31話 リィ=セランの庵
ヒュグラ川。
それは、魔族領の深部から人族の街道まで続く、長く静かな川である。
ノエルがその川の水を汲みに行ったのは、魔族領に近い場所、“ネルの森”と呼ばれる森の中だった。この森は古くから「強い魔物が棲む」と言い伝えられており、数は少なくとも、ひとつひとつが人を喰うに足る力を持つという。
そんな危険な森から、わずか数百メートル。
そこに、アリオスたちの住む屋敷がある。
それは、決して偶然ではなかった。
スエノ町。
アリオスが領主を務めるこの町は、周囲を畑と森に囲まれた、ひとつの集落に過ぎない。そしてこの町は、田舎にありがちな気質── つまり、よそ者への冷たい視線を色濃く残していた。
アリオスはそれを敏感に感じ取っていた。
だからこそ、町から距離を置き、ネルの森に近い位置に屋敷を構えた。
何かが起これば、まず被害を受けるのは領主の屋敷である。その“覚悟”を示すことで、信用を得ようとした。
それは、決して自らの威厳を示すためではない。
町の者と、互いに踏み込まない距離を保つための、沈黙の答礼だった。それでも、アリオスの町民からの信頼度や知名度は、おおよそ領主といえるほどのものではなかった。
そして──
そうした“空気”は、彼女にも向けられた。
それを嫌った彼女もまた、町の外れに住んでいる。
静かに、必要なときだけ町へ現れ、また風のように消えていく。その彼女の名は、リィ=セラン。
スエノ町の外れ。ネルの森を見晴らす丘のふもと。
そこに、一軒の奇妙な住まいがある。
骨組みは木、壁は布。
簡素なつくりだが、どこか異質で、独特な雰囲気を持つ家だ。危険な立地に簡易な家住まい。「ここに通年暮らすのは無理だ」と、誰もが口にするだろう。
しかし、彼女はそこに住んでいた。
そして、その建物の名は
鑑定屋《リィ=セランの庵》
変わり者の老婆の隠れ家であった。
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チリンチリン……
アリオスは、店とも住まいともつかない奇妙な建物を、いつものようにためらいなくくぐった。
建物の中は、外から見たより思いのほか広々としている。おそらく天井が高いからだろう。乾いた薬草の香りと、少し湿った木の皮の匂いが交じり合って、何とも言えない香りである。
布の壁に吊られた干し草の束、使い込まれた木箱、ざらりと光る小石、正体不明の瓶詰め── 怪しい雰囲気で満たされている。それも相まって、“庵”と呼ぶにふさわしい静けさを持っていた。
「失礼する」
アリオスが言うと、中から老婆の声が聞こえてきた。
「……本当に失礼だねぇ。そういうのは入る前に言うもんだよアリオス」
「すまない、だがいつも気配がないからな。ご無沙汰しております、リィ姉さん」
「本当に。客がいないんじゃ潰れちまうよ。もっとも、鑑定屋として尋ねてくるのは、あんたとギルド員くらいだけどねぇ」
鑑定屋の老婆、リィ=セラン。
石の色や輝き、わずかな熱や澱みをもって物の“本質”を視ると言われるその技術は、外部の者に厳しいスエノ村の住民にまで『リィ=セランの庵』の名が轟くきっかけになったほどだ。
そして、辺境のスエノ町でギルドのお抱え鑑定士として認められているぐらいなので、彼女の鑑定士としての実力は決して低いものではない、と言えるだろう。
「今日は、鑑定をしてもらいに来たわけじゃないんだ。少し話があるのと、別件で買い物を少し、な」
「いつものかい?」
「ああ、肥料を3袋ほど頼む」
『リィ=セランの庵』はあくまで、鑑定屋である。
しかし、どこから仕入れたのか分からないが、珍しい丹薬や貴重な植物の種など、彼女の嗜好にやや偏った物を販売していたり──
また、これまたどこから仕入れたのか、本当かどうかも分からない噂や情報を売る情報屋としても活動していた。
以前は、ヒュグラ川のほとりで釣竿を貸し出す釣り屋もやっていたらしい。アリオスは、もはや何でも屋ではないか?と密かに疑っている。ちなみに、ヒュグラ川のほとりはスエノ町にもあるので利益にならず、釣り屋は辞めたらしい。
「おや、今日は少し多いね。……はいよ、袋は自分で持っとくれ」
「ありがとう」
エレノーラに頼まれた肥料を受け取る。
「それで、話ってのはなんだい?また拾い物かい」
リィはアリオスに、皺を深くニヤリと笑みを浮かべて問いかける。
「その件ではある」
「さて、当ててやろうかの。大凡、あの魔物とも言えん何かが"死んだ"、であろう?」
「いや、逆だ。原型が復活し、スライムになった」
リィは動揺をしなかったように見えた。
しかし、だ。
「それはまた……妙な話だねぇ」
どうにも、意外そうな反応を見せた。
「あんなに魔素が安定もせず形状が残っていたことが元々妙であったが…… まさか、あの状態で生きてるとはのう 」
「我々にも、正直何が起きたか分からなかった。私はその場にいたのだが、初めて見る現象だった。うちの娘が使役しているグラン・セラフスライムが包み込んだ瞬間、急に元気になったんだ」
「なに……?」
今度は、リィは少し動揺をしていた。
「いまなんと?」
「うちの娘が使役しているグラン・セラフスライムが、そのスライムを包み込んだ瞬間、急に元気になったんだ」
「ふむ……」
そして、何かリィは考え込み、独り言のように呟いた。
「あの "セラフスライム"を使役、のう……」




