週末異世界ワークアウト:今日から異世界ジム、始めました。
プロローグ:月会費分の元を取りたいOL
東京の片隅、築30年のワンルームマンション。そこに住む田中花子の日常は、まるでモノクロ映画のようだった。朝は、目覚まし時計の無機質な電子音で無理やり意識を浮上させ、満員電車に押し込まれて会社へ向かう。会社では、山積みの書類と終わりの見えないタスクに追われ、上司の気まぐれな指示に振り回される。夜は、コンビニで買った総菜を適当に温め、ため息と疲労を肴に一人で食べる。週末は、疲れた体を癒すためだけに存在し、特にこれといった趣味もなかった。
29歳、独身。一般的な会社員としては平均的な人生を歩んでいるように見えるかもしれないが、花子の心の中は常に灰色だった。何事にも情熱を持てず、夢や目標と呼べるものもなかった。会社に行くのは生活のため、食事をするのは生きるため。そんな漠然とした義務感だけで日々を消化しているような感覚だった。
唯一、彼女が自ら足を運ぶ場所があった。駅前に新しくできた24時間営業のフィットネスジムだ。きっかけは、会社の健康診断で指摘された「運動不足」と「軽度の肥満」という診断結果だった。別に病気というわけではない。ただ、「このままでは良くない」という漠然とした不安に駆られ、惰性で入会してしまったのだ。
「運動して健康になれば、少しは人生も変わるかな…」
そんな淡い期待を抱いて入会したジムだったが、結果は惨憺たるものだった。最初の数回こそ、意気込んでランニングマシンを使い、筋トレエリアをうろうろしたものの、すぐに飽きてしまった。マシンと向かい合う単調な作業は、花子の心の灰色をさらに濃くするだけだった。
「これで月会費1万円か…完全に無駄にしてるな…」
ジムに行くたびに、いや、行かない日も、その月会費が彼女の心を蝕んだ。もったいない、という気持ちだけが、彼女をジムへと向かわせる唯一の原動力になっていた。しかし、その足取りは重く、ジムに着いても、結局はストレッチエリアでスマホを眺めるか、人が少ない時間帯にこっそりエアロバイクを漕ぐ程度で終わってしまう。そして、帰り道には決まって自己嫌悪に陥る。
そんなある日の金曜日の夜、いつものように残業で疲れ果てた花子は、会社のデスクに突っ伏してうたた寝をしていた。夢うつつの中、不思議な声が聞こえた気がした。
「どうか…どうか、この世界を救う力を…」
その声は、男性の声のようだったが、どこか遠く、そして切羽詰まっているように聞こえた。花子は疲労困憊で、幻聴だろうと軽く受け流した。しかし、その声が途切れると同時に、足元から不思議な光が湧き上がってくるのを感じた。鈍い光は、次第に強烈な輝きを放ち、花子の全身を包み込んだ。
「え…なにこれ…!?」
光に包まれる感覚は、まるで体が宙に浮いているかのようだった。目を開けていられず、強く瞑る。そして、次に目を開けた時、花子の視界に飛び込んできたのは、見慣れた蛍光灯の白い光ではなく、薄暗い洞窟の岩肌と、無数のロウソクの明かり、そして目の前で土下座する、見知らぬ青年の姿だった。
その青年は、長いローブを身につけ、顔には疲労と焦燥が色濃く刻まれていた。花子を見るなり、彼は縋るように叫んだ。
「あ、あなたが…! 伝説に語り継がれし『異界の勇者』様ですか!?」
花子は困惑した。頭の中には「勇者?」「異界?」「何の話?」という疑問符がいくつも浮かんでいた。しかし、それよりも先に、彼女の脳裏に浮かんだのは、ただ一つの現実的な、あまりにも現実的な懸念だった。
「えっと…すみません、どちら様ですか? それと、私、今、月会費分の元を取るためにジムに行かなきゃいけないんですけど…」
その瞬間、異世界に召喚された「勇者」と、彼女を召喚した魔術師との間で、根本的な認識のズレが生まれた。世界を救う大いなる使命と、月会費の元を取りたいというささやかな欲望。二つの全く異なる目的が、異世界という舞台の上で、偶然にも交差してしまったのだ。花子の平凡で灰色な日常は、この時、予期せぬ、そしてとてつもなく非常識な方向へと舵を切ったのだった。
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第2章:ダンジョンは最高のトレーニングルーム
#1. 週末の再召喚と新たな目標
金曜の夜、田中花子は、会社のデスクに突っ伏すようにして意識を失った。激務と日々のプレッシャーが作り出す疲労は、週末の「異世界ワークアウト」が唯一の清涼剤となっていたが、それも平日の重圧の前には無力だった。彼女の意識は深い眠りの底へと沈み込み、次に目を開けた時、視界に飛び込んできたのは、見慣れた自宅の白い天井ではなく、ひんやりとした岩肌の天井だった。わずかに漂う土と湿気の匂いが、それが「いつもの場所」であることを花子の脳裏に刻みつけた。
「あー、また来ちゃいましたね。ゼフィールさん、お久しぶりです」
花子は、疲労と慣れが混じった、どこか他人事のような声で言った。もはや驚きも戸惑いもない。それが、ここ数週間の彼女の週末のルーティンとなっていた。自宅のベッドで目覚めるはずが、魔法陣の光に包まれて異世界に転移する。最初の頃は心臓が飛び出るかと思うほど驚いたものだが、今では「週末のジムに行く感覚」に近かった。むしろ、会社のストレスから解放される唯一の場所、とさえ認識し始めていた。
目の前には、前回と変わらず、いや、前回よりもさらに憔悴しきった様子の青年、ゼフィールがいた。彼の顔には深いクマが刻まれ、その蒼白な肌は、一晩中眠らずに何かと格闘していたことを雄弁に物語っていた。彼の足元には、無数の魔術書が散乱し、使い切られたのか鈍い光を放つ魔石の残骸が転がっていた。花子の声を聞き、ゼフィールは安堵の息を漏らす。その瞳には、切羽詰まったような光と、一筋の希望が宿っていた。
「よ、よかった…召喚に成功した…! 花子様…いや、勇者様! お待ちしておりました!」
彼は魔法陣の周りに散らばった書物や魔石を気にすることなく、花子の両手を掴み、縋るように言った。彼の指先は冷え切っており、その震えが、彼がどれほどの窮地に立たされているかを物語っていた。彼の言葉の端々には、世界が直面している未曾有の危機、魔王軍の侵攻、そして彼が背負う「勇者召喚」という重い使命がにじみ出ていた。
花子は、そんなゼフィールの必死な様子にも動じることなく、首を傾げた。彼女の思考は常に、目の前の「異世界」という環境を、いかに自身の「フィットネス」に役立てるか、という一点に集約されていた。
「それで、今日はどんなワークアウトですか? 前回は有酸素運動が中心でしたけど、そろそろもう少し負荷の高いのが欲しいですね。全身を鍛えられる場所とかないですか? 最近、ジムの月会費、ちょっと無駄にしてる気がしてきて。どうせなら、もっと効率よく、筋肉に効く運動がしたいんですよね。ジムのマシンって、どうしても単調で、飽きちゃうんですよね」
花子の言葉に、ゼフィールは一瞬、呆気に取られたような顔をした。彼の脳裏には、魔王軍が国境を越え、都市が炎に包まれ、人々が恐怖に怯える光景が渦巻いていたはずだ。しかし、目の前の女性は、そんな世界の命運よりも、自身のトレーニングメニューについて真剣に悩んでいる。そのあまりにも大きな認識のズレが、ゼフィールの心を激しく揺さぶった。彼は、この女性が本当に伝説の「勇者」なのか、と疑念を抱かずにはいられなかった。しかし、彼女が異界から来た唯一の希望であることは疑いようのない事実だった。
それでも、ゼフィールはすぐに気を取り直した。彼女を繋ぎ止めるためには、彼女の「欲求」を満たすことが最優先だと、彼はこの数週間の経験から学んでいた。彼女が「運動」と称して行う行動が、結果的に魔物を退け、魔王軍の計画を妨害しているのだから、その「欲求」を刺激し続けることこそが、彼に課せられた唯一の道だと信じていた。
「あります! 花子様! 素晴らしい場所が! 伝説の魔物が棲むと言われる、古の『ダンジョン』が! そこには、あなたの力を存分に振るえる強敵が…! 魔王軍の奴らが、そのダンジョンの深部に眠る力を手に入れようとしているという情報も…その力を手に入れれば、世界は完全に魔王の支配下に…!」
ゼフィールの声は興奮と焦燥で震えていた。ダンジョンという言葉の響きが、花子の目をわずかに輝かせた。RPGの世界でしか存在しないと思っていたダンジョンが、目の前に現れる。それは、平凡なOLであった花子にとって、非日常への最高の誘いだった。
「ダンジョン! いいですね! なんかRPGみたいでワクワクします。ジムの暗いスタジオより、開放感ありそう! しかも、強敵がいるってことは、パーソナルトレーナー付きの高負荷トレーニングって感じですか? 良いですね! マンツーマンで追い込んでもらえるのは嬉しいな!」
花子は無邪気に笑った。彼女にとって「ダンジョン」とは、かつて夢中になったゲームの世界に登場する、冒険心をくすぐるロマン溢れる場所であり、現実の閉塞感を忘れさせてくれる、最高の非日常空間だった。ゼフィールが必死に訴える「世界の危機」や「魔王軍の企み」といった言葉は、彼女の耳には「最高のトレーニング環境を提供するための背景設定」としか響いていなかった。彼女の頭の中は、すでにダンジョンでの具体的なトレーニングメニューの考案でいっぱいだった。「全身運動かあ…スクワットにプランク、バーピーも取り入れたいし、有酸素運動もバランスよく…あと、体幹も鍛えたいし、俊敏性も必要になりそう…」彼女の思考は、あくまで自分自身の肉体の向上へと向かっていた。異世界の命運など、彼女のフィットネスプランには全く含まれていなかった。
ゼフィールは、花子の前向きな反応に、内心でガッツポーズをした。彼女が世界を救う「勇者」としての自覚を持ってくれた、と勝手に解釈したのだ。彼は、花子が自身の「トレーニング」のために異世界に足を運ぶことを理解しつつも、それが結果的に世界の命運を左右する行動に繋がっていることを薄々感じ始めていた。だが、彼女の真意を問いただすことよりも、彼女の「運動したい」という欲求を刺激し続けることが、彼に課せられた唯一の道だと信じていた。
「さあ、勇者様! 世界の未来はあなたにかかっています!」
ゼフィールの熱のこもった言葉に、花子は軽く頷いた。その目に宿る純粋なトレーニングへの意欲が、ゼフィールには「世界を救う決意」に見えた。それが、この物語の始まりであり、最大のコミカルなズレとなっていた。彼女の平凡で灰色な日常は、この時、予期せぬ、そしてとてつもなく非常識な方向へと舵を切ったのだった。
#2. ダンジョン攻略はアスレチックゲーム
魔法陣の光が収束し、花子とゼフィールが転移したのは、巨大な岩山の中腹に開いた、深い亀裂のような入り口の前だった。周囲には鬱蒼とした森が広がり、遠くからは鳥の鳴き声と、風が木々を揺らす音が聞こえる。しかし、ダンジョンの入り口から漂ってくるのは、ひんやりとした湿気と、わずかにカビ臭いような、土と岩の匂いだった。
「うわー、本格的! ここなら飽きずに運動できそう!」
花子の目は、まるでテーマパークのアトラクションを前にしたかのように輝いていた。その表情には、一切の警戒心や恐怖は見られない。ただただ、未知の「運動環境」への期待が満ち溢れている。ゼフィールは、花子の無邪気な反応に安堵の息を漏らした。このダンジョンは、彼が花子を連れてくるために、数日かけて選定した場所だった。比較的浅い層には弱い魔物しかいないが、深層には伝説級の魔物が潜んでいるとされており、花子の「高負荷トレーニング」の要求を満たせるだろうと考えたのだ。
薄暗い入り口をくぐると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。足元は湿気を帯びた石畳で、所々苔むしている。壁には、不気味な紋様が複雑に刻まれ、かすかな風がヒュー、ヒューと不気味な音を立てて吹き抜けていく。一般的な冒険者であれば、その雰囲気に恐怖心や警戒心で身を固めるだろうが、花子の関心は全く別のところにあった。
「んー、この湿気と適度な起伏…良いですね。足腰にきます。それに、この薄暗さも集中力を高めるのに一役買ってますね。酸素濃度もなんだか薄い気がする。高地トレーニングみたいで、心肺機能にも良さそう!」
彼女は、まるでトレーニング施設の設備を品定めするかのように、周囲を観察していた。その目は、闇に慣れたように鋭く、わずかな光の中でも周囲の状況を的確に捉えていた。
通路の途中で、突然、足元の石畳が軋む音がしたかと思うと、床から鋭いトゲが飛び出す罠が作動した。カチャリ、という金属音と共に、目の前に黒光りするトゲがせり上がる。その先は、鋼鉄のように鋭利で、かすかに血の匂いがするようにも思えた。
「おっと危ない! これは瞬発力のトレーニングになりますね!」
花子は、驚くどころか、むしろ楽しげに、軽々と宙に舞い、トゲの上を飛び越えた。その動きは、まるで訓練された体操選手か、あるいはパルクールのアスリートのようだった。着地と同時に軽く膝を曲げ、衝撃を吸収する完璧なフォームだった。ゼフィールは「ゆ、勇者様! 危険です!」と叫びながらも、その俊敏さに驚愕し、慌てて花子の後を追った。彼の魔法での援護は、花子の動きがあまりにも予測不能なため、常に後手に回っていた。彼は、花子が罠に引っかかる度に慌てて防御魔法を唱えるが、花子は既に罠をクリアしているため、いつも魔法は空を切っていた。
「ゼフィールさん、このダンジョン、他にも罠はありますか? アジリティを高めるには、こういう障害物って最高なんですよね。特に、予期せぬ場所から飛び出してくるタイプの罠は、反射神経を鍛えるのにうってつけです!」
花子は笑顔で振り返った。その顔には、一点の曇りもない。ゼフィールは、その言葉に絶句した。彼にとって罠とは、冒険者の命を奪う危険な仕掛けであり、花子にとっては「トレーニング器具」でしかなかったのだ。彼の常識は、花子の存在によって、音を立てて崩れ去っていくかのようだった。
さらに奥へと進むと、通路の突き当たりから、緑色の肌をした数体のゴブリンが現れた。彼らは原始的な棍棒を構え、奇声を上げながら花子に向かってきた。その目は殺意に満ち、獲物を見つけた獣のように荒々しい。ゼフィールは反射的に防御魔法を構えるが、花子は既にゴブリンの群れの中に突っ込んでいた。
「よし、今日はインターバル走の気分だったんだ!」
彼女はゴブリンの攻撃をかわし、巧みに間合いを詰めては、的確な一撃で無力化していく。まるで、仮想の敵を相手にシャドーボクシングでもしているかのように、その動きには一切の無駄がなかった。
最初のゴブリンには、鋭いミドルキックが胴に叩き込まれた。骨が砕けるような鈍い音が響き、ゴブリンは壁に激突して動かなくなった。次のゴブリンには、低く構え、その棍棒を払い除けながら、まるで流れるような動きで関節を極め、地面に組み伏せた。花子の動きは、流れるようでありながらも、一撃一撃が致命的だった。彼女は、ゴブリンの小さな体を持ち上げ、そのまま壁に叩きつけたり、地面に何度もバウンドさせたりと、まるで筋力トレーニングの反復運動でもしているかのようだった。
ゼフィール:「勇者様、なぜそんなに楽しそうなのですか…? 彼らは…魔物なのですよ…?」
花子:「だって、普段のジムじゃこんな本格的な障害物も、生きた相手もいないじゃないですか。すごく実践的で楽しいですよ! スライムは軽い負荷の反復運動に最適ですし、ゴブリンは俊敏な動きの対人トレーニングになりますね。相手の動きを読む練習にもなる!」
彼女は、まるでゲームのステージをクリアしていくかのように、次々と現れる魔物を「運動メニュー」として楽しんだ。小型のコボルトは「素早い動きを追う動体視力トレーニング」、巨大なオオカミ型の魔物は「全身を使ったバランス感覚の強化」と、花子の頭の中では、すべての魔物がフィットネスのための道具に変換されていた。彼女の肉体は、異世界での激しい「トレーニング」によって、確実に、そして飛躍的に進化していた。その動きには、以前のOLとしての面影は微塵もなく、まるで生まれながらの武人のようだった。
奥へと進むと、薄暗い空間にひときわ明るく光る宝箱が置かれていた。それまでのダンジョンの単調な通路とは異なり、その空間だけがかすかな光に包まれ、宝箱は神々しい輝きを放っていた。冒険心を煽るかのようなその輝きに、花子の目はさらに輝いた。
「やった! ご褒美かな!?」
彼女は無邪気に宝箱に近づいた。ゼフィールは警戒の声を上げたが、花子の足は止まらない。宝箱の蓋を開けると、中から飛び出してきたのは、鋭い牙と舌を持つ擬態した魔物、ミミックだった。しかし、花子は驚くどころか、そのミミックの攻撃をひらりと身をかわし、そのままミミックの本体を軽々と押さえ込んだ。
「わ、びっくりした!これ、反射神経を鍛えられますね! 不意打ちからの対応力も鍛えられる!」
花子は、ミミックが暴れるのをまるで腕相撲でもしているかのように押さえつけ、その口を無理やり開かせた。中には、金貨や宝石、そして光を放つ小さな薬瓶が数本入っていた。
「ゼフィールさん、これ、なんですか?なんか飲むと元気になれそうなやつ!」
花子が指さしたのは、魔力回復薬だった。ゼフィールは、目の前の光景に呆然とするしかなかった。彼は何度も花子に危険を訴え、魔法で援護しようとしたが、彼女の動きは常に彼の予測をはるかに超えていた。彼の魔法は、いつも花子の動きのワンテンポ遅れて発動し、空を切るか、すでに倒された魔物に命中するかのどちらかだった。
ダンジョン内をひたすら「トレーニング」に励む花子と、その常識外れの行動に振り回され、必死に解説しながらも常に蚊帳の外の花子の「トレーナー」ゼフィール。二人のコミカルなやり取りは、ダンジョンの奥深くへと続いていった。花子にとっては、ダンジョン全体が巨大なジムであり、魔物たちは彼女を「追い込む」ためのパーソナルトレーナーであり、罠はアジリティを高めるための障害物コースに過ぎなかった。その純粋すぎるモチベーションが、異世界の常識をことごとく破壊していく。
#3. ダンジョン最深部:真の「負荷」との対峙
薄暗い通路を抜け、最深部の広間に足を踏み入れた瞬間、花子は思わず息を呑んだ。それまでのダンジョンの雰囲気とは一線を画す、圧倒的な威圧感がその場を満たしていた。広間の中心には、数多の冒険者を退けてきたという、巨大な岩でできたゴーレムが鎮座していた。その高さは、洞窟の天井に届くほどで、全身を構成する岩石は、まるで何千年もの時を経て大地と同化したかのように、重々しい存在感を放っていた。ゴーレムの瞳からは鈍い赤色の光が漏れ、まるで生きているかのように周囲を見渡していた。その存在だけで、広間の空気は重く、呼吸すら困難に感じられた。
その圧倒的な存在感に、ゼフィールは膝から崩れ落ちた。彼の顔は蒼白になり、震える声で呟いた。彼の口からは、恐怖と絶望が混じった乾いた息が漏れた。
「あれが…このダンジョンの主、岩砕のゴーレム…! 過去に討伐隊が何度も編成されましたが、生きて帰れた者は誰もいないと…魔王軍も、このゴーレムを突破できずにいるとか…」
ゼフィールの言葉は、震えており、その目には絶望の色が濃く浮かんでいた。彼にとって、このゴーレムは世界の運命を左右するほどの脅威であり、決して打ち破ることのできない壁だった。
しかし、花子の反応は全く違った。彼女の目には、恐怖や絶望の影は一切なく、むしろアスリートが最高の舞台に立つ前の、純粋な高揚感が宿っていた。その口角はかすかに上がり、瞳は興奮でキラキラと輝いていた。
「うわぁ、すごい! これ、かなりの高負荷トレーニングになりますね! 久しぶりに本気で体動かせそう! 体の全部の筋肉を使い切る感じ、最高じゃないですか!」
花子はそう言いながら、肩を回し、手首をほぐし始めた。まるで、これからジムでウェイトトレーニングでも始めるかのような、軽やかで無駄のない動作だった。その姿は、ゼフィールには理解不能だった。彼は、この女性が本当に目の前の脅威を理解しているのか、と疑わずにはいられなかった。
ゴーレムが巨体を揺らし、ゆっくりと動き出した。その一歩一歩が、広間を揺らし、天井から細かい岩屑が落ちてくる。岩の塊が軋むような鈍い音が響き渡り、空気が震える。そして、巨大な拳をゆっくりと、しかし確実に振り上げた。その拳は、まさに岩そのものであり、直撃すればどんな頑丈な盾も、どんな屈強な戦士も、あっという間に粉砕されるだろう。その風圧だけで、ゼフィールは後ろに吹き飛ばされそうになった。
花子は、その巨大な拳を紙一重でかわした。その動きは、見る者によっては、まるで瞬間移動したかのように錯覚するほど素早かった。彼女はゴーレムの足元を駆け回る。まるで、巨大な柱の周りを軽やかに舞う蝶のようだった。
「よし、最初はフットワークから! 左右のステップ、切り返し、重心移動…全部意識して!」
彼女は、ゴーレムの巨体から放たれる風圧を感じながらも、その間合いを詰めていく。ゴーレムの攻撃はどれも一撃必殺の破壊力を持つが、その動きは鈍重だった。花子にとっては、それは「予測可能な高負荷」であり、彼女の俊敏性を試す絶好の機会だった。彼女は、ゴーレムの攻撃の軌道を瞬時に読み取り、最小限の動きで回避する。その動きには、一切の無駄がなかった。
ゴーレムの攻撃を避けながら、花子は体当たりでその巨体を揺らし、関節の隙間を探る。ゴーレムの全身は硬質な岩石で覆われているが、彼女の目は、その巨大な質量を支えるために、構造上どうしても存在するはずの「力の流れ」や「わずかな隙間」を捉えていた。それは、日々のトレーニングで培われた、人体の構造や運動力学に対する深い理解から来るものだった。彼女の脳内では、ゴーレムの体が複雑な筋肉と骨格の図に変換され、どこに力を加えれば効率的にダメージを与えられるかが瞬時に計算されていた。
「筋肉の繋がりが…よし、ここだ! この膝の裏の、重心を支える部分…!」
彼女は、ゴーレムの膝裏に、これまでの全「ワークアウト」で培った力を込めた回し蹴りを叩き込んだ。花子の足から放たれた衝撃は、まるで炸裂弾のようにゴーレムの岩石の体を貫いた。岩が砕けるような鈍い音が響き、ゴーレムの巨体がわずかに揺らぐ。その場に立っていたゼフィールは、その衝撃波に吹き飛ばされそうになった。
ゼフィール:「ば、馬鹿な…あんな硬いゴーレムに…! まさか、生身の体で…! これほどの一撃を…!」
彼の言葉は、驚愕と恐怖に彩られていた。彼が知る限り、ゴーレムに有効な攻撃手段は、強力な魔法か、魔力を込めた特別な武器だけだった。しかし、目の前の花子は、まるで岩を豆腐のように砕くかのように、その生身の体でゴーレムにダメージを与えていた。その光景は、彼の常識を完全に破壊した。
花子:「まだ甘いな…インナーマッスルが悲鳴を上げ始めるのはこれからだ! これが、本当の『追い込み』ってやつですよ!」
彼女は、まるでトレーニングの一環のように、ゴーレムの攻撃をしのぎ、的確な反撃を加えていく。時には、ゴーレムの腕に飛び乗り、その巨体を駆け上がって頭部を狙おうとする。ゴーレムが振り払おうとすれば、彼女は枝にしがみつく猿のようにしがみつき、その動きを利用してさらに加速する。その動きは、重力をも無視しているかのようだった。彼女のパンチは岩石を砕き、キックは地面を抉った。ゴーレムの重い腕を両手で受け止め、体幹を捻ってその攻撃の威力を逸らす。時には、関節技のようにゴーレムの腕を無理な方向に曲げようと試みる。それは、相手が魔物であろうと、人間相手の組技格闘術のようだった。
花子の動きは、もはや人間のそれとはかけ離れていた。彼女の筋肉は、異世界での「ワークアウト」によって極限まで鍛え上げられ、その一つ一つの動作に、人間離れした膂力と俊敏性が宿っていた。ゴーレムの攻撃をかわすたびに、彼女の体からは微かな光の残像が残る。それは、彼女の肉体が異世界の魔力に適応し、さらに進化している証でもあった。
数分に及ぶ激闘の末、ゴーレムの動きは鈍り始めた。全身の岩石には無数の亀裂が走り、赤く光っていた瞳の輝きも弱まっていた。その巨体からは、蒸気のようなものが立ち上り、まるで機械がオーバーヒートしているかのようだった。花子は、額から汗を滴らせながらも、その顔には充実した笑みが浮かんでいた。彼女の呼吸は荒いが、その瞳にはまだ衰えを知らない闘志が宿っていた。
「よし、最後はこれで! このダンジョンの最終負荷、私がクリアしてやる!」
彼女は、ゴーレムの頭部へと飛び上がった。そして、その巨体にしがみつくようにして、両腕でゴーレムの頭部を締め上げた。それは、まるで巨大なレスラーが相手を締め上げるかのような、常識外れの荒業だった。彼女の腕の筋肉は隆起し、全身の力が一点に集中される。岩石の軋む音が洞窟内に響き渡り、やがて轟音と共に、ゴーレムの巨体が地面に崩れ落ちた。広間に砂煙が舞い上がり、ゴーレムの赤い瞳の光が完全に消え失せた。
地面に膝をつき、大きく息を整える花子。全身の筋肉が心地よい疲労を訴えていた。体中が熱く、脈拍が激しく打っている。しかし、その疲労感は、ジムでの単調な運動では決して得られなかった種類の、心からの達成感を伴っていた。
「いやー、良い汗かいた! これ、筋肉痛確定ですね! 明日の朝が楽しみだ!」
花子は満足げに呟いた。その言葉は、ゼフィールには届かない。彼はただ、目の前で繰り広げられた光景に、言葉を失い、震えることしかできなかった。彼の脳裏には、花子が「勇者」として世界を救う姿が、確かに描かれていた。しかし、その「勇者」が、まさか己の肉体鍛錬のために魔王の尖兵を倒し、伝説のダンジョンボスをアスレチックの道具として利用するとは、想像の埒外だった。彼の胸には、恐怖と畏敬、そしてかすかな希望が入り混じっていた。彼は、この女性が本当に世界の命運を握る存在であると、この瞬間、確信したのだった。
#4. ダンジョンクリアと「ご褒美」
ゴーレムを倒し、花子の全身を覆っていた緊張感が緩むと、心地よい疲労感が一気に押し寄せた。全身から汗が噴き出しているが、その顔は充実感に満ちていた。痛みと引き換えに得られるこの達成感が、花子を異世界へと駆り立てる何よりも強いモチベーションとなっていた。ジムでどんなに追い込んでも得られなかった、この「生きた達成感」が、彼女を異世界へと惹きつける最大の要因だった。
「いやー、良い汗かいた! これ、筋肉痛確定ですね! 明日の朝が楽しみだなぁ、どんな筋肉痛になるんだろ!」
花子が隣に立つゼフィールに笑顔で話しかけるが、ゼフィールの顔色は依然として蒼白だった。彼はゴーレムの残骸を見つめ、未だにその現実を受け入れられていないようだった。彼の震える手は、まるで氷のように冷たかった。
「ゆ、勇者様…本当に…本当にあなたが…伝説のゴーレムを…たった一人で…」
ゼフィールが震える声で何かを言おうとするが、花子は彼の言葉に耳を傾けることなく、ゴーレムが鎮座していた奥の空間へと目を向けた。そこには、ひときわ明るく光り輝く宝箱があった。これまでのフロアで発見した宝箱とは比べ物にならないほど、神々しい輝きを放っている。その光は、暗いダンジョンの奥底で、まるで希望の灯火のように見えた。
「おお! あそこにも宝箱が! ダンジョン最深部のご褒美ってやつですね! きっと、めちゃくちゃレアな回復アイテムとか入ってるんじゃないですか!?」
花子の足は自然と宝箱へと向かっていた。彼女の目には、獲物を前にした獣のような輝きが宿っていた。ゼフィールはハッと我に返り、慌てて花子を追いかける。彼は、これこそがダンジョンに眠るとされる伝説の財宝であり、魔王軍が狙っていた「力」そのものなのではないか、と考えていた。もしそれが魔王軍の手に渡れば、世界は完全に終わるだろう。
ゼフィールが震える手で宝箱の蓋を開けた。中には、想像を絶するような希少な魔石がぎっしりと敷き詰められ、まばゆい光を放つ宝石が散りばめられていた。その輝きは、まるで星屑が凝縮されたかのようだった。そして、その中心には、ガラス製の瓶に入った、琥珀色の液体が鎮座していた。瓶からはかすかに甘く、どこか神秘的な香りが漂っていた。
「これは…! 伝説の財宝…! そして、これは…万能回復薬! 魔力を回復させ、どんな傷も癒し、命の危機すら救うと言われる秘薬です! これがあれば、この国の医療も…!」
ゼフィールは感極まったように声を上げた。これだけの財宝と秘薬があれば、異世界の窮状を一時的にでも打開できるかもしれない。彼の目には、希望の光が宿っていた。彼の心は、この秘薬がもたらす可能性に震えていた。
しかし、花子の視線は、他の財宝には目もくれず、ただその琥珀色の液体に釘付けになっていた。彼女の脳裏には、「回復」という言葉が「プロテイン」と同義で結びついていた。
「わぁ、綺麗ですね! これって、なんか飲むと元気になる薬とかないですか? できれば、高タンパク質のやつで。疲労回復に効くやつがいいな。トレーニングの後って、栄養補給が一番大事なんですよね」
花子の一言に、ゼフィールは再び硬直した。彼の興奮は急速に冷め、代わりに困惑が顔に浮かんだ。彼の頭の中では、今説明したばかりの秘薬の効能と、花子の要求が全く噛み合わなかった。
「え、飲むと元気になる…? あ、ああ! これは魔力を回復させる薬ですが…体力を瞬時に回復させる効果もあります! どんな疲労も吹き飛ばし、すぐにでも動けるようになります!」
ゼフィールは、花子の意図を汲み取ろうと必死に説明を付け加えた。彼の言葉を聞いた花子の目は、さらに輝きを増した。瞬時に疲労回復、という言葉は、まさに彼女が求めていたものだった。
「じゃあ、それいただきます! ご褒美プロテイン!」
花子は躊躇なく、その万能回復薬の瓶を手に取り、一気に呷った。琥珀色の液体は、彼女の喉を通り過ぎると、全身に温かい力が巡るのを感じさせた。まるで、疲弊しきった筋肉に直接栄養が送り込まれるかのような感覚だった。体中の疲労が瞬時に吹き飛び、細胞の一つ一つが活性化していくのを感じた。
「うわぁ…! これ、すごい! 全身に染み渡る感じ…! これがあれば、もう無限にトレーニングできるんじゃないですか!? なんて画期的なプロテインなんだ…!」
花子は感動に打ち震えた。ゼフィールは、その光景に目を丸くする。「あ、あれは…貴重な…」彼の脳裏には、この秘薬がどれほどの価値を持つかという情報が駆け巡っていた。だが、花子はそれを、ジムで飲んでいたプロテインの、遥かに上位互換だとしか認識していなかった。
外からは、すでに夕日が差し込み、ダンジョンの入り口を赤く染め始めていた。花子は、携帯電話を取り出すしぐさをしたが、すぐに異世界であることを思い出した。しかし、彼女の体内時計は正確だった。
「あ、もうこんな時間! ゼフィールさん、お迎えの時間ですよ。明日も仕事なんで、あんまり遅くなると困るんですよね」
花子は、いつもの週末のように、時間厳守で帰宅を促した。その言葉には、ダンジョン攻略の興奮も、伝説の秘薬の力も、異世界の危機も、何一つ感じられない。ただ、明日の仕事に支障をきたさないように、という現実的な思考だけがそこにあった。
ゼフィールは、魔石や財宝に目もくれず、満足げに笑う花子を見つめる。彼は確信する。この「召喚獣」は、彼の想像をはるかに超える存在だと。彼女の力は、疑いようもなく「勇者」と呼ぶにふさわしい。しかし、その行動原理だけは、全く理解できないままだった。
花子の身体が光に包まれ、輝きとともに消える。「また来週、お願いしますねー! 今度は、もっと体幹に効く運動教えてくださいね!」その声だけがダンジョンに響き渡った。
ゼフィールは一人残され、目の前の膨大な財宝と、空になった回復薬の瓶、そして何よりも、花子という理解不能な存在を前に、深い溜息をついた。彼は、世界を救うという重責と、花子のマイペースすぎる要求の間で、綱渡りのような日々を送ることになるだろうと、この時、漠然と予感していた。しかし、その予感は、彼にとって絶望ではなく、かすかな希望の光でもあった。なぜなら、花子がいる限り、世界は救われるかもしれないのだから。
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第3章:インナーマッスルが世界を救う?
#1. 偶然の介入:花子のワークアウトと世界の危機
異世界での「週末ワークアウト」が、田中花子にとって完全に日常の一部となっていた。もはや驚きもなく、土曜の朝、見慣れた洞窟の岩肌の天井の下に転移すると、彼女は決まってゼフィールに尋ねる。「今日はどこで鍛えようかな」その言葉には、ジムのトレーナーにメニューを尋ねるような、気楽な、しかし真剣な響きがあった。
この数週間、花子の「運動したい」という単純な欲求は、図らずも異世界の大きな事件に影響を与え続けていた。彼女自身は全く意識していない「偶然の介入」が、世界の危機を少しずつ食い止めていたのだ。
ある週末、花子はゼフィールに「今週は標高の高い場所で登山トレーニングがいいな! 肺活量を鍛えたいし、足腰も強化できる!」と、ゼフィールが必死で止めるのも聞かず、険しい山脈へと向かった。ゼフィールは「ゆ、勇者様! あの山脈は魔王軍の支配地域で、非常に危険です!」と叫んだが、花子にとってはその「危険」が「高負荷」という魅力的なキーワードに変換されるだけだった。
山脈の奥深く、花子はゼフィールを置き去りにするほどのスピードで岩肌を駆け上がっていく。その途中で、彼女は奇妙な建築物を見つけた。黒い岩が組み上げられた、異様な形をした要塞のようなものだ。周囲には、魔王軍の兵士と思われるゴブリンやオークがうろついている。
「うわ、なんかすごい要塞! これ、良いボルダリングスポットになるかも! ちょっと壁を登ってみますね!」
花子はそう言うと、まるで遊園地のアトラクションを楽しむかのように、要塞の壁をよじ登り始めた。彼女の指先は岩のわずかな窪みを捉え、足裏は絶妙なバランスで全体重を支える。その動きは、無駄が一切なく、まるで壁と一体になったかのようだった。魔王軍の兵士たちは、突如現れた人間が、まさか自分たちの要塞の壁を登り始めるとは予想だにせず、呆然と花子を見上げるばかりだった。
要塞の頂上まで到達した花子は、そこで魔王軍の重要な通信施設と、膨大な量の魔導爆薬を発見した。「うわ、これ、危ないですね。まさか、こんな高所で火薬庫を見つけるとは。酸素が薄いところで運動してるから、体が敏感になってるのかな?」彼女はそう呟くと、通信施設のアンテナをまるで鉄棒でも扱うかのように捻じ曲げ、魔導爆薬は「重いものを持つトレーニング」とばかりに軽々と運び出し、山頂から谷底へと投げ捨ててしまった。数分後、谷底から轟音と爆炎が上がり、魔王軍の秘密基地は跡形もなく崩壊した。
ゼフィールは、山頂から上がる爆煙を見て、呆然とするしかなかった。彼は必死で花子を追ってきたが、彼女の行動の早さに全く追いつけていなかったのだ。「ま、まさか…要塞を…たった一人で…!」彼は、花子の行動が意図せぬ形で魔王軍に壊滅的な打撃を与えたことを悟り、畏敬の念に打たれた。
また別の週末、花子はゼフィールに「今日のメニューはクロスカントリーだ! 森の中を駆け巡って、心肺機能を徹底的に鍛える!」と宣言し、広大な森の中へと飛び込んでいった。ゼフィールは「勇者様! この森は迷いやすく、強力な魔物も出ます!」と必死に止めたが、彼女の耳には届かなかった。
森の奥深くを、花子は動物のように軽やかに駆け巡っていた。木々の間を縫うように走り抜け、倒木は軽々と飛び越える。その時、彼女は小さな人影を見つけた。それは、魔王軍の兵士に捕らえられ、手足を縛られたまま、森の中で途方に暮れている少女だった。その少女の衣服は豪華で、どうやら隣国の王女らしい。
「あれ? 迷子さんですか? こんなところで何してるんですか?」
花子は躊躇なく少女に近づいた。魔王軍の兵士たちが慌てて襲い掛かってくるが、花子にとっては「新しいタイプの対人トレーニング」でしかなかった。彼女は兵士たちの攻撃を華麗にかわし、王女の縄を解くと、そのまま王女を肩に担ぎ上げた。
「うわ、結構重い! これ、良いウェイトトレーニングになる!」
王女は驚きと恐怖で固まっていたが、花子は構わず、魔王軍の追手を振り切りながら、信じられないスピードで森の中を走り抜けた。王女は、花子を命の恩人と崇めたが、花子は汗だくになりながら言った。
「いや、別に…王女様、腹筋が弱ってますよ。体幹がしっかりしてないと、長時間の移動はつらいでしょう? 私のトレーニングに付き合えば、きっと強くなれますよ!」
王女は、花子の言葉の真意を理解できなかったが、その圧倒的な力と、純粋な眼差しに、ただ感銘を受けるばかりだった。
ゼフィールは、王女が無事に王宮に保護されたという知らせを聞き、安堵のため息をついた。そして、花子に報告した。
「勇者様! また魔王軍の重要な拠点を壊滅させたそうですね! そして、隣国の王女様も無事に保護されました! これで魔王軍の勢いは大きく削がれ、両国の関係も改善されるでしょう!」
花子:「あー、あれですか。なんか、私のトレーニング中に邪魔してきたんで、つい…。でも、あれ、筋肉痛になる割にカロリー消費あんまりだったんですよねー。もっと負荷の高い運動がしたいなぁ」
ゼフィールは愕然とする。「まさか…あれほどの大功績が、たかがカロリー消費のためだと…?」彼は、花子の行動がもたらす偶然の功績に安堵しつつも、花子自身が「世界を救う」という意識が全くないことに、頭を抱えるばかりだった。異世界の人々は、花子を「神出鬼没の英雄」「救世主」として認識し始めていたが、花子の行動原理が理解できないため、「謎の存在」として崇めるしかなかった。ゼフィールの苦悩は尽きることがなかった。
#2. 英雄視されるOLと戸惑うゼフィール
花子の異世界での「週末ワークアウト」は、もはや単なる個人的な趣味の範疇をはるかに超えていた。彼女の無意識の行動は、次々と異世界に大きな影響を与え、その結果、彼女は異世界の人々から「伝説の勇者」「救世主」として崇められる存在となっていた。
ある週末、花子はゼフィールと共に異世界の王都へと招かれた。王都の広場は、彼女を一目見ようとする民衆で埋め尽くされており、その歓声は天を突き刺すようだった。「勇者様万歳!」「救世主様、ありがとうございます!」無数の手が差し伸べられ、花子の名前を呼ぶ声がこだまする。しかし、花子の表情は、熱狂に包まれる民衆とは対照的に、どこか困惑していた。
「えーと、なんかすみません、お騒がせしてます…」
彼女は照れくさそうに頭をかく。なぜ自分がこんなに騒がれているのか、その状況を全く理解していなかった。彼女の頭の中には、「あれ、今日って王都で運動する予定だったっけ? 街中だと、あんまり激しい運動はできないよなぁ」というような、全く別の懸念が渦巻いていた。
王宮の謁見の間では、異世界の国王が深々と頭を下げ、その隣には屈強な騎士団長が控えていた。彼らの顔には、深い敬意と、そして世界を救う希望が満ち溢れていた。
「伝説の召喚獣様…貴女のおかげで、我が国は幾度となく危機を免れました。魔王軍の侵攻は貴女の御力によって食い止められ、民は希望を取り戻しました。どうか、この世界の未来を…正式に『勇者』として、魔王を討伐する旅に出ていただけないでしょうか」
国王の言葉は、重々しく、そして切実だった。彼は花子の行動の全てを、深淵なる戦略と、神の啓示によるものだと解釈していた。魔王軍の要塞崩壊も、王女の救出も、全てが花子の崇高な使命感によるものだと信じていたのだ。
しかし、花子の反応は、彼らの期待を大きく裏切るものだった。
「いやいや、無理無理。私、週末しか来れないんで、そんな大役無理ですよ。それに、私、ただのOLなんで、世界とか救うのはちょっと…。それより、この国のジムってどこにあるんですか?効率的に鍛えたいんですけど、市街地だと走りにくいし、人が多いとスクワットもやりにくいんですよね」
花子の言葉に、国王と騎士団長は顔を見合わせ、さらに感嘆の声を上げた。彼らは花子の言葉を「さらなる修練を求める崇高な精神」と解釈したのだ。
国王:「なんと謙虚な…! そして、自らの肉体を鍛えることに余念がないとは…! まさに勇者の鑑! 我々はこの目で、貴女が魔物を打ち倒す姿を見ております。その御力こそ、この世界を救う唯一の希望なのです!」
騎士団長:「勇者様! 魔王は強大です! しかし、貴女のような強靭な肉体と精神を持つ者ならば、必ずや打ち破ることができるでしょう! 我々騎士団も、微力ながら貴女の御力になれるよう、尽力いたします!」
ゼフィールは青ざめた顔で花子の隣に立ち、必死に誤解を解こうとするが、花子の天然な言動がさらに誤解を深めていく。彼の脳内はパニック状態だった。花子の本音と異世界側の期待の間で、冷や汗が止まらない。
「あ、あの、勇者様は、その…ご自身の『トレーニング』に集中したいと…そうすることで、より力を高め、結果的に世界を救うことになると…」
ゼフィールは苦し紛れに言葉を繋ぐ。しかし、花子はそんなゼフィールの苦労を知ってか知らずか、首を傾げていた。
花子:「そうそう。もっと効率よく、全身を鍛えられる環境があれば、助かるんですけどねー。あと、プロテインとか、高タンパクな食事とか、そういうサポートも充実してると嬉しいな。運動の後は、リカバリーが命ですから」
国王と騎士団長は、その言葉を聞いてさらに感銘を受けた。「なんと! 勇者様は、自らの肉体だけでなく、その鍛錬の質まで追求されているのか! その飽くなき探求心こそが、我々凡人には理解できない、勇者の真髄…!」彼らは、花子の言葉の裏に、深い戦略的な意味や、精神的な悟りを見出そうとしていた。しかし、花子にとっては、ただ純粋に「ジムのサービスの質」について語っているだけだった。この途方もない認識のズレが、滑稽なまでの悲劇を生み出し続けていた。
#3. 無意識のカリスマと「救世主」という呪縛
花子は、異世界の人々から「勇者」と崇められる状況に、戸惑いと、わずかながら面倒くささを感じていた。彼女が求めているのはあくまで「健康」であり、「救世主」という役割は、彼女の「週末の趣味」を邪魔する余計なものだと感じていたのだ。しかし、彼女の無意識の行動は、着実に異世界の人々に影響を与えていた。
ある日、ゼフィールは花子を異世界の訓練場に連れて行った。そこには、魔王軍との戦いに備え、日々訓練に励む兵士たちがいた。彼らの顔には疲労と諦めの色が浮かび、訓練の動きもどこか精彩を欠いていた。
「えー、ここで筋トレですか? なんか地味ですね。もっと刺激的な場所ないんですか?」
花子はぼやきながら、魔物との模擬戦を始めた。彼女の相手は、訓練用の木製人形や、魔法で実体化した幻影の魔物だった。しかし、花子の動きは、それらをも本物の魔物と見紛うほどの迫力と説得力を持っていた。彼女の圧倒的なスピードとパワーは、訓練を見学していた兵士たちに衝撃を与える。彼女のパンチは木製人形を粉砕し、キックは幻影の魔物を一瞬で消滅させた。
花子:「もっと腰を落として! 腕の振りはこう! こうすると体幹に効くんです! あと、呼吸も意識して! 丹田を意識して…」
彼女は、自分の「トレーニング」に集中するあまり、つい口癖で指示を出してしまう。しかし、彼女の指導は、異世界では「伝説の奥義」として伝わり、兵士たちの訓練に瞬く間に採用されていった。彼女の動きを真似する兵士たちの顔には、かつての疲労の色はなく、純粋な驚きと、そして希望が宿っていた。彼らは、花子の鍛え抜かれた肉体と、その流れるような動きに、武術の新しい地平を見たのだ。
ゼフィール:「勇者様のおかげで、兵士たちの士気がかつてなく高まっています! 彼らは貴女の姿に、真の強さを見出したようです!」
花子:「え、そうですか? ただ私が気持ちよく運動してただけなんですけど…なんか、みんなの目がキラキラしてて、やりにくいんですよね。こっちが本気出すと、引かれちゃうかなって…」
花子は、自分の「ワークアウト」が、兵士たちの士気向上に繋がっていることを全く理解していなかった。むしろ、自分が注目されることに居心地の悪さを感じていた。彼女にとって、周りの目が気になるのは、ジムで他人の視線を意識してしまうことと、大差なかった。
街中で、子供たちが花子の真似をして走り回ったり、素振りをする姿を目にすることが増えた。彼らは、花子が魔物を倒す英雄譚をゼフィールから聞き、その姿に憧れを抱いていたのだ。無邪気な憧れの眼差しに、花子の胸にはほんの少しだけ複雑な気持ちが広がる。
「救世主ねぇ…まさか、私が」
彼女は、自分自身の平凡な現実と、異世界での「救世主」という役割とのギャップに、静かに困惑していた。自分が崇められている理由が分からず、自分が求めているのはあくまで「健康」であり、「救世主」という役割は迷惑だと感じている。しかし、周囲からの期待が高まるにつれて、花子に「世界を救う」という目に見えないプレッシャーが、わずかながら課せられ始めていた。ギャグの中にも、シリアスな影が落とされ始める。
ゼフィールの焦りは、さらに増していく。花子を「勇者」として仕立て上げ、世界を救ってもらおうとする彼の目論見は、着実に成果を上げているかに見えた。しかし、花子の強さとマイペースさに、彼自身がコントロール不能になりつつあることを悟り始めていた。彼女が「世界を救う」という意識ではなく、ただ「運動したい」という欲求だけで動いていることが、ゼフィールには理解できていた。そして、その事実が、彼を深く悩ませるのだった。
#4. 週末の終わりと、募る違和感
土曜日の夕方、充実した「ワークアウト」を終えた花子は、ゼフィールが用意した簡素な食事をモリモリと食べていた。今日のメニューは、巨大な猪の肉を焼いたものと、森で採れたキノコや野草のスープ。味付けはシンプルだが、異世界での激しい運動の後には、何よりも美味しく感じられた。身体の奥から湧き上がる充実感は、ジムに通っていた頃には決して感じられなかったものだ。
「今週も良い汗かきましたねー! 特にあの巨大なゴリラみたいな魔物、パンチの受けがすごくて、良いサンドバッグになりましたよ。全身の筋肉をくまなく使った感じがします!」
花子は満足げに言った。ゼフィールは、その言葉に苦笑いを浮かべた。彼にとっては、それは凶悪な魔物であり、討伐に命を懸けるべき存在だったが、花子にとっては単なる「トレーニング器具」でしかなかった。
ふと、焚き火の向こうで、ゼフィールが異世界の子供たちに、花子が魔物を倒した「英雄譚」を語っているのが聞こえた。子供たちの瞳は輝き、花子を見つめる。彼らの顔には、純粋な尊敬と憧れが満ち溢れていた。
「勇者様は、巨大な岩石の魔物を、たった一撃で打ち砕いたんだ! その拳はまるで、雷鳴のようだったとさ!」
ゼフィールは、少し誇張しながらも、子供たちに花子の活躍を話して聞かせていた。その純粋な眼差しに、花子の胸に温かいものが広がるのを感じた。毎回、淡々と帰還していた花子だが、ほんのわずかだが異世界に愛着や名残惜しさを感じる瞬間だった。ゼフィールとの間の奇妙な友情も、異世界の子供たちの笑顔も、彼女の心の奥底に、ささやかながらも確かな足跡を残していた。
「そろそろお時間です、勇者様」
ゼフィールが、花子を帰すための魔法陣へと案内する。いつものように、彼は土下座せんばかりの勢いで懇願する。
「どうか、来週も! 来週も、どうかこの世界を…! 魔王軍の侵攻は日増しに激しくなっております…! あなたの御力なくしては、この世界は…」
花子:「はいはい、ゼフィールさん、また来週。今度はもう少し体幹に効く運動教えてくださいね。あと、もう少し負荷の高い、全身を使った有酸素運動もいいですね。登山とか、水泳とか…」
ゼフィールは、花子の言葉に、期待と疲労がない交ぜになった表情を浮かべた。彼は、花子の言葉を「世界を救うためのさらなる鍛錬」と解釈しようと努めたが、やはりどこかズレている。
光に包まれ、花子の意識が遠のく。最後に彼女の脳裏に浮かんだのは、ゼフィールの焦った顔と、子供たちの笑顔だった。そして、なぜか、あの万能回復薬の甘い香りが、鼻腔をくすぐるような気がした。
「…あ、月会費、今度こそ解約しとこうかな」
そんなことをぼんやり考えながら、花子は意識を手放した。異世界での激しい活動の後、現実の日常が、以前とは少し違って見え始めることを示唆していた。彼女の身体は、確実に変化していた。そして、その変化は、彼女の日常にも、小さな違和感と、そして新たな可能性をもたらし始めていた。週末の非日常が、平日の現実を侵食し始めていたのだ。
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第4章:平日の現実、週末の非現実
#1. 身体の変化:OL花子のスーパーボディ
月曜の朝。田中花子は、けたたましいアラーム音で目を覚ました。いつもなら、重い倦怠感と絶望感に襲われるはずの朝だが、今日はどこか違った。身体中に残る心地よい筋肉痛が、週末の異世界での激しい「ワークアウト」を物語っていた。それは、かつてジムで得られたどの筋肉痛よりも、深く、そして充実感に満ちていた。
「あれ? なんか、今日、全然平気だ…」
いつものように満員電車に乗り込んだ花子。ギュウギュウ詰めの車内で、以前なら押し潰されそうになり、心身ともに疲弊していたはずの体が、まるで岩のようにびくともしない。周囲の乗客の押し合いへし合いが、まるで微風のように感じられた。彼女の体幹は異世界での死闘(と彼女が認識するトレーニング)によって極限まで鍛え上げられ、どんな衝撃にも耐えうるようになっていた。
会社に着くと、エレベーターを待つ長蛇の列を横目に、花子は迷わず階段へと向かった。以前なら、数階上がるだけで息切れしていたはずだが、今は20階まで軽やかに駆け上がっていく。息切れ一つせず、むしろ心地よい。「階段、こんなに楽だったっけ?」彼女の心肺機能は飛躍的に向上し、どんな有酸素運動も苦にならなくなっていた。
オフィスに入ると、同僚たちが花子の変化に気づき始めていた。彼女の肌艶は以前よりも格段に良くなり、目元にあったクマも消え、生き生きとした輝きを放っていた。身体も以前より引き締まり、特に肩から腕にかけてのラインは、まるでアスリートのように美しかった。
重い資料を運ぶ際、以前ならヒーヒー言っていたはずが、花子は片手でひょいと持ち上げてしまう。
「田中さん、力持ちになったね! 筋トレ始めたの? ジム通ってるって言ってたけど、そんなに効果あるんだ!」
同僚が目を見開いて驚く。花子は曖昧に笑った。
「あ、はい…ちょっと本格的にやり始めて…」
ランチ休憩中、花子のデスクを通りかかった上司が、彼女の顔色を見て驚いた。
「田中さん、最近肌艶がすごくいいな。なんかあったか? 彼氏でもできたか?」
花子:「あ、いえ…特に何も」と、曖昧に答える。心の中では、「異世界でのモンスター戦が効いてるのかな…」と呟く。肩こりも腰痛も、いつの間にか完全に消え去っていた。以前は毎日のように悩まされていた、デスクワークによる体の不調が一切ない。むしろ、座っている時間が長すぎると、体がムズムズするようになった。彼女の体は、運動することを欲していた。
自分の身体が変化していくことに、花子は戸惑いつつも、それによって得られる快適さや自信を味わっていた。朝の目覚めが爽快になり、仕事中の集中力も増した。以前はストレスに感じていた上司の小言も、右から左へと受け流せるようになった。しかし、同時に、この変化が異世界での活動によるものだとは誰にも言えず、秘密を抱えることの孤独感も感じ始めていた。このスーパーボディの秘密を、誰にも話せない。そのもどかしさが、彼女の心をわずかに締め付けた。
#2. 日常とのズレ:隠しきれない異世界の片鱗
身体能力の向上は、田中花子の日常生活に、小さな、しかし確実なズレを生み出していた。彼女の思考回路は、週末の異世界での「ワークアウト」に深く影響され、無意識のうちに現実世界にもその片鱗が現れるようになった。
街中で見かける建物を見て、「あれなら良い壁登りトレーニングになるな。あの梁は懸垂にちょうどいいし、あの屋上まで駆け上がれば、良いダッシュの練習になりそうだ」と、思わず構造を分析している自分に気づく。以前はただの風景だったものが、今では全て「トレーニング器具」に見える。
スーパーで肉を選ぶ際、「これは異世界の魔獣の肉より脂肪が多いな…タンパク質は多いけど、脂質が気になる。やっぱり、赤身が多い方がいいよな」と、異世界の食材と比べてしまう。プロテインコーナーの前では、品定めをする目が本気になり、「この成分じゃ、異世界の回復薬には遠く及ばないな…」と、心の中で呟く。
電車遅延に遭遇した際、「これなら異世界を走った方が早いな。ゼフィールさんに頼んで、転移してもらった方がよっぽど早く着くし、良い有酸素運動にもなるのに」などと考えてしまう。その思考は、あまりにも現実離れしており、花子自身も内心で苦笑するしかなかった。
友人や家族との会話でも、異世界での経験をうっかり口にしそうになったり、話が噛み合わなくなったりする場面が増えていた。
週末の予定を聞いてくる友人に、「今週末はダンジョンでインターバル走かな…」と言いかけ、慌てて「あ、いや、ジムで! ジムでランニングする!」と言い直す花子。友人は「最近、やけに熱心だね。前はあんなに嫌がってたのに」と訝しがる。花子としては、ジム通いは以前と変わらず「月会費の元を取るため」という建前を維持しなければならなかった。
電話で母親に「最近、元気? なんか声に張りがあるわね。肌も綺麗になったんじゃない?」と言われ、曖昧に笑う花子。「うん、ちょっと運動してるからね」とごまかす。母は彼女の変化を喜んでいたが、その真の理由を知れば、おそらく卒倒するだろうと花子は想像した。
会社での会議中、上司の長話を聞きながら、「この人の話、まるで魔王の演説みたいに長いな…しかも全然結論が出ない。魔王の方がまだシンプルで分かりやすいよな、攻撃パターンも」と、異世界の出来事と重ねてしまう。集中力が向上したはずなのに、その集中力は、会議の内容ではなく、別の世界へと向かっていた。
身体能力の向上によって得られる快適さの一方で、この秘密を誰にも共有できない孤独感、あるいは「普通のOL」としての自分と「異世界の謎の武人」としての自分との間で葛藤する様子が、花子の心の中でわずかながらに芽生えていた。彼女は、二つの世界の間で揺れ動き、どちらが「本当の自分」なのか、自問自答し始めていた。このズレは、彼女の秘密が、人との間に微妙な壁を作り始めていることを示唆していた。
#3. 日常への影響:ポジティブな変化と小さなリスク
異世界での「ワークアウト」は、田中花子の生活に多大な影響を与えていた。それは、単なる身体的な変化に留まらず、彼女の精神面にもポジティブな変化をもたらしていた。
以前は、仕事にも私生活にも無気力で、常に憂鬱な気分に苛まれていた花子だが、今では見違えるように前向きになっていた。朝の目覚めは爽快で、通勤電車も苦にならず、仕事にも以前より積極的に取り組めるようになった。タスクの処理速度が上がり、複雑な問題にも冷静に対処できるようになった。
「これだから魔王軍の…じゃなくて、これだからこの企画のネックは…」
コピー機に詰まった紙を直そうとして、うっかり力みすぎて機械を壊しそうになる。「あ、危ない危ない。もうちょっと加減しないと」と、冷や汗をかく場面も増えた。書類の束を持ち上げる際に、以前よりもはるかに軽々と持ち上げてしまい、周囲の同僚を驚かせることもあった。彼女の無意識の行動は、現実世界でも小さなリスクを生み出していた。
会社の飲み会で、酔っぱらった上司の愚痴を聞きながら、うっかり「これだから魔王軍の…」と言いかけ、慌ててビールを飲むこともあった。異世界の言葉や思考が、彼女の日常に浸食し始めていたのだ。疲労がピークに達した時、意識が異世界に引きずられそうになる感覚に襲われることもあった。「あ、今、ゼフィールさんの声が聞こえたような…?」
最も顕著な変化は、ストレス耐性の向上だった。以前は些細なことでイライラし、すぐに落ち込んでいた花子だが、今ではまるで鋼の精神を手に入れたかのようだった。
「異世界で巨大な魔物と戦うよりはマシか」
どんな困難に直面しても、彼女の脳裏には、もっと過酷な異世界での「ワークアウト」の記憶がよぎる。会議での上司の理不尽な叱責も、取引先からの無理難題も、異世界での魔物との死闘に比べれば、取るに足らないことだと感じられるようになった。精神的な余裕が生まれたことで、仕事の効率も自然と上がっていた。
しかし、この変化は同時に、花子に「もう後戻りできない」という感覚をもたらしていた。異世界での「ワークアウト」は、もはや彼女の生活から切り離せないものになっていたのだ。それは単なる趣味ではなく、彼女の人生の一部となりつつあった。
ある週末、友人に急な旅行に誘われるが、花子は「あ、その日はちょっと…用事があって…」と断る。心の中では、「週末は異世界ジムの予約があるからな!」と考えていた。この「異世界優先」の姿勢は、彼女の現実の人間関係にも影響を与え始めていた。友人たちは、最近の花子の変化に気づき、どこか距離を感じ始めている。彼女が「普通のOL」だけの自分には戻れないことを悟り始めていた。
この二重生活は、花子に確かな充実感と成長をもたらしたが、同時に、誰にも打ち明けられない秘密という重荷も背負わせた。それでも、彼女は立ち止まることを選ばなかった。なぜなら、異世界での「ワークアウト」は、彼女の人生に、かつてないほどの輝きを与えてくれていたからだ。
#4. 週末への期待と非日常への渇望
金曜日の午後5時。定時を告げるチャイムが鳴り響くと同時に、田中花子は誰よりも早くPCをシャットダウンし、バッグを掴んだ。その表情には、平日の疲労の色よりも、週末への高揚感が強く見て取れた。彼女の視線はすでに、異世界での次の「ワークアウト」へと向かっていた。
「お疲れ様ですー!」
同僚の「週末はゆっくり休んでね」という声に、花子は内心で「しっかり運動してきます!」と返す。以前なら、金曜の夜は解放感と共に、倦怠感と「何をして過ごそう」という漠然とした不安が混じり合っていたものだ。しかし、今では違う。金曜の夜は、まさに「異世界への旅立ち前夜」として輝きを帯びていた。
自宅に帰り着くと、花子は習慣のようにプロテインシェイカーと、以前より格段に引き締まった自分の体を見つめる。鏡に映る自分の姿は、もはや以前の無気力なOLのそれではない。鍛え抜かれた筋肉が、自信と生命力を物語っていた。
「明日は、どんなトレーニングができるかな。ゼフィールさん、今度はどんな魔物を用意してくれるんだろ。新しい運動、試してみたいんだよな…」
彼女の頭の中は、すでに異世界での「運動メニュー」でいっぱいだった。現実世界での「普通のOL」としての生活では得られない、異世界での「ワークアウト」によってもたらされる刺激、充実感、そして成長への渇望を、花子は今、強く感じていた。それは、ジムで単調なマシンと向き合うことでは決して得られない、生きた喜びだった。
ベッドに横たわると、身体の奥底から温かい力が湧き上がってくるような感覚がした。それは、異世界が彼女を呼んでいる合図だった。微かな浮遊感と、遠くでゼフィールの声のようなものが聞こえる予感。彼女の身体は、異世界へと「転移」するための準備を始めているかのようだった。
花子は静かに目を閉じる。明日、目が覚める場所は、もうあの平凡なワンルームではない。彼女は知っている。最高の「異世界ジム」が、そして新たな「ワークアウト」が、彼女を待っていることを。現実世界では平凡なOLだが、週末には非凡な「謎の武人」へと変貌する花子の二重生活が、彼女にとってかけがえのないものになっていることを示唆し、次なる章へと繋げていく。彼女の非日常への渇望は、日を追うごとに強まっていた。
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第5章:異世界フィットネス、まさかのスポンサー契約?
#1. 王宮からの使者:高まる異世界の期待
田中花子の異世界での「週末ワークアウト」は、もはや単なる趣味の範疇をはるかに超えて、異世界全体の命運を左右する規模となっていた。彼女自身は「運動」としか認識していなかった行為が、度重なる魔王軍の作戦を根底から覆し、異世界の人々から「伝説の勇者」と崇められる存在へと祭り上げていた。彼女の功績は積み重なるばかりで、王宮の期待は最高潮に達していた。
魔王軍の脅威は現実的になりつつあった。国境の要衝が次々と陥落し、王都へと迫る魔物の大群の報告は、連日、王宮に届けられていた。兵士たちの士気は低下し、民衆の間には深い絶望が蔓延していた。もはや、ゼフィールだけでは花子をコントロールしきれる状況ではなかった。異世界全体が、花子の「ワークアウト」にその未来を託すしかなくなっていた。
ある週末、花子はいつものようにゼフィールによって異世界へと召喚された。しかし、今回はいつもの薄暗い洞窟ではなかった。周囲は衛兵によって厳重に警備され、豪華な絨毯が敷き詰められた広間だった。正面には玉座があり、そこに座る国王と思しき人物と、その脇に控える重厚な鎧をまとった騎士団長、そして複数の重臣たちが、花子を今か今かと待ち構えていた。彼らの目は、花子を初めて見た時のような驚きではなく、深い敬意と、そして最後の希望に満ちていた。
国王が玉座から立ち上がり、ゆっくりと花子の前へと進み出る。そして、深々と頭を下げた。
「伝説の召喚獣様、幾度となく我らの世界の危機を救ってくださったこと、心より感謝申し上げます。貴女の御力なくしては、この世界はすでに魔王の手に落ちていたことでしょう。つきましては、どうか、この世界のために、正式に『勇者』として力を貸していただけないでしょうか」
国王の言葉は、重々しく、そして切実だった。彼は花子の行動の全てを、深淵なる戦略と、神の啓示によるものだと解釈していた。魔王軍の要塞崩壊も、王女の救出も、全てが花子の崇高な使命感によるものだと信じていたのだ。その言葉には、国を背負う者の、最後の懇願が込められていた。
しかし、花子の反応は、彼らの期待を大きく裏切るものだった。彼女は、ただ困惑したように首を傾げた。
「え、勇者ですか? いやいや、私、ただの田中花子なんで。そんな大役、無理無理。それに、私、週末しか来れないんで、仕事もありますし。平日残業とかあると、次の週末まで体がもたないこともありますし…」
花子は、あくまでも「週末の趣味」としてのスタンスを崩さなかった。彼女の頭の中には、「世界を救う」という大義よりも、「効率の良い運動」を重視する、あまりにも現実的な思考しかなかった。
騎士団長が、驚きと感銘がない交ぜになった表情で声を上げた。
「なんと…そこまで謙遜されるとは! さすがは勇者様…! 我々凡人には計り知れない、深い覚悟と信念…! 魔王は強大です! しかし、貴女のような強靭な肉体と精神を持つ者ならば、必ずや打ち破ることができるでしょう! 我々騎士団も、微力ながら貴女の御力になれるよう、尽力いたします!」
ゼフィールは、冷や汗を流しながら花子の隣に立ち、必死に誤解を解こうとする。彼の脳内はパニック状態だった。花子の本音と異世界側の期待の間で、冷や汗が止まらない。
「あ、あの、勇者様は、その…ご自身の『トレーニング』に集中したいと…そうすることで、より力を高め、結果的に世界を救うことになると…」
ゼフィールは苦し紛れに言葉を繋ぐ。彼は、花子の言葉を異世界の人々が理解できる言葉に翻訳しようと必死だった。しかし、花子はそんなゼフィールの苦労を知ってか知らずか、首を傾げていた。
花子:「そうそう。もっと効率よく、全身を鍛えられる環境があれば、助かるんですけどねー。あと、プロテインとか、高タンパクな食事とか、そういうサポートも充実してると嬉しいな。運動の後は、リカバリーが命ですから、栄養補給は本当に大事なんです」
国王と重臣たちは、その言葉を聞いてさらに感銘を受けた。「なんと! 勇者様は、自らの肉体だけでなく、その鍛錬の質まで追求されているのか! その飽くなき探求心こそが、我々凡人には理解できない、勇者の真髄…!」彼らは、花子の言葉の裏に、深い戦略的な意味や、精神的な悟りを見出そうとしていた。しかし、花子にとっては、ただ純粋に「ジムのサービスの質」について語っているだけだった。この途方もない認識のズレが、滑稽なまでの悲劇を生み出し続けていた。
#2. 魅力的なオファーと「プロテイン」の誘惑
花子の「週末限定」「トレーニング」という言葉に、国王たちは深く考え込んだ。彼らにとって、勇者が「週末にしか活動できない」というのは前代未聞の事態だったが、目の前の女性が「伝説の召喚獣」である以上、その常識が通用しないことは理解していた。何としてでも彼女の力を借りたい。そう考えた国王は、重臣たちと顔を見合わせ、ある結論に達した。
「勇者様! 貴女の御意、確かに承りました!」
国王は立ち上がり、力強く言った。花子は何のことか分からず、きょとんとしている。
「つきましては、貴女が望むものを何なりとお申し付けください! 我々はこの国の全てを懸けて、貴女の望みを叶えましょう!」
国王の言葉に、ゼフィールは心の中でガッツポーズをした。彼もまた、花子の「欲求」を刺激することが、彼女を世界に繋ぎ止める唯一の方法だと悟っていたからだ。
「トレーニング費用全額負担! 貴女のための最高のトレーニング環境(専用ダンジョン、魔物育成施設など)をご用意しましょう! どんなに強大な魔物でも、あなたのトレーニング相手に差し出しましょう!」「最新の回復薬常備! 我らが誇る宮廷魔術師が開発した、最高級の回復薬がございます! どんな傷も瞬時に癒し、魔力も体力もたちまち回復させます! 望むだけ供給いたしましょう!」「専用の住居! 異世界での生活も快適にお過ごしいただけるよう、王宮内に専用の住居をご用意いたします! 専属の料理人も配し、貴女の栄養管理も万全に…!」
大臣が次々とオファーを提示していく。その言葉を聞くたびに、花子の瞳は輝きを増していった。
「(目を輝かせながら)え、ホントですか!? 専用のトレーニングルーム!? それって、どれくらいの広さで、どんな魔物を用意してくれるんですか? あと、プロテイン…じゃなくて、なんか、回復薬みたいな、栄養ドリンクみたいなのないですか? 効率よく疲労回復したいんですけど。できれば、すぐに飲めるタイプの、水に溶かす手間とかかからないやつがいいな」
花子は身を乗り出して尋ねた。彼女の質問は、もはやジムの入会説明を聞いているのと全く変わらなかった。
大臣:「お任せください! 我らが誇る宮廷魔術師が開発した、最高級の回復薬がございます! どんな傷も瞬時に癒し、魔力も体力もたちまち回復させます! 瞬時に! それこそ、一瞬で! 口に含んだ途端、疲れが吹き飛びます!」
花子:「(ごくりと唾を飲む)瞬時に回復…! それって、もう無限にトレーニングできるってことじゃないですか!? 回復が早ければ早いほど、高頻度で追い込めますもんね! しかも、費用も全部見てくれる…? 食事も、私の希望する高タンパク低脂質のメニューを組んでくれるんですか!?」
ゼフィールは、花子が初めて「世界を救う」ことに前向きになった、と勝手に解釈し、涙ぐむ。「勇者様…ついに、その気になってくださったのですね! 私の命をかけて、貴女を支えます!」
花子:「いや、その気になってるのはプロテイン飲み放題ってとこだけですけど。あと、専用ジムとパーソナルトレーナー付きってとこも、かなり魅力的ですね。ジムの月会費、解約しちゃおうかな…」
花子の正直な独り言に、ゼフィールは心の中で再びひっくり返った。彼は、花子の心が揺れていることに希望を見出したが、その根底にある花子の動機が「健康と効率」であることには全く気づいていなかった。異世界の人々は、花子の言葉を「深遠な試練」や「自己犠牲の精神」と解釈し、その献身に感銘を受けていた。彼らの認識と花子の真意との間には、あまりにも深い溝があった。
#3. 「趣味」と「大義」のぶつかり合い
魅力的なオファーに対し、田中花子は明らかに心が揺れていた。しかし、彼女の中には譲れない原則があった。それは、あくまで「週末の趣味」として異世界に来ているというスタンスを崩さないことだった。
国王:「では、正式に『勇者』として、魔王を討伐する旅に出ていただきたい! 魔王は、この世界の全てを闇に沈めようとしております!」
花子:「え、無理無理。旅とか無理です。毎日同じ時間に職場に行かないといけないんで。私、週末限定でお願いします。あと、平日の残業が多い時期は、少し疲れてしまうので、トレーニング効率が落ちるかもしれません。そこは考慮してくださいね」
花子の言葉に、大臣たちは再び顔を見合わせた。週末限定で魔王と戦う、という発想は、彼らの常識を遥かに超えていた。
大臣:「なんと…週末限定で魔王と戦うというのか…! その発想、常人には及びもつかぬ…! 平日は魔力を蓄え、週末に解放するという、勇者様ならではの戦術…!」(彼らは花子が「平日は魔力を蓄えている」とでも解釈している)
花子:「あと、私、強制されるのは嫌なんで。あくまで、自発的なトレーニングとしてやりたいんです。それが一番、効率がいいんで。強制されると、モチベーションが下がって、パフォーマンスも落ちちゃうんで」
ゼフィールは、花子の本音と、異世界側の期待の間で、板挟みになりながら必死に調整しようとする。彼の忠誠心と疲労は限界に達していく様子だった。
「あ、あの、勇者様は、その…自由を愛する方でして…束縛されることを嫌われる…自由な環境でこそ、真の力を発揮されるのです!」
国王:「なるほど! さすがは勇者様! 我々も貴女の意思を尊重しよう! しかし、いざという時は、どうか、我らの声に応えていただきたい! 世界の危機には、貴女の御力が必要です!」
花子:「(ため息)いざという時って、一番運動したくない時ですよねぇ…。でも、プロテイン飲み放題は捨てがたいし…」内心でぼやく花子。彼女は、まだ完全に「世界を救う」という大義を受け入れているわけではなかった。しかし、周囲からの期待が高まるにつれて、花子に「世界を救う」という目に見えない重圧が、徐々に彼女の「週末の楽しみ」に影を落とし始める可能性をわずかに示唆していた。ギャグの中に、かすかなシリアスな影が忍び寄る。彼女の「趣味」と、異世界の「大義」が、少しずつ、しかし確実にぶつかり合い始めていた。
#4. スポンサー契約の成立(花子流)と新たな課題
数週間の交渉(という名の花子のわがまま)の末、異世界側は花子の「週末限定」「自発的なトレーニング」という条件を全て飲むことになった。その代わり、異世界の持つ最高の設備とアイテムを提供するという「契約」が結ばれた。それは、花子にとってはまるで、夢のような「フィットネス契約」だった。
国王:「ああ、これで世界は救われる! 勇者様の献身に感謝する! この契約が、我らと貴女の絆を深めることとなるでしょう!」
国王は感極まったように宣言した。花子:「いえいえ。私もこれで、月会費払わずに高機能ジムに通えるんで、お互い様ですよ。むしろ、こんな素晴らしい設備を使わせていただいて、ありがとうございます、といった感じです」
ゼフィールは、花子の言葉が王族たちにどう伝わっているのか、冷や汗を流しながら見守っていた。彼らの間には、あまりにも深い認識の溝があった。それでも、契約が成立したことに彼は安堵した。
新たな週末、花子は専用に用意された広大な「トレーニング施設」へと足を踏み入れた。そこは、王宮の地下に広がる、まるで巨大な地下都市のような空間だった。最新の魔導技術が駆使され、様々な環境を再現できる仕組みになっていた。砂漠、氷山、火山地帯、そして広大な森。あらゆる地形が、花子の「トレーニング」のために用意されていた。そして、そこには、これまでに見たこともないような、巨大で獰猛な魔物が待っていた。それらは、魔王軍が捕獲してきた、強力な魔物たちだった。
花子:「うわ、これ、ヤバい奴じゃん! パーソナルトレーニングにしては負荷高すぎない!? ていうか、こんな大きな魔物、どうやって連れてきたんですか? 動物愛護とかないの!?」
彼女の顔には、困惑と同時に、最高の「ワークアウト」への興奮が浮かんでいた。専用ダンジョンは、花子の予想をはるかに超える過酷さで、本気のサバイバル能力が試されるレベルだった。
また、提供された「最新の回復薬」は、花子の予期せぬ身体変化をもたらすことになった。それは、単なる疲労回復に留まらず、彼女の肉体構造そのものを、異世界に適応させていくような作用があったのだ。彼女の筋肉はさらに強靭になり、皮膚はまるで鋼鉄のように、しかし弾力性を保ちながら変化していく。骨密度も向上し、細胞一つ一つが活性化していくのを感じた。
「なんか、最近、体が軽く感じるし、どんなに疲れても一晩寝れば元通りなんだよね。これって、回復薬の効果なのかな。すごいな、異世界の科学力…いや、魔術力?」
そして、「スポンサーからの期待」が、彼女のマイペースな活動に影響を与え始めることになる。王族や重臣たちは、花子の「トレーニング」の進捗を頻繁に確認しに来るようになり、時には「次の週末は、あの魔物の討伐をお願いしたい」と、遠回しに、しかし確実に「使命」を課してくるようになった。花子は、それを「パーソナルトレーナーからの宿題」と解釈しようと努めたが、その言葉には、かつてない重みが伴っていた。
この「契約」が、彼女の週末を、そして異世界を、かつてないほどに揺り動かすことになるなど、まだ知る由もなかった。花子の「週末異世界ワークアウト」が、単なる趣味の範疇を超え、異世界全体を巻き込む壮大な物語へと発展していくことを示唆し、次章への期待感を高めていた。彼女は、自らの身体の変化と、それに伴う異世界との深い繋がりを、少しずつ実感し始めていたのだ。
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第6章:最終負荷は、まさかの…
#1. 迫りくる世界の危機と「ジム」の閉鎖危機
異世界に召喚されてから数ヶ月が過ぎた。田中花子の「週末ワークアウト」は、異世界を救う戦いと、完全に同義となっていた。彼女の意図しない活躍により、魔王軍の侵攻は一時的に食い止められ、異世界の人々にはかすかな希望が芽生え始めていた。しかし、その希望は脆く、魔王軍は最後の総攻撃を仕掛け、異世界は絶体絶命の危機に陥っていた。
土曜日の朝、花子が召喚されたのは、いつもの王宮の一室ではなかった。そこは、王都の最前線に位置する、崩れかけた城壁の傍だった。上空には禍々しい暗雲が渦巻き、その中から魔王軍の飛行部隊が王宮へと迫り、地上では魔物の大軍が街になだれ込もうとしていた。オークの咆哮、ゴブリンの奇声、そして、逃げ惑う民衆の悲鳴が、周囲に響き渡っていた。城壁の兵士たちは、次々と倒れていく。
「も、もうダメだ…!」
絶望的な声が、そこかしこから聞こえる。王都は包囲され、多くの人々が避難を余儀なくされていた。ゼフィールは、その惨状を前に、顔を蒼白にしていた。彼の魔法は、魔王軍の猛攻の前には焼け石に水だった。
ゼフィールは、いつもの召喚場所である魔法陣に縋りつき、震える手で花子を召喚する儀式を行った。彼の顔には、これまで見たこともないほどの疲労と絶望が刻まれていた。現れた花子の顔は、いつものように冷静だったが、異世界の惨状に、さすがに眉をひそめた。
「うわー、大変なことになってますね。これじゃ、ジムが営業停止になっちゃうじゃないですか! 私のパーソナルトレーニングは!? せっかく専用の施設も用意してもらったのに、このままじゃ全部魔物に乗っ取られちゃうじゃないですか!」
花子は、目の前の光景を「最高のジム」が危機に瀕している、という認識で捉えていた。彼女にとって、異世界全体が巨大なフィットネス施設であり、魔王軍の侵攻は、その施設の閉鎖を意味していた。それは、彼女の「月会費分の元を取りたい」という、ある意味で究極のモチベーションを刺激するに十分だった。
ゼフィールは、花子の言葉の真意を理解できなかったが、彼女の顔に宿る焦燥感は感じ取ることができた。彼は涙を流しながら花子の足元にひざまずく。彼の声は、もはや「トレーニング」などと誤魔化す余裕もなく、花子に真剣な感情をぶつけた。
「勇者様! どうか! どうかこの世界を! このままでは、あなたの『トレーニング施設』も、全て魔王の手に落ちてしまいます! 魔王は、この世界に存在する全ての魔力を吸収し、世界そのものを破壊しようとしております!」
ゼフィールの悲痛な叫びに、花子の目に力が宿った。
「え、私のトレーニング施設が!? それは困りますね。そりゃ困る! こんな最高のジム、他にはないですからね!」
その時、王都の上空に渦巻く暗雲の中心から、巨大な影が降臨する。それは、異世界を蝕む「世界の淀み」そのものだった。不定形な黒い塊が、巨大な眼と無数の触手を持ち、大地へと降りてくる。その出現とともに、辺りの光が吸い取られ、重苦しい絶望感が周囲を支配する。魔王の真の姿が、ついにその姿を現したのだ。その圧倒的な力は、空間そのものを歪ませ、兵士たちは次々と意識を失い、地面に倒れ伏していく。
「あれが…魔王…! 世界の淀み…!」
ゼフィールの声は、恐怖に引きつっていた。しかし、花子の瞳は、その巨大な魔王を真正面から捉えていた。彼女の脳裏には、「最高の高負荷トレーニング」という言葉が、強く響いていた。
#2. 花子流「最終決戦」:本能と熟練のワークアウト
「あれが…最後のボスか。よし、行こう!」
花子は、魔王の放つ禍々しい瘴気すらも「これ、肺活量鍛えられるかな。酸素が薄いところで運動する高地トレーニングみたいなもんか」と前向きに捉え、一歩を踏み出した。その顔には、恐怖ではなく、アスリートが最高の舞台に立つ前の、純粋な高揚感が浮かんでいた。彼女の体は、この瞬間のために鍛えられてきたとでも言うかのように、静かに脈打っていた。
魔王が巨大な触手を振り上げた。それは、まるで巨大な山脈が動くかのような錯覚を覚えるほどの質量と速度を持っていた。その一撃は、城壁の一部を軽々と破壊し、大地を抉った。
花子はそれをまるで体操選手のように華麗に宙返りでかわし、そのまま魔王の触手を駆け上がっていく。「よし、垂直跳びからの壁走! 足場が不安定な場所でのバランス感覚を鍛えるのにもってこい!」
彼女の動きは、これまで異世界での「ワークアウト」で培ってきた、全ての身体能力の集大成だった。スピード、パワー、スタミナ、反射神経、体幹、柔軟性。その全てが、この最終決戦において、最高レベルで発揮されていた。彼女のパンチは空間を震わせ、キックは空気をも引き裂く。
魔王が巨大な眼から放つ魔法が降り注ぐ。それは、炎、氷、雷、あらゆる属性の魔力が混じり合った、まさに絶望の具現化だった。しかし、花子はそれを「アジリティドリル」のように軽やかにステップでかわし、懐に潜り込む。魔法の嵐の中を、彼女はまるで水を得た魚のように自由に動き回った。
そして、これまでのトレーニングで培ったインナーマッスルと、全身の力を込めた渾身の一撃を、魔王の弱点(花子が見抜いた「最も鍛えられていない部位」)に叩き込む。魔王の体の中心、わずかに色の薄い部分に、彼女の全神経を集中させた拳が叩き込まれた。
魔王:「ぐっ…この女…ただの人間ではない…! なぜ、私の攻撃が通用しない!? なぜ、この程度の人間が、私に傷をつけることができる…!?」
魔王の驚愕の声が、周囲に響き渡る。その声には、怒りよりも、想定外の事態に直面した戸惑いが含まれていた。彼は、これまであらゆる生命を絶望させてきた絶対的な存在だったが、花子の常識外れの動きと力は、彼の理解を超えていたのだ。
花子:「効いてます、効いてますよ! ちゃんと! でも、まだまだ負荷が足りないんで、もっと本気出してくださいよ! これが最後のセットですよ! 全力で来てください!」
ゼフィールは、涙を流しながら叫ぶ。「勇者様ー! 世界を、世界を救ってくださいー!」彼の視点では、花子が命を懸けて世界のために戦っているのだ。花子の真意は理解できないまでも、彼女の圧倒的な力と、世界を救おうとしている(と信じている)姿に、彼は心底感動していた。彼の魔法サポートも、これまで以上に的確になり、花子の動きを邪魔しないように、そして彼女の攻撃をサポートするように、絶妙なタイミングで発動された。花子は、ゼフィールの魔法を、まるで「補助的な筋トレ器具」のように利用していた。
#3. 絶体絶命、そして「本当の欲求」
魔王との激しい攻防が続く中、花子の身体はついに限界に達しようとしていた。いくら異世界での「ワークアウト」で鍛え上げられたスーパーボディであろうと、一人の人間としての肉体には限界がある。魔王の容赦ない攻撃の前に、花子は吹き飛ばされ、瓦礫の山に叩きつけられた。身体中の筋肉が悲鳴を上げ、視界が霞む。こんなにボロボロになったのは、現実世界では一度もなかった。異世界での「ワークアウト」も、これほどまで自分を追い込んだことはなかった。
「ここまでか…?」
疲労困憊の中で、花子の脳裏に、現実世界での無気力な日々がフラッシュバックする。疲弊し、諦めていた平日の日々。月会費を無駄にしているジム。何事にも情熱を持てず、ただ惰性で生きていたあの頃の自分。
「あの頃の私には、こんな風に体を動かせるなんて、考えもしなかった…こんなに、心から充実できるなんて…」
その時、花子の耳に、遠くからゼフィールの必死な叫びが聞こえる。「勇者様! お願いです! この世界を、希望を…!」そして、王都の民衆の微かな祈りの声が、風に乗って届く。彼らの声は、絶望の淵に立たされた花子の心に、静かに響き渡った。
「…そうだ。この『異世界ジム』は、私にとって、最高の場所なんだ。こんな場所、なくなっちゃダメだ…!」
花子の目に、再び力が宿った。それは、単なる「トレーニング」への執念だけではなかった。ゼフィールや異世界の人々の必死な願い。そして、この「異世界ジム」を失いたくないという、彼女自身の心の奥底に眠っていた「本当の欲求」だった。この世界がなければ、彼女はもう二度と、これほど充実した「ワークアウト」を経験できない。この世界が、彼女の人生に初めて、真の「目的」を与えてくれたのだ。
彼女の心が、初めて「大義」と繋がった瞬間だった。単なる「フィットネス」や「自己満足」のためではなく、この世界を守るという、純粋な使命感が彼女の胸に芽生えたのだ。
花子の身体から、光が溢れ出す。それは、彼女の身体能力を物理的に底上げするだけでなく、彼女の内面に眠っていた本当の「強さ」、すなわち「意志」が具現化したものだった。彼女の瞳には、一切の迷いがなく、ただ魔王を打ち倒すという決意だけが宿っていた。
彼女は、地面を強く蹴り、再び魔王へと向かう。その一歩一歩が、大地を揺らし、光の残像を残す。もはや、それは「運動」ではない。彼女の全身全霊をかけた、真の「戦い」だった。
「私が、この世界を救うんだ…!」
花子の最後の咆哮が、魔王の瘴気を切り裂き、広間全体に響き渡った。
#4. エピローグ:月曜の朝、そして次の週末へ
壮絶な最終決戦は、花子の勝利で幕を閉じた。魔王は消滅し、世界に平和が訪れた。暗雲に覆われていた空には、再び太陽の光が降り注ぎ、王都の人々は歓喜に沸いた。ゼフィールは涙と鼻水を流しながら、花子の手を握り締める。
「勇者様…本当に、本当にありがとうございました…! あなたがいなければ、この世界は滅んでいました…!」
花子:「いえいえ。最高の最終負荷、ありがとうございました。これでしばらく、筋肉痛で動けないかもですけど…」
彼女の顔には、心からの満足感と、心地よい疲労が浮かんでいた。しかし、その目には、以前のような惰性は微塵もなく、確かな充実感が宿っていた。
光に包まれ、花子の身体が消える瞬間、彼女はゼフィールに微笑みかけた。その笑顔は、これまでのどの笑顔よりも、穏やかで、そして確かな絆を感じさせるものだった。
「また、来週。今度は、世界の復興トレーニング、付き合いますからね! 筋肉もきっと喜んでくれますよ!」
その言葉を残し、花子は光の中に消えていった。ゼフィールは、その言葉の真意を測りかねつつも、確かに世界が救われたという事実に安堵し、深く頭を下げた。
そして、月曜の朝。田中花子は、以前とは全く違う表情で目覚めた。身体は相変わらず筋肉痛だが、それは心地よい疲労感だ。痛みすらも、充実した週末の証のように感じられた。
会社では、以前にも増してテキパキと仕事をこなし、同僚や上司を驚かせる。彼女の表情には、以前の死んだ魚のような目はなく、生き生きとした輝きがある。電話応対はハキハキとし、資料作成は迅速に、会議での発言も明確になった。彼女のパフォーマンスは飛躍的に向上していた。
ふと、デスクの片隅に置かれたプロテインシェイカーに目をやる。以前はオブジェだったそれは、今では彼女の冒険を象徴する頼もしい相棒に見える。ジムの月会費は、結局解約しなかった。なぜなら、ジムは彼女にとって、異世界での「ワークアウト」を「補完」するための場所になっていたからだ。平日に基礎体力を維持し、週末の異世界での「本番」に備える。そんな新しいサイクルが彼女の中に生まれていた。
金曜の夜。花子は定時で会社を出ると、まっすぐ自宅へ向かう。身体の奥底から湧き上がる、あの独特の熱い感覚。それは、異世界が彼女を呼ぶ合図だ。彼女は迷うことなく、ベッドに横たわった。
目を閉じる。明日、目が覚める場所は、もうあの平凡なワンルームではない。彼女は知っている。最高の「異世界ジム」が、そして新たな「ワークアウト」が、彼女を待っていることを。世界の復興という、新たな「トレーニング課題」が。
田中花子の「週末異世界ワークアウト」は、これからも続いていく。それは、彼女の人生に、かつてないほどの輝きを与え、彼女自身の可能性を無限に広げていく、終わらない旅となるだろう。そして、彼女が鍛え続ける限り、異世界は平和であり続けるのかもしれない。