1、はじまり
これは夢だ。
夢に違いない。
「……綺麗よ。璃亜ちゃん」
母さんが涙ぐんでいるのも。
父さんが背中で泣いてるのも。
ウェディングドレスさえも。
「あたしは、バカンスって言うからっ!」
本当に夢であれば良かった。
遠くからがらんがらんと景気良く教会の鐘が鳴る。
今日、私は見ず知らずの老人と結婚するらしい。
事の始まりはこうだった。
1、
「ただいま~」
玄関をあけて愛犬がすり寄ってくる前に母が待ちかまえていた。璃亜はうっかり手にしていたカバンを落としそうになる。日頃はまず犬とお帰りなさいという声、食事の確認と続くはずがいきなりいる。
璃亜は不審に思いつつ、カバンを廊下に置き靴を脱ぐ。そっと見上げた母親の顔が機嫌良さそうなので不気味である。確か今日は仕事で朝帰りのはず。間違っても機嫌は良くない。晩ご飯はないかもしれないと思っていたくらいだった。
「お帰り。ねぇ、璃亜ちゃん。南国行きたくない?」
ご機嫌な顔で母がのぞき込んでくる。璃亜は胡散臭そうな表情で彼女を見返す。生まれて20年。国外逃亡はしたことがない。ただし、母は友人とどこかに旅立つことは年に一回くらいある。父を放置して。
リビングのソファに座りつつ璃亜は父の所在を確認した。無言でお皿を並べている姿はいつも通りだ。
「父さんはどうするの?」
仕事は有給をもぎ取るからいいとしても時々無性にかまってほしがる父を置いてはいけない。あとで実害が出る。璃亜は姉と妹をあてにはしていなかった。
「お父さんも一緒。うふふ」
国内旅行すら嫌がるこの人をどう口説いたんだろう。母はぴたっと父の背中に張り付く。照れと嫌の中間の表情で彼は娘を見ると視線を逸らした。
「鍋が焦げる」
娘のツッコミよりも早く彼は自分の妻を台所に追っ払った。実際、少々焦げ臭いのだから追っ払ったのではないのかもしれないが。
「本気?」
「……諸事情により仕方なく。ジャガイモが焦げていないことを祈りたまえ」
彼はすいっと台所に視線を向ける。奥からはきゃーともわーともつかない叫びが聞こえてきた。
璃亜はため息をついた。
「藍良は?」
「ふて寝している。ジークは拉致された」
「あらま」
妹も犬も二階らしい。璃亜はなんとなく嫌な予感がしてきた。三人で家族旅行などしたくない。姉と妹の報復が恐ろしい。
「藍良も伊織も一緒だ。ジークは坂本さんに連れて行かれるそうだ」
璃亜の心中を察したように彼はぼそっと告げた。
「いつから?」
「一ヶ月後から……」
「新しい服も買いましょうよ。せっかくの南国なんだし」
多少焦げ臭い肉じゃがをもって母が来るのが見えた。璃亜はため息をついた。そういうことを言っていつも父と喧嘩もどきをする。正確には父の嫌味一つへの過剰反応による母の徹底抗戦、だ。
「そうだな」
珍しく同意してくる父親を璃亜は不審そうに見る。かなり、おかしい気がする。問いかけようと父を見れば別な意味でため息がこぼれた。同意をもらって嬉しがった母がべったりと父にへばりついている。らぶらぶな両親を持つと困る。目のやり場というか疎外感というか……。
璃亜はつけっぱなしのテレビへ視線を向けた。いつもの時間のいつもの番組は今日は特番になっていた。
B&Rカンパニー会長生出演。そんなテロップが出ている。
B&Rカンパニー。璃亜はあまり詳しくない分野だが、時々名前を聞く。分類的には生命科学らしい。そのわりに怪しい噂がある会社ではある。曰く、人間やめているとか、魔法使いを飼っているとか。
もっとも主力商品は魔法、とも言えるかもしれない。
「ほらほらご飯食べないと片づかないでしょ」
「はぁい」
それきり、その話は全く出てこなくなった。璃亜は母の気まぐれが通り過ぎたのだと思っていた。
それが甘いと知るのは一ヶ月後のことだった。
2、
「……あの時おかしいとつっこんでおけばこんな事態にはならなかったような……」
璃亜は鏡越しで彼を睨んだ。髪を結い上げられている最中のため、彼女は身動きが出来ない。いくつものピンがさされ手際よくまとめられていく。プロの手の動きはすごいと半ば感心しながら璃亜は目線で追ってしまう。
「自発的が、強制連行になったくらいの違いしかないと思うが」
父親の言葉にしてはひどい。
「初めて見送るのが璃亜になるとは思わなかった」
「ええ、そうでしょう。あたしも結婚するとは思わなかったもの」
璃亜は苦々しく言った。
空港についたまではまだ良かった。そのままホテルへ連れて行かれ、場違いなほど高そうな部屋に案内されたときには逃げるべきだと直感的に思った。
が、既に遅かった。
「あの人は、そんなに悪くはない。璃亜も気に入ると思う」
「……そう」
結婚相手として、選ばれたのだと告げられた時には既に、身内の懐柔済みであったことが腹立たしい。本人の了承が一番最後で、しまいには選択権はないと言われて……。
泣きそうだ。
璃亜は唇を引き結んだ。泣かない。でも笑ってもやらない。
花嫁の控え室だというのにいるのはヘアメイクの女性と父親だけだ。外国にわざわざ来ているのだから知人が他にいるわけもない。璃亜は漠然と描いていた未来予想が思いっきり違っていることを自覚せざろうえない。
「恨んでやる」
父親が微かに笑ったのが見えた。璃亜は思い切り睨んでやる。
ぴたっとヘアメイクをしていた手が止まった。やや引きつったような表情で親子の舌戦を眺めている。璃亜はヘアメイクの女性にやや同情はしたもののやめるつもりはさらさらない。
「会って、言葉を交わして、それでも嫌なら戻っておいで」
確認もせずに逃げるなと釘を刺して彼は背を向けた。璃亜にはそれが薄情に見える。
「母さんを宥めてくる。痕がついていても笑わないように」
「いっそ殴られてくれば?」
彼は肩をすくめただけだった。
璃亜はため息がこぼれた。嫌だ。なんでこんなに似ているんだ。なんとなく、考えていることがわかる。
「……大丈夫、ですか?」
気遣うような声に璃亜はなんとか笑みらしきものを浮かべる努力をする。鏡越しにヘアメイクの女性と目が合った。
「ええまあ、なんとか、生きてはいます」
大丈夫、とは到底言えない。
いざとなったら即刻離婚だ。いや、それよりも先に財産を食いつぶしてやる。璃亜は密かに決意した。
どうせ、年よりだ。三倍くらい違うはずだ。いっそ毒でも盛って……。
璃亜の頭にふわりとベールがかぶせられる。
「頑張ってきてください。いい人ですよ。たぶん」
何故みんな同じ事をいうんだろう。
B&Rカンパニー会長というのは年よりで、でも、いい人、なんだろうか?
3、
異国の小さな教会で結婚式。乙女の憧れ、とも言える。
璃亜はベール越しに前方を睨みつけた。隣りにいる父親が微かに苦笑したのが見えた。教会にいるのは相手方の親族が数人、璃亜の家族が数人といったところだろう。
ささやかと言うよりは極秘といったところだろうか。あまりにも胡散臭い。
「逃げても責めないでよ」
そこまで考えているわけではないがものには限度というものが存在する。限度を超えればいくら璃亜でも実家に帰りますと宣言せずにはいられない。ましてや相手は見ず知らずで、しかも今日、今初対面。
「そのときは一緒に戦ってあげよう」
「約束だからね」
「ああ」
璃亜は前を向いた。そして、腕が離れる。
「璃亜さん」
小さく名を呼ばれる。璃亜は見たこともない花婿に視線を向けた。B&Rカンパニー会長。推定60~70才。有名企業だけあってお金持ち、と推測できた。豪勢な結婚式ができるはずなのにしないところがまた怪しい。彼女が不審そうな表情になるのも仕方がなかった。
ベール越しに見える姿に彼女は固まった。
「初めましてと言うべきかな」
彼は穏やかに笑った。
まじまじと璃亜は見つめる。背は高いほうではない。後になでつけた髪は黒く、白髪もなかった。しわしわでもなかった。
そう、彼女の想像よりも遙かに若かった。そうは言っても璃亜よりは10は年上だろう。
花嫁の衝撃に気が付いて彼はそっと彼女の手を取った。放っておけばいつまでも先に進まないことが容易に想像できたからだろう。
「年寄りって……」
「戸籍上は、ね。これでも……」
璃亜の呟きを聞きとがめたのか彼は顔をしかめた。
「少しでも好きだと思ってくれたら、嬉しい」
小さく、彼女にしか聞こえないように言葉を落とす。
璃亜が答える前に誓いの言葉が始まってしまう。彼女には承諾、以外に言いようがなかった。
そして、ベールに手がかかる。思わず身構えた璃亜に彼は微かに眉を寄せた。それも見間違いかと思うほどの一瞬で穏やかな微笑に変わる。
安心していいよ。そう彼の唇が動いた。
誓いの口づけは頬へ。