トリス先生の日常3
寝室へ行っても泣き声は聞こえない。もう帰ったのか。
とても眠れそうになかったが、ベッドに入った途端、疲労のためかすぐ眠りに入った。
私は、森の中にいた。手を見ると、あちこち皮膚が剥けて、肉や骨が剥き出しの状態になっている。それに反して、服はどこもほつれておらず、生地も色あせていない。
まだ、ゾンビになって間もない頃の私だ。
(ああ、またあの夢か)
ゾンビになっている時も、“補充”のたびに思い出し、人間に戻ってからも夢に見る。
夢の中の私は独り、森の中をさ迷う。
この10日間、いやもう11日か。あらゆる術とできうる限りの薬を試したが、呪いは解けなかった。
城の研究室に戻れば、設備が整っている。新たな薬も試せるかもしれないが、こんな姿で戻る勇気なんてなかった。
すべて腐ってしまえば、死ねるかと期待したが、この肉体、肉は、少しづつ腐り落ちていくが、足りなくなった分は、そこらの獣の遺骸で補充する。
遠くで、女性の悲鳴がする。
声が聞こえたのは、一瞬だけだったが、あの声を間違うはずがない。
「エリエールどこだ!」
人ではなくなってしまったせいだろうか?うまく魔術を構築できない。
出来損ないの光の獣を数匹呼び出す。
一匹に反応があり、私はそちらのほうへ駆ける。
(駄目だ。行くな。間に合わない)
「エリエール!」
草をかき分け、狼が囲んでいる“彼女”を目にする。
即座に、閃光を狼たちにぶつける。
逃げていく狼を一瞥すらせず、彼女に駆け寄る。
(近づくな。離れろ)
短く切りそろえられた漆黒の髪に、侍女様の漆黒のドレス。
遺体は長年、自分に仕えた侍女のものだった。
(起きろ!)
片方だけになった黒い目が、じっとこちらを見つめている。
(起きろ!)
城にいるはずの彼女がなぜこんな森の中にいたのかはわからない。
せめて侍女をどこかに埋めようと私が彼女の目を閉じた時だった。
ずるり
何かが引き摺られる音。何度も聞いた“補充”の音だ。
地面に飛び散った肉片が、血が私の身体に引き寄せられる。
砂鉄が磁石に吸い付けられるように、小さな肉片から私に近づいてくる。
離れなければと思うが私は恐怖で身動きがとれず、肉片がいくつか吸収されたところでやっと金縛りが解ける。
「やめろ!」
近づく肉片と自分の身体、両方に叫ぶが、効果はない。
腕に吸収された彼女の肉片を掻き出す。
止まれと念じても、どれだけ掻き出しても、細かな肉片が次々(つぎつぎ)吸収されていく。
☆☆☆
「やめろ!」
私は、自分の悲鳴で、目を開けた。
まだ荒い息をなんとか空気を飲み込み、深呼吸して整える。
結局、私はあの後、彼女を弔うどころか、彼女から逃げることしかできなかった。
私は、その後200年間、あの森をさ迷ったが、一度たりともあの場所には近づかなかった。
あれが、私にとっての『死霊王子』の本当の結末だ。
もう二度と、あんなことはごめんだ。
「痛っ」
左腕を見ると腕をかきむしった跡がある。
かなり深く掻いたようで、蚯蚓腫れのように膨らんでいる上、血がにじんでいる。
大丈夫だとは思うが、念のため消毒をしないといけない。
「うっ」
急に吐き気が込み上げ、片手で口を覆い、手洗いに駆け込む。
胃の中が空っぽになったが、不快感は消えない。
「悲鳴をあげていたけれど、大丈夫?」
台所に行き、冷めた茶の残りで口をすすいでいたところに、ロザリーの声が聞こえた。
「帰ってなかったのか。・・・ちょっと怖い夢を見てね」
悲鳴をあげていたのは覚えているが、他には何か叫んでなかっただろうか。
起きたら食器を洗うつもりだったが、よく見れば台所が片付いている。
私が寝室で寝た後、食器を洗ってくれたようだ。
「すまないね。せっかくご飯作ってくれたのに」
どこまで、見られていたか知らないが、起きるなり手洗いに駆け込んだのは知っているだろう。
「おかゆでいいですか?」
よほど今の私は青い顔をしているのだろう。ロザリーが心配げに聞いてくる。
「もうそろそろ日が傾き始めている。勝手に何か作るから」
正直、今日はもう何も喉を通らないだろう。
「そう言って、また何も食べない気でしょ?」
彼女は、勝手に料理を作り始める。
彼女が料理を作るのを止める気力も出ず、何も声をかけないまま、消毒薬を家の研究室から取ってくる。
「ここに置いておきますけれど、残してもらってかまいません」
食卓の椅子に座って、手当てをしている私の前に、温かな湯気を立てたおかゆが置かれる。
「そんなところだったら、薬塗りにくいでしょ」
薬が塗りきれていなかったようだ。ロザリーは私から、消毒薬を取り上げる。
「どんな怖い夢見たらこんなことなるんですか?」
返事をしない私に、困ったような顔をしたが、彼女はそれ以上は尋ねてこず、黙って手当てをした。
「次こそ、ちゃんと寝てくださいよ。また、来ます」
彼女は、丁寧にお辞儀をすると、日が暮れかけた道を一人帰っていった。
彼女が帰った後、「彼女を振ったのに彼女はなんでここにいて、その上、料理を作ってくれたのだろうか」と、やっとその謎が心の中に浮かんできたが、答えを知っている彼女はもう帰ってしまっている。
また来ると言ってくれているが、今日のことを掘り返すつもりは毛頭ない。
この謎の答えを訊くことは永遠にないのだろう。
結局、彼女が作ってくれたおかゆに手をつけることはできなかった。