八
私はブラントン屋敷に近付くに連れて徐々に膨らんでいく重苦しい気持ちを抱えて、ついにエリオットの待つ場所へと足を踏み入れた。
一体いつから待っていたのか、玄関を開くやいなや、エリオットの顔が目に入る。すうっと長めに息を吸い込んで、そして彼の顔を正面からしっかり捕らえる。
もう逃げはしない。
その意思がエリオットにも伝わるようにと願いながら。
「エリオット様。結論は出ましたか?」
口から出た声は自分でも驚くほどに低く、そして冷たいものだった。その声にエリオットは悲しそうに眉を下げる。けれどここで負けるわけにはいかないのだ。
私にはきっと、エリオットの望むようないい妻であり続けることは不可能なのだ。けれど私達のどちらかが、もしくは両方が譲歩しなければこの夫婦関係は成り立たない。
ずっと目を逸らしてきたそれを今、解決しなければならないのだ。
「ユタリア……。先ほどのことは私が悪かった。だからどうか、離縁するなんて言わないでくれ。君がいなければ私は……」
「張りぼてだろうとも誰かしらそれなりに家柄を持った妻がいなければ困りますよね」
「そういう意味じゃ!」
焦りだすエリオットに優しく首を振り、焦らなくてもいいのだと、分かっているのだと告げる。
所詮、貴族同士の結婚なんてそのほとんどが政略結婚で、仮面夫婦である。
ユグラド王子とクシャーラ様、そしてライボルトとリーゼロット様が特殊だっただけ。身近に二組もいるとつい感覚が鈍ってしまいそうになる。
けれど当たり前ではないからこそ、多くの御令嬢はロマンス小説に深くハマっていくのだ。自分もそうありたいと、叶わないことが分かっていながらヒロインに重ねて楽しむ。そうでなければこんなに大流行することはなかっただろう。
私もその一人だったはずなのだ。いや、今もそして今後もその一人であり続けるだろう。だって私は、貴族の娘なのだから。
「それでいいのです。今日の一件で、私も自分の悪いところが分かりました。もし、エリオット様がこれからも私に多少の自由を認めてくださるのであれば、これからも公爵家の妻として尽くさせていただきます」
「自由、か……」
「はい。それを約束してくだされば愛人を囲われても、その子どもを認知することも構いませんので」
「ユタリア、君は私に愛人がいると……そう思っているのか?」
「ええ。ユリアンナという名前の女性がいるんでしょう?」
「そ、それは……」
まさかエリオットが、私が名乗った偽名と同じ名前の女性に惚れているとは思わなかった。だが『ユリアンナ』なんてごくごくありふれた名前である。珍しくも何ともないのだ。
だから私はこの偶然を恨むことはない。もちろん、エリオットが他の誰かを好きになったことも。ただ、私はその名前を一生忘れることはできないだろう。
ユリアンナという名前を聞く度に胸を締め付けられて、きっと夜は枕を涙で濡らすのだ。
これがロマンス小説を夢見た少女の結末なんて寂しすぎる。けれどこれが、まぎれもない現実なのだ。夢の時間はもうとっくに終わってしまっている。ならば私は現実と向き合わなければならない。
いくらその身に自身を重ねたところで決して私は彼女にはなれない。私は私。いくら取り繕ったところで、所詮私は私にしかなり得ないのだ。
「では私は今後ともブラントンの妻ということでよろしいでしょうか?」
自分の口から出た言葉に胸が痛くなる。この言葉に頷かれたら最後、私は正真正銘の張りぼての妻だ。
自由を勝ち取った代わりに、一生満たされることのない溝を生み出すことだろう。もう二度とエリオットの隣でデザートを頬張ることはない。
それがなんだか悔しくて、寂しくて。
エリオットに見られないように俯いて、唇に歯を立てる。後はエリオットの返事を待つだけ――そんな時だった。
「エリオット! エリオットはいるか!」
つい数時間前の私と同じようにリガードが登場したのである。もうとっくに日がくれているというのに、構わずズカズカと。それには思わずポカンと呆けた顔を浮かべてしまう。
割り込まれる当人になってみると、ますますあの時の私って相当邪魔だったわよね……と反省してしまう。
だってこんなんじゃ、話を中断せざるを得ないのだから。




