03.ルネサンスと百合裁判
ルネサンス期のヨーロッパではローマ法の再解釈や自然法の確立が進められていた。
その結果、それまでキリスト教において自然に反する罪であると定義されていた同性愛は、ローマ法大全や自然法による裏付けに基づいて諸国家の法律や諸都市の条例によっても禁止されるようになる。その適用範囲には女同士の関係が含まれることもあり、各地で百合に対する処刑が執行された。
ただ減刑自体は頻繁に行われていたし、ロシアなど文明化の遅れた地域はまだその影響を受けていなかった。またイングランドの法律は女同士の関係を考慮の対象外としていたし、イタリアの諸都市では違法化されるものの裁判記録は残されなかった。
同性愛の禁止が明文化されているテキストの一つとして1532年に制定された神聖ローマ帝国全土での刑法Constitutio criminalis Carolinaがある。これは元来ゲルマン法の下にあった神聖ローマ帝国において、ローマ法の受容を示すものでもあった。
その条文には「もし人間と動物、男と男、女と女で不貞を働いたならば、その堕落した人生は慣例通り炎fewerによって死刑に処す(CXVI)」とある。
1537年にはバーゼルの女が溺死刑にされた。そして1547年にフライブルクでアガサ・ディエスキという女がディルドを使用したとして逮捕され、(※使用を証明されなかったために重罪とはされずに)市から追放された。1568年にはジュネーヴ共和国の女もまた、この法律の下で裁かれた。
ジュネーヴの裁判記録によれば、被告フランソワーズ・モレルが一つのベッドで一緒に寝ていた女を強引に襲った。そして女の告発によって裁判となり、拷問にかけられ、「嫌悪されるべき自然に反する罪」(※および同様の余罪)を被告が認めたことから溺死刑になったという。
こうした溺死刑は恩情によるものであり、男同士ならば条文通り火刑にされることもあった。
低地地方では中世後期の頃から処刑の対象とされてきた。
ある論文[※Visible women : female sodomy in the Late Medieval and early modern Southern Netherlands (1400-1550)]は15世紀から16世紀半ばまでに25名の女が処刑されてきたと書いている(※そのうち16世紀のものは9件)。個人の事情によっては罪は軽減されたが、多くの場合は火刑になった。
その最盛期は他の地域より早かったが、違法性が取り消されるのは19世紀に入ってからだった。
フランスでも1530年代から処刑の記録が現われるようになる。
ジャン・ポパンは死刑を妥当とする犯罪の一つとして、1533年のボルドーで同性と性的な関係を持ったとして告発された女二人を引用する。この事件では証人がいて拷問にも掛けられたが、証拠が無かったため取り下げられた。
アンリ・エスティエンヌは1566年の著作において、約30年前にフォワの町で男装して厩舎で働いていた女が同性の女と結婚し、2年間一緒にワイン造りに従事していたところ、性別詐称が周囲に露見して火刑にされたと書く。
そしてミシェル・ド・モンテーニュの書いた旅行記では、1580年にモンティエ=アン=デで行われたマリーという女の処刑について触れている。
ショーモン出身のマリーは、6~7人の女仲間と共に男装して近隣のヴィトリーという町で織工として働いていた。彼女はヴィトリーで女性と恋愛するものの上手く行かなかったという。それからマリーはモンティエに移住した後、別の女性と恋に落ちて結婚した。しかし4~5ヶ月後、ショーモン出身者によってマリーが女であることがばらされてしまう。マリーは裁判にかけられ、同性との性交のためにディルドを使った罪によって絞首刑になった。
カスティーリャでは1497年に違法化された。
1503年、バリャドリッドで行われた裁判ではカタリーナ・デ・ベルンセが罪に問われた。彼女は同性の女と関係を持ち、裸で抱き合ったりキスしたり上に乗ったりしたという。しかし水責めの拷問を2度受けるが彼女は自白せず、また捜査によっても証拠を得られなかったため財産は返還され、町からの追放刑も取り消された。
1587年にはトレドでエレナ・デ・セスペデスが告発された。裁判において彼女は自分の陰核によって男としての役割を果たせると主張したが、医者の検査を受けて女性と見做された。
1597年にはマヨルカでエスペランサ・デ・ロハスが、2人の女からの愛を取り戻すために魔術を使ったとして罪に問われ、特に魔術の行使を問題視されて鞭打ちと追放刑になった。
ポルトガルでも1512年に女同士の関係に対する火刑が法制化されるが、男同士のものと違い、実際に死罪になった女はいなかった。
1555年、リスボンの20台前半の既婚者クララ・フェルナンデスが異端審問所を訪れ、カタリナ・ダ・ローザやイザベル・メンデスといった女たちと一緒のベッドで寝て、抱き合ってキスして相手の上に跨ったと告白した。彼女は投獄された後、他にも様々な女と寝たことを告白する。彼女は隔離された独房に5年間幽閉され、その後彼女自身による嘆願書によって釈放された。
1570年にはコインブラで同様の罪によって女2人が摘発され、抱き合い、キスをして、お互いの陰部を触り合ったと自白し、懲戒を受けた。
そして1574年、リスボンのサンタマルタ修道院では、1~2歳下の修道女カミラ・デ・ジェズースと半年ほど関係を持っていたことを理由に、24歳の世話係(rodeira)マリア・ド・エスピーリト・サントが異端審問にかけられた。
マリアはその胸に神の栄光と祝福を受けたと言い張り、そこまで乗り気でないカミラを霊的な娘と見做して神聖な母乳を与えていたという。そして裁定により二人とも三年間金曜日の断食を義務付けられた。
1579年にはポルトでイザベル・アントニアが同性愛の罪に問われて植民地ブラジルへの流刑になった。彼女はブラジルでも黒人の女フランシスカ・ルイスと関係を持ち、痴情の縺れをきっかけにして裁判沙汰になる。それはイザベルが男と付き合いだしたことにルイスがキレて殴ったり髪を掴んで引きずるなど暴力を振るったためだった。この騒ぎを周囲の人々によって通報されたのだが、最終的に二人が仲直りしたので取り下げられた。
1591年から1594年にかけてのポルトガル植民地のブラジルでは、異端審問官ヘイター・ファータド・デ・メンドンサによって29人もの女が自然に反する罪に問われた。29人のうち裁判になったのは7名で、そのうち3人の女が有罪になる。何人もの女と関係を持ち、最も罪が重かったとされるフィリパ・デ・ソーザは大通りでの鞭打ちと追放刑に処された。
1560年にアラゴンの法廷で、ディルドを使用しない女同士の性的な関係は問題視しないことが決定されたように、裁判ではディルドを使用することが重い罪と見做されていた。女同士でどのように致すのか分からない人々にとってシンプルに結論を出すことが出来たからだろう。
そしてカスティーリャやポルトガルで罪に問われた女たちもディルドの使用を証言することはなかった。