蜘蛛の糸
「お釈迦様は、どうしてカンダタを救おうとしたんだと思う?」
「なんだって?」
「ああ、突然ですまない。芥川龍之介の『蜘蛛の糸』の話だよ。実は、子供の頃からおかしな話だと思っていたんだ」
「わからないな。そんなにおかしいか?」
「おかしいさ。カンダタというのは、ためらうことなく殺人や放火を犯した極悪非道な男だ。それがたった一匹クモを助けただけでお釈迦様の慈悲を得るだなんて、不自然すぎるよ」
「それほどまでにお釈迦様は慈悲深い、ということだろ?」
「いや。思うに、お釈迦様はすべてを見通していたんだろうな。カンダタという男の本質を。救うに値しない、本物のクズだということを」
「だったら、どうして蜘蛛の糸を垂らす必要がある? 救う気がないなら、なにもしないで放っておけばいいだろう」
「真の絶望を与えたのさ。地獄に落ちたカンダタに救いの手を差し伸べておきながら、もう少しというところでプツンと切る。つまりあれは、希望を与えてからもう一度奈落に突き落とす“究極の罰”だったんじゃないかとオレは思うんだ」
「ふーむ、究極の罰、ねえ」
「二度と垂れることはない蜘蛛の糸を見上げつつ血の池地獄でのたうち回る日々。激しい苦痛と後悔の中にあっても、決して断ち切ることができないかすかな希望。それこそ真の地獄じゃないか」
「考え過ぎだよ。あれは単なる説教話さ」
「はは。まあ、そうだろうな……。ところで就職が決まったんだって? おめでとう」
「サンキュ。まだ内定だけど、ここまで来れば決まったも同然さ。これからは収入も増えるだろうってことで、いろいろと買い揃えたところだ。新しい家具に新しいパソコン。前から欲しかったクルマも買った。もちろんローンだけどね」
「これで赤貧地獄ともおさらばだな」
「ああ。地獄に仏とは、まさにこのことだよ」