トリス先生の日常7
「この村を出るつもりですか?」
今まで話に集中してロザリーの顔をほとんど見ていなかったが、改めて目を向けるといまだ涙が彼女の頬を伝っている。
まだ泣いていたのか。やはり、女性には不快でおぞましい話だったか。
「そうだな」
この村を離れるつもりで全部話したのだ。
妄想癖と思われようが、真実だと信じられようが、今まで普通に挨拶を交わしていた村の人々に避けられるのはつらい。
今から身辺整理をして、夜が明けたら子どもたちにこの村を去ることを伝えて・・・それが済んだらこの村を出る。
「村を出て行きたいなら、出て行ってかまいません。先生がいなくなっても、授業は私が続けます」
教えるものが誰もいなくなれば、仮初の学校は自然消滅するだろうと思っていた。
教え子たちに教えた知識にはムラがある。それはロザリーも変わらない。
「でも、エリエールさんは最期まで、先生の幸せを願っていたと思います。私と結婚して下さいなんてもう言いません。どうか幸せになってください」
ロザリーは椅子から立ち上がると、深々と頭を下げた。
ぽろぽろと透明な雫が、床に落ちていく。
その透明な雫に、自然と目が引き寄せられる。
「苦しまなくていいとは言えない。先生の味わった苦しみが本当はどんなのかわからないから」
ロザリーに話して不幸の一部を背負わせて、自分の苦しみからほんの少しの間でも逃れようと思ったのに、彼女の声は優しかった。
「でも、泣いてもいいと思うよ」
ロザリーは、私の肩を一度だけ叩くと家の外に出た。
☆
私は、泣いてエリエールに許しを請うことはできない。
泣いたら、すべて許されるのか?そう思っていた。
それなのに、ロザリーが扉を閉めた途端、膝の上でぎゅっと握り締めたままの拳に雫が落ちる。
そうだ。ゾンビになってから、ろくに泣いた事はなかった。
ゾンビの時は涙腺があったのかどうかもわからないが、人間に戻ってからも、エリエールのこと以外でも、涙を流した覚えがない。
長いこと泣いていなかったから、どうやって泣き止めばいいのか忘れてしまった。
次から次へとこぼれる涙をとめることができずに――
声を殺して泣いた。
昔、エリエールの前で、一度、大泣きしたことがあった。
あれは、一番かわいがっていた馬が死んだ時だったか。
――こんな年になって、人前で泣いてはいけませんよ――
エリエールは同じ年なのに、背もたいして変わらないのに私の頭を撫でた。
エリエール以外の者の前では泣きはしないと反論したが、侍女は優しく微笑んで言った。
――それは、とても光栄なことですが……私の前で泣くのは今回限りにしてください――
――一生泣くなとは申していません。シャムロック様、涙を見せてもいいと思う相手を。みっともないくらい大泣きをしてもいいと思う女性を見つけてくださいませ――
「『みっともないか』って聞いたら、笑顔で頷かれたなぁ」
泣き顔が笑みでほんの少し解ける。
あの時は11歳だったか。あの頃には私が相手を自由に選べない立場にあることを、私も侍女も知っていた。
ロザリーに洗いざらい話してしまっても晴れなかった心。
だけれど泣いて少しだけ心が軽くなったような気がする。
心の奥に溜まっていた澱がほんの少し溶けた。
決してなくなったわけではないし、また心に溜まっていくこともわかっていたが、今この時は、心が澄んで、他のことにも目を向けられる。
この後、村はどうなる?
子どもたちはせっかく得た知識を役に立てられず、この村で以前と変わらない生活していくのか?
私が始めたのだから、私がいつ終わらせてもいいと心のどこかで思っていなかったか?
ロザリーは私が少し手を貸したとはいえ、読み書きをほとんど独学で覚えた。
読み書きの先生にはなんとかなれるかもしれないが、計算に関しては弱い。
教え子の中に、算数の先生になれそうな、もしくは先生になりたいと思う子どもはいるだろうか?
「いないだろうな」
身体の水分を全部涙に変えて外に流してしまったような感覚。目の辺りが熱を持ちかさかさする。
ポットに残った最後の茶をティーカップに注ぎ、ゆっくり喉を湿らす。
「優しくて、いい娘だし、努力家だからもう少し時間をかければ立派な先生になれるだろうけれど・・・」
自分が言ったある言葉に引っかかりを覚えながら、考えを進める。
自分がいい先生だとは思っていない。
あともうほんの少し、彼女に算数を教える時間があれば、彼女は私よりもずっと――
ふと、自分の言葉の違和感の正体に気づく。『いい娘』?
私はどういう意味で言った?“面倒見の”いい娘?
以前にも、何度か彼女をそう評したことがあったはずだ。
何度そう思った?どうしてそう思った?
何度も目を逸らし、言葉を変えて避け続けていた真実が・・・こんな村を離れる直前になって目の前に晒された。
好きだって気づいていて、ずっと前から『好き』を『いい娘』という言葉に置き換えていた。
人を好きになってはいけないと思っていたけれど、とうの昔に好きになっていたのだ。
選んではいけない扉だから……その扉を――彼女を遠ざけることばかり考えて、自分が彼女のことをどう思っているか、一度も自分の心に向き合ってこなかった。
頭を下げたロザリーが床に涙を落とさなければ、彼女が「泣いてもいい」と言わなければ、自分の心に蓋をし続けて、気づかないふりを続けられたのに……。
アイリスの言葉、ロザリーの涙、エリエールの怒った顔が次々と浮かんでは消える。
「水分補給しなければ良かった」
せっかく泣き止んだはずなのに、また両目から涙が溢れ出してしまった。