


 いつもと違う顔だ。明日香は、垂れた手の位置にちょうどあった、ズボンの布を握り締めた。


「そりゃそうだけど、さっき健治は」

「聞いていたんだね」


 健治は口元をゆるめた。そうだなあ、とあまり深刻でないように、考える素振りを見せると、明日香は、


「ずっと一緒にいたんだから、友達の恋煩いが気になるのは、当たり前でしょう。健治は、早苗に」


 続きは口にできなかった。健治は迷うことなく、笑って告げた。――言うよ、と。


「もうすぐ、僕達は卒業なんだ。だからその前に、思い切ってみる」


 それから、彼は頭をかいて、


「でも、みんなに知られているなんて、思わなかった。参ったなあ」


 と、また微笑んだ。


「そういえば、明日香は明日、就職先でしょう?」

「ええ」

「なら、そろそろ戻って、休まないとね。ああ、将来かあ。どうしよう、僕は。これも、思い切るべきかな。向こうでは、大丈夫だろうか」


 と、健治は何やら考え込んでいたが、明日香はその話が、まるで耳に入ってこない。


 明日香はなんだか恋というものが、随分残酷に感じられる。

 例えば、毎日その人のことを考えているのに、相手にとってこちらのことは、視界の隅にも映ってないことがざらにある。

 しかし考えてみると、恋は境界にある状態が最も美しいように思われる。

 口に出してしまえば、その感情は美しい匂いが消えてしまうような気がする。


「もう僕は戻るよ。また、今度ね」


 その世界が形を失ってしまいそうで、いてもたってもいられなくなった明日香は、待って、とすれ違い様に健治の手首を握って、引き止めた。


「ね、やめておきなさいよ」


 後ろ手に健治を感じながら、視線を合わさずに呟いた。

 どうして、と訊く健治に、だって、と強い口調で返す。


「そうでしょう。もし早苗が、健治を受け入れてくれなかったら、二人の和を乱すかもしれない。きっと何かしらの形で、わだかまりが残ると思う。なのにあの子たちったら、健治が悩んでいるのに、冷やかしちゃって、あんまりよ」


 ちっぽけな自分から目をそらし、浅ましいことを理解しながら、舌が言葉をつむいでいく。


「今までどおりでいられなくなるのは、嫌でしょう? あんたたちが、気まずい雰囲気でいるところなんて、見たくない。それに、もし二人が付き合うことになったら」


 あなたは私から離れていく。

 その言葉を口にすることは、できなかった。前歯が、色素の薄い下唇に沈んだ。


 私はね、健治。ただ……。

 伝わらない感情は、明日香の中で膨れあがって、息ができないほど、胸を圧迫した。


「こんな僕だから、望みは薄いと思うんだ。だからさ、もし振られちゃったら、今回だけ慰めてくれないかな。そうじゃなくて、さっきみたいに叱ってくれてもいいからさ。いつもみたいに、何か言ってほしいんだ。大丈夫、子供のときとは違うから、明日香が何か言ってくれたら、一人で立つよ。その後はもう、君に頼らないようにするから」


 子供じゃないということは立派なはずなのに、どこか悲しい響きがあるのはなぜだろう。

 明日香は答えがわからなくて、そっと綺麗な夕陽に、目をそらせた。









 陽が沈む間際の時間である。


 部室棟の前で待っていた涼介は、明日香の様子を見るなり、心配そうな顔でついてきた。

 うつむきがちに、明日香は女子寮へ歩いて行く。


 健治とは長い付き合いになるけれど、彼はどうしても、明日香をただの友人として以上、深く思えないらしい。


「何やってんだろ」


 明日香はもう涙いっぱい、うるんだ眼差しで、ため息をついた。


「私、最低じゃない。健治にあんなこと、言ってしまうなんて……」


 言葉が濁る。すっかり鈍色になった地面へ、ずぶずぶと埋もれるような気がした。

 やがて思い切った風に、涼介が柔らかく話し出した。


「恋愛で傷つくのは、仕方ないですって。こればっかりは、どうしようもないです」


 しんとした。

 立ち止まった明日香が、いつになく弱々しい姿を見せているのだが、涼介は変わらない調子だ。


「気づいてたんだ」


 涼介の顔を見ずに、呟いた。

 こういうときにも、おどけた物言いをする涼介が、


「だって先輩、健治先輩と話すときだけ、口調変わるでしょう。頑張って、女っぽくしてますもんね。かわいいったら、ありゃしない」

「だから、何よ」


 明日香は涙を溢れさせて、うつむいた。


「あんたなんて、大っ嫌いなんだから」


 すいません、と涼介は謝りながら、明日香の頭に手を乗せて、ゆっくりと撫でた。


「先輩はかわいいから、いじめたくなるんですよ」


 すると明日香は、目をこすりながら手を払い、嗚咽混じりに、


「うるさい、うるさい、あっちいけ。優しくするな」

「そういうところが、かわいいんです」

「かわいくなんてないっ」


 明日香はむきになって、大きな声を出した。

 結構良い線いってますけどね、と涼介は呟いた。

 明日香の刺のある態度にも、まるでおくさず、微笑んで訊くのだった。


「どうしますか」


 何が、と明日香は呟く。


「何がって、そりゃあ、わかるでしょう」


 もちろん、わかっていたので、うん、と瞳を閉じた。それから、


「ごめん、私らしくなかったね」


 表情を切りかえて、無理に笑ってから、また歩きだした。

 応援するよ、と明日香は言った。

 涼介は黙って、明日香の横を歩いていたが、


「先輩は今年、夏祭りは、どうしますか」


 行かないよ、と静かに言う。涼介と別れる二股の分かれ道まで来たとき、


「じゃあ、先輩。今年は」

「おい後輩」


 明日香はいきなり横を見て、少し低い声で言った。

 涼介は、はい、とおびえながら言う。


「ちょっと飲みたい。付き合え」

「ありゃ珍しい。いいですけど、どこ行きます?」

「駅前の居酒屋」


 予想通り、涼介は快く了解した。

 明日香は寮のある方角ではなく、右に曲がって、涼介の自転車を置き場に取りに向かってから、駅前に向かうため、大学を後にした。



 翌日の火曜日、健治からメールが届く。


 早苗と祭りに行く約束をとりつけたから、祭りに着ていく服を買うのに、付き合ってほしいとのことだった。









 明日香は水曜日、健治に付き合う前日、寮の女友達二人と買い物に出かけていた。

 イオンモールは活気にあふれていて、若者がいつもより多かった。


 今まで生きてきて、明日香は初めて服に興味をもった。

 今までの安物ではなく、一万円以上する洒落たものを買った。

 服に金をかけたことがなく、貯金はかなり残っていたから奮発した。


 健治は明日香と買い物に行くなんて、何とも思っていないかもしれない。

 でも明日香のほうは、健治の申し出を特別な意味をもって受け止めていた。

 明日健治と出かけることを最後に、きっぱり諦める。

 せめて最後に一度だけ、好きな人と歩きたかった。


 予約した美容室にも寄って、友達とショッピングを楽しんでいたら、もう夕方になっていた。


 いつもよりずっと疲れた。

 急に色気づいた明日香に、友達が歓喜の反応を見せたからだ。

 そんなのじゃないから、と明日香は否定したが、彼女たちは確信めいた笑顔をもって、明日香をからかった。


 気の向くままに歩いてから、そろそろ帰ろう、と明日香が言った。

 しかしイオンモールを出ようとしたとき、友達が銀細工の店に目をとめた。

 時間もあるから、明日香も賛成して、ふらりと立ち寄ってみた。


 店員は若い男だった。こわもてで、左の親指以外にごつごつした指輪をはめている。

 友達たちは各々にアクセサリーを手にとって、小さな批評会を始めだした。

 その中で明日香は、棚に乗っているシルバーリングに、なぜか自然と眼がとまった


「名前も彫れるけど、どう?」


 興味深そうな明日香に、店員がリングをすすめてきた。

 愛想笑いを浮かべながら、すいません、と謝った。


「私、指輪はダメなんです」

「そりゃどうして」

「だって、ほら」


 右手を上げて、店員に指を見せる。

 明日香の指は短く、ずっと柔道をしてきたせいで、太かった。そ

 の様子を見た友達が、明日香に指輪は似合わないもんね、とおかしそうに口を挟む。

 さすがの店員も苦笑いした。


「付き合ってる子たちって、よく指輪してますけど、どうなんですか」


 何となく、明日香が店員に聞いてみれば、


「しなくちゃいけない、ってことはないだろ。自己満だ自己満」


 という答えが返ってきたので、そうですね、と苦笑した。

 








 木曜日は爽やかに晴れた。


 明日香は六時半には起きて、髪の手入れを終えると、今日の弁当をつくった。

 最近は手を抜いていて、手の込んだものは久々だったが、意外なほど上手にできた。

 それをバッグにひそませる。


 それから友達の部屋に行って、メイクをしてもらった。

 慣れていない腕で失敗するよりはましだ、と割り切った。

 見栄えするようになった顔を、鏡で眺めていた明日香に、


「落ちるやつだから、感動系の映画はやめときなよ」


 と、友達が教えてくれた。遊びに行くわけじゃないから、と明日香は答えて、お礼を言った。


 健治と出かけるのは久々だった。

 お互いは部活、あるいはアルバイトなどの用事があり、せっかくの休日にはがゆさを覚えることが多かったが、今日は違う。しっかりとこの日のために準備もした。

 行き先は昨日と同じで、開店時刻を見越し、九時半に健治が来る予定だ。


 九時頃から二階の自室で、明日香がひそかに外を眺めていると、約束の十分前くらいに、向こうから歩いてくる健治を見つけた。

 彼の周りだけ、空気が違うように感じられる。明日香は鞄を持って部屋を出ると、ドアに鍵をかけた後、金属製の階段を鳴らした。


 健治は明日香を見るなり、


「おはよう、今日はよろしく。あれ、やけに綺麗じゃないか」


 いつものように、のんびりした声で言うと、明日香は微笑んだ。


 好きな人と出かける。それは舞い上がってしまうほど、うれしいはずなのに、明日香の胸はどうしても、さみしさを訴えるばかり……。


 二人が並んで、大学前のバス停へ向かっていると、


「あれ。足、どうしたの」


 明日香が健治の足に目をとめた。

 なんでもないよ、と彼は言う。


「大学の階段で、人とぶつかった。その拍子に足をくじいちゃった」


 明日香が心配しながら、誰そいつ、と腹をたてる様子を見せると、


「とっさのことだったから、顔は見なかったよ。でも、向こうも悪気があったわけじゃないだろうし、僕がぼんやりしてたんだよ。謝りそこねたなあ」


 本当に何でもないように笑って、明日香をなだめた。

 昔はよく、健治は何もないところで転んでいた。

 こういうところは昔から変わらない。変わってしまった部分も、たくさんあるのだが。


 健治に合わせて歩くと、丁度良いタイミングでバスがきた。

 ゆっくり話す時間はなかったが、座るものがなく、返っていい、と明日香は思った。


 バスは予想通り、休日だけあって人が少なかった。

 車内で身体を寄せ合いながら座っていると、明日香は大袈裟なくらい安心してしまう。

 バスが曲がるとき、慣性で彼女の身体が傾くと、健治と肩が触れた。振動で衣服がこすれ合った。


 ちらと健治の顔を見上げれば、彼はもう眠っていた。

 少し残念に思いながら、着いたら起こしてあげようと、彼に寄りかかって、気持ち良さそうに眼を細めた。 

 








 二階の和服専門店に入った。健治は甚平がほしいらしい。


 店頭にはセールの文字が掲げられていて、夏物が値引きされている。

 女性用の比率がとりわけ多い。


 甚平は浴衣に比べて地味な色合いで、すぐ目にとまった。

 どれにしようか、すぐに決められない健治に、私が選ぶから着て、といくつか掛かっていたものを押し付けた。


 彼が試着室に入ると、布が擦れる音が聞えてくる。


 明日香は確かに、健治といるのだけれど、今日が終われば、健治が世界から消えてしまうような気がして、ひどく実感がなく思える。


 試着室のカーテンに黒い輪郭を写している、彼の影。


 早苗とも、こんな風に……。

 そんなことが、頭をよぎる。


 明日香は自分を叱って、今は自分が健治といるのだ、と言い聞かせた。


 健治がいくつか服を着てみせる。

 明日香はその中から、あさぎ色のものが似合っていると教えた。

 健治は言われた通り、迷うことなくそれを買った。


 自分なんかと一緒で退屈じゃないか、と心配していた明日香だったが、幸い、健治は試着を楽しんでいる様子で、ほっと胸をなで下ろした。


 目的を果たすと、昼食にしよう、と健治に言った。

 和服店を出て、右に曲がると飲食スペースがある。

 時刻は昼前。今から行けば、休日でも席を取れる、と明日香は言う。


 店を出ようとした彼女だったが、袋をかかえた健治に、ねえ、と呼び止められた。


「明日香も、着てみせてよ」


 彼は突然そう言って、浴衣を指したが、やめとくよ、と明日香は断る。

 今は浴衣を買うほど持ち合わせがない。買う気がないのに、試着するのは抵抗がある。

 それに浴衣の試着は時間がかかる。早く行かないと混むからさ、と言い訳した。


 しかし健治は、明日香の言うことを聞かず、店員を呼んでしまった。


「この子の着付け、お願いします」


 彼が頼めば、店員は慣れた調子で、明日香を誘導した。


 こちらでお待ちくださいね、と健治に椅子をすすめると、明日香は奥へ、店員と一緒に入って行く。

 実家に置いてきて、長らく着ていなかった着物にそでを通した明日香は、口には出さないものの、実はほおが緩んでしまうほどうれしい。


 浴衣を着ながら思った。友達と来たときとは、少し違う。

 健治が外にいるというだけで、着替えがいつに増して、楽しくなってくる。

 時がまたたく間に、過ぎて行く。


 お待たせしました、との店員の声で、立ち鏡を見てみれば、見違えた自分がいた。

 首の後ろが綺麗ですね、と褒められた。浮かれている明日香を、眺めていた店員が、


「あの背の高い人は、彼氏さんですか」


 と尋ねてきたので、


「そうです」


 と答えた。


 今日一日だけど、と心の中で付け加える。

 健治がどう感じているかは定かではないが、少なくとも明日香自身はそう思っている。

 今言葉にしたことが嘘だったとしても、自分自身に嘘はついていない。


 明日香は堂々と、健治の前に出た。

 指をいじっていた健治は明日香を見て、うわあ、と目を見開いた。

 後ろも見せてよ、と彼は注文してきたので、ターンしてみると、更なる反応をみせた。


「変じゃない?」

「まさか。綺麗だよ」


 嬉しくて、すぐに返事ができなかった。

 かなり遅れたタイミングで、ありがとう、と言うことができた。


 健治に褒められた。

 明日香は照れながら笑った。

 恐らく初めて、明日香は女らしい幸福を感じることができた。

 女としての喜びが、胸にあふれてくる。


「そうだ、写真撮ろうよ、一緒に」


 無邪気な健治が、艶姿の明日香と肩を並べた。

 携帯を自分たちの方に向けては、シャッターを切った。

 驚いた明日香だったが、健治が横にきたところで、満面の笑顔をしてみせた。

 きっと、良く映っているに違いない。


 久しぶりに健治と写真を撮ることが、びっくりするほどうれしい。

「彼」と一緒にいることが、今までにないくらい楽しい。


 いつの間にか早苗のことなんて、綺麗に忘れてしまっていた。

 








 飲食スペースは混雑していたが、運良く空いていたテーブルと椅子を発見し、荷物を置いた。

 何を食べようか、と健治が言うのと同時に、明日香がテーブルの上へ弁当を広げた。

 健治が目をぱちくりさせた。


「あれ、作ってきたんだ」

「無性に作りたい気分だったの」


 持ち込み禁止だったような気がしたが、気付かなかったことにする。

 明日香はセルフサービスの水を持ってきた。

 おむすびは鮭の塩加減がごはんに馴染んで、丁度良い加減になっている。

 健治はいつも決まって、幸せそうに食べる。作りがいのある表情だ。


「すごい人だね」


 プチトマトを口に入れながら、彼が言ったので、明日香もまわりを見た。


「そういえば、そうかな。一階で、誰かの握手会やってたからかも。ほら、すごい並んでて、三十分待ちとか書いてあったやつ」

「手を握るだけなのに、考えられない」


 健治は笑いながら言った。


 明日香はからあげを口に入れた。良い感じで味が染みている。

 売店で売られているものに、優越感を覚えた。


「健治も公演が終わった後、たまに花束とか、もらったりするじゃない」


「プロじゃないから、ファンは数えるくらいしかいないけどね。明日香は最近、就職の方はどう?」

「大変で参っちゃう。だって、知らないことばかりだし、雰囲気も学生してるときとは、全然違うのよ」


 という返事にすぐさま、健治が呆気に取られた。

 どこかのテーブルで、子供が駄々をこねて泣いていた。


「明日香も、そんなときがあるんだ」


 素直に驚いた表情で健治が言ったら、明日香はむっとしたように、


「なに、私が仁王みたいに強いとか、言いたいわけ?」


 そう不機嫌になったので、健治が慌てて、首を横に振った。


「別にそんなことは言ってないけど、珍しいな、と思って」

「すぐに慣れてやるから、見てなさいよ。そういうあんたこそ、部活はどうなのよ。まだ台詞覚えてなくて、部員にからかわれてるとか、聞いた」

「僕はいつものことだから、いいんだよ。公演までには覚えるから」

「それで練習の通し稽古を、ストップさせるのはやめなさい」


 明日香は水を一口飲んだ。


 健治が押し黙り、明日香は満足そうにしていたけれど、あまりに健治が何も言わないので、少し不安になってきた。


「もしかして、気にしてたことだった?」


 いや、と健治が笑って、ほっと安心した。


「考え事してただけ」


 彼は申し訳なさそうに、ほほをかいた。


「昔はよく、明日香に助けられたなあ、と思って」

「小学生のときだっけ」


 最後のおむすびを頬張りながら、そうそう、と健治は言った。


「低学年の間、ずっといじめられててさ」


 話しながら、健治が困ったような気配を漂わせた。

 明日香は一瞬、話をやめさせようと思ったが、話が切れることがなく、そのまま聞いていた。


「背負い投げして、いじめっ子を追っ払ってくれたときから、明日香に憧れてたんだよね」


 そう言って、へたな投げ技の真似をしてみせた。


「柔道やろうかなって思ったよ。運動できないから、諦めたけど」


 こういうとき、自分なりに頑張って、できることを見つけた健治を、明日香は大きく感じたり、またかわいく感じたり、そういう入り混じった気持ちになる。


 空になった弁当箱を仕舞いながら、明日香は笑った。


「格好よかった明日香のことは、よく覚えてる。ああ、ごめん、今も十分、格好いいよ」


 行こうか、と明日香が立ち上がった後に、健治の頭を撫でた。

 彼の髪は、しんがなくてやわらかい。

 ずっと触っていたい気分になる。健治は少しだけ、戸惑ったような顔をしたが、やがてくすぐったそうに、目を細めた。こういうやりとりは、久しぶりな気がした。


「僕、大人になって、しっかりしたかったけど、怖くもあったよ」


 健治も、軽く目を閉じた後に立ち上がった。


「どうして?」

「昔の僕たちが消えてしまって、別の何かになってしまったらどうしよう。仕事ばかりで、仲良く遊んでいた頃のようにはいかなくて、明日香や早苗と会えなくなっても、平気でいられたらどうしよう。――そんなことを、小学校のときから、ずっと思っていたんだ。僕の父さんも、昔の友達とは、全然会ってないみたいだから。明日香がいなかったら、きっと僕は苦労するだろうね」


 と、健治は苦笑した。


「ずっと、子供のままではいられないでしょう」


 健治は少しだけ不服そうに、


「いようと思えば、いられるかもしれないじゃないか」

「そうね、私も、そう思ったことがあるけれど……。でも健治は、強くなってきたじゃない」


 どうしよう、もう駄目かもしれない、助けて。会ったばかりの彼は情けなくて、気に障った明日香が過剰に叱りつけていたが、今はむしろ、逆にさみしいくらいだ。健治が大人になってから、怒ることは少なくなったけれど、頼られることも減った。


 目的を果たした二人は、人混みに紛れて、(あて)もなく歩いた。

 健治は明日香の横で、強く言う。


「この先、大変なことがいっぱいあるだろうけど、一緒に頑張ろうね」


 明日香はうなずいた。


 暖かな感情が、体じゅうに広がる。強い親しみが健治から寄せられてくる。











 健治の買い物に付き合ったその日、人気のポップ・ミュージックが流れていた。

 健治に合わせて遅く歩いた。

 気紛れでホラー映画を見た。

 健治が怖がって泣きそうになった。

 明日香が洋服を見た。

 本屋に寄った。

 漫画を探した。

 昔からよく貸し借りしていた、原作者の単行本を買った。

 健治は文庫本も買った。

 明日香も活字に目を通してみたが、すぐに本を閉じてしまった。

 二人で一冊の漫画を読んだ。明日香が速くて、何度かページを戻した。

 来月に新刊が出ると健治が教えた。

 買ったらまた貸すと彼は言った。

 それからまた適当に歩いた。


 楽しい一日だった。

 携帯で時間を確認すると、いつの間にか五時を過ぎていた。あっという間に時間が過ぎた。

 また遊ぼう、と健治は言う。

 今度休みが重なったら泳ぎに行こう、と。

 明日香はそれに、うん、とうなずく――。


「今日はありがとう。部活ばかりだったから、新鮮だったよ、こんなの」


 健治は言う。

 明日香は、こちらこそ、と心の中でささやいてから、構わないよ、と返事した。


「帰るバスまで、まだ時間あるね」


 健治の帰るという言葉が、ひどく悲しい。

 今日が終わるまで、自分は健治の横にいられる。

 勝手に決めた権利でも、これくらいのささやかな我侭わがままなら、きっと許されるはずだ

 明日香は誰に許しを請うわけでもなく、一人思った。


 高い天井は、日光が入りやすいよう、中央部がガラス張りになっている。

 日が暮れても、店内は変わらず明るい。ただし空気が変わった気がした。

 赤く染まり始めた空に、白っぽい月が浮かび、明日香は健治と並んで、入口へ向かった。


 こんな時間になっても客足は絶えず、自動ドアから数えきれないほどの足音が、店内に入ってくる。

 入ってすぐの広場で、どこかの楽団が奏でている、小さな演奏会に集まり始めた人びとが、音楽を静かに聴いていた。明日香は終わりに近づくことを感じながら、離れたところで眺めていた。


「楽しかった」


 低く響いたトランペットに混じって、健治が言った。


「そうね」


 明日香は落ち着いた演奏を後ろに、混雑した入口を抜けた。

 音がすべて、空に立ち昇って行くような夕刻。

 明日香は少し人群にくたびれていた。

 後ろの健治が時々追いつこうと足を速める。

 二人の距離がふっと縮まって、手が届きそうになったところ、また離れる。


 明日香は健治の手を取った。


「あっ、小学校のときも、こうして歩いたねえ」


 健治は嬉しそうに、声をたてた。

 限りない親しみを込めて、健治の手を握ったはいいものの、明日香は心残りのように、


「公園まで散歩しない? 私が連れて行ってあげるから」


 と、また一緒に向かった。


 人工の建物が並ぶ間に、颯爽(さっそう)とつくられた、自然がいっぱいの公園。

 ちょっとした丘と木製遊具があって、人気がない今も、子供たちの姿が浮かんでくるような、小さくもつつましい公園。


 花壇には草花が植わって、日々草が明るい。


 公園の中心では、(くすのき)の大樹が幅広い枝を広げて、小波のように葉をそよがせながら、涼しい日陰をつくっている。


 あと二十分くらいだ、と健治が時間を確認しながら、(くすのき)の前に立っていた。夜も近いためか、他に人はいなかった。


「ひぐらしだ」


 ふいに健治が、あまり高くない位置にとまっている、赤褐色の虫を指した。明日香も耳をすませてみる。近くで聞くと、よく耳に響く。


 唐突に健治が、鳴きまねをした。


 明日香は少し恥ずかしく思ったが、人気がないのをいいことに、健治が相変わらず同じことを繰り返すので、子供のときに戻ったように、彼にならった。


 健治は呆気にとられた表情をしたが、明日香の様子を見ているうち、くすくすと笑い出した。


 するといきなり、虫の声が止んだ。


 どうしたのかな、と健治が軽くつついてみせると、しっかりとしがみついていた虫の足が突然()がれた。抜け殻のように力なく、落下したと思ったら、虫がかさりと地に落ちた。いつまで経っても、動き出すことはなかった。


 明日香は暗い気持ちになりながら、健治を見上げ、手を握った。

 胸の中に隙間風が吹き込んで、切なくなった。

 二人はしばらく言葉を失っていたが、先に動いた健治がしゃがみこんで、大きな手で穴を掘った。


 健治の手は白く、美しい爪の手だった。

 砂をすくうごとに、指の間から抜け落ちてさらさらした。乾いた匂いもする。


 しばらくして掘れると、ひぐらしをその中に入れた。

 それから軽い砂を、上からそっとかけた。

 健治が再び立ち上がったとき、体がぐらりと傾いた。

 明日香がとっさに彼を支える。近くで見たその顔は、申し訳なさそうに笑っていた。


「ずっとしゃがんでたから、痛んできたみたい」

「もう、心配するじゃない」


 ごめんね、と謝った。

 明日香は健治を導いて、吊り橋の遊具に座らせた。

 健治の靴下をめくって、足首を見たら、青くなっていた。

 大丈夫だよ、と健治が強がるように言った。

 明日香も、健治の横に座る。


 夕陽が真横から射して、二人の影が重なっている。


 ねえ、明日香。

 健治は言った。健治の後ろから光があたって、黒くなっている。

 健治はちらと腕時計を見た。明日香にも見えて、まもなく時間だと知った。


「今日、大人になったら、あまり会えなくなる、なんて話したじゃないか」


 と、健治は丸太によりかかって、じっと前を見ながら、


「僕、そうなるよ」

「えっ?」

「ごめんね、いきなりで。覚えてる? 銀杏の木の下で、僕、言っただろ」


 明日香はただ、黙ってうなずくばかりだった。


「機会がないから、言い出せなかったんだ。――いや、嘘。本当は言い出すのが、怖かった。僕が昔から、芸能界に憧れていたことは、知ってるね。父さんにも母さんにも、相談しなかったけれど、僕はね、劇団のオーディションを受けに行ったんだ。そしたら、今まで演劇で頑張ってきたのが良かったのか、運が良かったのか、とにかく、合格したよ。卒業したら東京へ行く。しばらく、会えなくなるよ」


 健治の声は少しずつ、低くなっていった。


「スタジオをのぞいてきたけれど、すごくてさ、小学生くらいの子もいたんだ。僕、そのレッスン見たら、ぞっとしたね。でも、嬉しくて、嬉しくて、卒業が待ち遠しいんだ」


 と、健治は眼を伏せた。

 (まつげ)の影が下りて、夏の陽に悲しい。


 それはそうだろうと、明日香にもよくわかる。

 けれど、健治がいなくなってしまったら、明日香は来年から、どんなにつまらなくなるだろう。

 実家が近くだから、卒業した後も、健治の傍にいられると思っていたのに……。


 やがて、バスの時間が近づく。

 もうすぐ終わりだ。

 熱を失ってきた風が生温い。八月も下旬だから、大分涼しくなっている。

 日が沈むにつれ、明日香の気分も沈んでいく。

 泣きそうになったけれど、メイクをしてもらった友達に、泣くな、と言われたことを思い出した。

 わかっていたが、どうしようもなく辛い。

 このまま時が止まってしまえばいいのに。そんないけないことを、ふと思った。


「夏祭りが終わったら、公演がある。絶対見に来てね」


 あの健治が、自身満々に、笑顔で言う。

 よほど練習しているのだろう、明日香も、健治の成功が見たかった。

 健治と早苗、二人が主演の舞台。それは彼にとって、重要な意味を持つに違いない。

 だから明日の夏祭りでは、彼に頑張ってほしい。


 早苗。明日香にとって、今日はあまり、思い出したくない名前だった。

 胸がきゅっとなって、たまらない。

 しかし、もう、ダメだ。

 絶対に言いたくない言葉を、口走ってしまう。

 それでも健治のために言っておかなければ、きっと後悔する。

 彼に勇気を、あげなくてはならない。


「健治」


 間近で健治の顔を見上げる。

 彼は夕陽に照らされた、切なくさせる表情を、明日香に送る。


「健治は、早苗のことが好き?」


 脈絡も何もない、いきなりの質問に、健治は特に何も言うことなく、明日香の前に立っていた。


 答えてほしくない。

 明日香はうつむき、別の言葉を少しだけ期待した。

 健治は恥ずかしそうに微笑んでいる。


 そんな顔しないでよ。

 と明日香は思った。十五年という年月はあまりに長いのだから、もうどんな表情をしても、考えていることなんて、手に取るようにわかってしまう。


 彼はただ、好きだよ、と言った。

 取りとめない感情の波が押し寄せたと思ったら、次の瞬間、ぴたりと止めた。


 私も強くなるの。

 明日香は心にささやいて、あの健治が成長したことは、悲しくもあるけれど、やっぱり嬉しかったから。


 健治の顔を見ていると、大人、という言葉が思い出される。

 醜い嫉妬も忘れてしまって、心が清まった。


 そうよ、健治が好いてくれない、ということで、いつまでも、うじうじしていられない。

 健治の船出にも、ちゃんと向き合わなくちゃ。


 そう思うと、新たに胸の中が熱くなってきた。


「手を出して。手の平を上に」


 明日香が言うと、健治は不思議そうな顔をした。

 早く、と急かすので、健治は言われた通りにした。

 明日香が鞄をあさると、何かを取り出し、そっと手の上に置く。

 指輪じゃないか、と健治は呟いた。


「何、これ」

「ペアリング。早苗にあげなさい」


 明日香は笑い、もっと何か言うべきだと考えたけれど、気の利いた言葉が出てこなかった。

 健治は裏側にハートが入って、スタイリッシュなリングを見るなり、顔を輝かせたが、直後に戸惑った。


「でもこれ、高いんだろ」

「告るのに、安物あげるのはねえ」

「本当に、もらっていいの?」


 いいよ。

 明日香が言って遮ると、健治は大げさにお礼を言った。

 嬉しそうに、色々な方向から眺めたり、指で触ったりした。


 リングを買ったときから、こうなることは知っていた。

 彼は早苗に、どんな言葉を送るのだろう。

 上手くやれるだろうか。

 後はもう、健治にまかせて、幸運を祈る。


 そろそろ時間ね、と彼の手を引いた。


 そのとき健治が、後ろで足を止めた。

 どうしたのかと明日香が振り向けば、相当に痛むらしく、足を押さえてうずくまっている。


「大丈夫。歩けるから、って、うわ」


 言葉の途中で、明日香は健治を背負った。

 男の体重でも、難なく歩ける明日香の足腰には、目を見張るものがあった。

 長くなった二人分の影を踏んで、バス停までの道を進んだ。


「ありがとう、明日香」


 心無しか嬉しそうな彼に、こちらこそ、と明日香は言う。

 どうして明日香が、と健治はいた。彼女は答えずに、微笑んだ。


 上を向いて歩こう。

 明日香がそうしたら、健治がバランスを取りづらそうにした。

 空が綺麗、と明日香は呟いた。

 過去の楽しかったことや、悲しかったこと。

 そして今日の思い出を、大事なものと一緒に、宝箱へ入れた。


 明日香は歩き続けた。

 彼女が好きだった過去と、これからの自分のために歩いた。

 道すがら、若い女のグループが指をさして笑っていた。

 明日香はどのような恐い顔もすることなく、ただ行き過ぎた。


「世話のかかるやつ」


 こうして一日が終わった。背中に好きだった人を感じながら、一緒に帰った。


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