2、出会い
空の青に似た海の色。白い砂浜に点々と残る足跡。
「自己紹介もまだだったね」
彼は今頃思い出したように言った。
「吉田拓真。B&Rカンパニーの会長。血液型はABで、誕生日は10/25の蠍座」
「小学生並ですか……」
「総資産と学歴と経歴と実績も必要?」
「むしろ、結婚の理由が知りたいのですけど」
彼が慌てたように口を開いた。が、言葉のかわりに大音量の音楽が流れてきた。ばたばたと服をあさり音源を確かめる。
「制限時間越え」
なんとも情けない表情で彼は彼女に告げた。
1.
AM11:45。定刻よりやや遅れて飛行機は空港に降り立った。拓真はため息をついた。一番厄介な孫が待ち受けていることが想像できる。しかもファーストクラスなど使わずにエコノミーだったとばれたらその場で怒鳴られそうな気がした。ご自分の立場をわきまえてくださいとかなんとか。
げんなりした表情で彼は手荷物を取る。日程上一泊がせいぜいだとわかっていたから手荷物は一つきりだった。
「呆気ないものだね」
もう少し日程をずらせば良かった。そうすれば、一人で帰国と言うことにもならずに済んだかもしれない。それはひどく楽観的な見方ではあったが。
仕事で帰る彼を複雑そうな表情で璃亜は見送りに来た。その姿を思い出して口の端に笑みが浮かぶ。好きでも嫌いでもなく、困惑していた。彼女には結婚の理由も彼女でなければ駄目だという理由もわからないだろう。今はまだ、知らなくていい。
未来も過去もまだ灰色だ。
拓真は乗務員の案内に従い空港に降り立つ。
それは短い休暇の終わり。そして後戻りできない日々の始まり。
彼はいつの間にか慣れた入国の手続きを済ませ荷物を片手に空港のロビーに立った。あたりを見回し微かに苦笑する。
やっぱり、いた。
拓真は小さく手を振る。
「お帰りなさいませ」
いつもと同じ出迎えの言葉は少しだけ刺々しかった。第一秘書であり、孫。あるいは、つい甘くなってしまう人の一人。他の孫よりもやはり近くにいる方が可愛い。もっとも背の高さと目つきのきつさで可愛いと言う言葉には無縁であることは拓真もわかっている。性格も可愛げがあるとは言い難い。
それ以上に可愛いというと本人が怒る。
「ただいま、優希」
優希は彼の手の荷物をなにも言わず受け取ろうとする。それが年より扱いされているようで、少しだけ拓真の気に障った。露骨とも言える動作でその手を避ける。
「お祖父様?」
「大丈夫だから、そんな顔しない。伝言はない?」
「貴弘から客間の準備は出来ていますと伝えて欲しいと。お客様ですか?」
「客ではないよ。聞いていないかな?」
拓真は軽い口調で言った。優希の表情がこわばったことに気がついているにも関わらず、気にも留めない。
「あなたから、聞いてません」
彼は冷ややかに告げた。
「言うわけないじゃないか」
どうせ、全力で妨害工作するんだろうから。
2.
風が木々を揺らし、頬をなでていく。璃亜は庭園の外れでぼんやりと景色を見ていた。広く、整えられた庭は綺麗だが人工的で璃亜は好きになれない。しかし、庭の外れは適度に放置されているらしく、自然のように見えた。おかげで絶好の避難場所となっている。バスケットには膝掛けと敷物と魔法瓶、軽食等々がつまっていた。
璃亜は視線を庭から別のものへとうつす。一番目に留まるのは建物だ。璃亜はため息をこぼす。
もっと好きになれないのはあの屋敷だ。
都心からやや離れたところにその屋敷はあった。どっしりとした煉瓦造りの壁と落ち着いた緑の屋根。部屋数は20くらいかなと屋敷の主は言っていた。あとでお手伝いさんに聞いたところによると実際使っている部屋はそれくらいで未使用なのが10以上あるとか。
「……部屋の無駄だわ」
璃亜が暮らしていた家というのは狭いながらも庭付き一戸建て3LDK。規模が違いすぎてどこに行くにも困る。家の中で迷子とはどうしようもない。
鈴でもつけましょうか。そう嫌味を言われたのも昨日のことだった。
彼女は口をへのじに曲げると思い浮かんだ顔をうち消す。
優しい甘い顔をしているから油断をした。口を開けば嫌味が降ってくる。しかもやけに背が高く見下されているようで腹が立つ。
吉田優希。彼女にとっても孫になってしまった人。
養子の娘だから孫だね。第一秘書をしてもらっている。
どことなく早口に紹介してくれた。その時、おばあさんなんて絶対、呼ばせないからと力説していたところが今思い出しても笑える。
そう力説してくれたのが謎の結婚相手である吉田拓真。当年73才。富豪であり、B&Rカンパニーの会長。見た目は若作りの限界を軽く突破している。質問しても企業秘密と逃げられた。いや、それ以上に、とりあえず新婚なのに、最長接触時間2時間とは一体どういうことだろう。それも空港から、この屋敷までの移動時間が8割だった。
璃亜は再びため息をついた。
バカンスにもならなかった。十日という奮発した連休も今日で終わりだった。南国にいたのは結局2日未満となる。
時期はずれには4連休が限界でね。
君は遊んできていいんだよ。
そっと頭をなでていったのが気になる。始終穏やかで、優しくて、でも、どこか違和感を覚えた。
おかげでバカンスを楽しむ気にもならず家族よりも先に帰ってきてしまった。そのまま家に戻ろうかと思っていた。
帰ってきたことだけを連絡しようとしたことが間違いだった気がする。眉間にしわを寄せたまま璃亜は近くのバスケットの中の魔法瓶に手を伸ばした。こぽこぽと温かい番茶を注ぐ。
電話をしたら、迎えに行くから待っていてとひどく慌てたような声で約束した。
一人は寂しいし、僕は迎えてくれる人がいると嬉しい。
そう言ってここに連れてきてくれた。
「うそつき」
好きにしていていいよ。
彼はそう言って仕事に行ってしまった。それも一週間前。新妻ほったらかしてどこにいってんのよっ! と言いたいところだが、今は居ない方がちょうどいい。
いたら八つ当たりしそう。
璃亜は小さく頭を振るとバスケットの中から本を取りだした。
彼女にとってそれは睡眠薬のようなものだった。
3.
秋の終わりの風は寂しげだった。
「ひゅうひゅう吹き鳴らせ、実り多き稲穂を揺らせ、祈りの鎖を……」
少年の歌声は風に乗って遠くまで運ばれる。
彼の目に映るのは庭と言うよりはただの原っぱ。遠くに屋敷があるが至る所古びて、管理が行き届いているとは言い難い。すきま風は吹き、雨漏りはする。それでも手放さない頑固な祖父に呆れつつも一緒にいた。
祖父が寝てしまった後、ようやく少年の時間になる。邪魔にならないように屋敷の外で歌を口ずさみランプの明かりで本を読むのが秋までの日課だった。冬の訪れと共に暖炉の側でうたた寝が日課になる。ついでに薪割りも。
少年は歌をやめて景色に目をすがめた。
「銀の野原」
小さく呟いて彼は笑った。
ススキが月光をはじき銀色に輝く。夜だけの王国。
誰もいない一人だけの。
「……あれ?」
少年は目を擦った。人影が見えた。ほっそりとした姿はきょろきょろあたりを見回している。栗色の髪が風になびいていた。
女の人だ。季節外れの装いは寒そうだ。彼がそう思った瞬間に彼女がくしゃみをする。寒そうに自分の体を抱きしめた。
彼は自分をくるんでいる肩掛けの存在を思い出した。誰かは知らないけれど、必要だろう。
しかし。
少年がためらっているうちにその女性が気が付いたのだろう。小さく手を振られて彼は諦めた。
「慣れているから、大丈夫」
うつむいて小さく呟く。
「ねぇ、君?」
やや近くなった声に少年は顔をあげた。
「領域侵害している自覚はある?」
少年の毅然とした態度に彼女は驚いたようだった。そのまま困ったように頬に手をあてる。その態度に彼は少し苛立った。子供では相手にならないと言いたげに見える。もしくは見逃してもらえるものだと思っているのだろう。
さらに言葉を投げる前に彼女が頭を下げた。
「ごめんなさい。たぶん反対側に出てきたんだわ」
「……隣の人?」
「そうなるかなぁ。来てすぐでよくわからないのよね」
隣は随分長い間空き屋だったはずだ。誰かが入ったと言う話は聞いていないが、この屋敷に最新情報がはいることはまずない。実際に彼女がいるのだから誰か越して来たのだろう。
祖父が語るところによればご近所づきあいは面倒の元となる。さっさと追い返した方がいいだろうか。
少年はそっと彼女を見上げた。年は随分上のように思う。今年、12になったばかりでは子供扱いしかされないだろう。子供っぽく我が儘に振る舞った方がいいのだろうか。
彼女は辺りを見回しため息を一つこぼした。そして、気を取り直すように小さく首を振ると手を差し出す。
「よろしく。あたしはえっと、璃亜。君は?」
「少年でいいよ」
実際、祖父は孫などとしか呼ばない。だから、自分の名前さえも遠い。
「名乗りたくないならそれでもいいけど。じゃあ、少年。家の中に入ろう。寒すぎる」
彼女は少々厚かましくもそう言ってきたが、本当に寒そうに震えてもいた。彼は先に立って館に歩き出した。祖父に見つからないようにするにはどうすればいいのか考えながら。