05.サッポーの再評価
16世紀の百合に関する進展は、サッポーの詩が翻訳されたことである。
サッポーの詩は1546年、ロベール・エスティエンヌによって出版されたギリシャ詩集の内に含まれていたが、当時はギリシャ語が書かれていた詩文を読める者は限られていた。1554年には息子のアンリ・エスティエンヌがラテン語訳を出版し、1556年にはレミー・ベローがフランス語訳を出版した。
英語への翻訳は16世紀後半にフィリップ・シドニーによって作成された。
ガラティアを書いたジョン・リリーは、1584年にサッポーとファオンという劇を書いている。この劇はオウィディウスのヘロイデスにあるサッポーからファオンへの手紙を元にしている。ヘロイデスの英訳についても16世紀後半に男の作家によって行われたという。
ルネサンスの伝記作家たちは、彼女の詩が(※当時の価値観に基づいて)男性のそれに匹敵する素晴らしいものであると評した。しかしサッポーの同性の女との愛は彼女の奔放な恋愛観の一側面として捉えられ、その性的な放縦さのために海に身投げすることになったと記述された。
活版印刷術の発明によってフランスでは有閑階級の女性たちが多くの書籍を読み、自ら出版するようになっていたが、その創作の中心は詩文だった。そしてときどきルイーズ・ラヴェやマドレーヌ・ド・ローベピーヌのような詩人が現代のサッポーとして高く評価されてきた。
彼女達もサッポーのように情熱的な詩を書いてきたのだが、同性へ感情をぶつける性質を見て取れるのは第一部分で触れたラウドミアによるもの以外に確認できない。
一方で、男の詩人たちはサッポーの翻訳を機に、女と女の特別な関係性をテーマにした詩を書くようになった。
女同士の特別な関係は1541年にアーニョロ・フィオレンツィーナが『女の美しさについて』を書いて以来、それが性的なものでない限りはある程度理解されていたが、ピエール・ド・ロンサールの哀歌Élégieの一つは二人の深い関係を髣髴させるほど情熱的である。
哀歌の主人公である女性は、同性の相手との友情amitiéのために自らの肖像画を送り、その絵画に互いの愛の象徴である神殿を描くことを提案する。そして互いの慎み深い愛を象徴する詩を神殿に刻み、祭壇で血を捧げて彼女のために尽くすと誓った。
しかしながら主人公は悲しみに明け暮れる。もう顔を合わせることが出来ないと悔み、ただ思い出だけが頼りだという。彼女のことを夫人Madameと呼んでいることから結婚によって離れ離れになってしまったのだろう。
そしてそれでも主人公はお互いに心と魂と信仰を共有していることを信じ、彼女のために人生を捧げると詠った。
またポンチュス・ド・チヤールは、男に恋人の女を寝取られた女の視点で詩を書いた。
彼女は、異性との間に恋の炎を燃やす想い人に対して、約束したはずの愛の誓い、耳打ちした優しい言葉が何処に行ってしまったのかと嘆く。そして古代の名のある人々を辿って異性愛が有り触れてるのに、女同士の愛という素晴らしい宝物がこれまで無かったということに言及する。また想い人のことを重ねて、それが何よりも軽薄なものだったと言う。
彼女は想い人の欺瞞や裏切りに憤りつつも過ぎ去った愛情を忘れられず、悲しみに濡れながら愛を求めて森を彷徨った。
これらの詩は16世紀の物語文学がそうであったように、女同士の愛が成就しないことを示している。古代ギリシャおよびローマを舞台とする悲恋のテーマを描くのにちょうどいい素材の一つだったのかもしれない。
17世紀に入って啓蒙主義が到来すると、偏見や迷信からの解放が進む中で百合に対する処刑も減っていったが、合法化にはまだ数世紀の時間が必要だった。
また文学分野では、女同士の特別な関係がロマンティックな友情をテーマとした作品に昇華される一方で、それまで否定的に見做されてきた露骨に性愛的なテキストも書かれるようになった。自己表現の形はそれまでと同様に詩文の形式に留まるものの、何人もの女流詩人によって同性への重い感情が描写されるようになる。