に
さいかいします。
彼と同じ中学、高校に進んだ。
彼と私の距離は、年を経るにつれて、広がっていった。
私達が住んでいたのは、古くから続く家同士の間での交流というものはない、新しい町ではあったけれど、小学校からずっと同じ知り合いが、そのまま学校を共にして持ち上がっていくような環境だった。
小学校は彼と私を含めて同学年に数十人しかいなかったけれど、中学に進学すると同級の生徒数もぐっと増えて、彼と話をすることもだんだんと少なくなってしまった。
彼は美術部に在籍し、一年中絵を描いているような奴のままで。
私は卓球部に入って、図書委員も務め、そして、少しだけ明るくなって――数は少なかったが、友達もできた。
在りし日の学生時代を思い出すと懐かしくなる。
真新しいセーラー服を身にまとい、最初に思ったことは「まるで軍隊みたいだ」ということだった。
枠にきっちりと嵌められた感じ。
没個性的で画一的な格好だと思った。
「個性を伸ばす教育をしたい」なんて綺麗事を述べていた教師は、しかし、頭髪を黒色から金色に染めたり、スカートの丈の長さを僅かに変えたりする生徒を、厳しく取り締まっていた。
まずは外見から他人と変えたものにしてみようとする生徒達のかわいい試みは、己の個性を育てようとしているとは見做されないようだった。どうやら、他の人と同じような髪型をして、同じように制服を着て、女性らしくお淑やかにすることこそが、学校の目指す個性を育てるということのようだった。
あの頃の私は、そのことをひどく馬鹿馬鹿しく感じたものだ。
小学生のときは私服だったから、全員が制服を着て登校し、制服で授業を受け、制服で下校するのは、ひどく違和感を覚えた。
しかも、その制服は男女で分けられている。
男性と女性とは、外見からして区別されているのだ――つまり、女性はスカートを履きなさい、と。
いちいちそんなことにも反発心を覚えたものだった。
小学生の頃とは状況が異なってはいたが、同級生の女の子達とはあいかわらず馴染める要素が少なかったように思う。
教室移動もトイレに行くのもお弁当を食べるのも「みんな一緒」。
話題は、かっこいいと評判の男の子の噂話やテレビアイドルの話ばかり。
歌の下手くそな、それでも見た目だけは整えられたアイドルグループの曲こそが彼女らにとっての音楽だったし、映画もその内容より誰と一緒に観に行くかについて興味が集中していた。
人間性よりも、化粧やファッションのセンスが大きな価値を持ち、それが募って所謂「序列」のようなものを形成する彼女たちの世界。
時折、なんだか別の星から来た宇宙人達と会話しているような気分に、よく陥ったものだった。
だから、おのずと、男の子と話す時間が長くなった。
ちょうど彼らが、中身のある映画や、特に私が好んだクラシック音楽に興味を持ち始める年代だったからかもしれない。
同じ話題で盛り上がる仲間。
ただ、それだけのこと。
でも、我々はちょうど思春期を迎えていたし、彼らは男性だった。
恋愛関係を抜きにした異性の友達には、なかなかなってくれなかった。
そこには常に一線が引かれていた。
「男だから」とか「女だから」とか、そんな言葉は、人格には関係ないのに。
それなのにどうして、みんな、男と女を分けたがるのだろう。
私はあの頃、自分を「女」だなんて思いたくもなかった。
私は「水無月遥」―――それ以外の何者でもない。
今になって振り返ると、頑強な自負心は自分を侵食する常識という観念に抗うためのものだった。
彼は、夏川純平は、幼い頃とかわらず、飄々としながら私をモデルにして油絵をよく描いていた。
変化に困惑する私と違って、彼はずっと彼のままだったように思う。
私たちを取り巻く不易流行の世界で、彼を、彼たらしめる何かは、変わらずに彼の中に存在していた。
■
高校卒業を控えた冬のある日。私は久しぶりに彼と下校を共にした。
彼は東京にある美大の受験が決まっていたし、私は地元の役所への就職が決まっていた。
地元の役所にお情けで入れてもらえたような感じだったとしても、私はもうすぐ公務員として社会人として働けることがとても嬉しく、誇らしい気持ちだった。
公務員として働くことが、立派なことだというつもりはない。
ただ、若者にありがちな享楽的で根無し草のようなフリーター生活を送るよりは、自分にとって納得のできる道だったのだ。
自分で選んだ進路だった。
これでようやく一人前の人間になれたような気がしたのだ。
お世話になった施設のみんなは喜んでくれた。
彼が美大に進学すると初めて聞いた時は、素直に喜んだ。
その志を応援したいとも思った。彼は、きっと何かを為すことができる、可能性を秘めた人間だと思っていたからだ。
「美大というと、やはり、絵描きとして食べていくつもりなのね?」
「いや、美大では工業デザインを学ぶつもり。絵画は、ちょっと、ね……」
「画家になることが、純平の夢だったのに」
「画家にはなりたいさ。でも、絵画でやっていく実力があるのかないのか、俺は自分のことだけに見極めができなかった。もちろん、絵画は絶対に続けていくつもりだよ。でも、それが駄目だったとしても、経済的にやっていける方法を持っておきたかった。つぶしがきく、というやつかな。画家になること、それ以外にもかなえたい夢があるから」
その言葉は衝撃だった。
絵画の世界のことは私にはわからない。
しかし、彼が描く絵をずっと見てきた。
優しい色づかいと柔らかな線の中に時折鋭く強い線が走り、構図は極めて大胆。
そんな画が多かった。
新作を見る毎に、驚嘆した。
心が沸き立つような、そんな衝撃を感じることもあった。
彼の絵は好きだった――初めて描いてくれた私とウサギの絵を見た時から、ずっと好きだった。
彼の画には宇宙がある。
素人ながら、そんな感想を抱いていた。
彼の画を彼の画ならしめていたもの、それが才能によるものか、努力によるものかは判らない。
ただ、彼が懸命に努力を続けてきたことは事実だ。
彼はなにより画家になりたいのだと、そう思っていた。
そう信じていたのに。
驚いて見上げた彼の綺麗な横顔には、いつか見たような決然とした表情が浮かんでいた。
「好きな娘と結婚して、家庭を持ちたいんだ。好きな娘を俺が幸せにしたいし、俺も幸せになりたい。俺は、結局、美術系の世界でしかやっていけないだろうけど、経済的に苦労させたくないだろう? 好きな人には」
彼が遠くを見ながらそう言った時、心の中に鉛のように重たい何かが急速に流れ込むのを、私は我慢していた。
「そっか、その夢が、叶うといいね」
昔から彼はしっかりとした考えを持っていた人だった。
たしかに経済的に不安定という要素が、画家には常に付きまとう。
現在は高名である偉大な画家にあっても、生前においては不遇を体験した人は多い。
その芸術的な業績が、当の本人の経済状態を保証しないことがままあるのが、芸術とりわけ美術の世界なのだと思っていた。
芸術は低俗な商業主義に染まるべきではないという面があるのかもしれない。
そういう意味では、彼の判断は妥当であるようにも感じた。
少なくとも家庭を持つのなら、現代においては、経済的な収入源の確保はどうしても必要だろうと思われたから。
しかし、彼の言葉に対して、私の心のどこか奥底で落胆が蠢いたのも事実だった。
彼らしくないと思った。
少なくとも、その思考は、彼の画とは似ても似つかない。
だが、それと同時に彼には成功して幸せになってほしいとも心の底から思っていた。
彼らしくない彼を、それでも、私は嫌いにはなれなかった。
彼は私にとって、やはり、大切な人だった。
いつのまにか、とても大切に想っていた人だった。
きっと彼は知らないだろう。
私が、ずっとずっと彼を見てきた事なんて。
スケッチブックに視線を落としている彼の様を見ていたのを悟られまいと、彼が顔を上げそうになる度に慌てて顔を背けたりして――そんな馬鹿みたいなことをしていた私のことなんて。
「綺麗な夕陽ね」
と私はいった。
頭の中はぐちゃぐちゃし始めていた。
「ああ、そうだね」
と彼はいった。
我々の高校は、ちょっとした小高い丘の上にあった。
近くの駅から校門まで、急で長い坂が続く。
朝の登校時、とりわけ遅刻の瀬戸際に立たされた時は、ちょっと辛い思いをすることになるが、その分、下校時には楽な道だった。
その道を、二人でゆっくりと下った。
並んで歩くことなんて、随分と久しぶりだった。
ふと見上げると、高い空は美しい茜色に染まっていて。
赤い大きな太陽がぐぐっと重力に引っ張られるようにして、西に沈もうとしていた。
綺麗だった。
もしもその瞬間に世界が太陽に飲まれて滅びて消えてしまったとしても、私はきっと微塵も後悔なんてしないだろうと思われた。
「東京に行っても、あんな夕焼けを見ることができるかなあ」
彼がぼそっと呟いたのを、私は聞き逃さなかった。
「たまに夕陽が見たくなった時はこっちに帰ってくればいいよ。私も付き合うから」
少しだけ、自分の想いにとって都合のいいように言ってしまったけど、彼は穏やかに笑って、私を見据えた。
私も、夕陽を浴びて半分だけ赤い彼の端正な顔を見つめた。
「そういえば、久しぶりだね。こうやって二人だけで話すのは」
「そうね」
「自分の夢なんて他人に話すのも、久しぶりだった」
何故かしみじみと言う彼の様子が可笑しくて、少し愛しくなった。
夢を語ることができるのは、夢を描いた人間だけの特権だ。
子供の頃から変わらない夢を、愚直に描いてきた彼を、愛おしく思った。
「大丈夫だよ! 純平は芸術の鍛錬と学校の勉強をちゃんと両立させて頑張っていたじゃないか。芸術なんてとても厳しい世界だと思うし、殆どの人がすぐに投げ出してしまう道だろうけれど。それでも純平が真剣に本気で取り組めるのは、もちろん絵を描くのが好きだからというのもあるだろうけど、根本が努力家だからだよ。だから、夢だって叶う――神様は、ちゃんと頑張った人には、確かに報いてくださるはずだよ」
それはとても陳腐な励ましの言葉だったけれど、その時の私の精一杯でもあった。
「ありがとう」
彼がちょっと笑ってくれたから、私は満足した。
「ところで」彼は、そんな私の様子を窺いながら、話題を換えた「なあ、どうして大学への進学を諦めたの? 水無月の成績は良いのだから、良い大学に進めたんじゃないのか?」
私は答えなかった。
答えたくなかったからだ。
「水無月の事情なら知っているつもりだけど、奨学金を受け取れば……。もったいないと思うんだけど……」
「――私の話は、いいから」
ちょっと、ぶっきらぼうな言い方になったかもしれない。
彼は、すこしだけ驚いたように、片方の眉毛を上げた。
それから、くすっと可笑しそうに微笑んだ。
「何?」
「いや、面白いなあ、と思ってね」
「何が?」
「水無月のそういう言い方が、昔のままだったから。自分のことを言われると、途端に口が重たくなってしまう――俺にだって、心配ぐらいさせてよ」
私は少し憮然として、可笑しそうに笑う彼を見た。
彼の目は優しかった。
黒に少しだけ茶を混ぜたような、そんな濃茶色の瞳は、もしかしたら何もかもを見通していたのかもしれない。
「――もっと、肩の力を抜いて楽に考えてもよかったのに」
「何のこと?」
「少しぐらい遊ぶつもりで、大学に進学してもいいじゃない?」
「……」
「勉強だけに打ち込める訳でもないのに大学なんて、と思っているだろう。水無月のことだから。自分に厳しいね、あいかわらず」
「――そうかもね」
私は気のない返事をした。しかし、彼に私の考えが読まれていることを自覚していた。
昔から、そうだった。
彼は飄々として、いつも余裕がありそうで。
私の考えていることを怖いぐらいに分かっていて。
そして、私は、彼の考えているなんてちっとも分からないのだ。
「昔から、変わらない」
「すみませんねえ、ガキのままで」
真剣に勉学に打ち込むのでなければ、大学に進学するのは申し訳ないと私は思っていた。
それは、あるいは私だけの勝手な思い込みであるかもしれないけれど。
私は高校に進ませてもらえただけでも、とても感謝しているし、それで満足だから。
本当は、中学卒業とともに社会の荒波に飛び込む選択もあった。
でも、施設の皆の好意で、高校に進ませてもらえた。
嬉しかった。
私に人並みの高校生活を与えてもらえて、嬉しかった。
それはたとえば、好きな人と同じ学校に通って、好きな人を見かける度に心を躍らせたりして。
授業でよく判らなかったところを、友達同士で教え合ったりして。
テストに備えて、皆と一緒に図書館で勉強したりして……。
それはなにげないことなのかもしれない。
しかし、なにげないことこそが私には楽しかったのだ。
だから、もう十分だと思った。
私は、大学には行かないし、彼と一緒に東京に行くことはできない。
私が生まれて初めて好意を抱いた人とは、もう、一緒にはいられない――そんなことは、判っていた。
彼は素敵な人だ。
私とは決して釣り合わない。
そう思っていたのに。
「ねえ、水無月」
「なによ」
「あのさあ」
「だから、なによ」
「高校卒業したら、俺と結婚してくれないか?」
まるで、すぐそこの喫茶店にお茶を誘うかのような気軽さで彼が言ったものだから。
「いいんじゃないの?」と私はなにも考えずに答えてしまった。
直後、頭の中が爆発した。
それから私が幸せになるまで、芸術家の幼馴染との間には誠に驚くべき物語があるのだが。
それを書くには余白が狭すぎる。
おわります。