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3、そのご関係は?


 隣りのぬくもりはもうない。


「一人は、なれている」


 幼さの消えない声は寂しげに響いた。自分自身さえも傷つけて。


 水面に落ちた石のように波紋を広げて沈んでいく。体を振ったらことりと音がしそうだ。少年は無理に笑みを浮かべようとした。しかし、それは泣き顔のようにしか見えなかった。


 そっと頭をなでてくれた手はない。祖父は、触れることもなかった。


「また、来るかな」



 奪われたものは戻ってこなかった。



1.


「くしゅんっ!」


 誰か噂をしているのかしら。璃亜は眉を寄せて近くのティッシュボックスに手を伸ばした。


 結婚後、一ヶ月。仕事は今までと通勤経路が激しく変わった以外は変化がなかった。名字も変わらず、誰も結婚したとも知らない。南国にいったわりには焼けてないと冷やかされはしたが、日焼け止めの成果と主張して終わった。


 結婚した気もまったくしない。璃亜はかたかたと資料を作りつつ思う。パソコンに向かって資料作成や事務処理と電話応対で終わる日々。しかし、新しい家はどこか遊びに来ているようで慣れなかった。


 格段に広くなった部屋に細々とした物が増えているのは、遠く出張中の彼のせいだ。


「璃亜、眉間にしわ」


 とぽとぽという音に璃亜は視線を向ける。急須からマグカップに緑の液体が流れ込んでいた。そのまま視線を上げていけば同僚のやや楽しげな顔が見えた。思わず、そのまま自分の眉間に触れる。ついでにのばす仕草も忘れない。


「何を悩んで居るんだい?」


 言葉とチョコレートの箱も一つ机に落とした。ようやく三時の休憩時間だと気が付く。昼の時間が50分と短いかわりに3時に10分休憩があった。6時には仕事も終わりなのだからちょうどいい休憩の時間ではある。


「ありがとう。小林さん、今日、夜……」


「鳴っているけど」


 舌打ちしながら机の上に放って置いた携帯電話を取る。見覚えのない番号だ。璃亜は首を傾げつつ通話ボタンを押す。


「やあ元気? 奥さん」


 璃亜は通話を切ろうかと一瞬思った。この声はいつも決まって深夜に近い時間に電話をかけている人の声だ。家でしか電話を受けたことがないから、電話番号も見覚えがあるわけがない。


「仕事中です」


「それは申し訳ない。あとどのくらいで終わる?」


「三時間ちょっとですけど」


「わかった。またあとで」


「はい」


 一分もせずに切れてしまった。奥さんの自覚もなければ、彼が旦那と言う気も全くしない。電話以外に接点がないまま一ヶ月経過。怒るも呆れるのもとおりこして、忙しいんだろうなぁとテレビで見かけるたびに思うようになった。


 接点がなさすぎて好きも嫌いもない。やり方は好きじゃないけど、こちらの意志を無視したのは一度だけだ。


「……誰?」


 うずうずしたような声に璃亜は同僚の存在を思い出した。小林は勘が鋭い。たったあれだけでも身内が相手とは違うと感づく。


「知人」


 罪悪感を覚えつつ璃亜はそう言いきった。社内で説明はしたくない。小林にも相談はしたかったが、今ここではまずい。ちらっと時計に視線を向ければ休憩時間が終了しそうだった。場所を変える時間もない。


「今日の夕食は何が食べたい?」


 璃亜がまたこんどにしようと決着をつけるまえに彼女はそう言って背を向けた。


「仕事が終わるまで考えておくように」



2.


 妙なことになったと傍観者たる小林は思った。同僚かつ妹分の悩みでもきいてあげようと思って仕事をさっさと切り上げたのにも関わらず、彼女はさっさと外に行ってしまった。


 その後、ばたばたと戻ってきたかと思うと荷物をさっと取り上げて『おつかれさまですーっ』と立ち去ろうとしたのを捕獲。


 そう、捕獲せずに見送れば良かった。


 小林はワイングラスを持ち上げた。芳醇な液体が喉を焼いていく。あまり酒には詳しくない彼女でもおいしく、さらに高いことが予想できた。


 もっともこの店自体高そうだった。暗い室内ではあるが、テーブルのところだけは明るく、足下には歩くべき道を指し示す灯りがついていた。給仕は影のようにひそやかに行われいきなり料理が湧いて出てきたかのようだ。


 真白いテーブルクロス、深皿に水を注ぎ蝋燭を浮かべ、銀食器は光り輝く。椅子も柔らかすぎず背もたれは黒い木のままだった。適度に品良く。まるでこの男みたいな店だ。小林は隣りの男に視線を向けた。


 外見は30代半ばから後半程度。穏やかで落ち着いている大人の男、のように見える。仕立てがいいスーツ姿はどこかの会社員のようにも思えた。


 彼女の視線に気が付いたように彼は微かに笑みを浮かべてみせる。


 ほんのわずかな違和感。それはなし崩し的に紹介されたときからくすぶっている。


 吉田拓真。どこかで聞いたことのある名前ではあるが、小林にはそれがどこで聞いたのか思い出せなかった。


「あんまり見られると照れます」


「失礼。どこかで見たことがあるような気がして」


 璃亜がぎくりとしたように顔をこわばらせたのが小林にも見えた。有名な人らしい。テレビかなにかで出ている人なのかもしれない。常にテレビのない生活をしているせいかそう言う情報には疎い。あとで彼女を問いただせば済む。璃亜が心配そうに袖を引っ張るのに気が付いてにっこりと微笑む。途端に彼女は情けなさそうに眉を下げた。


「同系列の会社に属しているので、そちらに顔を出すこともありましたからそのせいかもしれないですね」


「え、嘘っ!」


「半年くらい前に一、二度は来たよ。必死そうな顔でパソコンに向かっている君を見かけたこともある」


 小林に向けた言葉より、多少砕けた口調が親しそうでちょっとだけむっとした。やっぱりこれは知人ではなく恋人なのだろうか。一度もそんな話は聞いたことがない。


 小林は再び拓真に視線を向ける。璃亜を見る優しい表情には偽りなど隠していなそうに思えた。少なくとも、彼は璃亜が好きらしい。それを隠すつもりもない。小林はため息をこっそりついた。どう考えても自分は邪魔者だ。お腹が空いていて、断る気にならなかったのだ。それにちょっとだけ気になった。最近、いつにもまして眉間にしわを寄せている回数が増えている。何か悩み事があるはずだ。もしかしたらコレが原因かとも思ったが、違うようだ。


 すっと璃亜に視線を向けると戸惑っているような顔をしているが、嫌っているようでもない。なんだか、どうすればいいのか困っている雰囲気はずっとしているが。


「……懐かしかった」


 独り言のようにこぼされた言葉が耳をかする。


 問いかける前に目の前に並んだ料理に気が付く。いつの間に。小林がそっとあたりを見渡すと黒服がワインをグラスに注いでいた。行き届きすぎて、びくつくのは小市民的だからだろうか。礼のかわりに小さく頭を下げてみせる。


「久しぶり、随分繁盛しているね」


「憎らしいほど元気ですね。拓真さん」


 気配の薄い黒服がにやりと笑う。その口調は丁寧ではあるが、どこか親しさを含んでいた。拓真と同じくらいの年かもう少し年上だろうか。友人なのかもしれない。小林はそうあたりをつけた。


 彼は小林と璃亜を交互に見たあと微かに首を横に振った。


「奥方は紹介していただけるのでしょう?」


 その言葉で空間が凍った。



3.


「……まずいこといいましたか?」


「いや、うん、まあ、そんなところかな」


 拓真は額に手をあてた。冷静さが切実に欲しい。旧友の腕を引っ張って厨房に逃げ込むなどあり得ない。彼女の同僚の冷たい視線が痛かった。そもそも最初から、どうも敵意をもたれている気がしていた。


「僕はいいんだけど、彼女が自分ではそう言ってないから」


「……拓真さん。なにやらかしたんですか?」


「僕がやらかしたことになるんだ」


「権力者は思うがままにできるでしょう」


 旧友の鋭いツッコミが痛い。拓真はうなだれつつそれを肯定した。


「仕方のない人ですね」


 腕を組んで見下ろす姿は出来の悪い弟を見ているかのようだった。厨房の中では誰も興味のないふりをしながら耳をそばだてていることが想像できる。


 拓真はこの場からも逃げ出したかった。


「スズちゃん、ぜひともおいしい料理で、機嫌を直してもらいたい」


「出来る範囲内でやりましょう。かわりに……」


「説明もするから。鈴様お願いします」


 黒服を拝み倒している姿はどう見ても会社の会長には見えなかった。


 鈴は見習いにエプロンを持ってくるように指示する。厨房に緊張がはしったのは拓真の気のせいではないだろう。


「とりあえず、さっさと戻って詫びでも入れてろ」


 拓真は逆らわず席に戻ることにした。スイッチが入った彼に逆らわないことが処世術だ。鈴の料理は美味いが厨房にて罵倒の声が響き渡る。厨房の人々に心の中で詫びながら背を向ける。


「……諸事情って何」


 席に近づくと冷ややかな声が聞こえた。拓真の表情が微かに引きつる。しかし、彼に向けられた言葉ではないらしい。


「えっと婚約者でね、そのちょっと急だったんだけど……」


「失礼しました」


 ほっとしたような璃亜の顔に罪悪感を覚える。


「さっきの人は?」


「佐々木鈴すず、一応店のオーナー。ごめん、つい、嬉しくて」


 話題が逸らしてみようとする璃亜の努力はわかっていたが、隣りから漂ってくる冷気は無視出来なかった。


「浮いた噂一つないかったのは、貴方がいたからだったのですね。どうして隠したりしていらっしゃるのですか?」


「それはあたしが黙っていたからで……。ごめんなさい」


「璃亜をいじめたいわけじゃないのよ。ただ、こちらの方からも聞きたいだけで」


 僕をいじめたいんですね。拓真は絶望的な気分で小林に向かった。彼は女友達の効力を甘くは見ていない。しかも彼女は璃亜より年上のように見える。だとすれば可愛い後輩のためになにかいうだろう。


 心証を良くしておこうという打算が裏目に出た結果となる。


「正直、言いふらしたいですが、彼女の意向の方が重要です。まあ、せめて恋人と言ってくれれば嬉しいですが」


「ふぅん」


 探るような目線に冷や汗が出そうになる。拓真は動揺を表に出さないように穏やかな表情を浮かべてみせる。


「なにかあったら相談にのるわね」


 にっこりと小林が笑ったのを見てようやくほっとした。


 ぎくしゃくとした雰囲気が料理により改善され、店を出たのは終電近い時間だった。


「また、明日!」


 颯爽と走っていく彼女を見て苦笑がこぼれた。璃亜はなんとも言えない表情で手を振っていた。


「ところで自慢したかったんですか?」


 ひどく懐疑的な視線に拓真は苦笑した。


「もちろん。貴方も自慢してくれても……」


「遠慮します」


 即答にうなだれた拓真を見て慌てたように璃亜は口を開いた。


「言い忘れてましたけど」


「はい?」


「お帰りなさい」



4.


「僕は幽霊に恋したことがあります」


 いささか自慢げにそれを言われた。しかも、一ヶ月もの長い出張から帰ってきて。がっくりと肩を落としてしまうくらいには、脱力する。


「…………不適切な返答しないでください」


「君が他に好きだった人がいないのか聞くから」


 少し口調が拗ねたように聞こえるのは気のせいだろうか。璃亜はどうしようかと思いながら隣の気配をさぐった。


 タクシーで帰るか電車で帰るか少し意見の違いが出た。それからずっとこんな調子なのだから、きっと拗ねているのだろう。いい歳した大人がなにを、と思うが、もしかしたら酔っているのかもしれない。


 結果的には駅に着くまでタクシーが見つからず、璃亜の主張が通ったことになる。都心部から離れているせいもあるが、住宅地でもないせいかあまり電車の中に人はいない。あと30分はこのまま揺られていく。


「あたしはどうして今まで、結婚していなかったんですか? ときいたんですけど」


「会ったのは数回くらいかな。僕から会いに行くことも出来なかったし、存在しているけれど、遠かったから幽霊みたいなものだよ」


「あのですね」


 本気で答えてください。そう続けようとしたが、遮られる。


「叶わない恋とは知っていたけど、忘れられなかった。これが理由にならない?」


 ひどく真剣な声は璃亜が知るどの声とも違って聞こえた。


「じゃ、なんで?」


「君を選んだ理由はあるよ。もっと別の場所で言う」


 電話口のいつもの口調に戻って彼は璃亜をのぞき込んだ。その仕草が少し不安そうに見える。


「早めに聞かせてください」


 はぐらかすような言い方に腹が立つ。璃亜はそっぽを向いた。質問をして疑問を解消しているかと思えば新たな謎が湧いてくる。


 自慢したいと言ってみたり、他の人が好きだと言ってみたり、一体彼はどうおもっているのだろう。


 ……でも、聞かなきゃ良かった。


 璃亜は微かな落胆を覚えていた。やっぱり理由があっての結婚であって彼の好意からのものではないのだろう。少なくとも異性として意識されているとは思えない。


 いや、でもこれで色々な懸念事項が消えるというものだ。それに見た目はどうあれ彼はそこそこ年よりで、ぽっくりと逝けば財産の半分はもらえる。豪遊し放題だ。


「……なに、企んでいるんだい?」


「え、なにも」


「そんな顔するときはいつも腹黒いこと考えている時だよ」


「…………え?」


「と聞いた」


 しれっと拓真は続けた。


 おそらく父の助言だろう。もしかしたら、好みも把握しているかもしれない。ちらっと隣りを見ると既に目を閉じている姿が見えた。


 そういえば、一ヶ月も出張で疲れているはずなのに会社まで迎えに来てくれた。ついでに奢ってもらってしまった。しかし、お礼を言っていない気がする。


「ありがと」


 聞こえないだろうとは思いながら呟く。璃亜は誰も聞いていないはずだと思いながら顔を赤くする。あんまり慣れないことはしないほうがいいと思いつつカバンの中からMDを取り出した。


 その横顔を片目だけで興味深そうに眺めている拓真には気が付かずに。

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