五分後に灰になる声
慌てた様子で一人の男が扉を押し開けた。
夜気を背負い、肩で息をしながらカウンターに近づく。
指先は震え、何かに追い立てられるような眼差しで、彼は口を開いた。
「あの、すみません……電話を貸してほしいのですが……」
応じたのは、静かに佇む店主だった。
薄闇の奥からすでに目を向けていたかのように、揺るがぬ声音で答える。
「はい。お待ちしておりました。五分間で、十万円です」
◆
街のざわめきから一歩離れた路地に、その店はあった。
看板も出していない。磨りガラスに映るのは、ただ『電話』の一文字だけ。
扉を押すと、古い掛け時計の針の音が際立つ。
壁には何も飾られていない。棚には一列に並んだスマートフォンが、冷えた灰色の光を宿していた。
整然と置かれているのに、どれも同じ型番、同じ色。まるで人の顔がすべて均一に作り替えられたかのようで、息苦しさを誘う。
カウンターの奥で、一人の男が静かに佇んでいる。
年齢はわからない。皺が寄っているようにも、妙に若々しいようにも見える。
ただ、その眼差しだけが、異様なほど澄んでいる。色を持たない硝子のように。
彼は口を開いた。
「いらっしゃいませ」
その声は穏やかだった。けれど、何かを測るような響きを帯びていた。
客の靴音を追いかけるたび、彼の眼は人間を観察する者の冷たさを覗かせる。
今夜もまた、一人の依頼者が腰を下ろした。
痩せた肩に、古びたコート。
男は手にした封筒を差し出す。指は小刻みに震えている。
「……妻に、伝えたいことがありまして」
言葉を選ぶように、男は低く呟いた。
店主は封筒を受け取り、数えることもなく脇へ置く。
かわりに、棚から一台のスマートフォンを取り出した。
淡い緑のランプが、ひとつだけ灯る。
「五分間だけ、通話が可能です」
そう言うと、男の眼に涙がにじんだ。
奥の部屋へと足を運びながら受話器を耳に当てる仕草は、まるで懺悔室にすがる信者のようであった。
針の音が一段と大きく響く。
五分の時はあまりにも短く、しかし十分だったのだろう。
スマホを置いた男の頬には涙の跡が残っていた。
けれどその顔には、不思議なほど晴れやかな表情が浮かんでいた。
「……ありがとうございました」
深々と頭を下げる。
その声音には、長いあいだ喉にひっかかっていた石を吐き出したような安堵が混じっていた。
彼はハンカチで濡れた目を拭い、少しぎこちない笑みを浮かべる。
まるで憑き物が落ちた人間の顔――と呼ぶのがいちばん近い。
カウンターの上では、役目を終えたスマートフォンが音もなく崩れていく。
端から砂粒のように剝がれ、やがて灰色の塊となって器の中に沈んだ。
それを店主は何事もない顔で片付ける。灰は決して素手では触らず、古びた小匙で掬い取って金属の缶へ落とす。
カラン、と乾いた音が響いた。
男は一礼し、背を向けて扉を押した。
小さな鐘の音が夜気に溶ける。
外に出ると、路地の湿った空気に吸い込まれるように、その姿は闇に消えていった。
――こうして、また一人。
この店を訪れる客の多くは、似たような表情をして帰っていく。
ここでは「死んだ者のスマホを処分してほしい」という名目で、ある種の取引が行われる。
支払うのは十万円。
対価として、依頼者は五分間だけ、死者と通話する権利を得る。
五分が終われば、必ず端末は灰となり、形を失う。
同じ人物と対話する機会は、二度と訪れない。
延長は不可能。録音や持ち帰りも認められない。
ただ『その一度きり』に賭けるのだ。
人は最後の会話を求める。
謝罪の言葉、愛の告白、あるいは罵倒。
五分という制限はあまりに短い。だが短いがゆえに、彼らは己の胸に積もった澱を吐き出すことができる。
それは涙を伴い、笑顔を生み、ときに呪詛を呼ぶ。
店主は、そのすべてを見届ける。
慰めることも、咎めることもない。
ただ、灰を掬い、時計の針が刻む音に耳を澄ませるだけ。
灰を収めた缶を棚に戻したとき、雑に扉が開かれると、ドカドカと靴音が響いた。
それは先ほどの男性とはまるで異なる人種だった。
床板を乱暴に踏み鳴らし、軋む音すら威嚇の一部にしているような横暴さ。
湿った夜気を押し退けて入ってきたのは、派手な柄シャツに金の鎖をぶら下げた男だった。
油と煙草の匂いが、一歩進むごとに店の空気に侵食していく。
サングラスを外そうともせず、カウンターにどかりと腰を下ろした。
「……ここで、死んだ奴と話ができるんだろ?」
低く掠れた声に、嗤いが混じる。
男はポケットから厚い札束を掴み出し、カウンターに叩きつけた。
札はばらけて散り、夜風に震える紙片のように床に落ちた。
「ほらよ。十万だか百万だか知らねえが、足りねぇとは言わせねぇ。早くしろ」
主人公は崩れた札を拾おうともしない。
ただ視線だけを落とし、均一な声で答える。
「必要なのは十万円。余分は受け取れません」
「チッ……融通の利かねえ野郎だ」
男は苛立たしげに舌打ちをしながらも、差し出されたスマホに手を伸ばした。
乱雑に電源を入れると、淡い光を帯びた端末が呼吸するように点滅する。
「プライバシーの侵害になりますので、お電話はあちらのお部屋で」
「ハッ。死んだヤツにプライバシーもクソもあるかよ」
男は馬鹿にしたようにそう言って、ポケットから煙草の箱を取り出した。
数秒の沈黙。
やがて向こう側から声が届いた。
『……お前か』
くぐもった声。
しかし、男の顔は一瞬で怒気に染まった。
「そうだよ、俺だ! いいから答えろ! 金はどこに隠した!? 帳簿はどうした!?」
カウンターの木目が震えるほどの怒号。
だが、返ってきた声は冷ややかだった。
『あの世にまで帳簿を持っていくと思うか。足りない頭を全部使って探せよ』
「ふざけんな!!」
男は机を叩き、椅子を軋ませて立ち上がる。
その後も押し問答は続き、結局、彼の求める回答は得られないまま電話は切れた。
「おい、もっと繋げろ! 五分で足りるわけねぇだろ!」
スマホを握りしめたまま、店主に向かって怒鳴る。
彼の表情は変わらない。
「契約は五分。延長は不可能です」
「バカにしやがって……!」
怒りに任せ、男はカウンター越しに手を伸ばす。
しかし、その腕は途中で止まった。
店主の視線が、氷のように自身を射抜いていたからだ。
静かに、ただ静かに。
けれど、心臓を握り潰すような重みを伴って。
男の喉が鳴る。
汗が額を流れ落ちる。
しばしの沈黙ののち、彼は荒々しく息を吐き、端末を放り投げた。
「クソが……」
毒を吐くように呟き、床に散らばった札を乱暴にかき集める。
足音を響かせ、扉を蹴り開けて出ていった。
残されたのは、またひとつ灰となる端末と、湿った煙草の臭いだけだった。
扉を閉じると、夜のざらついた静けさが戻ってきた。
残されたのは、灰と、まだ空気に漂う安酒と煙草の臭い。
店主はカウンターに目を落とす。
受話器の横に崩れ落ちた端末は、すでに形を失いつつあった。
黒ずんだ殻が剝がれ、さらさらと粉をこぼしながら、まるで時間そのものが風化していくように消えていく。
小匙で灰を掬う。缶に落ちるたび、乾いた音がひとつ。
カラン、カラン。
静寂を裂く金属音が、妙に澄んで響いた。
「怒りは、熱が早く冷める」
低く呟く。
感情を観察する医師のように、あるいは玩具を弄ぶ子供のように。
店主の眼は、怒鳴り散らす男の顔を思い出しながら、冷たく光っていた。
「反応としては、典型的だったな」
その声には熱がない。
ただの感想にすぎなかった。
掛け時計の針が音を立てて進んだ。
その規則正しさに溶けるように、煙草の臭いも徐々に薄らいでいく。
灰を収め終えると、店主は深く息を吐いた。
人間が見せる感情の濃度は、五分という時間でこそ際立つ。
短すぎてすべてを言い尽くせず、長すぎて取り繕う暇もない。
剝き出しになるのは、欲望か、愛情か、あるいは憎悪か。
それを覗き見るために、彼はこの場所を営んでいる。
彼自身の飢えを満たすために。
外ではまた、夜風が路地を吹き抜けた。
磨りガラスの向こうに影が揺れる。
店主は整然と並んだ端末に手を伸ばし、灰の匂いを残したままの指で一台を取り上げる。
「いらっしゃいませ」
声は静かで、どこまでも均質。
しかしその奥底に、人ならざるものの愉悦が、微かに滲んでいた。
扉が小さく鳴り、次の客が入ってきた。
先ほどの乱暴者とは打って変わって、軽やかで控えめな靴音。
現れたのは三十代ほどの女性だった。
肩までの髪をきちんとまとめ、薄い色合いのワンピースに身を包んでいる。
姿勢はまっすぐで、笑みも柔らかい。
路地裏のこの場所に似つかわしくない、穏やかな光をまとっていた。
「……こんばんは。いいお店ですね」
まるで、個人経営のカフェにでも立ち寄ったかのような台詞だった。
店主は大した感想も抱かずに、彼女の言葉に応える。
「路地の奥で、分かりづからかったでしょう」
「そうですね。できれば近くに、ATMを設置したほうがいいと思いますよ」
「検討しておきます」
社交辞令でそう言うと、決められた言葉を並べ立てる。
「死者と五分だけ通話が可能です。代金は十万円。延長はできません。よろしいですか」
女性は頷き、鞄から封筒を取り出した。
まるで事前に金額を知っていたかのように、迷いなく十枚の紙幣を差し出す。
指の震えもなく、目の色も変わらない。
受け取った封筒を脇に置き、店主は端末を差し出す。
卓上に置かれたスマートフォンが淡く光り、緑のランプが点滅を始める。
「どうぞ」
女性は頷き、ゆっくりと受話器を耳に当てた。
その仕草は、まるで長年の習慣のように自然だった。
数秒の静けさ。
やがて、向こうから声が届く。
『……あぁ、君か』
男の声だった。柔らかく、温度を帯びている。
「ええ、私よ」
声は柔らかく震えていた。
口元に浮かんだ笑みは、まるで時を巻き戻すような、優しい形を描いていた。
『もう一度、君の声が聞けるなんて……夢みたいだ』
「私もよ。たった五分の夢だとしても、嬉しい」
『あぁ……本当だ。また、君の淹れてくれたお茶が飲みたいよ』
「ふふ……よく言うわね。あれは、いつも濃すぎるって文句を言ってたくせに」
『それでも好きだった。君と一緒に飲む時間が、大好きだったんだ』
女の瞳に涙がにじむ。スマホを握る指先が、白くなるほど力を込めていた。
「私もよ。……もっと、一緒にいられたらよかった」
『最後まで隣にいてあげられなくて、ごめんね。本当に……ごめん』
「謝らないで。あなたがいてくれたから、私は……今もこうして生きていられるの」
時計の針が一歩進むたび、過ぎ去った日々が呼び戻される。
声に乗って届くのは、確かに二人だけの思い出だった。
『僕のことは、もう気にしなくていい。いい人がいたら、幸せになってね』
「そんなこと……言わないで」
『君に笑っていてほしいんだ』
「あなたこそ……ずるいわ。私に全部残していって……」
受話器の向こうで、優しい笑い声が小さく響いた。
涙に揺れる視界の中で、女は声を漏らす。
「……会いたかった」
『僕もだ。君の声が、まだこうして届いて嬉しい』
二人の声は重なり合い、かすかに震えながらも、互いを確かめるように続いていく。
五分という短さを忘れさせるほどに、密やかで、真実味を帯びた時間だった。
やがて、卓上のランプが消える。
通話は終わりを告げ、端末は灰へと変わっていく。
女はしばらく空になった拳を握りしめたまま動かなかった。
閉じた瞳から流れる涙は、頬を伝って光を残し、やがてカウンターに落ちる。
その表情は、深い哀しみと同時に、どこか安らぎを湛えていた。
灰になった端末の残骸を見つめながら、女は静かに拳を開いた。
涙の跡が頬に残っている。けれど、その目元には晴れやかさがあった。
まるで長い旅路を終えた者のように、静かな呼吸を整えている。
「……ありがとう」
目元をハンカチで押さえながら、女は小さく頭を下げた。
感情の奔流を終えた人間に特有の、静かで澄んだ呼吸。
先ほどの依頼者と同じく、彼女もまた、憑き物が落ちた顔をしていた。
店主は、棚の奥に置かれた白い陶器の急須に手を伸ばした。
湯を注ぎ、香りがふわりと立ちのぼる。
茶の温度はぬるすぎず、熱すぎず。
通話を終えた者の喉を潤すにはちょうどいい加減だった。
湯呑みに注いだその琥珀色の液体を、無言で女の前へ差し出す。
「サービスです」
小さな声でそう告げる。
女は目を細め、柔らかい笑みを浮かべた。
しかし、それに手を伸ばそうとはしなかった。
「……ありがとうございます」
一拍おいて、口元の笑みを深める。
「でも結構です。お茶、嫌いなんです」
――瞬間、店内の空気がわずかに軋んだ。
女は軽く頭を下げ、椅子を引いて立ち上がる。
涙の跡を残したまま、それでも背筋をすっと伸ばし、微笑を絶やさずに扉へと向かう。
その姿は、まるで先ほどまでの通話と同じく、きれいに仕立てられた演劇の一幕のようだった。
扉が閉まると、夜風がふっと流れ込んだ。
その直後、低く唸るエンジン音が路地の奥で立ち上がる。
来たときの足音すら残さずに、彼女はこの場所から消えていった。
店主はしばらく耳を澄まし、それから視線をカウンターへ戻した。
湯呑みから立ち上る湯気は、誰にも触れられることなく、空気に溶けていく。
ただ静かに、まるで痕跡を残すことを拒むように、香りだけを置き去りにして。
◆
カップの中身から温度が消えるのを待つように、店主はしばし無言で立ち尽くした。
やがて棚の奥から、擦り切れた帳面を取り出す。
頁をめくる指先は迷いなく、ある名前の記された行へと辿り着く。
そこには、幾重にも同じ文字が重なっていた。
少しずつ筆跡を変え、時を置いて書き足されたそれは、涙の痕にも、笑顔の裏に積み重なった澱にも似た墨の層となり、頁をじわりと黒ずませている。
店主は小さく息を吐き、乾いた笑みを洩らした。
「……リピーターは珍しい」
低く呟かれた言葉は、驚きでも感心でもなく、ただ観察者の記録に過ぎなかった。
この店では、ほとんどの客が一度きりの訪問で終わる。
それでも時折、確認を繰り返しに来る者がいる。
愛されていたか。あるいは、裏切られていなかったか。あるいは、悪事が露見していないか――確かめ続ける者が。
帳面を閉じると、部屋の静けさがいっそう濃くなった。
残された湯呑みからは湯気が消え、渋みを含んだ香りだけが、かすかな余韻のように空気に溶けている。
店主は目を細め、磨りガラス越しの闇に視線を向けた。
「これだから、人間は飽きない」
灯りをひとつ落とすと、灰の匂いがふわりと立ち、夜は再び路地を満たしていった。