04話 魔素なき鼓動
「ノエル!!」
エレノーラの叫びが夜闇を裂いた。
疲れ切った少女を見つけた瞬間、彼女は駆け寄って娘を強く抱きしめた。
「ただいまママ……」
小さな声が、母の胸元に吸い込まれていく。
「心配したのよ……! どれだけ探したと思って……!」
エレノーラは泣き笑いのような表情で、娘の背をさすった。
アリオスは安堵の息をついたが、すぐに眉をひそめる。
「……その腕の中の、それは?」
「この子……川でぐったりしてて……私、助けなきゃって。お母さんならきっと治してあげられるって。お願い、ママ…… 助けてあげて……」
彼女の傍らには、忠実な愛犬ポロも寄り添っていた。ノエルが帰ってくる間ずっと、落ち着かない様子で吠え続けていたが、今は不安そうに小さく唸りながら、娘の腕の中を覗き込んでいる。
ノエルの懇願を聞いても、エレノーラは娘の心配の方が優った。
「あなた……危険な目にあって、戻ってきたばかりなのよ? それなのに得体の知れないスライムを連れて――」
「分かってるの! 」
疲れているはずの少女は、それでも精一杯の声を出した。
「……でも、今はこの子を……助けてあげて……!もう見つけてからずっとこのままなの……」
少女は震える声で言い切った。腕の中に見えるスライムのようなものを泣きそうな顔で見つめている。ポロはそんなノエルの足元に鼻先を寄せ、小さく鳴いた。まるで「この子は敵じゃない」とでも言いたげに。
顔を上げ、おねがい……と娘から向けられたその真っ直ぐな瞳に押されるように、エレノーラは小さく息を吐くと、スライムに手をかざした。
「とにかく、回復魔法をかけてみるわ」
彼女の手のひらから、柔らかな光が放たれる。
穏やかであたたかい癒しの魔力が、スライムの体表を包み込んだ。
だが、何も起こらなかった。
「……回復反応がない?」
もう一度、別の術式で試す。だが、光は空しくスライムの表面を滑るだけだった。
「……体表に傷はない。ということは、魔素が悪さをしてる……?」
エレノーラはスライムをじっと見つめ、少し顔を近づけた。嘘……と言わんばかりの表情をした後、低く呟いた。
「……魔素が、感じられない」
「えっ……?」
「生きている限り、微弱でも魔素の流れは存在するものなの。けど、この子からはそれが"まったく"感じられないわ」
そう言いながら、彼女はまたじっと見つめる。夜だから気が付かなかったが、どうやら普通のスライムの色ではない。というよりも、どの種類のスライムとも言い難い色である。
少女の顔が青ざめていく。
「この子……もう、ダメなの?」
沈黙が流れた。
だが、話を黙って効いていたアリオスが口を開く。
「いや、まだ死んではいない。魔素を失った魔物はその形を維持できずに崩れるはず。だが……こいつは崩れていない。生きている証拠だ」
「確かにその通り。でも……何をしても反応がないのよ……?」
エレノーラは困惑したように目を伏せた。
「お願い……助けてあげて。この子、仲間がいないの。このままじゃきっと死んじゃう」
エレノーラはしばし沈黙したあと、
「わかったわ。話を聞かせて。でも、まずは家の中に入りましょう。この子にも、きっとよくないから」
といいながら、ノエルの背にそっと手を添えると、ノエルも小さく頷いた。
「うん……」
「あなた、いいかしら?」
「あぁ、俺はフォルドを戻らせるから先に入っていてくれ」
コクッとエレノーラは頷くと、いきましょう、と言いながら歩き出す。ノエルは母の手に導かれながら、スライムをそっと抱き直し、玄関の扉をくぐる。アリオスは一度娘と妻の背中に目を向けたあと、再び林の方に視線を戻した。
(……無事で、本当に良かった)
その胸中の言葉を誰にも聞かれることはなかった。
二人は家の中に入った後、机の上に上質な布を引き、そこにノエルは手に抱えていたスライムを優しく置いた。エレノーラは淀んだ色をしているスライムを見た後、ノエルに再度話の続きをし始める。
「この子を、どこで見つけたの?」
ノエルは一瞬、びくりと肩をすくめた。
怒られるかもしれない、という不安が頭をよぎったのだろう。けれど、今はそんなことを言っている場合じゃないと、意を決したように口を開いた。
「……ヒュグラ川」
"なんでそんな場所に一人で!"
怒鳴りそうになったが、今はそれをぐっと飲み込む。問いかけるべきはそこではない。
「川の、どのあたりかわかる?」
「分かんない。でも川の上の水の方が魔素が多く含まれてる、って前にパパが言ってたから、結構上の方まで歩いたよ」
その言葉を聞いて、エレノーラが軽く目を見張る。その距離を、少女が一人で。けれど、次の瞬間—— ノエルは「思い出した!」というように、ぱっと表情を明るくした。
「……あ、そうだ!」
背中からリュックをおろすと、急いで中を漁り、小さな瓶を取り出した。中にはどうやら川から汲んできた魔素を含んだ水が入っている。
「これ……川でくんできたの。元気にならないかなって思って。モボンにあげる分もあるから、全部はあげられないけど……」
ノエルは瓶を両手で包むようにして、スライムのそばにそっと置いた。エレノーラは、その子のけなげさに胸が締めつけられる思いがした。
「ノエル。この子はたぶん……もともと川の近くにいた子なのでしょう。でも、それでもこんなに弱ってるってことは、水の魔素じゃ足りなかったのかも」
「そっか……」
彼女は娘の肩に手を置き、優しく言った。
「今日はもう遅いわ。あなたは部屋で休みなさい。お母さんがこの子を調べておく」
「……うん。じゃあ……ママに、任せるね」
そう言って、ノエルは少し未練を残しながらも、部屋へと向かっていった。
「……頑張ったわね」
エレノーラは娘の成長を誇らしく感じながらも、誰もいない別室にスライムを運び、アリオスが外から帰るのを待つためにリビングに戻っていった。
……
── 魔素が不足しています。
── 魔素が不足しています。
……
……不足。補填対象:検索中。
《光織環》は何も語らず、ただ沈黙の中で、次を探し続けていた。