第13話 逃避行の準備
相変わらずの熱気とオイル臭さの中、リオとダイキは黙々といつも通りの作業を進めていた。
時刻は午前中ではあるが、既に工場内は茹だるような暑さで蒸し風呂のようになっている。ダラダラと汗を流し、疲れきった表情で作業をする同僚達の間で、リオとダイキはその視線を鋭くしていた。
さり気なく巡らせる視線は、通路を巡回する監督官達の動きを捉えている。
「……今日の出荷は三十分後らしいぞ」
「そっか。やっぱり、監視をくぐり抜けるのは難しいな」
ダイキが顔を作業台から逸らさずに小声で話しかければ、リオもまた、作業台から視線を逸らさずに答えた。
【仙台エリア】からの脱出を決めたリオ達が、何故、いつも通り【生産工場】で働いているのか。
それは、都市間移動の必需品――対グリムリーパー用の高グレード武器を調達するためである。
リオ達は、当然、貧しい生活を脱するためにもっとも手っ取り早い方法――“討伐者になって成り上がる”を失念していたわけではない。故に、漁り屋業によって手に入れたグリムリーパーのパーツを、生活費に支障をきたさない範囲で少しずつ武器弾薬類に替えようとしてきた。
しかし、そんなことで、あっさりと貧民から抜け出せるのなら、誰も苦労はしない。
中央の人間による徴用から逃れることは難しく、過酷な労働環境は、現状改善のための余力を与えてくれない。また当然の如く、越冬のため、新たな幼い家族のため、近隣の命に危機に瀕する人々のため、溜め込んだ財産を放出しなければならない状況はいくらでもあったのだ。
加えて、何とか手元に残った物も、【漁り】によって手に入れた廃棄品を自分達の手で補修しながら少しずつ体裁を整えてきたような銃器類なので、その品質はどうしても劣悪なものとならざるを得なかった。
武装した人間相手でも戦力になるか怪しい武器類では、対人級グリムリーパーですら相手になるかどうか……
まして、都市間移動の間に襲ってくるであろう対団級グリムリーパーを退けられるか? と問われれば、その答えは明白。弾薬の数にしても、とても次の都市まで保つとは思えなかった。
かと言って、購入する金など持っているわけがなく、また、アキナガのような一部の人間が所持している武器類は、リオ達が出て行った後、キメラ部隊のような連中や中央の人間から貧民区の人間を、孤児院の家族を守る為に使わなければならないので貰い受けるわけにはいかない。
なので、リオ達が武器を得る方法は、“盗む”以外になかったのである。
そして、盗むのならば、【交易死場】や個人商店のように管理警備が厳重な場所よりも、自分達の勝手知ったる工場から、出荷前の製品を盗む方が容易だと判断し、なに食わぬ顔で出勤してきたわけだ。
ただ、普段、生産された武器弾薬類は厳重なロックが掛けられた倉庫に保管されており、その鍵は保管庫の管理官が常に所持しているので、リオ達には手を出せない。チャンスがあるとすれば、出荷の為にトラックへ搬入されるとき、その瞬間に盗むしかないのだ。
だが、当然、そのときには搬入する労働者や、その監督官がいるわけで、バレずに盗むことは不可能である。
ならば、どうするのか……
「ダイキ、くれぐれも壊さないようにな」
「分かっている。リオもな」
リオとダイキは、用意しておいた掌に握り込める程度の大きさの鉄棒と、懐に隠し持っている液体の入った瓶をさり気なく確認しながら、言葉を交わす。
と、そのとき、リオ達を目の敵にする疫病神がノッシノッシと重そうな体を揺すりながらやって来た。
「ふん、しっかり働けよ、外人共。少しでもサボりやがったら、直ぐに無給にしてやるからな」
一々、立ち止まってまで嫌味を言うオウダ監督官。
リオとダイキは、下手なことを言うまいと小さく「はい」と呟きつつ素直に頷く。しかし、それも気に入らないのか、オウダは、警棒でリオとダイキを殴りつけた。そして、二人が上げた呻き声を聞いて、ようやく満足したように巡回に戻っていった。
「ったく、あのおっさんは……」
「今日限りの辛抱だ」
背中の痛みに顔をしかめつつ悪態を吐くリオに、同じく表情を歪ませたダイキが、溜息を吐きながら首を振った。
それから約三十分。
あらかじめ同僚に聞いておいた出荷の時間がやって来た。リオとダイキは横目にアイコンタクトを取ると、小さく頷き合う。
リオは、監督官の視線が明後日の方向に向いているのを確認してから、そっと懐から小瓶を三本ほど取り出した。そして、それを溶鉱炉の傍に投げ飛ばした。
大きく山なりに飛んだ小瓶は、そのまま狙い違わず溶鉱炉の傍らに設置されていた作業台に直撃し盛大に炎を撒き散らした。リオが投げた小瓶は中に衝撃により火花が発生する着火剤を組み込んだ火炎瓶だったのだ。ジュウゴのお手製である。
溶鉱炉の近くで作業していた労働者は、突然の破砕音と発生した火災に悲鳴を上げながら逃げ出した。中には尻餅をつきながら必死に後退っている者もいる。リオも、同僚に怪我をさせるつもりはなく気をつけて投げたので、彼等が火炎瓶の炎に巻かれることはないだろう。
まさか、彼等も同僚が火炎瓶を投げたとは思わないだろうから、溶鉱炉の故障か何かで炎が漏れ出したとでも思ってくれるはずだ。
「か、火事だぁああああっ!!」
誰かが叫んだ。
唖然呆然とした様子で燃え盛る炎を見ていた他の労働者達が、その声によりハッと正気を取り戻しざわつき始める。
それに合わせて、リオは少し声音を変えながら叫んだ。
「溶鉱炉だっ、爆発するぞっ! 逃げろぉおおおっ!」
当然、溶鉱炉が爆発することはないのだが、実際に溶鉱炉の近くで突然火災が発生しているのだ。そこに“有り得るかも”という情報を叩き込まれれば、動揺している精神はパニックへと陥る。
その目論見は成功した。
「うわぁあああああっ」
「ひぃ、逃げろぉおおおっ」
「い、急げぇええええ!」
労働者達が、次々に外を目指して脱兎の如く逃げ出した。一人でも逃げ出せば、後は雪崩の如く。工場内は一瞬で阿鼻叫喚に埋め尽くされた。
「き、貴様等! 持ち場に戻れ! 爆発なんぞするわけないだろう! どう見ても外側で燃えているだけだろうが! さっさと戻れっ」
オウダを始めとした監督官達が、逃げ出す労働者達を戻そうと怒声を上げる。
しかし、一度始まった土石流が途中で流れを止めないのと同じく、パニックにより生じた人の激流もまた、そのような怒声程度では止まらなかった。
その人ごみに紛れながら、リオとダイキも工場の外へと走り出す。その途中で、ダイキは、取り出した鉄棒を、手首のスナップだけで弾丸のように投げ飛ばした。
十五センチメートル程の鉄棒は、回転することもなく投槍のように空を切り裂き、工場の中央に設置されていた機械の大きな歯車の隙間へ見事に直撃した。
更にダイキは、二本、三本とリオから渡された鉄棒も含めて投げ飛ばし、その全てを狙い違わず歯車の隙間へと投げ入れた。距離的には十メートル以上離れているのだが……見事としか言いようがない。
銃を手に入れられない、あっても数が足りず他の弟妹に優先して持たせるダイキが、遠距離相手に立ち回れるよう練習した結果だ。
「お見事」
「先生がいいからな」
リオの称賛に、ダイキは肩を竦めて答える。
ちなみに、先生とはリオのことだ。大した練習もなく、いつの間にか今のダイキすら及ばないほどの投擲術を身につけていたりする。リオにまつわる不思議の一つだ。もはや、誰も気にしないが。
歯車に差し込まれた鉄棒により、ギィイイイイと金属の軋む音を響かせて、工場のメイン設備が動きを止める。混乱に拍車がかかる中、監督官達も、相次ぐトラブルに右往左往し始める。
一応、工場の施設は人類の生命線なので壊さないように気を遣っている。鉄棒を抜けば、直ぐに復旧できるし、火災の方もやろうと思えば直ぐに鎮火できるはずだ。
リオとダイキは、人の流れに沿いながら外に出ると、極自然に流れから出て出荷口へと目立たないように隠れながら向かった。シャッターをくぐり抜けて、近くにあった大量に積み上げられた木箱の影に隠れる。
そこからそっと顔を覗かせて周囲を確認した。
「……うん。人影なし。監督官は混乱の収拾に出て行ったみたいだな」
「昏倒させる必要がなくなって何よりだ」
視線の先では、後ろの扉が開きっぱなしのトラックと、フォークリフト、そして木箱に詰められた銃器類が置きっぱなしになっていた。
「さっさと回収して持っていこう。師匠が待ってる」
「ああ」
リオとダイキは、懐から麻袋を取り出した。そこに必要な高火力の銃器と弾薬を詰め込んで、工場の外で待機してくれているジュウゴに引き渡すのだ。
そのまま持って行くことも考えたのだが、混乱が収まった後にリオ達がいないことに気がついたオウダ達が、事件の犯人と判断して貧民区まで押しかけてくる可能性がある。また、万が一途中で見つかった場合、重い荷物を持って逃げ切れるかは微妙なところ。
なので、普通に終業時間までは働き、今晩、闇夜に乗じて消えることを予定している。。
もちろん、製品が盗まれた事実と、直ぐに工場を退職したリオ達の存在は結び付けられるだろうが、その頃には、リオ達は既に都市外だ。
腹いせに、オウダのような連中が孤児院を狙うという可能性も無きにしも非ずではあるが、そこはアキナガとジュウゴに任せるしかない。武器の調達が盗み以外にない以上、そして盗まなければ都市から出られない以上、苦肉の策ではあるが、こうするしかないのだ。
最悪、リオ達は黒服からの逃走劇になるので一緒には行けないが、孤児院の子供達も、アキナガ達と共に、別ルートでサクラの古巣である琵琶湖エリアへ逃亡することを考えている。
リオとダイキは、物陰から飛び出して武器弾薬が収められている木箱へと迫った。途中、倉庫の端に置かれていた台車も引っ張ってくる。場合によっては孤児院の家族が琵琶湖エリアに行くことになるので、アキナガ達のためにも余分に貰っていくつもりなのだ。
ギコギコと封をされた木箱の蓋をこじ開けて中身を晒す。
「グレネード付きのアサルトライフルは人数分欲しいよな」
「ああ。後はスラッグと……対物ライフルがあるといい」
「手榴弾は……そんなにいらないか」
「奴等、速いからな」
二人で、素早く役割分担しながら必要な銃火器と弾丸を麻袋へ詰めていく。幸いなことに、今日の出荷製品の中には、リオ達が必要とする全ての種類が揃っていた。長物は麻袋に収まりきらないので、ささっと分解していく。ジュウゴの仕込みのおかげで、その作業は実に鮮やかだった。
と、そのとき、不意にカランッと金属音が響いた。ギョッとして、リオとダイキが手を止める。そして、慌てて視線を転じれば、そこにはリオと同い年くらいの、けれどずっと細身の少年が呆然とした様子でリオ達を見ている姿があった。
「あ、あの、僕、君達がここに入るのが見えて……そ、それで、皆、逃げ出したのに、どうしたのかなって、それで……」
しどろもどろになりながら、弁明するように言葉を零す少年。
「……君は確か」
「あのときの奴か」
その少年にリオとダイキは見覚えがあった。体も衣服も貧相な少年は、一昨日、オウダ監督官に殴られていたところをリオが庇った少年だ。その腕や頬には痛々しい痣が浮かび上がっている。
どうやら、人ごみから離れて倉庫に入っていったリオとダイキを偶然目撃して追いかけてきたらしい。不味いところを見られてしまったと、リオとダイキが苦い表情をしながら顔を見合わせる。
「……二人は何をしてるの?」
半ば確信しながらも、まさか有り得ないと言いたげな表情で尋ねる少年。リオは、隣でダイキが、少年を気絶させるために投擲用の鉄心を握り込むのを横目に、正直に話すことにした。下手に誤魔化したり、問答無用で押さえ込みにかかった方が騒ぎになる可能性が高いと判断したのだ。
「見ての通りだ。給料が不満でね。内緒で自主的な賃上げをすることにしたんだ」
「ち、賃上げって……盗むってこと?」
「ああ、そうとも言うな」
リオの誤魔化しのない言葉に、少年は再び愕然とした表情になった。そして、慌てた様子で言い募る。
「な、なにを考えているんだ! そ、そんなの直ぐにばれるよ! そうなったら、絶対に殴られる程度じゃ済まないっ。確実に殺されるよ!」
「まぁ、そうだろうけど……ばれる前に姿を消すから問題ないな」
「す、姿を消す? そ、それって……」
少年は、リオの言葉の意味を察して瞠目した。そして、恐る恐る、信じられないといった様子で確認する。
「都市から出るつもりなの?」
「まぁな。都市間移動するには、どうしても強力な武器が必要なんだ。だから、どうか今は騒がないで見逃して欲しい」
「な、なんで、そんな……」
「詳しいことは説明している暇がない。混乱も直ぐに収まるだろうし。……頼む。見逃してくれ」
「……」
少年は、ゴクリと生唾を呑んだ。そして、自分の体がぶるりと震えるのを感じた。
気圧されたのだ。視線の先の、余りに強烈で鮮烈なリオの眼差しに。本気で、熟練討伐者ですら死亡率が半端ではない都市間移動を決意しているのだと否応なく理解させられた。
詳しい事情は、確かに聞いている暇はない。だけれど、それだけの決意をしなければならない事情が生じたのだということだけは分かる。命懸けで何かをしようとしているのだと。
少年の答えを待つリオ。隣のダイキは、いよいよ鉄心を投げつけて昏倒させようという意思を見せている。
だが、結果的に、ダイキが投擲する必要はなかった。
少年は、今までの弱々しく、おどおどした態度を一変させて決然とした表情になったかと思うと、おもむろに倉庫の奥へと歩み始めた。その道中、硬い声音ながら、力強い口調で言葉を発した。
「誰にも言わないよ。でも、放ってもおかない」
「……どういうことだ?」
リオが訝しみながら尋ねる。少年は、自分のしようとしていることに冷や汗を流しながらも、不器用な笑みを浮かべて答えた。
「都市間移動をするなら、装備のグレードは高ければ高い方がいいでしょう? こっちの倉庫に、明日出荷予定の、もっとグレードの高い武器があるよ。今日の分を出荷した後、チェックする予定だったから……」
そう言って、少年は、今日の分の出荷製品が保管されていた倉庫の入口付近に置かれていた荷物の中を漁り、直後、その手に鍵を握ってリオ達に掲げて見せた。
「管理官の癖なんだ。一々鍵をしまうのが面倒で、ここに入れっぱなしにしてるんだよ」
「それはまた……」
リオとダイキが思わず顔を見合わせる。
その間にも、少年は素早く隣の倉庫に駆け寄ると躊躇いなく鍵を開けてしまった。
「さぁ、早く。今日の出荷分を持っていくより、発覚も遅れるはずだから……」
確かに、よりグレードの高い武器で、かつ、窃盗の事実が発覚するのが遅れるのは非常にありがたいことだ。
だが、リオとダイキは、喜びよりも困惑によって表情を歪めた。
確かに、リオは少年をオウダの暴行から助けはしたが、それに対する礼としては少々やりすぎ感がある。少年自身が言った通り、発覚すれば殺されるのは明白だ。普通は、こんな危険な山は見て見ぬふりはしても、積極的に協力しようとは思わないはずだ。
だから、リオは、ダイキと共に倉庫に駆け寄りながらも少年に向かって疑問を口にした。
「君は、どうしてここまで……」
それに対し、少年はどこかスっとしたような表情で答えた。
「リオくん。僕はね、君のことを奇跡だと思っているんだ」
「奇跡?」
言葉を交わしながらも、素早く武器を選別するリオとダイキ。確かに、少年の言う通り、高品質の装備ばかりだった。第一級クラスの討伐者が揃えているようなものばかりだ。それを、中身を戻して空にした麻袋に次々と放り込んでいく。
「うん。奇跡だよ。君という男は」
「ふっ、確かにな」
少年の言葉に、同意したのはダイキだった。思わず手を止めて目を丸くするリオに、共感が芽生えたのか少年とダイキがくすりと笑みを零し合う。
この何もかもが荒廃してしまった時代に、自分だって余裕がないはずなのに、傷つくことも恐れず、見返りも求めず、「困っている人がいれば、手助けくらいするだろう」なんて、そんなことを本気で言って、話したこともない他人の為に行動できる者――それは、それだけでもう奇跡なのだと、二人は思ったのだ。
少年は、リオ達の為に弾薬を掻き集めながら、確信に満ちた表情で更に続けた。
「リオくんは、きっと、何か大きなことをやり遂げると思う。今、この時、この場所で、僕のこの行為がそれに繋がるなら……これ以上、嬉しいことはないよ」
「それは……買いかぶり過ぎだ」
少年は、静かに首を振る。その手には、各種弾薬がたっぷりと詰められた麻袋が握られていた。工場内の袋を拝借したようだ。
「……誰かを恨んだり、敵意を持ったり、暴力に訴えるのは、きっととても簡単なことなんだ。でも、その逆は、とても難しい。リオくんは、その難しいことを平然とやってのける。そんな人には憧れや期待を寄せてしまうものなんだ。僕のような弱い人間は特に、ね」
自嘲気味な笑みを浮かべる自称弱い人間の少年に、リオは静かな眼差しを向けた。そして、何かを言おうというのか口を開きかける。
と、その時、遠くから多くの人の気配が集まって来るのが分かった。監督官達の怒声もどんどん近づいてくる。どうやら混乱が収拾され、労働者達が戻って来たようだ。この倉庫にも直に人が戻って来るだろう。
リオとダイキは、ちょうど集め終わった銃火器と弾薬類を大量に詰め込んだ麻袋を背負い、あるいは台車に満載すると、外の様子を伺いながらジュウゴとの合流地点に向かおうとする。
その直前で、リオは倉庫に鍵を掛け直している少年に振り返りながら声をかけた。
「名前、そう言えば聞いてなかった」
「え? あ、えっと、僕はマヒロだ、よ?」
聞かれたことが予想外だったのかマヒロと名乗った少年は、少し戸惑ったような表情になった。そんなマヒロに、リオは、先程の確信に満ちたマヒロの表情と同じような表情を浮かべながら礼を述べた。
「ありがとう、マヒロ。俺達は君に助けられた」
「え、いや、そんな……僕は別に……」
激しく目が泳ぐマヒロ。こんな風に面と向かって感謝されたことなどなかったのかもしれない。
リオは、笑みを深める。そして、マヒロにとって生涯忘れられない言葉を贈った。
「マヒロ、君は人を助けられる強い人だ。決して弱くなどない。俺を奇跡だというのなら……君もまた奇跡の人だ」
「ッ――」
マヒロは息を呑んだ。全身が雷にでも打たれたかのように震え、溢れ出そうな感情をグッと唇を噛んで堪える。それ程までに、マヒロにとってその言葉は衝撃だったのだ。
リオは、何も伊達や酔狂でその言葉を贈ったわけではない。学はないものの、マヒロには、何が大切なのかを見抜く力や、物事の本質について思考を巡らせることの出来る感性があると感じたのだ。そして、その為に、危険な橋であっても踏み出せる強さがあることは、今、リオ達に協力してくれたことが証明している。
「リオ」
「ああ。行こう」
ダイキの呼びかけにより、リオは踵を返した。ダイキも、視線でマヒロに礼を言いつつ倉庫の裏口へと向かう。
その二人の後ろ姿を、マヒロはジッと見つめ続けた。胸の内に火傷しそうなほどの熱を感じながら。
その後、管理官達が戻って来た時には、鍵も元の位置に戻され、マヒロ自身、物陰に隠れてから戻って来た労働者達に紛れて何食わぬ顔で作業に参加したので、狙い通り、午後にチェックが入るまで倉庫の盗難事件は発覚しなかった。
この日、マヒロの中の何かが変わったのは確かだった。これにより、実は、後に、とんだ大物になったりするのだが……それはまた別の話。
一方、上手く裏口から脱出し、無事にジュウゴへ盗んできた銃火器類を引き渡したリオとダイキは、工場内へと戻って来た。
そんな二人を目聡く見つけたオウダが、目を吊り上げながら迫って来る。
「お前等、随分といい身分だな、あぁ!? いったい、どこまで逃げてやがったっ、この腰抜けどもっ。当然、今日の支給もいらないんだよなぁ? それとも溶鉱炉の燃料になる決心でもついたか?」
「「……」」
一瞬、もう窃盗がばれたのかと目を見合わせるリオとダイキだったが、オウダの怒声を聞いて逆に胸を撫で下ろし。
そんな二人の態度に、神経を逆撫でされたらしいオウダは、早くも腰に下げた警棒を抜き放った。そして、言葉よりも早くリオへ叩きつけようとする。
いつもなら、反抗の意思を滲ませつつも、大人しく殴られるところ。だが、今日が最後であること、そして積りに積もった理不尽への怒りが、ついリオの体を動かしてしまう。
ひょいっと、実に軽やかなステップで、今まで殴られていたのは何だったのかと思うほど鮮やかに、リオはオウダの一撃を避けてしまった。
「あ……」
思わず、やっちまったと声を漏らすリオの脇を、「なっ」と驚きの声をあげながら、オウダが通り過ぎる。目標を空振り勢い余った体は、そのだらしのない肉体とあいまって、いとも簡単にオウダを宙に泳がした。
「ぐべっ」
そんなカエルの潰れたような声を上げて、オウダは見事な顔面スライディングを決める。
圧倒的な静寂が訪れた。うつ伏せに倒れたまま動かないオウダを、周囲の労働者達が「とんでもないものを見てしまった」と、生唾を呑み込みながら見つめている。
リオはリオで「やっちまった」と頬を引き攣らせ、ダイキは「なにやってんだ」と片手で目元を覆ってしまっている。
やがて、凍り付いた時間を溶かすように、オウダはぷるぷると震え始めた。
果たして、それは痛みを堪えるためか、それとも怒りの発露か……
「……どうやら、私は、貴様等に、情けを、かけすぎた、らしい」
怒髪天を突いているのは間違いないらしい。怒りのあまり、言葉がぶつ切りになっている。
「情けをかけすぎたなんて、どの口が言うんだ、」とツッコミを入れたいリオとダイキだったが、今や全身を振動破砕機のように激しく震わせ、暴発でもするのではないかと疑ってしまうほど真っ赤に染まり切っているオウダを刺激しないよう、へつらうように謝罪の言葉を口にしようとした。
が、その前に、腰のホルスターに手を這わせたオウダは、その下劣な人間性を示すかのような、ニチャリとした笑みを浮かべて、二人の機先を制してしまう。
思わず嫌悪感と警戒感から言葉を止めたリオとダイキに、オウダは、おぞましい言葉を放った。
「犯してやる」
「なに?」
リオが眉をひそめて尋ね返せば、オウダは嘲笑を浮かべて続けた。
「本来なら、その辺の野良犬よりも汚らわしい外人など相手にはしないのだがな、貴様等の家畜小屋には、見てくれはそれなりにいいのが何人かいるそうじゃないか。徴用に行った奴が言っていたぞ」
「……だからなんだ?」
空気が冷えていく。そう錯覚するほどに、場には張りつめた空気が漂い始めた。
原因はリオだ。オウダの言わんとするところを察し、ただならぬ雰囲気を纏い始めている。
オウダはそれに気がついた様子もみせず、ホルスターからハンドガンを抜いてリオへと向けながら、たっぷりの悪意を込めて言い放った。
「犯してやる。手足を撃たれ動けない貴様等の目の前でなっ。何度でも悲鳴をあげさせてやる! いや、卑しい外人なんだ。中央の人間である私に犯されて、むしろ泣いて喜ぶかもしれないなぁ」
「「……」」
リオとダイキは無言だ。ただ、その怒りを示すように、ダイキは拳を砕けんばかりに握り締め、射殺せそうなほどに目を吊り上げている。
だが、周囲の人間が本能的に恐ろしいと感じたのは、いつもなら真っ先に反抗の意思を示しそうなリオの、静かなたたずまいだった。無表情に、無感情に、底の見えない瞳がジッとオウダを見つめている。
一人、ヒートアップしているオウダは、やはりそんなリオの様子には気がつかず、饒舌に、怒りのままに口を滑らせた。
「壊れるまで遊んでやろう。そして使い物にならなくなったら、貴様等の目の前で殺してやる。ああ、安心しろ。ガキ共のことも忘れちゃいない。ストレス発散用のおもちゃはとっておくとして、それ以外は“いい趣味”を持った連中に売り払ってや――」
「もういい。もう、口を開かなくていいぞ」
「あ?」
己の言葉を遮られて、オウダはリオに血走った目を向ける。そして、手に持つハンドガンの銃口を、ピタリとリオの足へと向けた。
「おい、貴様。誰に向かって――」
「できることなら、このまま消えられればと思っていたが、どうやら、どの道、俺の家族は狙われるらしい」
一歩、リオが踏み出した。誰に聞かせるでもない、独り言を呟きながら、向けられる銃口など見えていないかのように、何の躊躇いもなく歩き出す。
「っ。どこまでもふざけた奴だ。そんなに痛みが好きなら、存分に味わえ!」
パンッと乾いた破裂音が響き渡った。周囲で注目していた労働者達が「ひっ」と悲鳴を上げて物陰に身を隠す。彼等の脳裏には、足を撃たれて倒れるリオの姿が浮かんでいた。
が、予想に反して、倒れる音も、もがき苦しむ悲鳴も、オウダ嘲笑も聞こえない。耳が痛くなるような静寂の後、ようやく聞こえたのは、
「ちっ、運のいい奴だっ」
そんな悪態と、もう一度響いた銃声だった。
しかし、やはり聞こえるのはリオの悲鳴でも、満足そうなオウダの声でもなく、
「なっ。こ、このっ」
動揺したオウダの悪態と、連続した発砲音のみ。
労働者達は、いったいどうなっているんだと、おそるおそる顔を覗かせた。
そして、信じられない光景を目にする。
「くそっ、どうなってる!? 当たれっ、当たれっ!! まてっ、動くなっ。これは命令だぞっ」
そこには、一歩、また一歩と後退りながら、がむしゃらに引き金を引くオウダの姿と、たった数メートルの距離で、ゆらりゆらりと体を揺らすリオの姿があった。
パンッと音が響き、同時にリオの上体が風にあおられたように傾く。刹那、背後の機械に何かが当たり、小さな火花と硬質な音が舞う。
パンッと音が響き、同時にリオの頭が、ゆるりと傾く。刹那、背後の柱に火花。そして、ガンッという衝撃音が響く。
パンッパンッと連続して音が響き、同時に、リオがトッと軽やかなステップを踏む。斜め前に一歩踏み込み、同時にくるりとターンすれば、背後に生じるのはやはり、小さな火花と金属の弾ける音。
「よ、避けてる?」
「弾丸を?」
労働者達の呆然とした呟きが耳に届いたのか、オウダがようやく現実を認識し始める。ぶるぶると震える贅肉が示すものは、既に怒りではないだろう。
それは、オウダの目に浮かぶものと同じ――理解不能な“何か”に対する恐怖を示すもの。
「……あ、有り得ない……なんなんだ……なんなんだっ、お前はっ」
カシュンと、手に持つオートマチック銃のスライドが、引いた状態で固定される。弾丸が尽きたのだ。
リオが、無言のまま彼我の距離を失くしにかかった。。
「ひっ」
意図せず、オウダの口から怯えの声が上がった。突き出したままのハンドガンは、その心情を表すようにカタカタと小刻みに震えている。
無理もないだろう。今の今まで、好きに蹂躙できると、自分より遥かに劣っていると思っていた存在が、理解不能な光景を突きつけてきたのだ。銃弾を視認して回避するという、異常すぎる光景を。
最後の一歩。
既に、手を伸ばせば互いに届く距離。銃口は、数十センチの幅を空けるのみで、傍から見れば突きつけられているようにも見えるほど。
ふらりとよろけたオウダの背に、トンッと小さな衝撃が走る。ハッとして肩越しに振り返れば、そこには見慣れた鉄柱があった。
逃げ場は、ない。
「そ、それ以上。近寄るなっ、この化け物っ。これは、命令だぞ!」
慌てて、腰のホルスターから予備のマガジンを取り出しつつ、必死に声を張り上げるオウダ。急いでマガジンを交換しようとするが、カタカタと震える手先が思う通りに動いてくれない。
そっと、オウダのいう化け物の手が伸ばされた。
「ぅぁ……」
眼前にリオがいた。その手は、いっそ優しいと表現できそうなほど、そっとオウダの突き出すハンドガンに添えられている。もう片方の手は、今にも取り落としそうなマガジンに添えられた。
硬直したまま動けないオウダに、リオは無感情な眼差しを向けたまま両手を動かす。
「撃ち足りないんだろう? 手伝ってやる」
そんなことを言いながら、まるで一からリロードの方法を教えてあげるかのように、リオはオウダの手を取ってマガジンを入れ替えてやった。
そして、そのままスッと自分の額へと銃口を向けさせる。
「どうした? 撃たないのか?」
「ぁ、ぅあ……」
銃口の向こう側から、まるで内面を見透かすように視線を合わせるリオに、その瞳に宿る深海の如き深さに、オウダは呻き声をもらす。引き金にかかった指は、まるで引けば最後と言わんばかりに、震えながら躊躇いを見せている。
「引き金を引けよ。覚悟があるのなら」
「か、覚悟?」
意味が分からず、オウダは、ただリピートする。リオは答えず、行動をもって暗示した。
「こうなる覚悟だ」
ガシャンと、音が響く。
オウダの足元で、リオの手によってロックを解除されたマガジンが抜け落とされ、地面に跳ねた音だ。更に、リオの手によって、スッと音もなくスライドが抜き取られた。
リオが口を開いた。普段の穏やかな口調とは異なる、まるで別人のような、威厳すら感じさせる声音で。
「覚えておくといい」
そんな言葉とともに、オウダの眼前に掲げられたスライドは、どういう手を加えられたのか、一瞬で解体され、内部構造のバネやらシリンダーやらの部品をボロボロと零れ落とした。そして、最後には、スライド自体もポトリと地面に落とされる。
無残にも、原型を留めず片手間で解体され散らばるパーツ達。
それはまるで……
オウダの体が震え出す。もう、手先の震えだけではない。冷汗を流しながら、全身を恐怖で震わせている。
ハンドガンと同じ末路を、自分が辿らないなどと何故言える。目の前にいるのは、たった数メートル距離で、音速を容易く回避する理解不能の化け物だ。
今や血の気を失い真っ青になっているオウダへ、リオは、ある意味暴力よりもよほど恐ろしい言葉を叩きつけた。
「お前が蔑み、いたぶる相手の中には、俺のような人間が紛れているということを。お前が一線を越えたとき、それは現れる。――いつまでも、大人しくしているとは思わないことだ」
「……」
オウダの顔のぜい肉がプルプルと震える。それは恐怖による震えが原因ではなく、激しく頷いたことが主な原因だった。
既に、オウダには、眼前の少年が、取るに足らない貧民区の一住人は見えていなかった。手を出してはいけない“何か”。その圧倒的な意思が込められた瞳も、威厳すら感じる雰囲気も、心臓を鷲掴みにされているかのような静かな憤怒の感情も、何もかもが恐ろしい。
そして、そんな〝恐ろしい何か〟は、もしかしたらそこら中に……
「ゆ、許し……、す、すみませ――もう、しないので、殺さないで――」
ずるりと、柱に背を預けたまま、オウダの腰が砕けた。へたり込みながら、呂律の回らない舌で必死に命乞いをする。
オウダを殺せば、計画に支障が出る。故に、今ここで殺すことはできない。本当は、大切な家族を蹂躙してやるなどと口にしたこの男を八つ裂きにしてやりたいところだ。
だから、代わりに、リオはただ殺意を叩きつける。何故か、脳裏に過ったのは、剣で相手を切り裂くイメージ。ずっとそうしてきたかのように、沸き上がった鮮烈なイメージは、
「ひぐぅ」
オウダの声を詰まらせた。そして、オウダは、まるで首でも跳ねられたかのように両手で首を押さえて――目と鼻と口と股間から、涙を流し始めた。言葉はない。呼吸をするので精一杯といった様子だ。
「……」
再び、静寂が場を支配した。
ただし、今度は、緊迫感からではない。もっと異なる、言うなれば素晴らしい演劇を見たあとの余韻に浸るかのような、そんな静寂。
中天へと昇る太陽が、ちょうど工場の窓から差し込みリオを照らす。後光を背負って、絶対だと思われていた監督官の前に悠然と佇むリオに、労働者達もまた、一人の例外もなく目を奪われた。
あるいは、心すらも奪われたか……
リオは絶対零度の眼差しでオウダを見下ろしながら最後の言葉を――否、命令を下した。
「俺の家族に手を出すな。ここの労働者達にもだ。いいな?」
「っ、ぁ」
言葉は出ない。代わりに、オウダは必死に頷いた。
それを見て頷いたリオは、溜息を吐きながらダイキへ視線を転じる。
「ダイキ。こうなったら、ここにいる意味もあまりない。ちょっと早いが、今限りで辞めさせてもらおう」
「そうだな。というか、リオ。お前、なにをしたんだ。ある意味、これ以上ないほど無残な姿だぞ」
リオは「あ、いや、俺もよく分からない。ぶっ殺すぞって思ったら、なんかこうなった」などと言いながら首を捻り踵を返す。ダイキは「……いよいよ人間を止めて来たな」と半笑いになりながらリオに並んで工場を出て行った。
しばらく、誰も動かなかった。動けなかった。
リオ達がいなくなり、魂でも抜かれたように呆然とするオウダの、途切れがちな呼吸音だけが、やたらと響く。
と、そのとき、ジャリッと、オウダの近くにいた労働者の一人が足音を立てた。
「ひっ」
オウダは、その労働者を見上げると、ジリジリと尻餅をついたまま下がり、周囲の自分を囲む労働者達を見回した。
そして、思う。
もしや、この中にも、銃弾をものともしない化け物がいるのではないか? と。
そう思ってしまえば、もう無理だった。まるで、化け物の巣窟にいるような気がして、オウダは、無様に手足を動かしながらわたわたと出て行った。
入口から、ようやく騒ぎを聞きつけて様子を見に来た他の監督官――監督官が労働者に発砲するのは日常茶飯事なので特に焦った様子はない――が、すれ違ったオウダの様子に訝しみ、近くにいた労働者に事情を聞こうとする。
しかし、誰もが呆けたような様子で、監督官達の声は右から左へと素通りしているようだった。そんな労働者達に、監督官達が怒声を上げて尋問しようとするが……
ワァアアアアアアアアアアアアアアッ!!!!
それ以上の大歓声が全ての音を塗り潰した。
長年溜まりに溜まった鬱憤が晴れたような、そんな清々しさを感じさせる歓声だ。それだけ、今、目撃した光景は痛快だったのだ。
その後、監督官達は、突然、騒ぎ始めた労働者達への収拾と、何故か、その図体に反してすっかり小さくなってしまったオウダへの対応に、あたふたすることになるのだった
背後で響く大歓声に少し笑みを見せつつ、リオはダイキに話しかける。
「ダイキ。アキナガさんのところへ行ってくれ。せっかくの厚意だ。受け取っても動かせませんでしたじゃあ格好がつかない。時間は出来たし、少し練習しておいて欲しい」
「了解だ」
アキナガの厚意とは、彼が所有するジープをリオ達に譲ってくれるというもの。車両の運転など、当然、貧民区の住人であるリオ達には無縁のことだったので、少し練習しておこうということだ。
リオの方は、エリカに頼んで紹介してもらった護衛の討伐者達と顔合わせである。予定外に時間が出来たが、話を通せば顔合わせの時間も早めることはできるだろう。
「大丈夫だと思うが……気をつけてな」
「ダイキもな」
工場の敷地を出た二人は、拳を突き合わせて笑みを浮かべ合うと、それぞれ別方向に進み始めた。
ダイキは、何となくリオを振り返る。みるみると小さくなっていくその背中に、何故か、微かな胸騒ぎを覚えた。咄嗟に、呼び止めようかと思ったが、状況が状況だけに少しナーバスになっているのだろうと頭を振る。
そして、自らの役目を果たすべく、目的地に向けて走り出した。
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