第72話 温かいお茶、入れますから
「教える余裕は、いまも無いです」
透は、そう言った。
頭を下げたままの涼が、少し身を固くした。
「うちは相変わらず予約が二週間待ちで、断り状を書く夜は減りません。他社の見学は増える一方だし、真柴先生からの紹介も来る。……余裕は、たぶん、これから先も一生できません」
「……はい」
「だから、一緒にやってもらいます」
涼が、顔を上げた。
「え」
「教える余裕ができるのを待っていたら、俺は死ぬまで誰にも教えません。……教えながらやるしかない。あなたが失敗したら、俺が引き受けます。それでいいなら」
涼の目が、赤くなった。
この若者は、四か月外に立ち、そのあと三か月、茶を淹れ続けた。一度も鍼を持たせてもらえないまま、患者の湯の温度を五通りに変えられるようになった。
「……いいです」
「返事は」
「はい。お願いします」
透は、頷いた。
「明日から、問診を一人だけ任せます。鍼は、まだです」
「はい」
「その次は、脈の取り方。そのあと、視られないものをどう聞くか。……鍼は、いちばん最後です」
「はい」
「都築さん」
「はい」
「ようこそ」
涼は、そこで、初めて泣いた。
その夜、透は桐の小箱を、涼の前に置いた。
「開けてみてください」
涼は、丁寧に蓋を開けた。
中には、細い鍼が一本だけ入っている。使い込まれた、古いものだった。いまの規格の鍼とは、少し太さが違う。
「これは」
「俺が拾われた日、白石先生が、俺の手のひらにのせてくれた鍼です」
涼は、触らなかった。手を伸ばしかけて、止めた。
「触っても、いいですか」
「まだです」
透は、蓋を静かに閉じた。
「いつか、渡します。……まだだ」
「……はい」
「渡す日が来たら、そのときは、あなたが誰かに渡す番の話をします。俺はそういう順番でしか、この仕事を教われませんでした」
最後の枠が終わった夕方、ブースの棚には、湯呑みが三つ並んでいた。
ひとつは、透のもの。ひとつは、患者用。そしてもうひとつは、涼が自分で買ってきた、少し不格好な、厚手のやつだった。
「先生。これ、僕のです。……勝手に、置いていいですか」
「どうぞ」
三つ並ぶと、棚が急に賑やかに見えた。
その日、涼が最後に開いた封筒は、営業資料だった。
ブース宛に、宛名も入れずに投函されていたものだ。表紙に、こうある。
企業向け出張養生パッケージ。産業鍼灸師、大量採用。
中を開くと、写真が並んでいた。清潔な白いブース。笑顔のスタッフ。10分で身体を整えます、の文字。全国展開、初期費用ゼロ、月額制。
いちばん下に、小さく会社名があった。
株式会社リセット・ヘルスケア。代表取締役、宇津木。
涼は、その資料を、しばらく見ていた。
「……僕の古巣です」
「社名、変わってますね」
「整体を外したんだと思います。……養生って言葉、使ってますね。これ」
涼が、ページをめくった。
「研修三日間、って書いてあります。三日で、養生を教えるって」
透は、その資料を受け取った。
嘘は、書いていない。この会社は、たぶん本気で、全国の会社に身体を整える場所を作ろうとしている。それ自体は、いいことのはずだった。
いいことのはずのものが、いちばん厄介なのだと、この一年で学んだ。
同じ週、美咲から内線があった。
「先生。産業医会から、推進室に照会が来ました」
「産業医会」
「はい。……『鍼灸師の産業保健分野への関与について、実態を照会したい』と。うちのブースの運用形態と、産業医との連携の実際を、書面で出してほしいそうです」
「これは、いい話ですか」
「分かりません」
美咲は、正直に言った。
「いい話にもできるし、規制の下準備にもできます。……たぶん、向こうもまだ決めてないです。決める材料を集めてる段階だと思います」
「じゃあ、いい材料を出しましょう」
「はい。そのつもりです」
夜、透はブースの灯りを落とす前に、机の上の営業資料を、もう一度見た。
養生の時代が来る。
この一年で戦ってきたのは、痛みを消す薬だった。次に来るのは、たぶん、痛みを消さない側の看板を掲げた何かだ。全国展開。研修三日。月額制。
広がるのは、いいことだ。
広がるものは、薄まる。
「……薄まらずに、広がれるか」
誰もいないブースで、透はそう呟いた。
答えは、まだ無い。ただ、宿題があるというのは、悪いことではなかった。この一年、宿題が無かった日は一日も無い。
翌朝。
ブースの入口に、新しい人が立っていた。
総務からの申し送りには、名前と部署しか書いていない。転職して二か月目。特に不調の訴えは無いが、制度で一応、と本人が言っている。
姿勢のいい人だった。いい姿勢のまま、降ろし方の分からない荷物を背負っている、あの立ち方だった。
透は、湯呑みに手を伸ばした。
伸ばして、途中で止めた。
「都築さん」
「はい」
「お願いします」
涼が、盆を持った。
湯を注いで、湯気の立ち方を確かめて、温度を少し下げて、それから、戸口へ向かった。
新しい患者に、若い鍼灸師が、まっすぐ声をかける。
「どうぞ、座ってください。温かいお茶、入れますから」
患者が、恐縮しながら椅子に座る。
涼は、湯呑みを両手で差し出した。差し出してから、少し息を吸って、自分の師匠がいつもそうするように、穏やかに、こう言った。
「肩、凝ってませんか?」
第2部、これにて完結です。
白瀬さんの二十年と、白石先生の言えなかった一言と、涼くんのお茶。第2部で書きたかったものは、この三つに入っていました。
「肩、凝ってませんか?」が弟子の口から出るところまで来ました。第1話からここまで、七十二話にお付き合いいただき、心から御礼申し上げます。
宿題は残っています。薄めた養生が全国に広がろうとしていること、産業医会の照会、そして涼くんに渡していない一本の鍼。第3部で、そのあたりを。
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