ロザリーの日常7
「私の現実はそんなところで終わらなかった。死霊王子が、人間を食べるというのはある意味では真実だ」
ぞくり
と私は背中に氷が滑り落ちたような寒気に襲われた。
お姫様は食べられたんじゃなく、好きな人と幸せに暮らしたって言ったじゃないか。
「伝説のゾンビの身体はすぐ肉が腐り落ちてしまう。肉がなくなれば数日のうちに動く人骨になると思っていたのだが、ゾンビの身体は200年間、死肉を補充し続けた。最初は小動物の死肉の欠片を吸収して――だが、ゾンビになって10日ほど経ったある日、エリエールの声が聞こえた」
ああ、先生の話に聞き入っていて、「エリエールさん」のことをすっかり忘れていた。
「私の身を案じて森に探しに来ただろうその侍女は狼に殺された。せめて、土に埋めてやろうと近づいた時、狼に喰い散らかされた肉片が私の腕に足にまるで磁石に引き寄せられる砂鉄のように、集まってきた」
私は腰を浮かし、がたりと椅子の音をたててしまった。
「私は、自分の身体に寄ってくる彼女の肉片を引き剥がしたが、一部は私の身体になった」
先生が体調不良になった時、せっかく寝たと思ったのに悲鳴をあげて起き上がってきた。先生は腕をかなり強く引っかいて、血が一筋腕を伝っていた。怖い夢を見たって言っていたけれど・・・。
自分の身体に吸い付いてくるおそらく一番親しかった侍女の一部を必死で掻き出すゾンビの姿を想像してしまった。
先生が怖い、おぞましいって思うなんて・・・。
全部、私が今後ここに寄り付かないための先生の作り話だ。
そう思うのに、身体は恐怖で震え、涙が目の端にあふれた。
冗談や作り話で、こんなことをいうような先生か?
先生は、私の反応に慌てることもせずに、淡々と“現実”の続きを語る。
前に告白して振られたときは、私が涙を流すのをわざわざ確認していたが、今回はそれすらもしていない。
「結局、彼女を埋めることもせず、その場を離れた。私はその後200年、あの森に住んでいたが、一度も彼女の遺骸に近づくことはなかった」
そして、おそらく今も彼女の元を訪れていないんだ。
先生の元に辿り着けずに亡くなった侍女のことを想うと先ほどの恐怖の涙とは違う涙がじわじわと溢れ出してくる。
「・・・私の国はその後まもなく、イーストレペンスに併合されて、二つに分かれていた国は『レペンス』に戻った」
いつの間にか部屋の中が薄暗くなっているようだった。
「ゾンビになってからも、人に戻ってからも魔法の力はなくならなかった」
日が落ち始め、先生の表情もよくわからなくなる頃、先生は何事か小さく呟くと柔らかな光の玉が机の上、数センチのところでふわふわ浮く。
私は涙を一度拭くと、そっと光の玉に手を伸ばす。
光の玉はろうそく一本分くらいの光量だが、ろうそくのようには熱くない。
玉から指先がすり抜けるが、光の玉の中に入ったままの指の一部分だけほんのり温かい。
「十年ほど前、王の布告で、お妃にするために国中の美女が集まったことがあったろう?」
そういえば、私が小さい頃、そんなお触れが出て、王妃様が二人に増えたことがあった。
「あの時、一組の恋人たちを助けて、私は一旦、土に返った。アカツメクサの指輪はその時二人から送られたんだ。『シロツメクサの指輪は渡せないけれど』って」
先生が、ちらりと光の玉に入ったままの私の指先を見る。私は光の玉から指を引っ込めた。
「そして、二年と少し前に目覚めて、私はこの村にたどり着いた。“永遠”のはずの呪いが期限切れを迎えたのか、彼らを助けたことで“償った”ことになったのかはいまだわからないが、目覚めた時、私は人間に戻っていた」
先生が光の玉を指先で突くと、光の玉が震え、一回り大きくなり赤みが増す。
さっきは触れればほんのり温かかった程度なのに、今は触っていなくとも光の玉を中心にじんわり熱が伝わってくる。
「私は、あの時の嫉妬の炎が熾火のように自分の心の底で残っていることを知っているし、同じようなことがあったら、また同じ呪いを相手にかけることができることも知っている」
途端、その光の玉が黒く燃える炎に変わったような気がしたが、瞬きの間に元の光の玉に戻った。
「呪いが跳ね返って、私がまたあの姿になるのは自業自得だからかまわない。あの姿になる可能性をわかってて呪いをかけるんだから。だが、あの時、呪いの波紋は思わぬところに広がった。他の者が被害を被るようなことはあってはならない。私は……もう一人のエリエールを見るつもりはない」
一人、狼の出る森をさ迷い歩いて、先生を一目見ることもかなわなかった侍女……。
自分の手元に残ってしまった力を恐れて、人を愛することに怯えてしまった先生……。
先生は天井を見上げて、わずかの間、目を瞑る。
ゆっくり目を開けると、先生は穏やかな声で聞いてきた。
「死霊王子とシロツメクサの話はこれで本当に終いだ。他に聞きたいことは?」
「この村を出るつもりですか?」
「そうだな」
私が質問することを予想していたように、その言葉には迷いがない。
先生は自分の居場所がなくなる覚悟で自分の過去を話し、魔法を見せてくれた。
先生が子どもたちに勉強を教える姿は、過去の悲劇が一つもなかったような穏やかなものだった。
先生から居場所を奪った私は言うべきことを言わないと。
「村を出て行きたいなら、出て行ってかまいません。先生がいなくなっても、授業は私が続けます。でも、エリエールさんは最期まで、先生の幸せを願っていたと思います。私と結婚して下さいなんてもう言いません。どうか幸せになってください」
200年も前の一度も会ったことのない侍女が最期まで願っていたことなんて本当はわからない。
狼に襲われる恐怖の中、彼女は自分が生きることを願っていたのかもしれないし、もっと別のことを願っていたのかもしれない。
でも、心のどこかではきっと先生の幸せを願っていたはずだ。
でないと、あんな森の中に一人で探しに行かない。
先生がやっとたどり着いた幸せを……エリエールが願っただろう先生の幸せを奪った私が何か言う権利も、涙をぽろぽろこぼす資格もないのかもしれない。
「苦しまなくていいとは言えない。先生の味わった苦しみが本当はどんなのかわからないから」
大切な人を自分のせいで死なせる。そんな感覚を実際味わってない私がなにも言えるわけがない。
穏やかな笑顔の裏で、今もあの悪夢を見て苦しみ続けているのだろう。
私は彼の苦しみを軽くするどころか、掘り返すだけ掘り返してしまったのだ。
先生は、エリエールの死を悼んで泣くことを自分に許したことはあったのだろうか?
「でも、泣いてもいいと思うよ」
私の言葉に先生はうつむいたまま、黙っている。
私は先生の肩を一度だけ叩くと外に出た。
馬屋に行き、月を見ながらフェルナンデスを撫でるが、なんだか迷惑そうだ。馬だって眠いのだろう。
30分、1時間くらいした頃だろうか――
「いくら、村が安全だからって、夜中に女性が一人外に出たら駄目だよ。今の時期は寒いし」
いつもの穏やかな笑顔だ。
でも、先生の目が少し赤いのは私の見間違いだろうか?