続きの始まり
窓から見える景色は、ひっきりなしに往来する人のせいで落ち着きがない。
続木恭介は、神保町の喫茶店の二階席に座り、見るともなしに外を眺めていた。
平日だというのに、人の波は途切れない。最近は外国人観光客も増え、古本の街は国籍不明になってしまった。
見物に飽きた恭介は、店内に視線を移す。
飴色の調度が目につく、純喫茶の三文字がふさわしいような店だった。ランチタイムとティータイムの狭間だからか、客は少ない。恭介の席から見えるのは、パソコンを広げたひとりの男性くらいだった。
恭介もノートパソコンを取り出した。男につられたのもあるが、仕事を思い出したのである。電源を入れ、タップしてスケジュールを確認すると、締め切りが近かった。とたんにやる気をなくし、ゲームの画面を開きたくなるが、さすがにそれは我慢した。もう少しで、待ち合わせの時間なのだ。
チン、とレトロな音が響き、エレベーターの扉が開いた。足音がこちらに近づいてくる。
「すみません、先生。お待たせしましたか?」
ひとりの男性が頭を下げながら、続木の向かいに座った。
年齢は三十代くらい、ラフなシャツにチノパンである。眼鏡の度が強いのが目立つ。
「いえ、待ってはいません」嘘だった。どうせ暇なのだからと、無用に早く家を出てきてしまったのだ。昼ご飯もここで済ませたし、コーヒーは三杯おかわりしている。
大手出版社勤務のこの男性……田中といったか……は、最近恭介の担当になった。仕事はできるが、異常にドライなので気安く酒をのんだりはしたくない相手だ。なので、必要最小限の意思疎通しかしていない。
「今日は、お仕事の依頼です」アイスコーヒーを注文し、眼鏡のフレームを中指で持ち上げながら、田中がいう。
「月刊ヒスイ?」
「そうです。100枚くらいの中編を、先生にお願いできないかと思いまして」
「わかった。ひとつアイデアがありますから、大丈夫。どのくらいまでに書けばいいですか」
「来月いっぱいまでに、お願いできればと」
「承知しました」恭介は、パソコンに予定をメモした。「原稿料の話ですが……」
「ああ、それは、このくらいで」
提示された金額は、ちょっと眉をしかめてしまうほど安かった。
「大変なんだね」思わず恭介が苦笑すると、何をいまさら、という顔をされた。
田中のこういうユーモアのセンスがないところも、恭介は苦手だった。軽口で返してくれれば、不快な気分にはならない。まだ若いから、余裕がないのだろう。
「それと、前作の今月の売り上げデータをお見せしたいと思って、持ってきました」
田中は、タブレットを取り出し、操作をし始めた。
恭介はにわかに緊張した。著作は膨大にあるが、いつもこの瞬間は体がこわばる。
「これです」田中はこちらに画面を向けた。
「えーと、どれ?」恭介は目を凝らす。しゃくなことに、老眼が進んでいるのだ。
「この数字です」
マジかよ、と声を上げそうになった。
目を疑うような、低い数字だ。4桁にもまるで届かない。
「まだ発売一か月ですから。こちらもまだ広告を打てますし、手は考えます」言葉を失った恭介の顔を見ないまま、田中は淡々といった。「だから先生も、努力してください」
努力。恭介は怒りに近い感情を、胃の底に感じた。これ以上、どんな努力をすればいいんだ。
「では、原稿お待ちしています」
田中は一方的に告げると、タブレットをしまい、アイスコーヒーに口をつけないまま勘定書をむしり取った。
恭介も立ち上がる。これ以上の長居は店の迷惑になる。客は相変わらず入ってこないので、その判断が正しいのかわからなかったが、もうここにいたくなかった。