7、消息不明
「うっわー」
心底嫌そうに彼は呟いた。目の前は低い建物が軒を連ねている。
風が吹くたびに砂が舞い上がった。雨がしばらく降っていないのだろう。乾燥した地上には実りは少ない。その上、日差しが強く、生活しにくかった。地下のほうがにぎやかなくらいだろう。
目の前の景色を見たくないように彼はしばし目を閉じた。
「故郷の匂いがする」
君がこの先にいるなら、きっと。
1.
璃亜はそのことを家族の団欒中に知った。
石井家の夕食はちょうど各放送局がニュースをしている時間帯だった。そろそろゴールデンタイムに差し掛かるころにお茶がみんなに回ってチャンネルの主導権争いが勃発するのがいつものことだ。
璃亜は藍や両親のさりげない探りあいを横目で見つつテレビを見ていた。いつものように番組最後の締めを口にしようとするアナウンサー。が、それが急に戸惑ったような表情になる。急に渡された原稿に困惑しているようにも見て取れた。
璃亜はどこかで事故かなぁと人事のようにお茶をすすった。
「ここで臨時ニュースです。B&Rカンパニーにて事故が発生しました」
彼女はすすっていたお茶を吹きそうになる。
「続報が入り次第、お伝えいたします」
「なんですとぉ!」
「……どこの言葉。それ」
妹のきつい突っ込みを無視して璃亜はテレビの前に座り込む。そんなことで何かが改善することもないが、気分の問題である。
「電話すれば?」
「いや、連絡するなって言われてるし……。そ、それに今、喧嘩中みたいな」
「一方的に怒って出てきたってとこでしょ。ちゃんと相手にされているかどうかも怪しいし」
「そーよねーそーよねー、藍でもきっと良かったんだわ。姉さんでも」
藍は地面までのめりこんでいきそうな勢いで落ち込んでいる姉を冷ややかに見つめきっぱりと言い切った。
「どこをどう見ても、べた惚れされてるのに何をそんな世迷言いうな」
電話でもすれば? という言葉に追い立てられるように居間を抜け出す。とんとんと軽い音を立てて階段をのぼり、自分の部屋に入る。
璃亜は携帯電話を手にため息をついた。妹に追求されそうで逃亡したという方が正しいかもしれない。
家族にはなんで実家に戻ったのかも言っていない。その上、できれば外に出るなと追加のお達しがきた。勝手に急病をでっち上げられ、会社にも報告がいったらしい。
そこまでしなければならない事態と彼は認識しているらしい。璃亜としてもマッドサイエンティストの実験につきあったりはしたくなかったが、やりすぎのような気もする。
特異ではあるが、ないわけではなく、本当に天然記念物並みというわけでもないのだ。
過去にいける。しかし、場所も時間も指定できず、その上、この世界でもなかった。
碧と名乗った青年が語ったのはそういうことだ。彼は本を見せて、この世界にはないものだと断言してみせた。それは妙な子供に会う直前まで読んでいた本だった。奥付がしっかり正しい年代を告げている。
「しかし、アレどこの異界だったんだろう」
そんなに毎回チャンネルが合うとは思えなかった。忘れていった本が細いつながりになったのかもしれない。会うたびに時間が進み、次にもし遭遇するとなったら同じくらいの年か年上になっているだろう。
璃亜は苦笑した。
この現象は、結婚後あの家に行ってからだった。
ならばあの人の目論見どおりなのだろう。
「最初から期待していたわけじゃないけど」
使うなとはいわない。ただ、少しは話してくれても良かったのではないだろうか。しばらくは一緒にいて、仮にも奥さんなのだから。
璃亜は思わず顔をしかめた。
まるで、好きみたいじゃない。
思い浮かんだ言葉にどきりとした。嫌いではない。としか、言えなかったはずだ。なのに優しく、好きとか何度も言うから揺らいだのだ。
思わず揺らいでしまった理由を探す。
「別に心配するくらい普通だよね。うん、きっとそうに違いない」
事故なんて聞いたら普通心配するものだ。璃亜はそう思うことにして手の中の携帯電話を操作する。アドレス帳に残る記号のような、あの人、という項目。
番号がディスプレイに表示され、発信音を奏で始める。
しかし、いくら待っても誰もでることは無かった。
璃亜は諦めて通話を切る。ただ、忙しいだけなのだろう。
次の瞬間、携帯電話が着信を知らせる。
彼女は相手を確かめずにもどかしげに通話ボタンを押した。
「こんばんは」
聞こえてきた声は女性のものだった。璃亜は思わず眉間にしわを寄せる。聞きたくない声だ。彼の孫娘。優希という名が似合わない人だ。きつい印象のある顔が脳裏に浮かぶ。
思わず通話を切りかけたが、璃亜はかろうじて自制した。
「事故がおきたそうね」
「たいしたことではありません。あなたのせいですが」
トゲのある言葉に璃亜は顔をしかめた。たいしたことが無いといいながら、彼女のせいと責めるのは矛盾している。そもそも、こんな遠くにいながら原因になれるとは思えない。璃亜は反撃のセリフを考えつつ、相手の声を待つ。
「おじい様から、連絡はありませんか」
「……は?」
「わかりました」
通話が切られそうな気配に璃亜は慌てた。別に長話をしたいわけではないが、今妙なことを聞かれた。秘書のようなことをしている彼女が消息を知らないというのは変だ。姿をくらませることはあるかもしれないが、それでも璃亜にわざわざ電話をかけてくるとは到底思えない。
もし、かけてるとしたら、最後の最後だ。
「どこか行方不明とか?」
「あなたには関係の無いことです」
即答がなによりも雄弁に語っていた。問いただす前に通話が切れた。
「うっわー」
B&Rカンパニーの売り物は、異界門だ。事故が起こるとしたらコレしかない。そして、会長は消息不明らしい。
最悪、彼が、事故に巻き込まれた可能性がある。
璃亜は未練がましく携帯電話を見つめていたが、気を取り直して一度通話を切る。
ため息一つ着く前に再び携帯電話が鳴り出した。
「……あれ?」
ディスプレイには見慣れない番号が記されていた。
2.
「怪我? 病気? ありませんよ。そんなの」
のほほんとした声が携帯電話の向こうから聞こえてくる。小林は思わず片手でこぶしを作った。本人が目の前にいればこめかみをぐりぐりとしてやるところだった。
同僚は意外に元気らしい。そのことだけでも安心すべきなのだろう。
「じゃあ、連絡くらいしなさい」
「電話番号知りません」
即答。
「ちなみにメールアドレスも知りません」
小林は顔をしかめた。確かに教えたことがない。彼女を責めるのもおかしな話だ。そこまで親しいと言えないのだから。
「会社の緊急用名簿から拾えた私とは違うか」
「あれ? 古い番号だけ載っているはず」
買い換えたついでに番号も変えちゃったんで。危機感ゼロな発言にため息がこぼれそうだった。小林は顔をしかめた。ぎろりと近くにいる男を睨みつける。彼はびくりとしたように表情をこわばらせた。
彼は知っているが知っているだけだ。
「出てこれるかい? 無理ならお伺いするけど」
「今からですか?」
「明日でもいいけれど、できれば早いほうがいいかなと思って」
「何の話ですか?」
「貴方の旦那様のお話」
電話の向こうでうめくような声が聞こえてきた。
「ついでに連れてきてくれると嬉しいのだけど」
「……いや、その、消息不明、みたいで……」
小林は沈黙した。
「どしたの?」
様子を伺っている男に渋い顔をしてみせると厳かに彼女は告げた。
「本当に消息不明になったらしい」
3.
出かけてくると家を飛び出たのが、三十分前の話。
璃亜はあたりを見回した。どこをどう見ても、駅の中ではない。
「改札あたりは問題なかったはず」
階段を下りている最中に一瞬景色が揺らいだ気はした。しかし、階段はあったし、表面上なにも変わらなかったから気のせいと片付けてしまった。が、一番下までたどり着いてようやくそれが異変であったことに気がつく。
目の前には街が広がっている。そんなに高くはないが七、八階建てのビルやそれよりは低い家が並んでいる。さらに妙な乗り物が目の前をよぎっていった。
彼女の知っているものはあるがそれだけでは構成されていない。
彼女は空を振り仰ぎ、ぽかんと口をあけた。
「どこ、ここ」
空は無く、ただ、真っ白だった。
「地下街。どうも、どこにいても傍に現れるようだね」
璃亜が声の主を振り返る。まだ、記憶にある声はどこか楽しげに響いていた。そして、そのまま璃亜は動きを止めた。彼は前よりもいくつか年をとったようだ。少し、年上に見える。
自分よりも年下と思っていたが、ついに越されてしまった気がする。
「今、いくつ?」
「22」
突然の問いに彼はそっけなく返答した。それよりも彼は近づいて触れられるかどうかを確認するほうに気を取られていたのかもしれない。前置き無く腕に触れられる。身をすくませた彼女に気がつかないようにそのまま抱きよせた。
「もう年上になってしまったかな。次、会えたらいくつだろうね」
君も年を取ればいいのに。どこか拗ねたように言う声はそれでも大人の男の声だった。
交わるはずもなかった時が触れるなど、そうそう有り得るものではない。彼は良く知っているのだろう。しかし、璃亜にはあまり実感がない。ここ数ヶ月だけでこんなに遭遇するなど、異常であることはわかる。だから、何か原因と理由があるはずだ。
「年の話はやめるように。と放しなさい」
「断る」
「は?」
璃亜は青年を見上げた。片目を隠しているのは相変わらずだが、表情のどこにも幼げなところは残っていない。
彼女は自己の考えが間違っていたことにようやく気がついた。最初にあったころの少年の印象が抜けていなかったから、異性という認識はさっぱりなかった。
つまりコレは愛情表現の一種ということだろうか。それほど好かれるようなことをした記憶が璃亜にはない。
「あのーいちおう、ね、私、人妻なんですけど」
璃亜は困惑しきった表情で告げてみた。そういえば、一度も話したことが無かった。そして、今、旦那は消息不明だ。それで、何かわかるかもしれないと出かけている最中にこんなところに来てしまった。
間が悪いとしかいいようがない。焦っても仕方ないと思いながらも早く戻らないかと思う。二人そろって消息不明はしゃれにならない。
「それで?」
「困るというか……」
「一応とかついているのに?」
「それは微妙というか、喧嘩中というか」
璃亜はなんだか情けなくなってきた。確固たるなにかなど、まだない。結婚していることになっているが、理由は時々、異界に落ちるこの性質で自分だからではない。
資格があれば誰でも良かったのではないかと思ってしまう。
それでもいなくなったと聞けば、探しに行く気にはなる。まるで、私だけが好きみたいだ。あの人は迎えに来てくれなかった。璃亜は微かな痛みに気がつかない振りをした。
「ずっとここにいればいい」
「……いや、私には家族がいるので……」
そうほいほい捨てられるものではない。璃亜は苦笑した。それに、ずっとここにいられる保証はない。彼に対しては知り合い以上のなにかはまだ無い。
彼はため息をついた。そして、彼女を放し肩をすくめる。
「人の人生曲げといて自分のは死守するってどうかな」
「曲げてないっ!」
「責任とってもらうのが妥当だと思うけど」
「せ、せきにんって、ああ、私お金ないからねっ! 地位も権力もないし、特技もつかえないしっ! 大体、特技が無ければここに来なかったわけで、うん、最初から何も無かったほうがよかったんだよね……」
くつくつと笑う声に璃亜は言葉をようやく止めた。
見れば彼は肩を震わせて笑っている。声を押し殺しているが、彼女の視線に気がつくと声を上げて笑った。
からかわれたのだ。璃亜はぎっと彼を睨んだ。笑いすぎて滲んだ涙をぬぐって彼は目を細めた。
「現実逃避しないでくれるかな。人が勇気を振り絞って言ったのに」
「いちおう、わたし人妻なんですけど」
「でも、喧嘩中なんでしょう? 仲直りしないでいいよ。僕は君が好きだから」
その言葉はなぜか、ひどく悲しげに響いた。
璃亜はとっさに言葉を返せず黙った。
「少しでも好きだと思ってくれたら、嬉しい」
嫌いにならないで。そんな風に璃亜には聞こえた。視線のまっすぐさに璃亜は顔を背ける。なにも返すものがない。
「あの、ね」
璃亜が口を開いたとき、なにか見慣れた人が通り過ぎて行った。
「あ、ああっ!」
それは、ここにいるはずの無い人だった。