第15話 襲撃
「ん……ここは……」
暗闇と静寂が支配する空間に、呻き声にも似た声が木霊した。声の主――リオは、薄らと開けた目蓋の隙間から視線を巡らせる。半覚醒状態の頭が、水中から浮上していくように少しずつクリアになっていく。
「俺の部屋か……運んでくれたんだな」
暗闇に慣れてきた目が部屋の様子を脳に伝える。どうやら、自分の部屋のオンボロベットに寝かされているようだと理解し、運んでくれたであろう人に感謝しながら頬を綻ばせた。
九死に一生――というには、割と生命に関わる修羅場を潜っているリオだったが、とにかく、まだ生きているようだと分かり、ホッと安堵の息を吐いた。そうやって少し心の余裕ができると、静寂の中にシトシトとまばらな音が紛れているのが分かった。
外では小雨が降り出しているらしい。どおりで月明かりもなく真っ暗なわけだと納得しながら、今晩には出発する予定なので、リオは少し憂鬱な気持ちになった。だが、その憂鬱さも、直後に気がついた感覚によってあっさりと吹き飛んだ。
体の右半身が、妙に柔らかい感触に包まれていると分かったから。というか、何故、今まで気がつかなかったのかと自分でも疑問に思うほど、すぐ近くに人の気配があった。
「ア、アイリ……」
天井に向けていた視線を横に向ければ、今にも触れそうな距離に愛しい妹の顔があった。長いまつ毛に、スッと通った鼻梁。薄い桜色の唇は少し開いていて、そこから吐息が漏れている。はらりと落ちた髪が一房、頬にかかっているのが少し艶かしい。
リオは、左手でそっと毛布を捲ってみる。
すると、リオの右腕は、アイリによって、まるで宝物にそうするようにギュッと抱え込まれており、更に、太腿の付け根まで捲れたスカートから覗く艶やかな美脚が、リオの足に離してなるものかと無言で訴えているかのようにしっかりと絡みついていた。
「んぅ……にぃ、さん……」
「……」
毛布が捲られた感触が分かったのだろうか。僅かに身動ぎするアイリ。リオの右腕にむにゅりと幸せな感触が伝わる。アイリの胸は慎ましい方なのだが、流石に同化してしまうんじゃないかと錯覚するほど密着すれば、十四歳の女の子特有の柔らかさが十全に伝わってくる。
更に、絡みついていた生足も、摺り寄せるようにリオの下半身を這い、「ちょ~と危険ですよ、アイリさん」と物申したくなる様相を呈してしまっている。
何より、リオの耳に吹きかけられるアイリの吐息と、漏れ聞こえる喘ぎにも似た寝言が、リオの脳髄をツンツンと刺激するのだ。
リオは内心で、「アイリは妹、アイリは妹、アイリは妹……」と念仏のように唱えることで、理性軍の支援を行う。
同時に戦略的撤退を図った。異能を使い相当疲弊しているだろうから、起こさないように注意する。
そっとアイリの腕の解きつつ、捕虜になっている右腕を救出した。抜き出すとき、「んぅ」と何だかやたら艶かしい声が聞こえた気がしたが、きっと気のせいである。上半身を起こしたリオは、次に、自分の下半身に絡みつく、夜闇の中に浮き上がった白磁の生足に対する迎撃を図った。
ふにふにと柔らかな感触が伝わるが、妹なのだからどうということもない。捲くれ上がったスカートも直してあげる。その際、白い何かが見えた気がしたが、きっと気のせいである。
「ふぅ~。全く、家族とは言え、ちょっと無防備すぎるよ。将来、悪い男に引っかからないか心配だな」
本人が聞いたら一発で不機嫌になりそうなことをのたまいながら、リオはグッと足に力を込めて立ち上がった。少し立ちくらみがしたが、流石はアイリの異能といったところ。貧血気味ではあるものの、体に痛みはない。
リオは、アイリに毛布をかけ直すと、立て付けにガタのきている扉が音を鳴らさないように注意しながら部屋を出た。
廊下も当然の如く真っ暗だ。電気など通っていないので、普段は月明かりに頼ることになるのだが、今夜は生憎の曇天。しとしとと降る雨が窓ガラスのない場所から廊下を濡らしている。
濡れた床を避けながら、食堂の方へ歩き出すリオだったが徐々に表情が訝しげなものになっていく。
(? なにか、変な感じだな……)
月は曇天の向こう側へ雲隠れしてしまっているので、現在がどれくらいの時刻かはわからない。リオは、というか貧民区の人間は、ごく一部を除いて時計などという高尚な物は持っていないのだ。
だが、それにしても、体感からいってそれほど長く眠っていたわけではないはずで、だとすれば、曇天のせいで真っ暗ではあるが、まだ深夜には程遠い時刻であるはずだ。
それに、日が落ちて数時間後を出発予定としているのだが、その前に、孤児院の家族とささやかながらお別れ会をするはずで、今は、誰もが慌ただしく動き回っているはずである。
だというのに……
(静か過ぎる?)
違和感の正体に気が付くリオ。ゾワゾワと背筋に虫が這うような気持ち悪さを感じる。このまま、孤児院の皆はどうしたのか確認しに食堂へ行くか、それとも一度アイリを起こしに行くか、逡巡する。
と、その瞬間、
「――ッ」
いきなり廊下の角から腕が伸び、リオの口元を塞ぎながら引き寄せた。一瞬、振りほどいて反撃しようかと思ったリオだったが、触れる手の感触がよく知っているものだったので大人しく引き寄せられることにする。
「静かにね、リオ」
「カンナ……いったい何事なんだ?」
そう、リオを物陰に引き込んだのはカンナだった。暗闇の中、至近距離に顔を寄せるカンナの瞳は、これ以上ないほど真剣で、更には焦燥感もチラついているようだった。リオは直ぐに、緊急事態が生じているのだと察する。
「囲まれているみたいよ。アキナガさんが何人か見張りを立ててくれていたんだけど、誰とも連絡が取れなくなったの。一応、銃も持っていたのに、発砲音一つしてない。雨でよく見えないけど、アキナガさんが言うなら間違いないわ」
「元第一級討伐者だからな。戦場の気配には敏感か……」
「そういうこと。それで私があんた達を迎えに行くところだったのよ。アイリは?」
「部屋だ。まだ寝てる。あれだけ力を使ったんだから仕方ないけどな。直ぐに迎えに行こう」
どうやら、複数の銃を持った見張りを無音で無力化できる集団が孤児院を囲んでいるらしい。現役を退いて長いとは言え、元第一級討伐者であるアキナガの警告だ。楽観など出来ようはずもない。
アイリを迎えに廊下を逆戻りしながら、リオはアイリに尋ねる。
「みんなは?」
「ちびっ子達は、下水道に逃がしたわよ。キキョウ姉さんとジュウゴさん、それにエリカさんが先導してくれてる。アキナガさんとおばあちゃんは、ダイキ達と一緒に武装してバリケードを作ってるわよ。荷物はあらかたジープに積んだから、リオとアイリが合流次第、突破するわ」
「敵は? キメラか?」
「わかんないけど……アキナガさんが嫌な空気だって。相当な手練の集団だって言ってた。多分、そうでしょう」
「昼間の見られてのか……」
リオがグッと歯を食いしばった。キメラ隊がアイリに辿り着いて襲ってきたのなら、これほど早く特定できた原因は一つしか思い浮かばない。すなわち、昼間のあけっぴろげな奇跡の行使を目撃されていたのだろう、と。
巻き込んでしまった女の子を助けたことに後悔はないが、それでも危機を引き寄せてしまったことに忸怩たる思いがある。もっと上手く出来なかったのかと、自分を責めるのは、理不尽を隣人とする荒廃世界の住人の常だ。
そんなリオに、カンナが何か声をかけようと口を開きかけた。
「リオ、別に――」
その瞬間、
パッパパパパパッ!!
恐れていた死の音が響き渡った。
「ッ――」
咄嗟に、リオは隣のカンナに飛びかかり組み伏せた。間一髪、二人の頭上を無数の死が通り過ぎ、同時に、粉砕されたガラス片が豪雨の如く降り注いだ。リオとカンナは、ずりずりと体を引き摺りながら窓際の壁へと身を寄せる。
間断なき銃撃の轟音が響く中、カンナがリオに怒声じみた声量で叫ぶ。
「リオっ、あんたちょっと囮になりなさいよっ! あの馬鹿みたいな回避技なら、フルオートでも何とかなるでしょ!」
「いやいやいや、こんな限定空間じゃ、そもそも避けるスペースがないからっ!」
「私はアイリを迎えに行くわっ! 全ては可愛いアイリのためっ! 頼んだわよっ」
「聞いてないなっ! でも、まぁ、それしかないかっ」
向かい側の壁が、ボロクズのように粉砕され粉塵が舞い上がる中、カンナが、懐からグリムリーパーにも通じる高グレードのハンドガンを取り出し、マガジン数個と共にリオへ手渡した。リオとダイキがかっぱらってきたものだ。
「ジープは裏口よっ。アキナガさん達はそこでジープを守っているはずだからっ」
「分かったっ。直ぐに合流するっ」
一瞬、掃射が止まった。様子見か、マガジン交換か……おそらく前者だろうが、チャンスではある。
リオは、割れた窓の淵から銃口だけを出して適当に銃弾をばら撒くと、スッと顔を出し、一気にアイリの部屋とは反対側へと走り出した。間髪入れず、銃撃が再開されるが、リオは全てが遅くなるモノクロ世界で視認した銃弾を避ける。
後方で、カンナもまた窓から顔を出さないようにしながら、中腰で駆けていく姿が見えた。
「相手がキメラ隊なら、少なくとも三十人……アイリの居場所がばれたら数で押し切られる。たぶん、侵入もしてるだろうし……」
敢えて言葉にすることで、リオは冷静に状況を把握しようと務める。状況は切迫している。
「ベストなのは、早く全員合流して、貧民区の地の利を生かして連中を撒き、姿をくらますこと……シビアだけどやるしかない」
壁に背を預けながら、銃を祈るように構えるリオは、一つ深呼吸をする。そして、一気に壁から飛び出した。
視界を埋め尽くす銃弾の嵐を、走りながら死に物狂いで回避する。同時に、飛んできた弾丸の射線に沿うようにして手に持つ拳銃の引き金を引いた。
夜闇の向こう側へ消えていく弾丸。明かり一つなく、雨も降っている状況で、正確にリオとカンナを銃撃してきた相手は、おそらく暗視ゴーグルの類を装備しているのだろう。十中八九、アイリに対しては誘拐が目的だろうから、見えていなければ銃撃などするはずもない。
つまり、相手は見えていて、こちらは見えないという状況だ。ただでさえ戦力差があるというのに、酷いハンデである。
と、そのとき、リオの耳に雨音に紛れてボヒュという気の抜けたような音が微かに響いた。その正体を認識するより早く、本能がけたたましく警鐘を鳴らす。リオは、意識するより早く、空き部屋の扉へ体当たりする勢いで横っ飛びした。
直後、割れた窓から飛び込んできたグレネードが壁に直撃すると同時に凄絶な破壊を撒き散らした。
押し倒した扉をソリ替わりに部屋の中へ滑り入るリオ。背後の廊下を盛大な炎と衝撃が舐め尽くす。耳がキーンという耳鳴りに犯され、一時的に聴力を狂わされてしまった。
(あ、あいつら、攻撃が過剰すぎるだろうっ。万が一、アイリがいたらどうする気だっ)
内心で悪態を吐きつつも、リオの額には大量の冷や汗が浮かぶ。明らかに、相手側はアイリが近くにいないことを把握していた。あるいは、既に居場所を掴んでおり、リオを厄介な相手と見て本気で殺しにかかっているのかもしれない。
ジャリッとガラスを踏みしめる音がする。遂に、踏み込んできたのだ。
リオは、拳銃の残弾を確認しながら壁際にほふく前進する。
直後、部屋の中にコロンッと金属の塊が転がってきた。どう見ても、手榴弾である。
(ちくしょうっ)
足に力を込めて、たった今入った部屋から飛び出る。次の瞬間、覚悟していた爆音と衝撃が空き部屋を蹂躙した。
廊下で受身を取りながら、敵――案の定、キメラ隊の連中へ間髪入れず発砲する。しかし、相手もそれは予想していたようで、あっさり射線から退避しながら発砲し返してくる。
リオは、体を掠める銃弾の嵐に総毛立ちながら、粉砕された窓から外へと身を踊らせた。雨で早くもぬかるみ始めている地面が盛大にリオの全身を汚す。一瞬で、泥まみれになったリオは、しかし、そんなことを気にする余裕もなく走り出した。
そこへ再び、ヒョポッという気の抜けた音が。当然、直後に襲い来るのは絶大な衝撃と爆炎。
「ぐぁあああっ」
直近で破裂したグレネードは、リオの体を容赦なく吹き飛ばす。走り出した方向とは直角方向に体を舞わせ、リオは校舎の壁に激突した。そこへ、雨粒を吹き飛ばしながら無数の銃弾が螺旋を描いてリオへと迫る。
全身を襲う痛みに顔をしかめながらも、必死に体へ回避を命じる。
健気なリオの肉体は主の命令に忠実に従い、ゴロゴロと地面を転がった。刹那、一瞬前までいた場所に弾丸の槍が突き刺さり、コンクリートの壁を細かな破片に変えていく。
直ぐに立ち上がろうとするリオだったが、狙い澄ましたような一発の弾丸が、遂にリオを捉えた。肩口を穿ち、リオの体を回転させながら再び地面に叩きつける。
「がっ、くそっ」
どれだけ知覚が拡大されても、人間の肉体には限界がある。リオの回避能力のキャパシティは、単純な物量と破壊力によって対応されてしまったのだ。
そこへ、相変わらずの全身黒尽くめに、フルフェイス型ヘルメットを被った男が悠然と歩み寄ってきた。
「……やはり、視認しているのか」
「なんだって?」
痛みに歯を食いしばっていたリオは、男の感情を感じさせない言葉を聞き返す。てっきり、問答無用に撃たれるのでは思っていただけに、少し意外だったのだ。
「……最優先は“貧民区の奇跡”。だが、お前も有用だ」
「おいおい、殺しにかかっておいて今更誘拐に方針変更? ちょっと計画が杜撰すぎやしないか?」
少しでも生き延びられる可能性を広げるために、会話を繋げるリオ。
「……お前の反応速度は異常。それは今回をもって証明された」
「実験か……余裕なことだ。死んだら死んだで構わないとは、反吐が出る」
「……五体満足である必要はない」
そう言って、キメラ隊の男は銃口をリオへ向けた。四肢を潰して連れて行くつもりなのかもしれない。エリカの話では、度々、人間を攫っているらしいが、どうやら彼等なりに基準があるらしい。リオは、その基準を満たしていたようだ。
もっとも、それなりに厄介な相手ではあったようで、“可能なら”連れて行く程度の方針のようだが。
リオは、気づかれないようにそっと足に力を溜める。わざわざ、向こうから姿を見せてくれたのだ。撃たれる寸前に踏み込んで暴れつつ、再び校舎内に逃げ込む算段である。もちろん、そう上手くいく保証はないわけだが……諦めるつもりは微塵もないのだ。
が、リオ決死の覚悟は、銃弾の嵐によって霧散させられた。リオが撃たれるという事態によってではなく、リオを包囲するキメラ隊が撃たれるという事態によって。
「ははっ、時間を稼いだ意味はあったな……」
リオの視線が、暗闇の向こうの援軍に注がれた。
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