01.ラウドミア嬢とマルゲリータ公妃
1515年、ラウドミア・フォルティゲッリはシエーナの古い貴族の家系に生まれた。フォルティゲッリ家は当時のシエーナを支配していたペトルッチ家率いる九君主制の貴族の一つで、他の貴族と婚姻によって結びつくことでその権威を維持していた。ラウドミアの両親はどちらも九君主制の貴族であり、10代後半に結婚したとされるラウドミア自身も同様だった。
シエーナ共和国の民主制は14~15世紀の権力闘争の末に複雑化しており、また元々民主的な制度だった九君主制は貴族と結び付いていた。1487年には貴族のパンドルフォ・ペトルッチがクーデターを起こして政権を掌握した。
だが、厳格な専制君主パンドルフォが1512年に亡くなると、ペトルッチ家は急激に影響力を喪失する。1526年、ペトルッチ家の当主は追放された。教皇の助力を得て政権を取り戻そうとした九君主制の貴族たちは、民主派に敗れてシエーナにおける政治的地位を失ってしまう。
しかし九君主制の貴族たちはまだ伝統的な財産と外国の勢力を頼れる立場にあり、宗教界でもその影響力を保っていた。
1520年代後半にシエナに文学学会Accademia degli Intronatiが設立される。九君主制の一つピッコロミーニ家の主導によって結成されたこの学会は政治的な立場を失った貴族たちの寄る辺であり、夜半の会合で劇や詩が発表されていた。そこでは学会の名が示すように世俗から距離を置くことを教義としていて、女性の作品も多く採用されてきた。
ここでラウドミアの名前が出てくるのは1538年。その年の学会で発表された架空の物語で、彼女と同名のラウドミアという登場人物が完璧な女性と評されていた。
彼女は天文学の本を所有し、友人たちと哲学的な議論をすることを好んだ。
1541年、アレッサンドロ・ピッコロミーニは、シエナの学会と関係の深いパドヴァの学会Infiammatiでラウドミア本人の詩を絶賛する。そしてその詩が、パルマ公爵夫人マルゲリータに宛てられた愛の詩であると発表した。
マルゲリータは神聖ローマ皇帝カール5世の娘として1522年に生まれた。
彼女は5歳の頃にフィレンツェ公アレッサンドロ・メディチと婚約し、1533年にイタリアへと渡る。1536年にはアレッサンドロ・メディチとの結婚が成立した。
ピッコロミーニによれば、1536年に20歳のラウドミアが13歳のマルゲリータと初めて出会ったという。別の説によれば1533年に出会っていたとある。どちらにせよほんの数日程度の逢瀬だった。
翌年にアレッサンドロ・メディチが暗殺されてマルゲリータは未亡人となり、改めてパルマ公オッタヴィオ・ファルネーゼと結婚することになった。マルゲリータにとっては気乗りしない結婚だったが、現教皇がファルネーゼ家出身のパウルス3世である以上、ハプスブルク家にとっては対プロテスタント政策のために必要な結婚だった。
1538年10月、マルゲリータが結婚のためにローマへと向かう旅の途中、彼女はシエナに立ち寄った。そして数週間の滞在によってラウドミアと親交を深めた。
ラウドミアの書いた5つの詩はマルゲリータがシエーナを去った後、彼女のために書かれた。詩の中でラウドミアはマルゲリータの美しさや栄光を賛美し、そして別離せねばならないことを嘆いた。
「ああ、私の美しい太陽は、この私に神聖な光を向けることは無い。それならば私は、愛おしい人がいないところで生きて行かねばならないのでしょうか。もし願いが叶うならば、その人がいない世界で私が生きていくことを神がお喜びになりませんように。
ああ、残酷な運命よ。何故お前は私の身体が私の心の思うままになるよう取り計らってくれないのでしょうか。何故お前は、悲惨な有様の私を留め置き、苦しみからの救済という希望を与えないのでしょうか。
最後に、あなたの幸せで穏やかな顔を私に見せて下さい。女を打ちのめさせることは、栄光ある振舞いとは言えないのですから。
私の言葉を聞いて下さい。あなたに嘆願するための言葉を用意してきたのです。
私は、私にとっての女神の御傍に留めて下さること以外、何も望んではいないのです」
1541年、九君主制の貴族たちによって政変が起きた。神聖ローマ皇帝の後援があったという。これより少し前からスペインの守備隊がシエーナに配備されたが、市民との関係は良好ではなかったようだ。ピッコロミーニのパドゥアでの演説はシエーナ貴族と皇帝の結びつきを示している。
1547年には民主派によって再び政変が起きた。
1552年、フランスのアンリ2世がプロテスタント同盟を築き、神聖ローマ帝国との間で北イタリアを巡る争いが再発すると、シエーナは神聖ローマ帝国の守備隊を追い出し、フランスへの同盟を探り始めた。
1553年、シエーナは神聖ローマ帝国と秘密裏に同盟を組んでいたフィレンツェのコジモ1世の侵攻を受ける。フィレンツェ軍にあまり熱意が無かったのに加えてフランスによる支援もあったが、シエーナは敗北した。
この戦争の最中に貴族の女性をリーダーとした幾つかの婦女子部隊が結成され、ラウドミアも婦女子1000人を集めて防衛の支援にあたったという。シエーナが陥落した後の彼女の足跡は分からないが、フォルティゲッリ家は存続したようだ。
一方、マルゲリータは再婚後はローマで暮らしていた。1545年には生まれたばかりの長男アレッサンドロをシエーナ総督にさせようとしたが、叶わなかった。1550年にはパルマに移住するものの道中にあるシエーナに関する話は伝わっていない。
ラウドミアとマルゲリータの関係や、その賛美は政治的な結びつきを否定できないが、同時代の作家アーニョロ・フィレンツオーラは彼自身の定義する女同士の特別な愛情そのものと見做した。
この特別な関係の定義は予てより問題視されていた性的な関係とは線引きされ、実際に性的だったかどうかはともかく、近世の女同士の特別な関係を正当化するものになった。