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いち

はじまります。

私は孤児だった。

母の記憶はない。

ものごころついてからの短い時間を父と過ごした記憶が頭のどこかにわずかに残るだけ。


父はとても優しくて、大好きだったけど、もうこの世にはいない。

数学者だった父はこの混沌とした騒がしい世界のどこかにひっそりと慎ましく隠れている真理を探そうと懸命になっているように見えた。


毎日欠かさず三頁分の研究成果(それは複雑な計算式だったり、難解な記述だったりした)をノートにびっしりと書き込み、数年に一度の頻度で論文にまとめ、発表していたそうだ。

全身全霊をかけて研究に打ち込んでいた勤勉な学者だった。

しかし、不幸にも、人類の歴史に名を残すほどの才能はなかったらしい。


そして、私が六歳の頃に唐突に交通事故で亡くなってしまった。


青い顔をしてふらふらと歩いていた父は、信号を無視して、バスにはねられた。

あるいは、自殺だったのかもしれないが、真相はわからない。

天より他に知るものなく、それは永遠に謎のままだ。

父が遺した最終定理なのかもしれない。


とにかく私は天涯孤独の身となってしまった。


小学生の時には孤児であることでよく虐められた。

人には「自分と異なる者を排斥する」という性質があって、幼い者ほど顕著に現れる。

それはたとえば、髪の毛の色だったり、言葉のなまりだったり、性格の不一致だったり、家庭環境だったり……いじめの原因なんて、色々あるものだ。

それが私の場合は両親の不在だった。

私は「頭が悪くて醜くて汚い」と、ろくな根拠もないままに、孤児であるというだけで、同級生の多くにそう蔑まれていた。


調子に乗るなよ

髪の毛ちゃんと洗ってないくせに、こっち来るな

あの施設の奴ってさ、みんな頭悪いよな

菌が移るから近寄るなよ

お前なんかキライだよ

バーカ!


先生のいないところで、男の子たちにぶたれたり、小突かれたりもした。

教科書を誰かに破かれることや、隠されてそのまま見つからないことさえあった。

そんなことが何度もあって、そして、それはことごとく私の不注意のせいにされた。

大人である先生ですら、私の言い分をろくに聞いてくれなかった。


同級生の誰も私と口をきいてくれない日々があった。

精一杯の勇気をもって話しかけても、無視された。

まるで空気のように。

「私と話してはいけない」という暗黙のルールがあって、それを破ったらいけないというゲームだったと教えてもらえたのは、だいぶ後になってからだ。


彼らにとっては楽しい遊びのつもりだったのかもしれない。

私がどんなに苦しかったかなんてきっと知らなかったのだろう。


児童養護施設の大人に心配をかけまいとそれだけを思って、私は頑張って学校に通ったけれど、そういう姿勢が彼らにはとても虐め甲斐のある標的に思えたのだろうか。


必死に話しかけても、誰も口もきいてくれない教室で。

手を握り締め、歯を食いしばって。

それでも、毎日、私は学校に通った。


そんな私は、彼らにとっては、とても虐め甲斐のある標的だったのだろうか。

負けたくなかった。

泣いたら、負けだと思った。


孤児であることが虐めの理由だったから、両親のそろっている彼らが、本当に心の底から羨ましかった。

そして、私のことを無視する彼らが大嫌いだった。

嫌いになることだけが、私が彼らにできる、ささやかな仕返しだった。


悔しかった。

親がいなくても、一人きりでも、生きていこうと思った。

周囲に敵意を撒き散らしていた。

誰も信じたくなかった。


今では、分かっているのだ。

もしかしたら、私が嫌われて虐められていたのは、私が彼らをずっと嫌っていたからではないか。

他人に優しくしてもらうには、まず自分も他人に優しくしなければいけないということを。


私は、人前では決して泣かない子供だった。

そして、本当に愛想がない子供だったらしい。

そんな自覚はないのだけれど。

子供のくせに、なにもかも諦めたような、そんな顔をしていたと、施設の大人に後に教えられた。

正直に言って、扱いに困ったものだよ、と冗談めかしてほほえみながら。


私は内向的で、そのくせ気が強くて、負けずぎらいな性格だ。

今も当時も、その本質はあまり変わらず、やっかいなものだと、我ながら思う。


それでも、施設のみんなは、振り返れば、不思議なほどに私に優しくしてくれた。

子供のくせに、ひねくれて歪んでいた私を優しさで包み込んでくれたのだ。

世間からは何かと冷たい偏見の目で見られることがあったけど、しかし、私にはとても温かい場所だった。

あるいは、そこには虐げられた者同士が集まって傷を舐め合う様な面があったのかもしれない。

偽善的な好意の上で、運営されていたものだとしても。

それでも、その場所の温かさに、私の心が救われていたのは事実だった。


与えられたものが全て嘘だったわけではないと。

心のどこかで気付いていたから。


破られた教科書は、翌週には替わりのものを用意してくれた。

どんなに汚れてしまった衣服も、すぐに洗濯して、清潔で温かいものにしてくれた。

一週間に一度は、私の好物のオムライスを作ってくれた。

部屋の隅で拗ねてみせたら、とっておきのイチゴ味の飴玉をくれた。

落ち込んだ時は、いつも誰かの優しい手が頭を撫でて慰めてくれた。


あの頃は、そんなことは当たり前だと思っていて、何の価値も見出してはいなかった。

でも、それは本当に当たり前のことだったのだろうか。


あの頃、私は何を見ていたのだろう。

あまりにも未熟すぎて、私には本当の世界が見えていなかったのだ。


   ■


彼と会ったのは、私が十歳の時の事だった。

その日の私は、彼と長い付き合いになるだろうとは、到底思わなかった。

彼はごく平凡でありがちな転校生に見えた。

私はその頃には既に同級生に対して何の希望も持たないようにしていたから、新しい同級生となる彼の挨拶にもろくに耳を傾けなかった。

彼の挨拶の言葉を聞き流しながら、ぼんやりと窓の外を見ていたのを思い出す。


鳥になって、どこか遠くに飛んでいってしまいたい。

あの頃の私は、そんなどうしようもない事ばかり考えていた。


「俺は夏川純平と言うんだ。よろしく、水無月遥さん」


彼に初めて話しかけられたのは、その日の放課後のことだった。

校庭の片隅にある古ぼけた小屋で、ウサギに餌を与えていた私に、彼は飄々とした感じで、気さくに話しかけてきた。

穏やかにほほえみながら。


「よ、よろしく」


私は、すこし口ごもった。

同級生に話しかけられたのは久しぶりで、びっくりしたのだ。


きっと、この転校生は同級の全員に挨拶して回っているのだろうなと、そんな事を思った。

そうでもなければ、この私に話しかけたりするものか。

私は、彼に対する猜疑と警戒を、ひそかに心に抱いた。


ウサギの世話は、私の意思は無視されたまま、自由で平等な民主主義の代名詞たる「多数決」によって、私の役割だと決定されていた。

面倒な仕事だったから、嫌われ者の私に押し付けられたものだった。

だから、はじめはやる気にあまりなれなかったけれど、無垢なウサギはとても可愛くて、私はいつしか一生懸命に世話をするようになっていた。

もしかしたら、学校で味わう寂しさを、ウサギとの交流で紛らわせていたのかもしれない。


「ねえ、こんなことを突然言ったら、変に思われるかもしれないけれど」


彼は、私の目を見て、尋ねた。


「水無月さんとウサギの絵を俺が描いていいかな?」


綺麗な目だと思った。


見る者を圧倒するような強い光を宿していた。

私は、到底、同級生と仲良くする気にはなれなかったけれど、思わず肯いてしまっていた。


「いいよ」


その程度ならば別に困るまいと、その時はとっさにそう思ったのだ。


しかし、彼の絵は上手かった。


彼は驚くほど巧みなウサギを描いた。

まるで生きているみたいに。


周囲に勧められるままに、彼はそれを県主催のこども絵画コンクールに応募し、そして、ついにとある賞を勝ち取った。


しかし、彼はあまり喜んだ風ではなかった――本当は、もっともっと、上手に描いてあげたかったのだと。

そんなことばかり彼は愚痴をこぼしていたけど、その絵は決して子供が描いたものには見えないような素敵な出来だったから、少なくとも私はそれを見て、ひどく感心した。


ウサギの横で笑う少女が自分だとは思えなかった。

自分はこんな風に他人から見えるのか。

新しい発見だった。


「ねえ、絵、上手だったね」

「そんなこと、ないよ」

「また夏川君が何か描いたら、私にも見せてほしいんだ」

「うん」


約束通り、彼はよく私の絵を描いて、そして欠かさず見せてくれた。

自分を描いた絵を見るのは複雑な気持ちだった。


恥ずかしくて照れ臭いような、それでいてちょっぴり嬉しいような。


色々な色が混ざり合った絵の具がなんともいえない趣を見せるように、様々な感情が交じりあった私の顔も、なんともいえない表情を浮かべていたことだろう。


彼は、暇さえあればいつでもスケッチブックを開いているような少年だった。

独りで黙々と絵を描いているような、技術をひたすら追求する求道者のような、そんな孤独な一面を内包していた。

そのくせ、人好きのする柔らかい笑みを浮かべて、社交的に振舞う術も持ち合わせていた。

人気者というほどではないけれど、誰からも一目置かれているような、そんな存在だった。

私は彼のそんなところが少し羨ましかった。


「ねえ、夏川君」

「夏川君じゃなくて、俺を呼ぶ時は純平でいいよ」

「夏川君、そこで絵を描いていると、掃除の邪魔。向こうに行ってよ」

「――ごめん」


いつのまにか、彼は私にとってはじめての友人になっていた。


彼は、私と同級生達の険悪な関係にすぐに気付いてはいたもの、そんなくだらない事には知らん振りを決め込んで、私とよく会話を交わしていた。

そんな彼の姿勢を気に食わないと思う者もいたかもしれない。

そんな二人のことを子供ながらに邪推して、からかう者もいた。

あまりにも心無いことを言われたこともあった。


しかし、彼はいつだって彼だった。

何を言われても、飄々として、どこか余裕がありそうで。

時に困ったような笑みを浮かべながらも、それほど困ってなさそうで。

何事もさらっと受け流せるような、そんな柔らかさを子供の時から持ち合わせていた。

幼い頃から大人の対応ができる人だったのだ。


「夏川君があんな絵を描いたから、いけないんだよ?」

「俺は、描きたいものを描くだけだ」

「勝手だね」

「ごめん。それでも、俺は、描きたいものを描きたいんだ」


私はあの頃から、彼のことが好きだったのか、好きではなかったのか。

それはよく分からない。


学校で、気軽に会話ができる唯一の存在だった。

そういう意味では、彼は私にとって特別な存在ではあったけれど。

愛情というよりも、やはり友情を強く感じていた覚えがある。

あるいは、私が子供だったのかもしれない。

男女間の思慕なんて、全く判っていなかった。


「私に親がいないことが、あなた達は、そんなに面白いの?」

「俺も母親がいないよ。昔、癌で死んだ」

「夏川君……」

「そんな顔するなよ、水無月」


ある日、小学校で私に因縁をつけてくる連中とついに徹底的に対峙した。

喧嘩になった。

唐突にそれに割って入った彼は、つまらないことで言い合う私達に向かって決然と、片親であると明かした。

それはおそらくは彼の中でも重要な秘密であったに違いないのに、それまで同級の誰もそのことを知らなかったのに。


彼は何を思って、あの時、その告白をしたのだろう。


次の日から、私は徐々に虐められなくなっていった。

虐める理由が、彼らの心の中から消えてなくなっていってしまったようだった。

親がいないということが問題ならば、夏川君も虐められなければならない。

しかし、夏川君を虐めようと思う者なんて誰もいなかったのだ。


それから、私は同級の皆に馴染めるようになっていった。


私には判っていた――彼は、私を救ってくれたのだということを。

私の境遇ばかりではない。

親がいないということに勝手に引け目を感じて、周囲を敵視して、心を閉じて意固地になっていた、

私の凍りついた幼い心をも。

周囲が持て余した、私の張り詰めた未熟な心も救ってくれたのだ。


私のことなんか見捨てても良かったのに。

私のことなんか彼には全く関係なかったのに。

それでも、彼は私の心を溶かしてくれた。

それはおそらくは「救い」と呼ばれるものに他ならなかった。


自分の境遇について、私自身は悲観しなかったし、気遣いなんていらなかった。

同情されるのは大嫌いだった。

何も知らないくせに分かったような顔をして一方的に同情を寄せてくる偽善者なんて、殺したいほど嫌いだった。

憎んでいたとすらいえる。


子供の頃から、私のことを可哀相だと決め付けてくる人間が嫌いだった。

そういう人間は傲慢なのだと思った。

己の価値観を一方的に他人に押し付け、そして、その愚に気が付かない。

私は決して、可哀想な子供ではなかったのに。


彼は安っぽい同情なんてせずに、ただ、そのままの私を認めてくれた。

そして、そのままの私を庇ってくれた。

だから、嬉しかった。


私の大切な友達はありのままの私を認めてくれているのだと。

そう思えたから。


「ありがとう、夏川君」

「……」

「ありがとう、純平」

「うん」


ちょっとだけ照れたようにそっぽを向いた彼に私はほほえんだ。


彼が、あの頃の私をどう思っていたかは知らない。

私達は仲の良い親友だった。

男女の間に友情が成り立つのかどうかなんて難しい問いには答えられないけれど、少なくともあの頃の私は性別を意識していなかったように思う。


私達は、少しずつ大人になっていった。

つづきます。

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