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その痛み、鎮痛剤じゃ治りません 〜心身の歪みが“黒い墨の霧”として視える異能の鍼師が、薬に潰される現代人を救う〜  作者: 蒼野湊
第19章 上流の顔

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第72話 温かいお茶、入れますから

「教える余裕は、いまも無いです」


 透は、そう言った。


 頭を下げたままの涼が、少し身を固くした。


「うちは相変わらず予約が二週間待ちで、断り状を書く夜は減りません。他社の見学は増える一方だし、真柴先生からの紹介も来る。……余裕は、たぶん、これから先も一生できません」


「……はい」


「だから、一緒にやってもらいます」


 涼が、顔を上げた。


「え」


「教える余裕ができるのを待っていたら、俺は死ぬまで誰にも教えません。……教えながらやるしかない。あなたが失敗したら、俺が引き受けます。それでいいなら」


 涼の目が、赤くなった。


 この若者は、四か月外に立ち、そのあと三か月、茶を淹れ続けた。一度も鍼を持たせてもらえないまま、患者の湯の温度を五通りに変えられるようになった。


「……いいです」


「返事は」


「はい。お願いします」


 透は、頷いた。


「明日から、問診を一人だけ任せます。鍼は、まだです」


「はい」


「その次は、脈の取り方。そのあと、視られないものをどう聞くか。……鍼は、いちばん最後です」


「はい」


「都築さん」


「はい」


「ようこそ」


 涼は、そこで、初めて泣いた。



 その夜、透は桐の小箱を、涼の前に置いた。


「開けてみてください」


 涼は、丁寧に蓋を開けた。


 中には、細い鍼が一本だけ入っている。使い込まれた、古いものだった。いまの規格の鍼とは、少し太さが違う。


「これは」


「俺が拾われた日、白石先生が、俺の手のひらにのせてくれた鍼です」


 涼は、触らなかった。手を伸ばしかけて、止めた。


「触っても、いいですか」


「まだです」


 透は、蓋を静かに閉じた。


「いつか、渡します。……まだだ」


「……はい」


「渡す日が来たら、そのときは、あなたが誰かに渡す番の話をします。俺はそういう順番でしか、この仕事を教われませんでした」



 最後の枠が終わった夕方、ブースの棚には、湯呑みが三つ並んでいた。


 ひとつは、透のもの。ひとつは、患者用。そしてもうひとつは、涼が自分で買ってきた、少し不格好な、厚手のやつだった。


「先生。これ、僕のです。……勝手に、置いていいですか」


「どうぞ」


 三つ並ぶと、棚が急に賑やかに見えた。



 その日、涼が最後に開いた封筒は、営業資料だった。


 ブース宛に、宛名も入れずに投函されていたものだ。表紙に、こうある。


 企業向け出張養生パッケージ。産業鍼灸師、大量採用。


 中を開くと、写真が並んでいた。清潔な白いブース。笑顔のスタッフ。10分で身体を整えます、の文字。全国展開、初期費用ゼロ、月額制。


 いちばん下に、小さく会社名があった。


 株式会社リセット・ヘルスケア。代表取締役、宇津木。


 涼は、その資料を、しばらく見ていた。


「……僕の古巣です」


「社名、変わってますね」


「整体を外したんだと思います。……養生って言葉、使ってますね。これ」


 涼が、ページをめくった。


「研修三日間、って書いてあります。三日で、養生を教えるって」


 透は、その資料を受け取った。


 嘘は、書いていない。この会社は、たぶん本気で、全国の会社に身体を整える場所を作ろうとしている。それ自体は、いいことのはずだった。


 いいことのはずのものが、いちばん厄介なのだと、この一年で学んだ。



 同じ週、美咲から内線があった。


「先生。産業医会から、推進室に照会が来ました」


「産業医会」


「はい。……『鍼灸師の産業保健分野への関与について、実態を照会したい』と。うちのブースの運用形態と、産業医との連携の実際を、書面で出してほしいそうです」


「これは、いい話ですか」


「分かりません」


 美咲は、正直に言った。


「いい話にもできるし、規制の下準備にもできます。……たぶん、向こうもまだ決めてないです。決める材料を集めてる段階だと思います」


「じゃあ、いい材料を出しましょう」


「はい。そのつもりです」



 夜、透はブースの灯りを落とす前に、机の上の営業資料を、もう一度見た。


 養生の時代が来る。


 この一年で戦ってきたのは、痛みを消す薬だった。次に来るのは、たぶん、痛みを消さない側の看板を掲げた何かだ。全国展開。研修三日。月額制。


 広がるのは、いいことだ。


 広がるものは、薄まる。


「……薄まらずに、広がれるか」


 誰もいないブースで、透はそう呟いた。


 答えは、まだ無い。ただ、宿題があるというのは、悪いことではなかった。この一年、宿題が無かった日は一日も無い。



 翌朝。


 ブースの入口に、新しい人が立っていた。


 総務からの申し送りには、名前と部署しか書いていない。転職して二か月目。特に不調の訴えは無いが、制度で一応、と本人が言っている。


 姿勢のいい人だった。いい姿勢のまま、降ろし方の分からない荷物を背負っている、あの立ち方だった。


 透は、湯呑みに手を伸ばした。


 伸ばして、途中で止めた。


「都築さん」


「はい」


「お願いします」


 涼が、盆を持った。


 湯を注いで、湯気の立ち方を確かめて、温度を少し下げて、それから、戸口へ向かった。


 新しい患者に、若い鍼灸師が、まっすぐ声をかける。


「どうぞ、座ってください。温かいお茶、入れますから」


 患者が、恐縮しながら椅子に座る。


 涼は、湯呑みを両手で差し出した。差し出してから、少し息を吸って、自分の師匠がいつもそうするように、穏やかに、こう言った。


「肩、凝ってませんか?」

 第2部、これにて完結です。

 白瀬さんの二十年と、白石先生の言えなかった一言と、涼くんのお茶。第2部で書きたかったものは、この三つに入っていました。

 「肩、凝ってませんか?」が弟子の口から出るところまで来ました。第1話からここまで、七十二話にお付き合いいただき、心から御礼申し上げます。

 宿題は残っています。薄めた養生が全国に広がろうとしていること、産業医会の照会、そして涼くんに渡していない一本の鍼。第3部で、そのあたりを。

 気に入っていただけたら、ブックマークと評価、感想で応援していただけると、次の物語への何よりの力になります。それでは、また。……肩、凝ってませんか? 凝っていたら、今夜は温かいお茶でも。

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