02話 助けなきゃって思ったの
「……」
魔物はしばらく歩いた後、崖の縁に立ち、"それ"を無造作に放り投げた。崖の下には濁った川が流れている。魔物たちが食い散らかした骨や腐った肉、役目を終えた屍が日常的に投げ捨てられる場所── まさに、死の川だ。
"それ"は何の抵抗もなく、崖の岩へと当たりながら落ちていく。やや鈍くバチャッ、と音を立て、そしてそのまま川面に浮かび、ゴミと同じようにプカプカと流れていった。
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── 魔素が不足しています
── 構成情報:『ワイバーンの骨』を取得
── 魔素に還元……成功
── 魔素が不足しています。
── 構成情報:『ネムウッドの樹手』を取得
── 魔素に還元……成功
── 魔素が不足しています
── 構成情報:『魔眼鋼のレプリカ』を取得
── 魔素に還元……成功
......
川の中に浮かぶ腐肉、朽ちた骨、捨てられた道具の破片。"失敗作"の表面が、ほとんど目に見えないほど微かに波打ちを放ち、ゴミの隙間から魔素の粒を吸い上げる。しかし、それは生への執着における吸収とも言えない。ただ、機械的な命令に従い、存在を維持しようとする反応だった。
その体の内側で、ほんのわずかでも魔素を貯めていく。
しかし、それでも「何か」が足りない。
── そう、決定的な「何か」
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それから、どれほどの時間が流れただろうか。
崖下から流れてきたゴミは徐々に減り、今や水面に浮かぶのは水草と濁った泡ばかりになっていた。
魔素の吸収も少し変わり、川の水に微かに含まれるものを、ひと粒、またひと粒と拾い上げる。それでも吸収は止めない。
やがて、流れがやや急になり、浅瀬へと押し寄せられた“それ”は、川辺の景色の一部のように静かに横たわる形で動きを止めた。
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普段は人影一つ見えないこのネムの森に、一人の少女が歩いていた。
少女は、親の言いつけを破り、ヒュグラ川へやって来ていた。この川は、もっともっと上流── 魔族領の近くでは「死の川」と呼ばれているらしい。
でも、このあたりでは水もわりと穏やかで、そんなおそろしい川だなんて、少女にはいまいちピンと来ない。
「……よいしょっ、と!」
小さな声とともに、少女は大きな石をぴょんと飛び越えて川辺へ降りる。背中には少しふくらんだリュック。手には魔物の嫌う魔避け草をギュッと握っている。
「モボン、最近あんまり元気ないから……。ちょっとだけ、こっそり、こっそりね」
独りごとのように、少女はそうつぶやく。
今日の少女の目的── それは、川の魔素を少しでも持ち帰り、家でぐったりしている"モボン"というスライムに飲ませてあげることだった。かと言って、今年7歳を迎えるような少女が到底来ていい場所ではない。
(……大丈夫、魔避け草あるもん。においだってこれでちょっとマシになるしね──)
少女はそう言い聞かせるように鼻先に魔避け草を近づけると、ふうっと息を吐いた。少女がよしっ!と、少し体を立てると、背中のリュックに入っている空の瓶がカチャカチャと小さな音を立てた。
軽いピクニック感と冒険感から、少女は少しだけ高揚していた。親の言いつけを破るのは、これで二度目だ。
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一度目は、あの子と出会った日だった。
少女の家はアルステリア家── 貴族の家系であり、代々「魔物を使役するスキル」を持っていた。とはいえ、それは強制的に捕獲する力ではなく、心を通わせた使役状態の魔物に指示を出せる力である。つまり、使役ができている状態の魔物でなければ使用することが出来ない。そんな少々扱いにくいと言われるスキルを持つ家系の出自である。
少女はある日…… 飼い犬のポロとともに家の周りを散歩していた。いつも通りの小道。けれどこの日の少女は、なぜかいつになく冒険心に満ちていた。
「ねっ、ポロ。ちょっとだけ、秘密の探検しよっか?」
「わふっ!」
ポロが元気よく答える。
しかし、それはあまりに無謀だった。
屋敷の周囲には、魔物除けの薬草や魔法が張り巡らされている。それらのおかげで魔物は滅多に近づかない。だが、一歩でも敷地の外に出れば話は別だ。魔物の危険は常に付きまとう。
けれど、まだ当時五歳だった少女には、そんな説明はされていない。ただ、「ここより外に出てはだめ」と教えられていただけであった。
ほんの少し歩いたところで満足し、「そろそろ帰ろうか」と思ったその時だった。
── ぬるり、と。
通常よりもひと、いやふた回りほど大きなスライムが、少女たちの前に現れたのだ。
「ワンッ! ワンワンッ!」
ポロが声を荒げて吠える。スライムは、ゆっくりと──だが確実に、少女へとにじり寄ってくる。ポロは少女の服を咥え、引きずるようにして逃がそうとするが……
少女は、その場から一歩も動かなかった。
まるで夢でも見ているかのように。
じっと、スライムを見つめていた。
「……──」
その時、少女が何かを呟いたかどうかは、誰にもわからない。
ポロはついに諦めたように、少女を残して屋敷へと駆け戻った。慌てて戻ってきたのはポロだけ。異変を察した少女の両親は、すぐさまポロの後を追いかけた。
そして、たどり着いた先で──
そこには、大きなスライムの上にちょこんと座り、無邪気に笑っている少女の姿があった。
── まるで、何年も前から友達だったかのように。
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結局その日のことは、両親にこっぴどく叱られた。
「もう二度と、家の外に勝手に出るんじゃない!」と、父も母も、目を真っ赤にして怒鳴った。
けれど──
少女と両親の間をぬっと巨大なスライムが入り込む。少し怒ったような雰囲気を醸し出すスライムを見た瞬間、二人は、もしかして……と思う。そして、こう口に出した。
「使役状態、なのか? テイムもしてないのに……?」
少女自身にも理由は分からなかった。ただ、初めて見た瞬間から、なぜか“怖くなかった”。
だから逃げなかった。だから、友達になれた。
それが、少女と"モボン"の出会いだった。
あれから、もう一年。
あのスライムは今も、少女のそばにいる── ただ、近頃はぐったりとしていて、何をしても元気が戻らない。少女は父から魔物は体内の魔素が減ると元気がなくなると聞いたことがあった。
(だから……少しでも、川の魔素を持って帰ろうと思ったの)
少女はリュックの口を軽く叩いて、自分を鼓舞するように小さく息を吸った。瓶は全部空っぽ。できるだけたくさん、きれいな魔素を汲んで帰らなきゃ。
川岸へと慎重に歩を進め、少女は水辺にしゃがみこむ。ひとつずつ瓶に水を汲み入れて、五本の内、最後の一本を満たしたところで── ふと、顔を上げた視線の端に、何かが引っかかった。
「……え?」
石と石の隙間。流れの緩やかな淀みに、ぽとんと沈むように転がっていたのは…… 泥にまみれたスライムのように見える何かだった。
ぐったりとしている。形も不安定で、ほとんど動かない。
── けれど、確かに、まだ“生きている”。
「……だ、だいじょうぶ、じゃないよね。どうしよう……」
思わず立ち上がりかけたまま、少女は目を見開く。魔避け草の匂いも、瓶のことも、すべて忘れていた。
ただじっと、その姿を見つめる。
でも。
次の瞬間、考えたことは、とてもシンプルだった。
── 助けなきゃ。
そしてほんの一瞬、
少女の胸の奥に、奇妙な感覚がよぎる。
(……あの子の時と、なんだか……)
魔法の得意な母が、きっとなんとかしてくれる。
そう思った少女は、泥まみれのスライムをそっと抱え、急いで帰る準備を始めた。
風がざわりと吹き、魔避け草の葉を、かすかに鳴らした。