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傑作集

僕らは、残酷なこの世界で

作者: そらちょまる

幸一(こういち)。今日、学校が終わったらおばあちゃんのお見舞い行ってもらってもいい?」


 朝、いつものように寝坊した母が慌ただしく出勤の支度をしながら僕に言った。


「え」


 突然のことに、寝起きの頭では理解が追いつかず、パンをちぎっていた手が無意識に動きを止める。

 母は、そんな僕のことなどお構い無しといった様子で、「はい、これ」とノートをちぎったような紙切れを置いた。見てみると、そこには病院の名前と病院の番号らしきものが記されていて、ようやく自分が祖母のお見舞いに行かなければならないということを理解する。


「おばあちゃんの名前は覚えてるでしょ?」


「うん」


「よかった。それじゃあお母さんはもう行くから、戸締りお願いね」


「分かったよ」


 僕が返事すると、母は出ていった。

 反射的に頷いたものの、実のところ祖母の名前はうろ覚えだ。まぁ、病室の場所さえ分かっていれば何とかなるし、問題はないだろうけど。


 母が出ていったことにより静寂に包まれたリビングで暫くぼんやりした後、手に持っていたパンの存在を思い出して、再び口に運び始める。


「お見舞いか……」


 ポツリと呟いて、溜息を吐く。

 正直、病院は苦手だ。不慮の事故、生まれつきの病……あそこほど世界の残酷さが詰まった場所はそうない。世界の残酷さを感じる度に、僕は世界が憎くてたまらなくなるのだ。


 まだ遅くない。家に出る直前に体調を崩して、病院に行けなかったことにでもしよう。発熱だと言って、学校も休んでしまおうか。


 我ながらいい考えだと思い、さっそく頭の中でシュミレーションしてみる。


 シュミレーションの結果、思わずパンを皿の上に落として項垂れる。僕の考えは現実的ではなかった。


 理由は二つある。まず一つは、毎日病院に顔を出している母が来なければ、祖母に心配をかけてしまうから。母に連絡して祖母に知らせればいいと思うだろうが、それまでに母に連絡がつくかどうかの保証がない。仕事中、あまりスマホを見ない人なのだ。

 たかが心配をかける程度。と思うかもしれないが、祖母が騒いで面倒事を起こす可能性も否定出来ないので、かなり重要なことだ。年配の人ほど行動力があるから、念には念を。

 さて、もう一つの理由は単純明快。仮病なんてどうせすぐにバレるからだ。くだらない事で母からの信頼を失うことは避けたい。

 一つ目の理由はともかく、二つ目の理由は僕が演劇部にでも入らない限り解決出来ないだろう。

 溜息を吐いて、仕方なしに現実を受け入れる。


 朝食が済んで時間でも確認しようとテレビに目をやると、時計より先にニュースの見出しが目に飛び込んできた。


 不治の病、最初の十八歳病患者が死亡。

 十八歳病というのが今年からちらほらニュースで報道されるようになったのは、死期が近い人がSNSで活動し始めていたからなのだと知った。

 確かに、いいネタになるもんな。軽く皮肉じみた笑みを浮かべる。


 ちなみに十八歳病とは、その名の通り十八歳で死ぬ病のことだ。先天性疾患としてごく稀に現れるもので、後天的には発病しないものらしい。


 生まれた時から自分の死ぬ時が分かってるなんて、どんな気分なんだろうな。そんなことを思いながら、ようやく時計に目を向ける。時計は授業開始時間である九時を指していた。

 学校、今日も遅刻だ。


 ◇


 困った、これは困ったぞ。病院に入って数歩のところで、僕は軽い絶望を味わっていた。

 不幸なことに、母からもらった紙切れに記してある病室番号は“0”と“6”の見分けがつかなかったのだ。これでは200号室か206号室、どちらに行けばいいのか分からない。


 溜息を吐く。

 どうして僕のやることはこうもスムーズに事が進まないのだろうか。


「とりあえず、数字が若い方から行くか」


 病院の人に聞いた方が早いし、間違いないのかもしれないが、二択なら人と話すより運に任せた方が楽だ。

 重い足を引きずるようにして200号室へと向かう。


 そういえば、ここまで何も考えずに病院まで来たけど、祖母とは殆ど会ったことがないのに何を話せばいいのだろう。

 祖母と最後に会ったのは多分、僕が五歳の時だ。会った記憶はないが、祖母と五歳の僕が仲睦まじそうに二人して笑顔で写っている写真を見たことがある。


 と言うかそもそも、十三年ぶりに孫と会うなんて迷惑じゃないだろうか。

 僕だったら絶対に嫌だ。おそらく、数分後には早く帰ってくれと目で訴えるだろう。

 仕方ないこととは言え、そんな目をされたらひとたまりもないな……。


 頭を振って、自分のネガティブ思考をなかったことにする。これ以上考えて憂鬱な気分になるのはよそう。早く帰ってくれと言われたら帰ればいいだけの話だ。


「ここが200号室か」


 200号室の扉は何故か固定されていて、開いていた。ふと、病室から風が吹いていることに気づく。この蒸し暑い季節、普通ならエアコンが休むことなく室内の空気を冷やしているはずなのに……と不思議に思って中に入る。


 そこには本を読んでいる、僕と同い歳くらいの少女がいた。陽の光が黒く長い髪をきらきらと輝かせていて、思わず目を奪われる。


 だからだろう。僕の気配を察知してこちらを見つめる少女の視線に気づけなかった。


「何してるの?」


 声を掛けられて我に返る。


「あ……ごめん。病室、間違えたみたい」


 見蕩れていたからか若干の気恥しさがあり、そそくさと病室から出ようとする。

 だが、それは少女によって止められた。


「待って」


「えっと……何?」


 再び少女の方へと振り返ると、少女は僕に手招きして隣に来るよう促した。面倒だとは思ったが、断る方がもっと面倒だと思い、溜息を吐いてから仕方なくベッドの横にあった椅子に座る。


「少しの時間だけ話し相手になってほしいんだけど、いいかな?」


「……いいよ」


 先程の手招きでも断れなかった僕だ。当然、嫌だとは言えず、話し相手を務めることにした。


「ありがとう」


 少女はピクリとも笑わずそう言った。そういえば、目が虚ろだ。そういう病気なのだろうか。

 他人が聞いたら失礼だと騒ぎそうな発言を脳内でしていると、少女が口を開く。


「それじゃあ、まずは自己紹介からね。はい、君からどうぞ」


 とんでもない無茶ぶりだ。クラスでカースト上位の人間がよくやるやつ。

 このまま無言を貫いてみようかとも思ったが、授業中に一発ギャグしろとか、好きでもない子に告白しろとかいう無茶振りよりはマシか。と思い直し、大人しく自己紹介することにした。


「僕は泉 幸一(いずみ こういち)


 ただ名前を名乗っただけの、シンプルすぎる自己紹介。せめて高校生だとか、血液型でも言うべきだったか。


「こういち? どうやって書くの?」


 だが、少女には僕の自己紹介のシンプルさよりも、何故か名前の漢字の方が気になったらしい。


「幸せに漢数字の一だよ」


 変にユーモアを求められるより、名前の漢字を教える方が楽だな。と思いながら教えると、少女は興味深そうに「へぇ」と呟いた。

 それから、僕を上から下までジロジロと眺めて「幸せそうじゃないのに」と言った。やめてくれ、少し気にしてるんだから。


「私は池原 美慈(いけはら みちか)。美しいに慈しむって書く」


「……雰囲気、合ってる」


 幼稚な仕返しとして、大した関心も見せず似合ってないと態度で言ってやる予定だったのに、聞いた名前があまりにも少女に似合っていたので驚きと共に言葉が漏れる。

 そんな僕を見て、少女が少し目を細めた気がした。


「私、幸一君とは友達になれる気がする」


「どうして?」


 “友達”という、聞きなれない単語に少し戸惑いながら理由を聞く。すると、少女は暫くの間、散々悩む素振りを見せた後で「なんとなく」とだけ言った。


「それより、お互いの呼び方決めよ?」


 再び予想外の展開を生み出す少女。


「呼び方なんて、なんでもいいだろ」


 頭を掻きながら答える。っていうか既に、少女は僕のことを勝手に君付けで呼んでるし。


「なんでもよくないよ。あだ名つけるセンスがないから嫌なの? それなら私が考えたから大丈夫だよ」


 どうやら、友達になれる気がする理由は答えられなかったくせに、こういうのだけは思いつくのが早いタイプらしい。加えて、無意識に人を煽る才能もある。


「はぁ……それじゃあ、僕は君のことをなんて呼べばいい?」


「ちかって呼んで。私は幸一君のこと、こう君って呼ぶから」


「分かった」


 なんの抵抗もなく返事したはずなのに、少女……いや、ちかは僕をじとーっと見つめてきた。


「な、何?」


「試しに、今“ちか”って呼んでみて。こう君、恥ずかしがり屋っぽいから、本当に呼べるか確認」


「そのくらい出来るよ」


 当然、虚勢である。


「それなら今すぐにでも呼べるじゃん。ほら、呼んでみて?」


 うぐ……と、押し黙る。

 初対面の僕のことを“幸せそうじゃない”と言った時から思っていたけれど、ちかは人の本質を見抜く力が普通の人より長けているようだ。


「ほら、早く」


 ちかに促されて、俯きながら細々と呟く。


「…………ちか」


 女の子をあだ名で呼ぶこと自体も恥ずかしいと言うのに、注目されてる中で改まって呼ぶとなると余計に恥ずかしい。


「声が小さいなー。もう一回」


 まさかのアンコール。最悪だ。


「ちか……」


 それでもさっきより羞恥心が薄くなったので、躊躇いなく呼ぶことに成功する。

 ……だが現実は、いや、ちかはそんなに甘くないわけで。


「まだ小さい、もっと大きな声で」


「ちか」


「もっと!」


「ちか!」


「本気で!」


「ちかぁぁ!!」


 やけくそで叫ぶ。僕の声が廊下まで響いたのが分かった。

 こんなに大声出したの、何年ぶりだろう。喉が痛い。かなりの大ダメージを受けたみたいだ。


「合格。やれば出来るじゃん」


 満足げに少し目を細めて、ちかは言った。


「……満足していただけたようでなによりです」


 ふと、背後から視線を感じて振り返る。看護師さんが扉の前で、僕を睨みながら人差し指を口元に当てて、静かにしろとサインを出していた。すみません、と頭を下げる。


 それから、ちかと雑談して暫く経った頃、随分と時間が経ってしまっている気がして、慌てて窓を見る。かなり日が暮れてきていた。祖母のお見舞いもあるし、そろそろ切り上げなければ。これでは、家に帰る頃には夜になってしまう。


「僕、もう行かなくちゃ」


 僕の言葉を聞いたちかは、数秒の沈黙の後に、「そっか」と言葉を落とした。


「また明日」


 口をついて出た言葉に、自分が驚く。本人である僕でさえ驚いているくらいだから、当然、ちかもピタリと動きを止めて僕を見ていた。

 やっぱり今の取り消しで。と言おうと、再び口を開くが、僕よりもちかの方が早く反応して言った。


「うん。また、明日」


 少し声色が高くなった彼女の返事を聞いてしまえば、今更取り消すなんて、僕には到底出来なかった。



 それから急いで206号室に向かい、無事に祖母のお見舞いを済ませることに成功した。

 僕の予想とは随分と違って、祖母は、僕を優しく受け入れてくれた。元気でやっていたかとか、学校はどんな感じかとか、在り来りな質問をしてくるだけで、無難に答えていたらあっという間に時間が過ぎた。

 お見舞いに来るのが予定より遅くなったことを少し心配されたが、適当に誤魔化しておいた。女の子と話してたなんて言ったら、何を言われるか分かったもんじゃない。


 ◇


 次の日、僕は約束を果たすべく、学校が終わるとすぐに病院へと向かった。

 ついでに祖母のお見舞いも引き受けておいた。祖母のお見舞いに来た母と、病院で鉢合わせしたくなかったからだ。基本的に自分から何かを引き受けることがなかったからか、母は目を丸くして僕の申し出を承諾してくれた。


「あ、ほんとに来てくれた」


 病室に来た僕を見るなり、ちかが本を置いて声をかけてくる。


「なんだよ、信用ないな」


 肩を竦めてそう返事しながら、昨日座った椅子に座る。

 ちかの言葉を聞いて思ったが、約束をすっぽかすことだって出来たのに、どうして僕は律儀に約束を守ってここに来たのだろう。僕は自分のことを、生粋のめんどくさがり屋だと自負していたのに。


「えー、信用してるよー」


 ちかは、わざとらしく頬を膨らませて拗ねたフリをしてみせた。

 こういう素振りを見ていると、思わずちかのことを表情豊かな普通の女の子だと認識してしまいそうになるが、彼女の瞳は虚ろで、相変わらず一切の感情を表さない。


「はいはい。それで、何の本を読んでたの?」


 実は昨日も気になっていた。緑のブックカバーに包まれた辞書くらい分厚い本。気にならない方がおかしい。

 僕の質問を聞くと、ちかは少し躊躇ってから、落ち着いた声で答えた。


「これはね、白い本だよ」


「白い本?」


「うん。何も書いてない本のこと」


 何も書いてない本を眺めてる? 一体、なんの意味があって? 頭の上にクエスチョンマークが沢山浮かんだ僕の心境を察してか、ちかが続ける。


「いつもこの本を眺めてね、自分の好きなお話を妄想して読み進めていくの。そうすれば、誰かが不幸になるお話を読まなくて済むし。……まぁ、たまに売り物の本も読みたくなるけどね」

 

 バッドエンドが嫌いなのか。察するに、自分が病で不幸だから、ものによっては感情移入し過ぎて辛くなるとか、いつ死ぬか分からないから続きが気になる状態でいるのは不安とか、そういうものなのだろう。


「両親に頼んで、そういう本を持ってきてもらうのは?」


 そう言うと、ちかは静かに首を振った。


「お父さんとお母さんは、お見舞いに来ないの」


「あ……そう、なんだ」


 思わず目を逸らす。もしかすると、地雷を踏んでしまったのかもしれない。

 家族との仲はあんまり良くないのかな。そう考えた時、ある提案を思いついて口を開く。


「それなら、僕が誰も不幸にならない本を持ってくるよ」


 思いつきのままに声に出してから、自分がどれほど面倒な提案をしたのかということに気づき、すぐに後悔する。


「えっ、ほんとに?」


 少し大きな声でちかが聞き返す。

 おい、僕。この流れは昨日したぞ。


「……うん」


 当然、取り消せるわけもなく。

 僕は溜息混じりに返事した。


 ◇


 次の日の土曜日、僕は、まだ太陽が高いうちに図書館へと向かった。

 当然だが僕の気分は憂鬱そのもので、図書館に着くまでに何度ネットで適当に選べばよかったと後悔したことか。……まぁ、機械音痴だからネットで本を検索して買うなんて無理なんだけどさ。


 ここまでの間、憂鬱な気分と、ちかの望む条件の本を選ばなければならないという妙な責任感しかなかった僕だったが、図書館に入ると同時に憂鬱な気分は吹き飛んだ。


 __図書館は、天国だ。完璧に調節された空調と、清潔感のある静かな空間に感動する。この空間に一人ではないのが少し残念だったが、さっきまで夏の洗礼を受けていた僕にとっては小さな問題に過ぎなかった。


 よし、ちかが満足する本を探し出して、絶対に喜ばせるぞ。と、改めて気合いを入れる。やるからには真剣にやらなくては……なんて、普段は思わないけど、ちかにガッカリされるのは何故だか嫌だった。


 “誰も不幸にならない話”と条件付けると、大体の本は候補から外される。

 よくある恋愛ものには恋のライバルがいて、そのライバルが振られて不幸になる。当然、ライバルが振られないならヒロインが不幸になる。恋愛の中でも特に、余命宣告されたヒロインが登場するものが泣けるとよく聞くが、病人に見せてはいけない気がするし、彼女を泣かせたいわけでもない。

 最近流行りの異世界転生ものも、全員が不幸にならない保証があるかと言えば、そうでもない。むしろ、登場人物が多い分、気づかない所で誰かが不幸になっている可能性が高い。


 色々なコーナーに行っては、あれは駄目、これも駄目……と。困ったことに、なかなか誰も不幸にならない話が見つからない。


 こうなると、小さい子供が読む絵本の中から探した方がいいのか……?

 馬鹿にしているのかと怒られるかもしれないが、案外、上手くいくかもしれない。と僅かな可能性に賭けて、女子にウケそうな絵柄の可愛い絵本を一冊手に取った。


 その後、誰も不幸にならないようなギャグ漫画とコメディの短編集を見つけたので、そろそろ切り上げることにした。


 外に出ると、あんなに高かった太陽がかなり西に傾いていて驚く。


「早く帰らないとな」


 自転車を漕ぎ始める。

 気づけば最初の頃の憂鬱感はすっかり消えていて、ちかの喜ぶ姿がただただ楽しみになっていた。


 ◇


 翌日、僕は早起きして面会が出来る十時ピッタリに病院に着いた。もちろん、昨日買った本が入っている紙袋を持って。


「あ、こう君だ」


 僕を見るなり声を掛けてくるちか。相変わらず何も書いてない本を手に持っている。


「一昨日ぶり」


 少し笑って言いながら、隣に座る。三日でこの動作に慣れてきている自分に少し驚いた。


「なんか、機嫌いいね」


 ちかが観察するように僕を見つめる。


「ちかに早くこれを見せたくて」


 紙袋を見せると、ちかは不思議そうに首を傾げた。


「一昨日、約束したやつ。ちゃんと図書館で選んできたんだよ」


 僕がそう言うと、ちかは「ほんとに持ってきてくれたんだ! 見せて見せて」と、目を輝かせて言った。まぁ、目を輝かせているっていのは僕のフィルターを通してそう見えるってだけで、実際には、虚ろなままなんだけど。


 早く早く。と、待ちきれない様子のちかに急かされ、はしゃぎ過ぎだなぁと苦笑いしながら本を出す。


「ちかがどんな本が好きなのか分からなかったから、絵本と漫画、小説を一冊ずつ持ってきたよ」


 僕がそう言うと、ちかは「嬉しい、ありがとう」と少し目を細め、最初に絵本を手に取った。


「今から読んでもいい?」


 ちかからの意外な質問に少し驚く。彼女はこういう時、周りのことなど何も考えず自分の好奇心のままに動くと思っていた。


「うん。そっちの方が感想もすぐ聞けるし、助かるよ」


 僕がそう言うと、ちかは「やった!」と喜びの言葉を口にして、さっそく絵本を読み始めた。


「絵柄、可愛いね。こう君の趣味?」


 どさくさに紛れてとんでもないことを聞かれる。


「まさか。女の子の好きそうな絵柄を選んだだけだよ」


 ブンブンと首を振りながら言うも、あまり信用は得られたかったようで、「ふーん」とジト目で返されるだけだった。次は絶対、可愛いなんて微塵も思わせないような絵柄の本を選ぼう。


 それから絵本を読み終わったちかと沢山の話をした。ちかは病院食が好きだということ、病院に仲のいい看護師さん……もとい、田中さんがいるということ、その田中さんが今年結婚するということ……。あ、ちなみに僕に人差し指で静かにしろとサインを送った人がその田中さんらしい。


 それと、ちかの病気についても話してもらった。

 彼女は“十八歳病”を患っており、感情が希薄なのも症状の一種で、彼女曰く、“感情を感情と認識できるほど膨らませられない”とのことだ。常人の僕には到底理解できない感覚だろう。


 ちかは、今年の誕生日で十八歳になって、死んでしまうらしい。十八歳病は生まれてからきっかり十八年後に死ぬから、死ぬ時が分かっているのだと得意げに言われた。多分、彼女なりの強がりなのだろう。

 教えてくれない気はしたが、念の為、誕生日はいつかと聞いたら、答えたくないとやっぱり断られてしまった。自分の余命を知られることが嫌らしい。


「十八歳病患者は毎年、誕生日を迎えると哀れんだような目を向けられるから、普通の人みたいに誕生日を祝われてみたい……って憧れはするんだけどね」


 そう言ったちかは、少し寂しそうな顔をしていた気がした。





「ああ、そう言えばこう君」


 病室を出る時、ちかに声を掛けられる。


「ん?」


 振り返ると、ちかは手元の本を指差しながら言う。


「勘違いしてるみたいだから、訂正しておくね。私の言う不幸は、この世界の美しさに、優しさに気づけないことだよ」


 それは、この世界に美しさも優しさもないと思っている僕のことだった。


 ◇


 僕はそれからも、ちかに会いに病院を訪れた。

 毎日のように会っては、学校や病院での出来事や、昨日やっていたバラエティ番組についてなど、他愛のない話から踏み込んだ話まで、沢山の話を時間の許す限りした。それはもう、そんなに話していて話題は尽きないのかと田中さんに苦笑いされるくらい。


 はじめは僕も田中さんと同じように、いつ話題が尽きてもおかしくないと思っていたが、話題は意外にも尽きなかった。ちかと話していると、不思議と話したいことが沢山出てきたのだ。それに、彼女自身も喋ることが好きだから、むしろ話題は有り余っていた。


 そんな有意義な時間だから沢山エネルギーを使うのだろう。帰路に就く時にはいつも、まるでカラオケ帰りのように気分がスッキリしていた。


 毎日、僕に憂鬱感しか与えなかった灰色の世界。そんな世界にちかの存在が加わったことで、いつもより少し色づいて見えた。

 ちかとの日常があれば学校もそれなりにやっていけるし、何より大嫌いなこの世界の中でも生きていけると、本気でそう思えたんだ。


 ◇


 そんなある日のことだった。


「ちか、今日も来たよ」


 夜七時。その日は、いつもならとっくに病院を出ている時間に病院に訪れた。

 どうしてこんな時間に来たのかというと、放課後、日頃の遅刻について教師から叱責を受けたせいで学校を出るのが遅くなり、病院に行く時間がなくなったからと諦めて帰宅したが、母の帰りが夜中になることを置き手紙で知ったので慌てて病室に来たからだ。

 そのくらい、ちかと過ごせる時間を一秒たりとも逃したくなかった。


 息を切らしながら入ったちかの病室は、何故か照明がついておらず、雲が月を隠しているせいで真っ暗だった。

 返事のないちかに違和感を覚えながらも、いつも通り話しかけてみる。


「今日は静かだね」


 言いながら手探りで椅子を探して隣に座るが、ちかは何も言わない。


「電気はつけないの?」


 この問いにも、反応はない。


「どうして、僕を無視するんだよ」


 もしかして、この時間帯に来られたくなかったのだろうか。それとも、非常識な僕に嫌気がさした?

 マイナスな思考で足の感覚がなくなって、鼓動がやけにうるさくなる。

 僕は焦燥感から逃れるように、ちかの顔を見た。すると、丁度よく雲の隙間から月明かりが漏れ、ちかを優しく照らした。


 息を呑む。

 そこには、普通の人には有り得ても、ちかには有り得ない光景があった。

 ……ちかの頬に、一筋の涙が伝っていたのだ。


 彼女の美しい涙に、まるで吸い込まれるように手を伸ばし、涙を拭う。

 すると、僕が何を言っても喋らなかった彼女がようやく口を開いた。


「私、死ぬまでにね、一度でいいから笑ってみたい」


 ちかの言葉を聞いた瞬間、胸がチクリと痛くなり、思わず俯く。彼女の望みなんて、普通なら望みにもならないほど当たり前のものなのだ。

 そんな当たり前のことを“一度でいいから”と表現してしまうほど切実に願う彼女の姿が、不憫で仕方なかった。どうして彼女にはそんな当たり前が許されないのだろうか。どうしてこんなにも不平等なのだろう。この世界は本当に__


「残酷だよね」


 世界って。と、まるで自分の思考を読んだかのような彼女の言葉にハッとして顔を上げる。


「普通の人が当たり前に出来ることも当たり前にさせてくれない。生まれた時から十八歳病で、死ぬ運命まで決まってるなんて。ほんと、残酷以外の何物でもないよ」


 頷く。

 ちかは強い。生まれた時から死ぬ時が決まっていて、感情も人よりずっと希薄で出来ないことが多いのに、これまで僕に一度も弱音を吐かず、一人でこの理不尽さに対する思いを抱えていた。僕が気づかないほど静かに、心の奥深いところで。

 だから今日、こうして僕に気持ちを伝えてくれたことが嬉しかった。


「この世界は、本当に酷いね」


 ちかの気持ちに少しでも寄り添おうと、手を握る。この世界は残酷なんだ、憎んだっていいんだよ。そんな気持ちを込めて。

 だが、驚いたことに冷たいと思っていたちかの手は、僕よりずっと温かかった。更に驚いたのが、弱っていて無気力だと思っていた彼女が僕の手をぎゅっと握り返してきたことだ。


「でもね、私はそんな世界が愛おしい。残酷さもあるけど、優しくて美しいところの方が沢山あるから。だから、絶対この世界で笑ってやるんだ」


 私から世界に宣戦布告。

 そう言ってちかは目を細める。ちかが目を細める意味は、笑顔のようなものだと最近知った。


 この世界は残酷でしかない。優しさや美しさなんて、そんなものはどこにもないのに、彼女がどうしてそんな虚ろな目で希望を語れるのか、その目に優しさを宿せるのか、僕には全く分からなかった。


 そんな気持ちでちかを見ていると、ちかは突然ポケットに手を入れて、何かを取り出した。


「これ、こう君にプレゼント」


 至近距離にもかかわらず、軽く投げて渡してくる彼女に驚きながらも、なんとか反射的に受け取って確認すると、渡されたのは綺麗なブレスレットだった。


「私も同じブレスレット持ってるから、これで私たちは世界と戦う同盟だよ」


「ぷはっ」


 思わず吹き出す。ちかは度々幼く純粋な発言をする人で、普段なら可愛らしいなと思うが、こういう真面目な話をした後だと何故だか面白く感じてしまう。


「もしかして今、私馬鹿にされてる?」


 頬を膨らませるちか。


「違う違う。ただ、可愛いなって」


 言いながらも笑いを抑えられない僕に、ちかはまだ不服そうだったが、意外にも目は細めていた。


「よろしくね、同盟仲間さん」


 ちかが手を差し出してくる。


「あぁ、よろしく」


 僕は目に浮かべた涙を手で拭いながら、彼女の手を取る。

 絶対に勝とうね。そう言ったちかは月明かりに照らされていて、綺麗だった。


 勿論、世界と戦う気なんて更々ない。でも、その代わり、ちかがこの世界と戦うための手助けを全力でしようと密かに心に決めた。



 だが、そんな僕らの気持ちをこの世界が容認してくれるはずもなく。

 ちかの身体は日に日に弱って寝たきりになることが増えていき、僕は病院に行っては帰るを繰り返す日々を送ることになっていた。


 ◇


「あ、幸一君! 今日は美慈ちゃん、起きてるわよ」


 学校帰り、いつものように病院に来た時、たまたま通りかかった田中さんに声を掛けられる。僕もついに、名前を覚えられるくらい病院に来たのか……と、少し恥ずかしい気持ちになったが、それよりも予期せぬ嬉しい知らせに心が躍った。


「ありがとうございます」


 軽くお辞儀して、早足で200号室へ向かう。


「ちか!」


 ちかは本当に起きていた。思わず顔がほころぶ。


「ちか、久しぶり。体調どう? 気分は悪くない? ずっと心配してたんだよ」


 僕がまくし立てるように言うと、ちかは静かに「うん」とだけ答えた。

 様子がおかしいことに気づく。明らかにいつもの彼女ではない。最後に話した時とも雰囲気が違う。

 不安になってちかの顔を覗き込むが、相変わらずの虚ろな目と無表情だけがそこにあった。


「こう君」


「何?」


 声を掛けられて、反射的に返事する。


「こう君。この世界は、君が思っているよりずっと綺麗で優しいんだよ」


「……うん」


 そんなことはない、世界は残酷でしかないんだ。と反論したくなったが、ちかにとってはそうなのだろうと割り切り、頷く。


「確かに残酷なところもあるけど、こう君が思うほど残酷じゃない。真っ直ぐ向き合えば、世界は案外すんなりと受け入れてくれるよ」


 そう言うことで、ちかは自分を慰めているのだろうか。確かに、彼女の心は弱っている。自分の幻想に浸っていたくもなるだろう。

 薄っぺらい同情を、いや、ちかの言葉から目を背けるように手を握る。ちかの手は相変わらず温かい。その温かさに少しだけ心が安らいだ。

 そんな僕を見てちかは目を細め、優しく静かな声色で、再び言葉を紡ぎだす。


「こう君はとっても優しい人。だから、幸せになってほしい」


「僕はもう、十分幸せだよ」


 嘘じゃない。僕は、ちかが居るだけで、ちかと時間を共に出来るだけで、この上なく幸せなのだ。それはもう、この世界の誰よりも幸せだと胸を張って言えるくらいに。


 だから、頼むよ……。


「そろそろ私以外の居場所、見つけないとね」


 そんな悲しいこと、言わないでくれ。


 目の前の現実から突き放されたような感覚に目眩がする。


「なに、いってるん、だよ」


 声を絞り出す。


「この世界から逃げないでって、私に依存しないでって、そう言ってるの」


 淡々と紡がれた言葉は、紛れもなく彼女から僕への拒絶だった。


「僕は、ちかに依存なんかしてないよ」


「嘘」


 なんとか反論するも、すぐに見抜かれてしまう。当然だ。青ざめた顔に震える身体、それを見れば誰だって僕を嘘つきだと糾弾するだろう。

 ちかが僕を見つめてくる。まるで、僕の心の奥底を見透かそうとしているように。


 何もかも失ったような、追い詰められたような感覚に陥ると同時に、得体の知れない恐怖が僕を襲う。


「ごめん」


 僕はそう言って、ちかの返事も聞かずに走って逃げた。


 ◇


 家に帰ると既に夕食が出来ていた。いつもならもう少し遅いのに、今日は早いらしい。


「幸一、今日はおばあちゃんのお見舞いに行かなかったの?」


 母に言われて、ようやく気づく。いつもはちかの病室に行ったあとで祖母のもとへ行くのだが、今日はそんな余裕がなかった。


「ごめん、忘れた」


 謝ると、意外にも母は僕を責めなかった。案外、僕のことも祖母のこともどうでもいいのかもしれない。

 言われないならそれに越したことはないと思い、二階に上がろうとすると、「幸一、ご飯食べないの?」と母に聞かれる。


「ごめん、今日はいらない」


 そう言って二階に上がる。今日は謝ってばかりだな、なんて考えるが、まぁそんな日もあるだろうと割り切った。

 自室に行き、布団に入って目を瞑る。もう何も考えたくなかった。何考えるのは明日でいいだろう。今日は金曜日で週末だ。普通でも頭が回らないのに、あんなことまであって、元気に考え事をしている方がおかしいのだ。

 今日くらい、全部忘れさせてほしい。


 その日、僕は腐ったように眠り続けた。


 ◇


 翌日、僕は、ちかに昨日のことを謝るために十一時頃に病院へと向かった。


「あ」


 病院に入ると、また田中さんと偶然鉢合わせする。そろそろ手でも振ってもいいくらいの仲なんじゃないかと考えて、手を上げかけたが、なにやら様子がおかしいことに気づき、いつも通り真面目な高校生の顔をする。


「ちかに、何かあったんですか?」


 田中さんの様子からして、どう考えても好ましくないことが起こったに違いない。例えば、食欲が低下し過ぎていてそろそろ栄養面が怪しいとか、精神面が安定してないとかだろう。

 ちかと過ごせる時間が短くなっていることを痛感しながら、田中さんの言葉を待つ。


 田中さんは少しの沈黙の後、目を伏せがちに答えてくれた。


「美慈ちゃんは昨日、亡くなったわ」


 頭が真っ白になった。


 それから自分がどうしたのかは分からない。強いて言うなら、田中さんが僕に慰めのような言葉を掛けてくれていたような気がするけど、定かではない。

 気づけば僕は、民間の遺体安置所にいて、冷たくなったちかを見下ろしていた。


「最期まで、笑えなかったんだろうね」


 実感がないせいか、ちかの最期に立ち会えなかったことに対する罪悪感はあったものの、彼女が死んだことへの悲しみはなかった。

 ただ、ちかの願いが叶わなかったことが残念だった。


 ちかが綺麗で優しく、愛おしいとまで言っていた世界。どうやらその世界は、彼女に死の宣告をして人並みの感情を奪うだけでは飽き足らず、彼女の愛に応える気すら更々ないらしい。

 だってそうだろう? 応える気があるのなら、ちかの死期くらい奇跡とやらで延ばしてくれたっていいじゃないか。一度くらい、思いっきり笑わせてやったって、いいじゃないか。


「ちか、君はこんな仕打ちをされても、変わらずに世界を愛せるのか?」


 色んな感情が混ざって声が震える。当然、聞いたところで返事がくるはずもない。

 希望を語る彼女の虚ろで優しい瞳は勿論、たった一度だけ頬に伝った涙すら、もう、永遠に見ることはかなわない。池原 美慈と言う存在は消えたのだ。いや、消されたのだ。この世界の残酷さによって。


『こう君。この世界は、君が思ってるよりずっと綺麗で優しいんだよ』


 ふと、最後に話した時にちかが言っていた言葉を思い出す。


 一体、彼女の目にはこの世界はどんな風に見えていたのだろう? 考えてみるが、僕には分からない。

 当たり前だった。世界の残酷さに病という形で苦しめられているにも関わらず、世界を愛した君と、世界を一方的に恨んで、嫌って、拒絶して逃げ続けた僕とでは、あまりにも見ている景色が違いすぎる。


 もっと歩み寄ればよかった、なんて。今更思ったところで全てが手遅れだった。


 ごめん、ちか。

 僕はまだ、この世界の美しさや綺麗さを見つけられそうにない。むしろ、僕から君を奪ったこの世界を恨まずにはいられないんだよ。


 握り締めた拳から、血が滴り落ちた。


 ◇


 月明かりで目を覚ます。

 辺りを見回すと、そこは自分の部屋だった。


「いつ、帰ってきたんだっけ」


 そう呟いた声は掠れていて、情けなかった。

 確か、今日はちかに会うために病院に向かって、それから……。

 そこまで考えて、喉の痛みに気づく。そうだな、まずはカーテンを閉めて、それから何か飲もう。ついでに何か食べるものがないか冷蔵庫も漁ろう。お腹が空いた。


 そう思って立ち上がった時のことだった。ふと、月明かりに照らされて机の上で何かが光っていることに気づく。


 ちかから貰ったブレスレットだ。

 ブレスレットを手にした瞬間、腐りかけのような感情がゆっくり動き出す。


「あぁ、そっか」


 ちかが、死んだんだった。


 受け入れ難い事実が僕の心を襲い、夢見心地のような気分から急に現実に突き落とされる。


「ちか……ちかぁ…………」


 立っていることもままならず、膝から崩れ落ちる。

 それから、ブレスレットを縋るように顔の前で握りしめた。ブレスレットを握りしめたところで、ちかの温もりは感じられない。ちかがいなければこんな物、ただの無機物でしかないんだ。


 世界が憎い。

 ちかを幸せにも、笑顔にも出来なかった無力な世界が、心底憎くてたまらない。


 でも、僕が本当に憎いと思っているのは……。


 ちかの最期すら看取ってやれなかった、僕自身だ。


「あの……大丈夫ですか?」


 声が降ってくる。

 どう考えたって大丈夫じゃないだろう。こんな暗い部屋で一人、ブレスレットを握りしめてる男のどこが大丈夫そうなんだ。


 ……え?


 自分の現状に違和感を感じる。だって、僕は今、部屋に一人でいるはずなんだ。それなのに一体誰が僕に声を掛けると言うのだろう。


 顔を上げる。

 そこには、心配そうな顔をしている看護師……田中さんがいた。


 __僕は、病院にいた。


「本当に大丈夫ですか?」


 再度訊いてくる田中さんに適当に返事をして、受け付けの近くにある椅子に腰掛ける。

 右手には病院の名前と病室番号が書いてある紙切れが握られていた。この紙切れは、僕が初めてこの病院に来た時に持っていたものだ。

 ある可能性が、頭をよぎる。


「そんな、非現実的なこと……」


 口では否定していても、希望を持たずにはいられなかった。

 どんどん高鳴る鼓動を抑えるように立ち上がって、歩き出す。

 そうして僕は、200号室の前まで来た。初めて来た時と同じで、200号室の扉は固定されて開いていた。


 ちかがそこにいる事はほぼ確実だったが、正直、信じきれていない自分がいる。ちかの病室を覗くのが怖い。もしいなかったらどうしよう。彼女がいなければ、僕はまた彼女を失った絶望を鮮明に味あわなければならなくなる。そんなの御免だ。


 思わず右足を一歩引く。


 駄目だ。ここで逃げてしまえば、僕は一生後悔する。僕は震える足を叩いてから、勢いに任せて200号室に入った。


 目を見開く。

 そこには、あの時見た光景と変わらない様子のちかがいた。

 ちかが、生きてる。それもまだ、彼女が元気な時だ。そう思うと目に熱いものがこみ上げてくる。


「ちか」


 目じりの涙を軽く拭ってから愛おしい名前を口にすると、ちかは僕の方を見た。もしかして彼女も僕と過ごした記憶があるのだろうかと一瞬期待するが、残念ながら違ったようで


「君、凄い。私、あだ名で呼ばれるの好きなの」


 と、言われた。


「あ、ごめん。病室の名前見て、それで……」


 慌てて言い訳をするが、ちかは特に気にした様子もなく、「君の名前もあだ名で呼びたいな」と目を細めた。


 それから僕とちかは、初めて会った時のような言葉を交わした。

 ちかからすれば僕は初対面の変に馴れ馴れしい男……不審者だと思われてもおかしくないのに、彼女はそんな僕を“不思議な子”としてすんなりと受け入れ、初対面とは思えないほど親しげに接してくれた。彼女の好意的な態度のおかげで、夢のような時間があっという間に過ぎた。


 それから僕は学校を休んで、祖母のお見舞いの時間も最小限にして、午前中からちかに会いに行くことが増えた。ちかのことをもっと知りたかったし、何より、ずっと傍にいたかったのだ。





 そんなある日のことだった。


「こう君、ちょっといい?」


 病院に着くと、田中さんに呼び止められた。


「なんですか?」


 そろそろ、学校を休んでいることを指摘されるのだろうかと、少し緊張気味に返事する。


「美慈ちゃんのことで、幸一君にお願いがあって」


「お願い、ですか?」


 予想に反した内容で、思わず驚く。どうやら僕は、いつの間にか田中さんからの信頼を得ていたらしい。

 思わずオウム返しした僕を見て、田中さんは少し笑ってから続けた。


「ええ。幸一君にしか出来ないことなの」


「分かりました。僕は何をすればいいんですか?」


 食い気味に言う僕に、今度は田中さんが驚いていたが、僕は、自分にしか出来ないことと言われて食いつかない人間ではない。それも、ちかに関することだ。食いつかない方がおかしいだろう。


「美慈ちゃんの誕生日を祝ってあげてほしいの」


「誕生日、ですか」


 確かに、ちかは誕生日に憧れを持っている。だが、誕生日を祝うという行為は、彼女の死を祝うことと同義なのではないのだろうか。


 そんな僕の気持ちを察してか、田中さんは「無理にとは言わないわ。だけど一応、誕生日だけ教えておくわね」と言って、ちかの誕生日と出生時間を僕に教えて去っていった。


 一方で僕は、祝うかどうか迷って返事も出来なかったくせに、丁寧に田中さんの言葉を貰ったメモ用紙に書いて、それを無くさないよう、大事にポケットの中に入れた。


 ◇


「幸一君、今日は上の空だねぇ」


 祖母に声を掛けられて、ハッとする。


「すみません、ちょっと考え事しちゃってて」


 軽く頭を掻きながら笑うと、祖母も笑い返してくれた。


「何かあったのかい?」


 いや、何もないですよ。気にしないでください。そう言おうとしたはずなのに、僕は優しい祖母の声に心が溶かされたかのように胸の内を打ち明けていた。


「……それで、彼女の誕生日を祝うかどうかで迷ってるんです」


 全てを話し終えると、祖母は「話してくれてありがとう」と頭を撫でてくれた。


「一つ聞きたいんだけど、幸一君にとって誕生日ってなんだい?」


「え……?」


 思わず聞き返すと、祖母は言葉を変えて再び「誕生日を祝って、幸一君はその女の子に何を伝えたいんだい?」と言った。


 僕がちかに伝えたいこと。

 ずっと、伝えられていなかったこと。


 考えている間に面会時間が終わり、それ以上何かを聞くことはできなかったが、答えはもう出ていた。当然だ。だって僕は、心の中で何度も彼女に伝えていたのだから。


 ◇


 今日は、ちかの誕生日だ。

 僕は、あらかじめ買っておいたショートケーキと蝋燭を一本、火を付けるようのライターを持って、面会時間がとっくに過ぎた夜の病院に忍び込んだ。


「ちか。誕生日、おめでとう」


「誕生日なんて、不謹慎」


 それが、開口一番に僕らが交わした言葉だった。

 僕の言葉に、ちかは茶化すように肩を竦めて言葉を返したが、その目には少しだけ、戸惑いの色が見える。


「不謹慎なんかじゃないよ」


 これ以上茶化されては困るので強めに言うと、ちかは少し目を見開いて、それから黙って僕を見つめた。


「僕は、ちかが生まれてきてくれたことに感謝したい。ちかがこの世に生まれてきたことを、祝いたいんだ」


 僕の言葉を聞いたちかは、自分の胸に数秒間手を当てた。なんだろう? と思いながら見ていると、ちかがポツリ、「心が、ふわふわしてる気がする」と言った。


 彼女が自分の心にあるものを口にしたのは、初めてだ。自分の行動が間違っていないことを実感し、途端に自信が湧いてくる。


「ほら、火が消えちゃうから早く消して。誕生日のビッグイベントだよ」


 僕が急かすと、ちかは張り切ったようにショートケーキの前に座り直して、ふーっと息を吹きかけた。


 それから、全体を照らしてくれるタイプの懐中電灯を付けて軽く雑談した後、肝心なバースデーソングを歌っていないことに気づき、二人で声を潜めて歌った。なんだか、秘密基地に隠れて親の目を盗んで夜更かししている子供のような気持ちになって二人して笑う。勿論、ちかは目を細めるだけだったが。



「口に生クリームついてる」


 そう言って笑いながら、ちかの口の端についていた生クリームをとって、舐める。ただでさえ甘い生クリームが、余計甘く感じた。


「そういうこう君もついてるよ」


 恥ずかしかったのか、それともムッとしたのか、ちかは仕返しと言わんばかりに僕の頬についていた生クリームをとって、僕がしたのと同じように舐めた。


「ぷっ」


 そんなことに意地になる彼女が面白くて、思わず吹き出す。


「なによ」


 そう言って、頬を膨らませるちか。


「ごめ、なんだか面白くて……」


「謝ってる割に、まだ笑い声が聞こえる気がするんですけど」


 不服そうに、ますます頬を膨らませるちか。


「だめ、今、そのリアクション……笑っちゃうから……」


 大声で笑うわけにはいかないので、ひたすら声を押し殺して笑う。普段ならそんなに笑うことでもないのに、何故だか今日は面白くて仕方がなかった。


「ねぇ、こう君」


 絶賛サイレント大笑い中の僕を見つめて、ちかは言った。


「な、なに?」


 笑いながらもなんとか返事する。


「私今ね、すっごく幸せ」


 そう言った彼女を見て、僕の笑いはピタリと止まった。思わず息を呑む。


 ちかは幸せに溶けてしまいそうなほど、柔らかく、温かい笑顔を浮かべていた。


 何か言いたいのに、上手く言葉が出てこない。それほどまでに、ちかの笑顔は綺麗だった。ちかは、何も言えない僕を思いっきり抱きしめて再び言葉を紡ぎだす。


「本当に幸せなの。こんなの、生まれて初めてで……。ありがとうこう君。本当に、本当に……」


 最後の方は声が震えていた。きっと泣いているのだろう。


「僕も幸せだよ。僕を幸せにしてくれてありがとう、ちか」


 満たされた気持ちを表現するかのように、ちかをきつく、きつく抱き締め返す。

 ちかが笑ってくれたことが、泣いてくれたことが、本当に嬉しかった。それと同時に、この時間がいつまでも続けばいいと、本気でそう思った。


 ◇


 ちかが息を引き取ってから、僕は病室を出て、逃げるように屋上へと向かった。

 ちかを失った現実から逃げるためか、彼女の亡骸の前で涙を見せないようにするためか、理由はよく分からない。


 真っ暗な屋上に着く。

 はぁ。と息を吐いた途端に涙が溢れて、足の力が抜け、僕は崩れ落ちた。


「ちか、ちか……ちかぁぁ……」


 呼んだって返事はない。当然だ。もう彼女は、どこにもいないのだから。


「なんで僕から彼女を奪うんだよ。なんで……なんでもっと、幸せな人生を送らせてやらないんだよ……」


 感情が行き場をなくし、拳を地面に何度も叩きつける。痛みは不思議と感じなかったが、叩きつければ叩きつけるほど、地面に血がついていった。


 いつまでそうしていたか分からない。気づけば、真っ暗だった視界に光が入ってきていた。

 ゆっくりと顔を上げる。


 朝日が、昇ってきていた。


 ちかを失っても、残酷な世界は今日を始める。

 君はこんな残酷な朝日でさえ、綺麗だと笑うのだろう。

 腕につけているブレスレットが日に当たり、僅かに輝きを宿しているのを見て、少し笑う。


 ちか。やっぱり僕は世界を愛せやしない。当たり前だろう? 僕から君を二度も奪ったクソみたいな世界、愛おしいと思う方がどうかしてる。

 でも。


お前(世界)の残酷さには、もう負けない」


 それでも、ちゃんとこの世界を生きることにするよ。

 残酷なこの世界で生きて、自分自身の力で、誰よりも幸せになってやろうじゃないか。


 立ち上がり、涙を拭う。


 僕から世界に宣戦布告だ。

ここまで読んでくれてありがとうございます。

どうして時間が元に戻ったのかは、あえて詳しく触れていません。ご想像にお任せします。


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[良い点] Twitterの企画で非常に遅ればせながらも読ませて頂きました。 『十八歳病』という病気の存在を自然に認識することが出来、まるで一本の映画を見たかのような爽やかな読了感でした。 素晴らしい…
[一言] 短編ながら濃密なストーリーで読み応えがありました どこか暗い印象のあった幸一の物語が、ちかと出会い、やり直して、誕生日を祝って、ようやく光が差したような感動がありました 「不幸とはこの世界…
[良い点] ストーリー性があり、とても読みやすかったです。短編であるのが少しもったいないくらいです。ブレスレットの秘密に触れたらもう少しストーリーが膨らむと思います。 残酷というキーワードを十八歳病と…
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