5、異界門
電話しようか、しまいか。
藍良は黒電話を睨みつけた。週に一度は定期連絡を入れてくるあの姉からなにも連絡がない。一度だけなのだから気にするほどでもないと思ったが、予感がする。
藍良は両親の定期旅行を呪った。いつもこの時期には結婚記念旅行と称して一泊二日温泉の旅にいっている。出かける前に気になることを言っていた。
姉が戻ってきても門前払いしないように。
「だいたい、薄情なのよ。出て行って全然戻ってこないし、あの男なんて、あれ以来顔出しもしない」
足元にすりよってきた愛犬を藍良はなでた。心配そうに小さく鳴いた声に彼女は顔をしかめた。
「違うよ。来るなって言ったのはうちだろうし」
それでも、連絡くらいはしてくる。それは彼なりの気遣いなのだろう。有名人ということになっているのだから、関連があると知れればしばらく平穏からは遠ざかる。
「ま、今度でも……」
彼女は電話をあきらめて愛犬と遊ぼうと心に決める。
そのとき、電話が鳴り出した。
1.
窓の外を景色が流れていく。
屋敷を出て、車に乗ること一時間。そろそろ飽きてきた。璃亜の隣にはのんびりくつろいでいる拓真がいる。彼が運転しないのかと聞けば、免許を持っていないと情けなさそうに告白した。璃亜はその発言に免許をもっていなくても車は持っているのが金持ちなのかとカルチャーショックを受けた。もっとも、会社の会長ともなれば運転手付きの車が普通なのかも知れないが。
つくづく住んでいる世界と価値観が違うと思う。この溝は埋まるのだろうか。ぱらぱらと紙の束をめくっている拓真にちらっと視線を送る。真剣そうな表情をしているが、仕事とは思えなかった。読書中の彼はいつでもあんな顔だ。難解なミステリでも、旅行ガイドでも。
璃亜は視線を窓の外へ向けた。
ぽつぽつあった民家が畑や田圃にかわり、ついには木々だけになってしまった。町はずれに向かっている、というよりは山奥に向かっていると言った方が正しい。
「どこまでいくんですか?」
外を見たまま璃亜は拓真に声をかける。彼はそんな様子に苦笑した。
「異界門をみたいって言ったから、本社はやめにして現場に行くことにした。……ま、本社には今日は優希が来ているって言ってたから逃げただけだけど」
「苦手?」
「心配性で余計なことまで見えて、考えてしまって、身動きできなくなるタイプ。僕に小言や嫌味を言えるのは優希くらいかな」
その口調は優しい。璃亜はなんとなく引っかかりを感じた。窓に微かに映り込む像をついうかがってしまう。
微かに目を細めて微笑ましそうな表情は、可愛いと言っているような気がする。
「息子とは契約のようなものだから、親しいわけでもないし」
「お会いしたことないような……」
「結婚式に顔出して、嫁さん可愛いじゃないかとばしばしと肩叩いて帰った。そのうち会うよ」
一転して苦笑混じりの口調。親しくない人の肩をばしばしとは叩かないと思う。璃亜はそうつっこみたいが、我慢した。表情は、苦笑ではなかったから。
璃亜は窓から視線を外し隣に顔を向けた。
「前々から聞きたかったんですけど、どうして、あたしと結婚したいだなんて思ったんですか?」
「まだ言ったことがなかったような気がするけど」
軽い口調で、いつものように彼は言った。
「僕は君のことが好きだよ」
他の誰にも聞かせたくないかのように耳元で囁く。そして、指先は頬をたどり唇をなぞった。
璃亜は真っ赤になって耐えていたが、顎に手をかけられた瞬間手が勝手に動いた。
ぱしっと音が響く。
「一応、夫婦なんだから、……はいはい。わかりました。しません」
璃亜のにらみに敗北したのか拓真はそう言い拗ねたように窓の外を向いた。叩かれた手を痛そうにさすりながら。
今まで、なにもしてこなかったから油断していた。結婚後、一ヶ月は長期出張、今週は家にいるらしいが、夜に出かけていない。おかげで二人で夜を過ごしたことはなかった。元々用意された部屋も別々だった。
これから先もそうとはいかないだろう。彼が言ったように一応、夫婦なのだから。
璃亜はため息がこぼれそうになった。
「少しでも好きだと思ってくれたら、嬉しい」
独り言のように拓真はそう言った。
「だから、嫌ならしない」
怖がらないで。璃亜はそう言われたような気がした。
璃亜はそれには答えなかった。
気がついてしまった事実の謎さゆえに。
2.
「発端は、百年くらい前に異界との初接触かな。残念ながら僕もまだ生まれていないから、祖父の話によるけどね」
たどり着いた先は山奥の平べったい建物だった。璃亜は拓真の説明を聞きつつも一定の距離を置く。
「結構、人が多いから気をつけてね。恋人くらいで言っておくけどそれでも大変だろうから」
彼はにやっと笑った。今までしたことのない笑い方は璃亜を戸惑わせる。
不吉な予感がした。
「これでも僕は有名だからね」
立ち止まってしまった璃亜を置いて彼は先に建物の中に入っていった。
それはつまり注目の的ということではないだろうか。ようやく璃亜は気がついた。異界門を見たいと言ったときの微妙な表情はそれが原因だったのだろうか。
心境的には、ここで逃げてしまいたい。
しかし、遅かれ早かればれることではある。いままでばれなかった方がおかしい。一時期より注目度は下がったものの彼自身が言ったように有名人であることは間違いない。
その奥さんと知られれば、ワイドショーなどに追いかけ回されそうな気さえした。
「日常崩壊目前、かも」
彼女はぼそりと呟き、拓真を追って建物の中に入った。
目に映るのはなにもなかった。
自分の手も見えないほどの闇が広がっている。璃亜は光を求めてあたりをうかがった。
ぼんやりと下の方に光が見える。淡い揺らめきが段々大きくなってきた。
「異界門というのはあれだよ」
意外に近くから聞こえた声に璃亜は身をすくませる。拓真の声とわかっているが、車内でのことを思い出すと少し離れていたい。
「光の中では開くところは見えないからね」
「門っていうからもう少し別の形をしているかと……」
光が段々強くなっていく。その奥に別の色が見えた。緑と青の混じった領域が広くなっていく。
あれが異界。
今こことは別の世界と確かに繋がっている。
璃亜は知らないうちにため息をこぼしていた。
異界門とは、文字通り異界同士を繋ぐ門だった。識別されただけで異界の総数は10を超える。小世界と呼ばれるものを加えると30はくだらない。
百年ほど前に異界と接触があった。その異界は次元が異なるところに存在し、接することはないはずだった。しかし、向こう側の世界からの儀式が発端となり繋がってしまった。それが原因で争いが起き、多くが失われたらしい。璃亜には歴史上の一つの出来事以上の認識がなかった。
「他の場所では別の形をしている。大きな門を必要もないのに作ってその奥に異界門を開いてあたかも大きな門が本物みたいにね」
苦笑混じりの声は璃亜にはどことなく辛そうに聞こえた。
この暗闇ではどこにいるかはわからないが、璃亜は声のする方に視線を向けた。詳細は忘れたが、確か彼が、異界門を作ったのだと聞いたことがある。聞いた当時は遠い別の世界の人としか思えなかったが。
「どうして、これを作ったの?」
「副産物かな。本来の目的は別だった。長生きしたかったんだよ」
風もないのに髪が揺れた気がした。
「君に会うために」
3.
「参ったな」
拓真は小さく呟いた。明るく照らされるフロアを見回しても探し人はいない。ガラス張りの床のせいで近くに見えるが異界門の開閉はかなり下で行っている。まず落ちることは考えられない。
もし、外に行けば扉を開けた隙間からこぼれる光でわかるはずだ。だから、彼女がいない理由は一つしか思い当たらなかった。
異界に引きずられた。
既に異界門は閉じ、その空間にはなにも見えない。普通、この距離をあけていれば異界に落ちることはない。よっぽど、敏感な体質でない限り。
「どう言い訳をしよう」
「会長っ! 無事ですかっ!」
遠くから駆け寄ってくるこの異界門の責任者が見えた。ここ数年はなかった事故に慌てているのだろう。社内の最高権力者の前での失態に焦っているのかもしれない。
少なくとも制御室からの距離徒歩10分コースを全力疾走数分に変えるくらいの威力はあったようだ。
こんな時でなければ、苦笑していたかもしれない。冷ややかな表情を崩さずに拓真はそんなことを考えた。通常、走ることなど考えられないくらい運動嫌いの恰幅のいい男がこの門の責任者だった。
拓真の前で肩で息をしている姿はこの先、何年も見られないに違いない。
「僕は、ね。連れが落ちた。座標特定は?」
「今、確認をしています。開いていた先にはいないようで……」
「私が確認を取ります。本社には連絡をしないように」
「……自動連絡システムが起動しました」
「最悪」
拓真は額に手をあてて唸った。一番知られたくない相手が、ここにくるということだ。洗いざらいぶちまけろと脅してくるに違いない。それでも拓真は一切説明しないつもりだった。
しかし、その影響は璃亜に向かうに違いない。
「しばらく、帰ってこなければいいのだけど」
「は?」
「優希はどのくらいで来るって?」
「転移されるので数分で」
優希の心配が度を超えて怒りに変わるには十分すぎる時間だ。拓真は渋い顔で施設の奥へ向かった。こんなところでぼーっと突っ立ていたらどんな嫌味を言われるかわからない。
拓真は何度もこの施設には来ている。誰にも黙って気まぐれに。
廊下に出るとそれまでの光景と一変する。お客さん用はあの異界門が真下に見える地点までしかない。これ以上先は研究者の領域だ。
もっとも、もう少し気を遣った方がいいかも知れない。拓真は苦笑した。元は白かった壁にはうっすらとヒビが走っていた。薄暗さを感じて見上げると点いている蛍光灯の数が減っている。床も義理程度には掃除されているようだが、ワックスなど年単位で塗られていないだろう。
追加予算を出した方がいいかもしれない。拓真はそう思ったが、無駄なことに気がついた。ここの予算は他の研究施設よりは多い。多いくせにこの有様ではこれ以上増やしても研究費用以外になり得ない。
「……あまり心配されていないようですが……」
後からの声に拓真は振り返らなかった。
「心配はいらない。帰ってくるよ。すぐにね」
確信を込めて、彼は告げた。ただ、その表情だけが裏切っていた。
4.
目を開けた瞬間、明るかった。
璃亜はきょろきょろとあたりを見回す。視界はいいとはいえない。必ず、木に視線がぶちあたる。葉を透かして陽光が落ちてくるくらいには間隔は開いているから明るい森と言えた。
先ほどまで建物の中にいたことを考えればいきなり外にいるのはおかしい。
異界門で事故が起きた、くらいしか璃亜の心当たりはない。ただ、あれほどの距離が開いていても影響がでるくらいなら、一人でここにいるということがあり得るのだろうか。
「……別々にどこか飛ばされたりして」
さやさやと吹いてくる風はどことなく冷たい。現在の初秋の時期と一致はしている。ほんの少し移動しただけかもしれない。
璃亜はため息をついた。
どちらにしても迎えが来るまで身動きできない。
璃亜としてはここが異界ではなく、近くに野生動物もなく、ほんの少しで迎えが来てくれることが望ましい。
「ここにいましたかとか、穏やかに言いそうな気がする」
「ここは私有地……」
遠くからの声に璃亜は視線を向けた。下から誰かが登ってくる。一瞬逃げようかと考えるが、逃げても好転しないことに思い至る。一体どこに逃げれば安全なのかすらわからない。
ようやく姿を見せた先ほどの声の主は璃亜を見るなり動きを止めた。
それは少年だった。右目だけを隠すように下ろした黒い髪が特徴的と言える。どことなく、見たことがあるのは璃亜の気のせいだろうか。
「おまえ、何者なんだ?」
「え、あの、ちょっと不測の事態で、ここに落ちてしまって……。あたしは璃亜っていうのだけど」
「知ってる」
「は?」
「三度目だ。もう四年も見ないから、幻かと思った」
彼はそう言うなり璃亜を抱き寄せた。
呆気にとられて抗うことすら忘れた彼女をぎゅうと抱きしめるとそれで気が済んだように解放する。
「触れるか。ナマなのは確かだね」
「ナマってなにっ!?」
「数年ごとに僕の前に現れては消えてく。幽霊と勘違いされてもおかしくはないだろ」
きょとんとした顔の璃亜を見下ろしながら彼は問う。
「おまえ、時渡りだろう?」
意図的ではなく、時間の狭間に落ちる者がいる。それを指して時渡りと言われる。璃亜の家系でも何人かは出ているようだが、ここ数代は時に関連した者はない。それに基本的に時は未来にしか進まない。
「自覚なしか。降りるぞ」
「……あの。あなたは誰?」
「碧。今まで名乗ったことがないから、記憶を探っても無駄だと思う。最初は銀野原」
「こんなに大きくはなかったから、お兄さん?」
「説明と推測は下でするよ。璃亜さんは転ばないようについてきてくれればいい」
碧と名乗った少年はそのまま背を向けた。この場にとどまるべきか、ついていくべきか。あの少年はどことなく、胡散臭いような気もする。
けれど、誰かにひどく似ている。
璃亜がためらっているうちにその後姿が見えにくくなる。
「見つけてくれるよね」
小さく呟いて彼女は少年の背を追った。しばらく戻れなくなるかも知れないと考えもしないで。
彼女がいた場所で微かに空間が揺らぎ、消えた。