第12話 逃避行の決意
「兄さんっ!」
「うおっ」
リオが孤児院に戻り、裏口の扉を開けた瞬間、人影が弾丸のように飛び出してきた。その正体は、リオに対する呼び方から分かるように妹のアイリである。
アイリは、リオに胸元に飛びつくと、まるでその存在を確かめるようにギュゥ~と抱きしめながら、顔をグリグリと押し付けた。いつもに増して過剰なスキンシップに、その理由を察したリオは、微笑みを浮かべながら優しくアイリの頭を撫でた。
「ただいま、アイリ。俺は大丈夫だから、な?」
「……兄さん」
リオの優しい手つきに、アイリは気持ちよさそうに目を細めながら顔を上げる。そして、リオの両頬に手を這わせながら、確かに、最愛の人が無事な姿で目の前にいるのだと実感し、安堵の吐息をついた。
「ダイキ兄さんから話は聞いたわ。レン兄さんも、アキナガさんを連れてさっき帰って来た。サクラおばあちゃんもキキョウ姉さんも、もう事情は聞いているから……本当に、兄さんが無事で良かった」
「心配かけて悪かったよ。でも、この通り、ピンピンしてるから」
鼻と鼻がくっつきそうな至近距離で言葉を交わす二人。どうみても兄妹には見えない。
――ごほんっごほんっ
「うん、兄さんなら大丈夫だって信じていたわ。でも、心配する気持ちはどうしようもなくて……大げさにしてごめんなさい」
「いやいや、俺は嬉しかったよ。不謹慎かも知れないけど、アイリに心配して貰えて嬉しくないはずがないさ」
「もうっ、兄さんたら」
――うおっほんっ!
アイリは、リオに嬉しそうな表情で見つめられて恥ずかしそうに目を伏せる。大和撫子のような風貌のアイリが楚々と恥じらう姿は凄まじい破壊力があった。
リオは、そんなアイリを可愛くて仕方ないというようにグッと引き寄せて、頭を撫でていた手を頬に添える。互いに相手の頬に手を這わせている状態だ。ナンダコレの状態だ。
「にぃさ、ん……」
「なんだ、アイリ」
「んぅ、私……」
アイリの瞳がうるうると潤む。長いまつ毛が、溢れ出す気持ちを反映するようにふるふると震える
「ぐおっほぉおおおんっ!! って何回咳払いさせる気よっ! このブラコン、シスコンっ! いい加減、気付きなさいよっ! お願いだからっ」
「お?」
「あら?」
いきなり上がった怒声に、リオとアイリは体を離してキョトンとした表情をしながら視線を転じた。その先には、肩を怒らせ、更にツインテールを荒ぶらせているカンナの姿が。
実は、リオを出迎える為に、アイリの直ぐ後に駆けてきていたのだ。だが、追いついて直ぐ、アイリとリオが桃色の結界を張り出したので、それとなく咳払いで自分の存在をアピールしていたのだが一向に気が付いて貰えず、虚しさを募らせて遂に爆発したのである。
「ああ、カンナ、ただいま」
「カンナ姉さん、そんなに荒ぶって……兄さんのこと、余程心配だったのね」
「あ、あんたらは……」
何事もなかったようににこやかに挨拶するリオと、素で勘違いするアイリ。カンナは、行き場のないやるせなさに、ガクリと肩を落とした。
「と、とにかく、皆、待ってるんだからさっさと中に入りなさいよ」
「ああ、悪い。直ぐに行くよ」
名残惜しそうなアイリをそっと引き離しながら、リオはカンナに続いて部屋の奥へ行こうとした。
「ところで、兄さん……」
が、その前に、アイリから声がかかる。何故か、先程までの熱を孕んだ声音とは正反対の冷たさを感じる声音で。
「な、なにかな?」
思わずどもるリオに、アイリは妙に迫力のある笑顔で尋ねる。
「兄さんは、回収品の売却とか銃の調達をしていたから帰りが遅くなったのよね?」
「あ、ああ、そうだぞ?」
「ふ~ん。それだけ?」
「それだけって……何でまた、そんなことを気にするんだ?」
質問に質問で返したリオに、アイリは笑みを深める。何故か、リオの背筋にゾワゾワと悪寒が走った。
「だって……兄さんから女の匂いがするんだもの」
「ッ!?」
ちなみに、息を呑んだのはリオではなくカンナである。リオはむしろ、心当たりがあり、更にやましいことなど何もないので、逆にホッとしたような表情で答えた。内心、笑顔のまま、スっと目を細めて見つめてくるアイリを怖いとか思ってはいない。思っていないと言ったら思っていないのだ。
「あ、ああ、それはあれだよ。エリカさんから話を聞いていたから……」
「うん。エリカさんの匂いだというのは分かっているわ。そうではなくて、どうして、エリカさんの匂いがこびり付くようなことになっているのか、ということを聞きたいのよ。まるで、ピッタリと密着していたみたいに色濃いのだもの」
「どどどどどどどどどど、どういうことよ、リオ! あ、あんた、エリカさんといったい、なにをっ」
何故、匂いだけで見てきたかのように何があったのかを当てられるのか……リオは頬が引き攣るのを止められない。カンナは、顔を真っ赤にしてあわあわしている。エロ方面には意外に弱いのだ。取り敢えず、放置でいいだろうと、リオはアイリに説明を始めた。
「いや、エリカさんが悪ふざけで抱きついてきてさ。そのときに、付いちゃったんだろう」
「悪ふざけ、ね。ふ~ん。それだけ?」
「ああ。それだけだよ。直ぐに色々と話を聞かせてくれたし」
「そう……まるで、擦りつけたような匂いのつき方だけれど……そういうことにしておくわ。エリカさんにはいつもお世話になっていることだし」
「そ、そうか」
まるで、浮気を疑われた夫が、必死に弁明しているようだ、と思わないでもなかったが、取り敢えず、アイリが引いてくれたので、リオは胸を撫で下ろした。横で、カンナもホッとした様子を見せている。
何故か、黒服に襲われた後より疲れた気がするリオだったが、気を取り直して食堂に入った。中には、アイリの言う通り、サクラにキキョウ、ダイキにレン、ジュウゴ、そしてアキナガがいた。レンが連絡を入れて、事の重大さを理解したアキナガが、急遽駆けつけたのだ。
口々に、リオの帰還を喜ぶ面々に、リオもまた笑顔を返しながら席につく。途端、腹の底に響くような低く力強い声音がリオに飛んできた。
「リオ。よく帰った。大丈夫だとは思うが、尾行には注意してきただろうな?」
「ああ、大丈夫だよ、アキナガさん。何度も確認してきたから」
「うむ。まぁ、お前のことだ。余計な心配であったな。さて、レン達から大体の話は聞いている。早速だが、情報のすり合わせをしようか。話は聞こえていた。エリカに会ったのだろう? あの子の情報は正確さも鮮度も一流だからな」
アキナガが薄らと笑みを浮かべながら頷く。
深い皺が無数に刻まれた顔は、同時に深い歴史とそれに裏打ちされた経験を感じさせる。貧民区の纏め役にして相談役である彼がリオ達にとって味方であるのは何より幸いだろう。孤児院を中心とした善意の風が、貧民区に温かさをもたらしているのは事実だが、同じくらい、無法の中でもある程度の秩序を保てているのは、アキナガの影響力があるからだ。
彼には、自然と人に態度を改めさせるような威厳、あるいはカリスマというものがある。流石は、元第一級討伐団の団長だっただけのことはある。彼を裏切った輩はどれほど剛毅だったのか……
リオは、アキナガにエリカから聞いた情報の全てを伝えた。
アキナガは衰え知らずといっても過言ではないような太く逞しい両腕を組みながら「ふむ」と思案する。
その周囲では、サクラを筆頭に孤児院の家族が深刻そうに表情を歪めていた。何せ、聞いた内容が内容だ。余りに不可解で薄気味悪く、様々な理不尽に晒されてきた貧民区の人間と言えど、やはり平常心ではいられないのは仕方のないことだ。
重苦しい静寂が満ちる中、最初に沈黙を破ったのは渦中のアイリだった。
「私、この都市を出るわ」
自棄も悲壮感もない。ただ、決然とした力強さが込められた声音でなされた宣言。普段見せるほんわりした雰囲気は微塵もなく、風雨の中でも逞しく咲き誇る野花の如く、背筋を伸ばし凛と佇むその姿に、ただ一人を除いて誰もが息を呑む。
「なら、早急に準備しないとな。アイリは、どこに行きたい?」
その例外は、当然、リオだ。
止めるでも、理由を聞くでもなく、そして当然の如く、共に行くことを前提とする。まるで、ちょっと旅行にでも行こうというかのように、何の気負いもない言葉。だが、その瞳に宿る力強さは今のアイリにも引けを取らない。
たとえ地獄の釜の底までだって共に行く、一緒である、と、何より雄弁に物語っている。
「そうね。やっぱり【北九州エリア】かしら。あそこからなら、大陸に渡ることも比較的に簡単そうだわ」
言葉を受けたアイリも、「巻き込みたくない」などというセオリー通りのセリフなど思い浮かびもしなかったというように、微笑みながら答える。
迫る危険にも、得体の知れない連中にも、動じた様子はない。
尋常でない胆力。鮮やかなとも言える覚悟。絶大な信頼。鋼よりも強固な絆。異能を持つ己という存在に対する十全な理解。アイリもリオも、とても少年少女とは思えないほどの精神力だった。
日常会話のように、進む未来を決めた二人に、硬直していた空気がゆるりと弛緩する。というよりも、どこか呆れたような空気が漂った。
そんな中、豪快な笑い声が響き始める。
「くっ、はははははっ、流石、リオとアイリだ。貧民区に革命をもたらした異端児なだけはある! 大した胆力だ!」
「いや、アキナガさん。革命って何だよ」
膝を叩いて大笑いするアキナガに、リオがポリポリと頬を掻きながらツッコミを入れる。
「自覚がないのが玉に瑕だな。絶望と諦観が蔓延する貧民区に、笑顔と善意の風を吹かせたのはどこの誰だ? “助け合い”などという遥か昔に置き去りにされた価値観を取り戻したのは? 革命という言葉で足りないなら、“奇跡”と表現してもいいのだぞ?」
リオとアイリは顔を見合わせる。リオの見返りを求めない人助けや、アイリの包み込むような優しさや笑顔が、いったい、どれだけの人々に力を与えてきたのか、やはり二人には自覚がないらしい。
リオもアイリも、ただ、己の魂の決断に従って行動してきただけだ。その魂に従うということが、人にとっては何より難しいことなのだが……
二人にとって、それは当たり前のことで、だからこそ特別なことをしたという意識はない。そう、まるで、ずっと昔からそうしてきたかのように、二人にとっては自然なことなのだ。
そんな二人を見て、その特別性を理解している孤児院の面々や、実際に助けられたジュウゴは、しょうがない人達を見るような、されど、とても温かな眼差しを向けた。
「来るべき時が来たんやなぁ。ここにおっても追い詰められるだけ。それなら、危険を承知で逃げるしかない。覚悟はしとったんやけど……堪忍やで、リオ、アイリ。守ってやれんで、ホンマに堪忍やで……」
「おばあちゃん……謝らないで。私、ここが大好きだわ。おばあちゃんが作ったこの家に、私は確かに守られていた。私だけでなく、皆、おばあちゃんの優しさに守られていたのよ」
「アイリ……」
アイリの言葉に、サクラの表情がくしゃりと歪む。
「アイリの言う通りだ、サクラばあちゃん。それに、これはそんな深刻な話じゃないさ。ただ、子供が親元から独り立ちする、それだけの話だよ」
「リオ……あんたらって子は、ホンマに私には過ぎた子達やで……」
サクラが、そっと目元を拭った。隣の席のアキナガが、そんなサクラの肩に手を置いて優しげに見下ろす。反対側ではキキョウがギュッとサクラの手を握った。
「俺を忘れるな」
「当然、僕も行きますよ」
「私も付いて行くわよ。アイリのお姉ちゃんだからね!」
ダイキ、レン、カンナが、不敵な笑みを浮かべながら宣言する。異論も反論も認めないと、その強い眼差しが物語っていた。
それに、微笑みながら頷くアイリ。リオも当然といった様子で笑みを返す。
「よかろう。覚悟があるなら是非もない。お前達の門出、この私が全力で支援してやろう」
「俺も、できる限りのことはしてやるよ」
「家のことは任せてちょうだい。長女として、ちびっ子達は私が守るから」
アキナガが威厳と共に頷き、ジュウゴがしょうがねぇと言いたげな表情で頭を掻き、キキョウが後のことは任せろと胸を張る。
こうして、リオ達五人の逃走の旅が決まった。
それから、深夜を過ぎるまで、今後の具体的方針について話し合われた。都市間を移動するのは凄まじく危険な行為だ。準備を怠れば、途中で力尽きるのは必定。武器も持たないで出て行くなど、飢えた猛獣の群れの中に生身で突入するようなものである。
故に、リオ達の武器や食料の調達、ルートの決定、護衛の有無など、早急に揃えるべき事項を決めていく。
時間は余り残されていない。不気味な影は、もうすぐそこまで這い寄ってきているのだ。明日、遅くとも明後日までには都市を離れなければならない。
そして、一度、この故郷を離れれば、おそらく戻ってくることはないだろう。ならば、残していく幼い家族達にお別れを伝えないわけにはいかない。家族と過ごせる時間は一日もない。
リオ達に懐いている子供達が、もうリオ達と会えないかもしれないと知ってどんな顔をするのか……それを思うと、胸が締め付けられる思いだ。
リオは、話し合いの中、隣に座るアイリに視線を向けた。力強い輝きを放つ瞳に、いつも見ているはずなのに懐かしさを感じながら、無意識に見蕩れる。
その視線に気がついたアイリが、少し不思議そうな表情をしながらも、ふわり微笑んだ。
アイリとて、家族と別れる辛さに胸を痛めているはずだ。幼い家族の世話を焼いている時の、まるで母親のような慈愛の表情を見れば自明の理である。それでも、どんな時でも、そうやって人を安心させる笑顔を浮かべられるのは、アイリの強さだ。
(必ず、守る)
リオは、心の内で誓う。
遥か昔からしてきたように、自然と、強烈なまでの決意と共に……
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