第五章 エロスとタナトス
ヴィクトリアマンションでの呪わしい出会いの翌日午後三時頃、即ち二月二十日「午前七時」頃、黒尾はなんとか黒沢交差点にまで辿り着いた。時間短縮と安全確保のために「空中浮遊」を使ってマンションの通路から直接玄関先に降り立った後、ほぼ丸一日をかけ、岩井の死体を担いでここまで歩いてきた。
もっとも、二十四時間歩き通しだったわけではない。実際の移動時間は二十四時間中九時間もなかった。小休止を挟みながら移動したのは「日中」だけで、圏内に「日没」が訪れてからは、凶悪な変異生物に出くわさないように祈り、恐ろしさと寒さに震えながら「夜明け」までずっと建物の中に身を潜めていた。流石に、ろくな装備もなしにたった一人で、しかも死体を抱えた状態で、「夜」の「影響圏」を歩くほど命知らずではなかった。
黒沢まで来れば開口部まであと一息だ。普通であれば「昼」には、そうでなかったとしても「夕方」までには開口部に戻れる。
だが、そのあと一息が続きそうもなかった。精神力活性化剤か精神力結晶があれば話も違ったかもしれないが、無い物ねだりは無意味だ。
限界だ、と心の中で呟いた。既に疲労は限界に達していた。不眠、筋肉の酷使、超能力の発動、寒気、ストレスといった諸要因が彼の心身を悪魔のように蝕んでいた。全身が悲鳴を上げていた。最早、意識を保っているだけのことや足を一歩踏み出すだけのことがつらくて堪らなかった。肩にのしかかって重みで攻め立ててくる遺体を支えるのは拷問にも等しかった。
これでも持った方だろう、と苦痛の中でぼんやり思った。ここまで辿り着けたのは、加納に襲撃される前までの時点で下していた自己評価を遥かに上回る好結果だ。超能力の使用を最低限に抑えてきたことも一因ではあるだろうが、それだけでは説明がつかない。ひょっとすると、この大危機によって、潜在能力が大きく開花したのかもしれなかった。
しかし、仮にそうだったとしても、それが今後に活きることはない。自力でこれ以上進むのはほぼ不可能だからだ。誰かに助けて貰えればなんとかなるだろうが、これまで誰にも遭遇しなかったことを思えば、ここで他の探険士に拾って貰えることを期待するのは安易に過ぎるというものだ。手詰まりだ。結局、黒沢が黒尾と岩井の墓場となるのだ。
遂に膝が重量を支えられなくなった。膝関節から力が抜けていくのをどうすることもできず、黒尾は担いでいる岩井の死体ごと地面に倒れ込んだ。受身らしい受身も取れずに地面にへばりつき、不快な湿り気を帯びた砂が口に入った。岩井の遺体が入った袋が投げ出され、地面に転がった。
罅割れた舗装の冷たさが防寒着と戦闘服の布地を貫いて彼の肉を侵してきた。体の芯から冷えていく感覚は心地良くすらあった。疲労やら苦痛やらが体の外に溶け出していくような、不思議な安らかさが全身を満たしていく。
このまま楽になりたい、と思った。まだ死にたくない、とも思った。死と生の相反する欲動が黒尾の心の中で荒れ狂っていた。優勢なのは死だった。何もしなくていいと言う死と、立って歩けと言う生では、安楽な死の方がより魅力的だった。
死の優しい冷たさにうっとりと目を閉じかけた時、遠くで何かが動くのが見えた。一瞬で安らぎが遠のき、意識が戻った。まどろみかけていた男は探険士に戻った。
見えたのは中型犬ほどにも巨大化した変異鼠達だった。薄汚い毛皮と猛獣のように変形した顔がおぞましい。瓦礫の後ろからこちらを窺っている。黒尾がもうじき死ぬことを察して、黒尾が「餌」に変わるのを待ち構えているのだ。
ここから見えないだけで、ああいうスカベンジャーは他にも沢山この辺りにいるのだろう。どいつもこいつも黒尾が完全に動かなくなるのを待っているのだ。
嫌忌剤の効力は期待できない。最後に塗布してから丸一日以上が経過している。もう効力など残ってはいまい。黒尾が意識を失えば、数分もしない内に死体はあの気味悪く蠢く絨毯に覆い尽くされ、「影響圏」の食物連鎖の中で処理されるだろう。いつぞや回収した探険士の死体の惨状が脳裡に蘇った。
その直後、それを上回る最悪の想像が脳裡をよぎった。もし、意識がある内に連中が群がってきたら。
有り得ない話ではない。死を待つばかりの衰弱した獣が、気の早いスカベンジャーに生きながら貪られるのは、自然界ではそう珍しいことではない。
無意識に動かした手が、腿のホルスターに収まったシグ・ザウエルに触れた。黒尾は薬室に一発だけ弾丸が残されていることを思い出した。
超能力を発動する余力はもうないが、幸い、まだ銃を撃つ体力はある。
問題は何を撃つかだった。選択肢は二つ。奴らを撃つか己を撃つか。
待ち受ける苦痛を思うと後者に心が傾きかけたが、それが何を意味するかをよく考えると、とてもそんな気にはなれなくなった。
自分を撃てば、加納正憲の悪意に満ちた忌まわしい慈悲に甘んじることになる。
自分を撃てば、薄汚いスカベンジャー達のために下拵えをしてやることになる。
加納正憲は黒尾がなるべく惨めな死に方をするよう望んでいるはずだ。黒尾が絶望して自決したことをもし知ったなら、腹を抱えて大笑いするだろう。
スカベンジャー達は黒尾の肉を欲しがっている。黒尾が抵抗するまでもなく諦めて死んだなら、喜んで死体を貪り喰らうことだろう。
僕の死を望む者は敵だ。
僕の死で利益を得る者は敵だ。
その認識と共に、心の中に透徹した殺意が生まれた。
敵は殺さなければならない。
疲れきった手で腿のホルスターからシグ・ザウエルを静かに抜き、銃把を地面に依託するようにして構え、狙いを定め、引金を引く。
銃声が響き、反動が手首に襲いかかってきた。握りが甘かったせいもあり、力の入らない手では受けきれず、銃を取り落としてしまった。
狙いが少しずれていたらしい。翳む視界の中で見えた弾着は、鼠達の手前の地面だった。土が弾け飛び、驚いた鼠達が逃げ散っていく。
「……畜生」
それを見届けた黒尾は、深い失望を胸に抱き、そのまま意識を手放した。
二月二十日「午前七時」過ぎ頃、薬師通りを黒沢交差点に向かって南下する集団があった。人数は十二人。屈強な男達の先頭には、八九式小銃を構えて警戒に当たる髭面の巨漢の姿が見える。準一級一等探険士の工藤義男だ。
彼らの足取りは重く、表情は暗かった。戦闘服や防具は血と泥に汚れ、あちらこちらが裂けていた。足を引き摺りながら歩く者もいれば、仲間の肩を借りることでなんとか倒れずにいる者も、自らの足で立ちながらも常に苦しげに顔を歪めている者もいた。
彼らは中央区からの敗残兵だ。
工藤率いる「相乗り」集団は、黒尾と岩井の二人組と別れた後、真っ直ぐに中央区へと向かった。各所で「相乗り」を解散しながらの道中は、人数の減少にも関わらず、平穏無事なものだった。中央区への入口である金戸に到着した時、工藤達十二人の中に負傷者は一人もいなかった。
しかし、中央区に入ってしばらく進んだ辺りで、幸運の反動が襲いかかってきた。親衛隊員十数人を中核とすると見られる、大型の増強普通科中隊規模の種革軍戦闘部隊に出くわしてしまったのだ。
親衛隊に選抜された最精鋭と苛酷な環境に鍛えられた戦闘隊、併せて数百人。それらに協力或いは隷属する鬼人や変異犬、騎馬蜘蛛、騎馬飛蝗といった変異生物多数。「影響圏」に適応した生物だからこそ可能な大兵力。とてもではないが、たった十二人で太刀打ちできるものではなかった。
工藤が今までに目にした中で最大規模の部隊でさえ中隊規模に満たなかった。工藤は種革軍のあんな大部隊を見るのは初めてだった。恐るべき勢力の増大ぶりであり、恐るべき戦力の充実ぶりだった。
なんの目的もなしにあれだけの大部隊を動員するとは到底思えなかった。何か特別な任務――たとえば自衛隊が防衛上の「水際」に設定している深沼区への本格的侵攻――を負っている可能性が高い、と工藤は判断し、即座に撤退を決断した。彼我の圧倒的戦力差から言っても、事の重大性から言っても、それ以外の選択肢は有り得なかった。勝てるはずのない敵から逃げ、「外」にこのことを伝える。それ以外に採るべき道はなかった。
長年苦楽を共にした仲間達は誰一人異論を唱えず、工藤の指揮下、整然と撤退を開始した。
最終的には逃げ切れたものの、それまでが大変だった。流石は種革軍の精鋭戦闘部隊と言うべきか、簡単には逃がしてくれなかった。工藤達は追撃隊を振り切るまでに少なからぬ負傷者を出すこととなった。今は超能力治療で完治しているが工藤自身も打撲傷を負ったし、腕を半ば切断された植草のように病院でのきちんとした治療が必要な者も少なくなかった。
不意に銃声のような音が聞こえた。工藤は立ち止まり、手信号で仲間達に停まるように指示した。音は進行方向から響いてきた。音源との距離は然程遠くないようだった。
耳を澄ましながら命じる。
「内村、十二時をざっと調べろ。誰かがこの辺でぶっ放したみたいだ。音が軽いから、多分拳銃だな」
「千里眼」を発動した内村が、少しして、緊迫した表情で報告した。
「交差点に誰か倒れてます。随分と薄着です。あー、中身入りの遺体袋が一緒ですね。蟲や鼠がたかってないから、まだ死んでないか、死んで間もないんでしょう」
「わかった」と頷き、工藤は一行に命じる。「後藤、光井、内村、俺と一緒に交差点に先行だ。残りは怪我人と一緒にゆっくり来い。警戒を怠けるなよ」
工藤は仲間と共に小走りに黒沢交差点に向かった。幸いにも途中で邪魔者に遭遇することはなかったため、十数分で交差点に到着した。
集まりかけていたスカベンジャーを威嚇しつつ、倒れている探険士に近づく。
「さて、こいつはどこのどいつ――おい、こいつ黒尾だぞ!」
顔を確かめ、工藤は表情を一変させた。倒れていたのはつい三日前に別れ、しばらくは会うこともあるまいと思っていたあの若者だった。
「……じゃあ、まさか、こっちは……内村、開けても平気かどうか確かめろ」
超能力者の後藤に介抱するよう指示した後、顎鬚を撫でながら呟いた。
嫌な予感がした。死体袋の中身が誰だかわかってしまったような気がした。工藤は思わず袋に伸ばしかけた手を引っ込め、内村に中の安全を確認するよう命じた。
超能力で中を調べた内村は、吐き気を堪えるように口元を押さえた。
「……中は死体だけです。開けても平気でしょうが、見ない方がいいですよ」
「なんだよそりゃ。こちとら、死体なんか飽きるくらい見てきてるん――ああ、いや、確かに、こいつは……」
首を傾げながら袋を少し開けたが、中身を垣間見た途端、顔を顰めて袋を閉じた。中には、衣服を剥ぎ取られ、体中を破壊され、苦悶に顔を歪めた岩井の遺体があった。悲しみよりも怒りが込み上げてくる死に様だった。
「黒尾と言い、岩井と言い、化け物にやられたんじゃねえな。クソミュータント共辺りか。黒尾は逃がされたってわけだな。あんな連中、拠点見つけて特科使って挽肉の消し炭にして、普通科突っ込ませて皆殺しにしちまえばいいのによ」
工藤は唾を吐いた。「ラブホテル」解放戦に参加した彼に言わせれば、裏切り者の加納正憲とその手下共はまさしく唾棄すべき輩だ。「影響圏」の奥深くに引き籠もっている狡猾さに至っては反吐が出る。種革軍の殲滅には大規模部隊が必要だが、それをすると探険事業の破綻を招きかねない規模で「影響圏」の環境変化が起こるのは必至であるため、日本政府にそのカードを切ることができない。そのことを加納正憲は承知しているのだ。日本政府には、モノリスレンジャー一個小隊を開口部近郊で定期巡回させる程度のことしかできないと知っているのだ。本格的な反撃を受けないことを知った上で、圏内で暴れ回っているのだ。
もう一度盛大に唾を吐いてから、黒尾を介抱している後藤の様子を窺った。
「黒尾の方はどうだ。助かりそうか」
「さあ、ちょっと保証できませんね。俺は医者じゃないんで断言できませんけど、体の方は、まあ、ちょっとした過労と衰弱ってとこでしょう。若いんだから、栄養摂って寝てりゃあ治ります。でも、心の方がちょっと……精神力が尽きかけてるんですよ。このままじゃ、心に引き摺られて体も死んじまいますね」
「なんとかできねえのか」
「今やってます。ほら、こいつの手、見てくださいよ」
言われて工藤が見てみると、黒尾の手は淡く光る結晶体を握らされていた。脱落防止のため、結晶は包帯で拳に固定されている。
「取り敢えず、精神力結晶を握らせときました。こいつが寝てるせいで吸収効率が悪いんで現状維持が精々でしょうが、まあ、病院に放り込むまで持ちゃあ十分ですから、急げばなんとかなるでしょう」
「そうか。助かるか」
工藤はほっと一息ついた。
死は「影響圏」の日常風景。探険士は死と隣り合わせ。惨たらしい死は「影響圏」に生きる誰の身にも訪れ得る。そして、一度それが訪れると決まったら、人の意思で避け得るものでもない。事実、平均的なモノリスレンジャーをしのぐ力量を持つ岩井は死んだ。工藤自身はもとより、畏敬すべき史上最強のモノリスレンジャー兵頭曹長や、人間のふりをした怪物である鬼鉄や三摩地、閻魔大王から命を買い戻すくらいのことはしそうな井原、死神の代理人のような緒方でさえ、その時が来れば逃れることはできまい。
歳若い友人のその時がまだであるらしいことが、工藤には堪らなく嬉しかった。やはり、知った顔、それも自分よりも年少の者が命を落とすのは、酷く悲しいものだ。一人でも多すぎるくらいなのに、二人目も駄目となったら、悲しみで前が見えなくなってしまう。
飾り気のない白い天井が見えた。
仰向けに寝かされており、体の上には布団が、体の下にはベッドがあった。
周囲に目を向ける。白を基調とした静かな部屋の内装が見えた。他に人の姿はない。個室のようだ。
数日間飲まず食わずで過ごしたような異常な空腹感があるが、気分そのものは不思議なほどに爽やかだった。精神活性化剤がもたらす荒々しい充実感ではなく、瞑想や睡眠がもたらすそれにも似た、穏やかな充足感が心身を活気づけている。
何がどうなっているのか。自分の身に一体何が起こったのか。自分がどこにいるのか。黒尾はまるでわけがわからなかった。
困惑しながら身を起こそうとして腕の違和感に気づいた。見ると、ビニールの細い管のような物がガーゼとテープで腕に留められていた。上の方から伸びてきている管を視線で辿っていくと、淡く発光する無色透明な液体が入った透明な袋に行き当たった。点滴だ。
黒尾はようやく納得がいった。どういうわけかはわからないが、とにかく彼は、誰か親切な探険士によってどこかの病院――御門病院だろうか――に運び込まれ、危ういところで命拾いしたのだ。始終体を襲っていた気が狂いそうな痛みもなくなり、怪我も跡形もなく消え去っている辺り、超能力まで駆使した手厚い治療をして貰えたのだろう。
医療費を考えると頭が痛くなったが、何はともあれ、まずは事情を知りたかった。ナースコールの呼び出しボタンに手を伸ばした。応答した看護婦に事情説明を求めると、担当医がすぐに向かうとの答えが返ってきた。
数分後、病室の扉が叩かれた。黒尾が「どうぞ」と答えると、白衣を着た中年の医師と看護婦が入ってきた。
医師がにこやかに会釈した。
「村井と申します。黒尾さん、ご気分の方はどうですか。倦怠感があるとか、疲れが取れないとか、そういったことは?」
「はあ、まあ、そういうのは特にありませんが……」
「そうですか。ではこちらは外しますね」
村井医師は点滴を外して片付けるよう看護婦に指示した。
黒尾は戸惑いながら二人を見た。
「あの、これ、一体何がどうなってるんですか」
「順を追ってお話ししますから、落ち着いてお聞きください」
村井医師は黒尾がここに運び込まれるまでのことを説明してくれた。
説明によると、黒尾は黒沢交差点で倒れていたところを工藤一行に救助され、この御門病院まで運ばれた。心身の過労で意識を失っていた黒尾に対し、村井医師は精密検査をした上で、身体的負傷の手当てを施し、稀釈した精神活性化液剤を点滴する処置を取った。それから黒尾は四十二時間ほど眠り続けた。つまり、今は二月二十二日の午前十時四分だ。
説明を聞き終えた黒尾は、まず自分の並外れた強運に感激にも似た感謝を覚えた。
だが、気持ちが落ち着いてくると、今度は工藤達への感謝の念が湧き上がった。あの地獄から救い出してくれた人々になんらかの礼をしなければならない。意識不明の人間一人に加えて、きっと大柄な遺体をも運んでくれたに違いない、親切極まりない友人達に。そう心の中で決意した時、黒尾はあることに気づいて声を上げた。
「どうされました」
村井が心配そうな顔をした。
それには構わず、半ば詰問するような調子で問いかける。
「岩井さんは!? 岩井さんはどうなりました。岩井さんですよ、岩井さん。僕と一緒に運ばれてきたはずです。まさか僕だけだったんですか」
「落ち着いてください、黒尾さん! 体に障りますよ!……岩井さんと言われますと、一緒に搬送されてきたご遺体の方ですか」
「そう、その人です!」
「それでしたら、ご遺体は検視後、ご遺族の希望や警察関係の状況もあって、司法解剖には回さずにそのままお返ししました。今頃はご葬儀が行なわれているはずですよ」
「そうですか……」
黒尾は陰鬱な溜息をついた。岩井のことを考えると胸が詰まった。短い付き合いではあったが、これだけは言える。彼はあんな所であんな死に方をしていい男では断じてなかった。
岩井の遺族のことを思うと申し訳なさで胸が一杯になった。彼は三人の育ち盛りの子供のことを、嬉しそうに、誇らしそうに語っていた。家族のことを幸せそうに語っていた。岩井の妻はそういう夫を、岩井の子供達はそういう父親を失ってしまった。そしてその責任の一部は間違いなく黒尾にもあった。
ヴィクトリアマンションに到着してからのことを思い返すと後悔ばかりが浮かんでくる。あの時、自分が変な功名心に駆られてマンションに踏み込む判断をしなければ、岩井は死なずに済んだのではないか。あの時、自分がもう少し迅速かつ的確に反応できていれば、あの化け物達を倒すことは無理としても、逃げ延びることくらいはできたのではないか。あの時、オオアシダカグモの死に方から、加納の第一撃を推測しておくことができたのではないか。そんなことばかり考えてしまう。
暗い思考に没頭し出した黒尾を現実に引き戻すように村井が続ける。
「それから、黒尾さんにいくつか伝言をお預かりしています」
「伝言?」
村井はメモに視線を落とした。
「ええと、モノリス管理局からと、あなたを運んできてくださった工藤さんからと、それからITOの鷹野さんからです。どれからお伝えしましょうか」
「そうですね……そのままの順番でお願いします」
「わかりました。管理局からは、退院出来次第管理局に出頭していただきたいとのことです。詳しくはこちらに書いてあるそうですよ」
村井が一通の封書を差し出した。封筒には「モノリス管理局安全部」と印字されていた。
呼び出しの理由はなんとなく推測がついた。彼を助けてくれた工藤が管理局に報告したのだろう。岩井の常軌を逸した屍と黒尾の不自然な装備の失い方を目にして、あの熟練の探険士が何も怪しまないはずがないのだ。
中の確認は後に回すことにし、黒尾は工藤の伝言を教えてくれるように頼んだ。
「工藤さんと鷹野さんのご用件は一緒なので纏めてお伝えします。お二人とも、意識が戻り次第連絡して欲しいと仰っていました。あ、鷹野さんは会社の方に電話して欲しいとのことです」
「連絡ですか。他には何か」
「いえ、私共が預かった伝言はこれだけです」
「そうですか。ありがとうございました」
「いえいえ。ところで黒尾さん、退院の方はどうされますか。これから念のために検査をしますが、結果に問題なければすぐにでも退院していただけますよ」
表面上は説明を兼ねた問いかけだが、その顔は「健康な奴は早く出ていけ」と言っていた。
黒尾としても、体に問題がないようなら退院は早ければ早いほどよかった。
だが一つだけ不安なことがある。
「そうしたいのは山々なんですが……免許も財布も取られてしまったので、丁度持ち合わせがなくてですね――あっ、お金自体はちゃんとあるんです! 部屋に戻れば現金もありますし、運転免許もあるので、探険士免許証やULSICaの再発行もすぐ済みます。なので、その……家族に頼むのが一番いいんでしょうが、それだとちょっと時間がかかってしまうので……」
「大丈夫ですよ。そういった場合は後払い手続をしていただけますので」
「身分証明になる物が何一つないんですが、それでも大丈夫ですか」
「今回のような場合は、身分証明書をお持ちでないだけで黒尾さんであること自体はこちらとしても承知していますから、お名前とご住所を控えさせていただければ問題ありませんよ。それに、あなたを連れてきてくださった工藤さんが、もしあなたが支払えないようなら自分が立て替えると言っておられましたから、信用も、まあ、問題ないでしょう」
「工藤さんが……」
脳裡に工藤の髭面が浮かんだ。工藤の性格からすれば有り得ないことではなかったが、実際にその心遣いに触れてみると、その温かみと重みに胸が震える思いだった。
「ああ、でも、用紙には拇印をお願いすることになりますのでよろしくお願いします。まあ、詳しいことは会計窓口でお聞きください」
村井医師はにこやかに締め括った。
黒尾が退院を果たしたのは正午近くになってからのことだった。検査そのものは二十分もかからず終わり、手続自体も村井医師の言う通りつつがなく終わったのだが、手続までの待ち時間が意外と長かった。立地条件のせいで患者が多すぎるのだ。
御門病院は探険士及び自衛隊御用達の病院であるため、戦闘服姿の傷病者でいつも賑わい、野戦病院の様相を呈している。黒尾は戦闘服だらけの人混みの間を縫うように通り抜けて敷地を出た。
探険士免許証を失くした探険士は社会的に息をしていないに等しい。運転免許証を回収して探険士免許証の再発行手続をしないことには何も始まらない。それに、連絡すべき相手が方々にいる。
黒尾はまず御門宿泊所に戻ることにした。現金もULSICaもないので移動手段は徒歩だ。病院と宿泊所は三キロほど離れているが、病み上がりとは言っても、彼も歩くのが商売の探険士であることに変わりはない。この程度で音を上げたりはしない。むしろ良いリハビリだ。
四十分ほど歩くと、御門宿泊所が見えてきた。ここを出てから三日程度しか経っていないのに、黒尾は数十年ぶりにこの建物を見たような気分になった。
宿泊所の門を通り抜け、そのまま足早に宿泊先へと向かった。
部屋の前に到着した黒尾は、扉に伸ばそうとした手を途中で引っ込め、何とはなしに、隣室に視線を転じた。その先には岩井が泊まっていた部屋がある。
部屋は既に空室になっていた。岩井の死亡を知ったITOが手続したのだろう。手早い対応だった。こうして死者は少しずつこの世から姿を消していくのだな、と黒尾は物寂しい気分になった。
何度か首を振って感傷を振り払い、視線を自分の部屋に戻した。ポケットに手を突っ込んで鍵を探す。何もなかった。鍵を失くすと鍵交換の費用込みの罰金を取られてしまう。若干の焦りと共にポケットを探ったが、鍵どころか飴玉一つ出てこなかった。
苛立ちと不快感に顔を顰めたところでようやく思い出した。鍵はあの忌々しい加納に奪われたのだ。
その瞬間、これが引き金となって、猛烈な喪失感が込み上げてきた。鍵だけではなかった。財布も、探険士免許証も、ULSICaも、長年愛用してきたいくつもの装備――その内のいくつかは資格取得前に買った愛着のある物だ――も、会ったばかりとはいえ仲間も、何もかも失ってしまった。酷く寂しく、酷く悲しく、酷くつらく、酷く不愉快な気分、壁を殴りつけ、床を転げ回り、意味もなく喚き散らしたくなるような気分になった。
まさにそれが眼前で行なわれたその時は、恐怖と焦燥でそれどころではなかった。あの場所から放り出されてからも、生き抜くことに必死でそれどころではなかった。
しかし、こうして日常の中に戻り、思いを巡らす余裕を取り戻したことで、自分がされたこと、自分が置かれた状況を受け止め、分析し、理解し、反応することができるようになった。
吐き気がするほどの不快感に襲われ、超能力抵抗塗料で塗装された壁に戻しそうになった。壁に手をつき、腰を折り曲げ、食道と胃が引っ繰り返るような感覚を味わって身を震わせた。
だが喉を駆け上がってくる物はなかった。胃の中に吐けるような物など何も入っていないのだから当然だ。
黒尾は壁に縋りつくように蹲った。人が通りがかってぎょっとしながら声をかけてきても、そのたび、「大丈夫です、気にしないで」と荒い息遣いで答え、しばらくその場にいた。
やがて落ち着きを取り戻し、合鍵を借りるべく管理人室に向かおうとして、重要なことに気づいた。彼は持ち込んだ物の大半を奪われた。ゆえに彼は今、身分証明になる物を何も持っていない。
身分証明なしでは鍵を貸して貰えない。だがすぐに用意できそうな身分証明に使える物は部屋の中にある。手詰まりだ。箱の鍵が箱の中にある。
彼はどうしたものかと扉の前で頭を捻った挙句、スマートな解決を諦め、少々強引な手段に訴えることにした。まともな手段が思いつかない以上、まともでない手段を使う以外になかった。
準備運動代わりに意識を集中してみた。すっかり回復したようで調子は上々だった。これならばなんとかなる。
そのまま目に意識を集中して扉の向こう側の「透視」を試みた。超能力抵抗塗料が使われているのでかなり梃子摺ったが、全身全霊を籠めて精神を集中する内、おぼろげながらもなんとか「透視」に成功した。透かした扉の向こう側の状況を確認した。誰もいないし何もない。「瞬間移動」には理想的だった。
小さく頷き、「透視」を解除した。超能力抵抗塗料で守られた建物の中に「瞬間移動」するのなら、他の超能力に精神力を割く余裕はなかった。
空間座標上の現在位置と移動先を強く想起し、「瞬間移動」を試みた。自分の体がこの世のどこにも存在しなくなる一瞬、自分が果たして実体を持つ存在であるのか否かが曖昧になる一瞬、感覚的には一時間にも一年にも感じられる「瞬間移動」特有のあの一瞬を経て、視界の中の風景が金属扉から薄暗い廊下へと一変した。黒尾の肉体と精神は超能力抵抗材の壁を突破し、扉の向こう側、元の空間座標からおよそ一メートルほど離れた所に「移動」した。
瞬間移動酔いの眩暈を覚え、黒尾は思わず膝を突いた。これだから「瞬間移動」は嫌いだった。やはり肉体を持つ存在は、怠け心を出して空間を飛び越えるような真似をすべきではないし、そういうことをするようには出来ていない。人間は、無理をせず、横着もせず、空間上を地道に一歩一歩、連続的に移動すべきなのだ。
内心で「瞬間移動」への嫌悪感を表明しつつ、目標へと向かっていった。よろめきながら荷物へと近づき、覚束無い手で荷物を引っ掻き回して運転免許証と財布を探した。
首尾良く免許証と現金を確保した黒尾は、鍵の確保と罰金の納付のため、そのまま管理人室に向かった。モノリス管理局から天下ってきた管理人は、ねちねちと嫌味を言いながらも、手続そのものは手早く済ませてくれた。鍵をどこかにやってしまう馬鹿はそれほど珍しくないのだろう。
部屋に戻った後、最初にしたいことは他にあったのだが、まずしなければならないのは、モノリス管理局が寄越した封筒の中身の確認だった。こんな物は後回しにして忘れた頃にでも開封したいところだったが、流石に掛け値なしで緊急の内容だと後で自分が困ることになるので、不本意ながらも最優先とせざるを得なかった。
中身は出頭要請書だった。退院し次第管理局に連絡し、担当者の指示に従って指定の窓口に出頭せよという内容だった。
黒尾は予備の携帯電話を取り出した。しかし、電話をかける相手は管理局ではなく、伝言をくれた人々だ。文面から察する限りでは、管理局の用件は何を措いてでも駆けつけなければならないほどのものではなさそうなので、後回しにすることにした。病院の方から連絡が行っているかもしれないから、後でこのことを理由に嫌味ったらしい注意を受ける可能性があるが、そんなことは取るに足らない。
まず連絡するのは命の恩人である工藤だ。助けてくれたことへの礼を早く言いたいし、訊いておきたいこともあった。
まだ「外」にいればいいが、と黒尾は若干の不安を覚えながら、工藤がプライベートで使っている携帯電話を呼び出した。
呼び出し音が二コール目に入った辺りで繋がった。
「おう、黒尾か。目ェ覚ましたんだな」
「はい、お陰様で。その節は本当にお世話になりまして……本当にありがとうございました」
「お互い様さ。気にすんな。次はお前が助けてくれりゃあいいよ。それでチャラだ」
「勿論ですよ。まあ、それだと、恩返しの機会が来ない方がいいんですが」
黒尾が苦笑すると、工藤も「違いねえ」と笑い、「体の方はどうだ」と話題を替えてきた。
「ちょっと寝たら治りましたよ」
「そうか。若いってのはいいな。無茶が利くから。俺なんかはもう歳でよ、傷の治りが遅いのなんのって」
笑い混じりに相槌を打つ工藤に、黒尾は内心で少し躊躇いつつも、「ところで」ともう一つの用件を切り出した。
「工藤さん達、あの後、中央区まで行ったんですよね。それなのに僕らとかち合うなんて……何かあったんですか」
「まあな」上機嫌な様子だった工藤は、途端に不機嫌そうな声になった。「中央区までは順調だったんだが、ちょっと種革のクソ共に出くわしちまってな。ひいひい言いながら逃げてきた。ありゃあ少なく見積もっても増強中隊級の戦力だったな」
「工藤さん達もあいつらにやられたんですか!」
「『も』……ってことは、そうか、やっぱりお前らもあのカス共にやられたんだな……おお、そうだ、それで思い出した。あの後、管理局に顔出したんだけどな、そこで報告ついでにお前らのこと話しちまったんだよ。もしかしたらお前らもクソ共にやられたのかもしれねえって。もし呼び出しとか行ってるようなら俺のせいだ。すまん」
「いえ、そんな……種革軍の報告はほとんど義務みたいなものですし……それに、助けて貰っといてそんな文句つけるような罰当たりな真似できませんよ」
「そう言ってくれてありがとうよ。で、無神経なこと訊いちまうけどよ、お前らをやった奴ってどんな奴なんだ。いや、言いたくなけりゃいいんだ、別に。ただ、気になったもんだからよ」
「それは……」
黒尾は口籠もった。彼にとってその記憶は、忌々しく、それと同時に痛々しくもあるものだ。振り返るだけでどこか深いところが痛む。できればしばらくの間は触れないでおきたかった。
しかし、彼は管理局に呼び出されている。顔を出せば、十中八九、忌まわしい記憶を根掘り葉掘り穿り返される破目になる。どうせ後で掘り返すことになるのならば、今の段階で予行演習を済ませておくのも悪くない、と彼は考えた。それに、これはささやかな恩返しにもなる。意を決し、言葉を継ぐ。
「……僕らを襲ったのは加納正憲です」
「おいおい、ちょっと待てよ、本当かそりゃ」
「……本当です」と答え、ヴィクトリアマンションで加納正憲とその親衛隊に遭遇してからのことを掻い摘んで話した。
工藤は途中で口を挟むことなく、ただ「うん、うん」と相槌を打ちながら、辛抱強く話を聞いてくれた。
「そうか……頑張ったな」
工藤が口を開いたのは、黒尾の話が終わってからのことだった。彼の濁声からは心の底からの労わりが伝わってきた。加納は「憐れみは蔑みだ」と言ったが、それは大きな間違いだと黒尾は思った。「蔑み」としか感じられない「憐れみ」は要するに「蔑み」であって、決して「憐れみ」ではない。加納はそのことに気づけなかったのだ。黒尾はほんの僅かだけ、加納に「憐れみ」を感じた。
「それにしても」と工藤がやや深刻な感じの声音で続けた。「加納の野郎が直々に、か。俺らが出くわした奴らと言い、こいつはどうもキナ臭ェな。事によると、あいつら、本気で何かの作戦準備中かもしれん……まあ、そうだったとしたって、俺らには大したことはできんがな。精々、お役所に『何かやばそうだから気ィつけろ』って言ってやるくらいが関の山――あ、悪い、ちょっと待っててくれ」
電話の向こうで誰かの声がしたかと思うと、工藤の声が遠ざかった。向こうで誰かに話しかけられでもしたのだろう。
「悪い悪い」少しして工藤が電話に復帰した。「馬鹿息子と出かけることに――だから、すぐ行くって言ってるだろう! あー、そういうわけだから、また今度な」
「はい、またいずれ」
黒尾は通話を切り、続いてITOの新規採用係の窓口を呼び出した。
「株式会社ITO新規採用係です。お電話ありがとうございます」
一コール目で繋がった。
「採用試験受験者の黒尾司郎です。鷹野さんという方から、そちらに電話を差し上げるようにと指示をいただいたのですが」
「承っております。ただ今鷹野に代わりますので少々お待ちくださいませ」
しばらく保留音が流れた後、別人の声が聞こえてきた。
「お待たせして申し訳ありません。副社長の鷹野です」
「はい、黒尾で――えっ、副社長!?」
予想外の展開に思わず声が高まった。ITOが黒尾に事情説明を求めるのは当たり前だ。だから、社に連絡しろと言うのは納得がいく。だが、なぜそこで副社長などという雲の上の住人が出てくるのか。
「はい。副社長の鷹野です。今回は弊社採用試験へのご応募ありがとうございました」
言葉遣いが丁寧なのは、まだ黒尾が「部外者」だからだろう。しかし黒尾は、雲の上の住人の丁寧な言葉遣いに畏縮するばかりだった。
「いえ、その、こちらこそ試験を受けさせていただきまして……お忙しい中、申し訳ありません。早速ですが、私に何か御用でしょうか」
先程の醜態は下手に取り繕うだけ無駄なので、全てをなかったことにして話を進めようと試みた。
鷹野はそれに乗ってくれた。
「そうですね、いくつかありますが……まずは弊社の岩井の件から始めるべきでしょうね」
一体何を言われるのだろうか。黒尾は緊張に震える声で「はい」と答えた。
「後日、社長の伊藤からきちんとした形で述べさせていただく所存ではありますが、まずはこの場で一言、岩井を連れ帰ってくださったことに、社員一同を代表してお礼を申し上げます。よくぞ彼を連れ帰ってくださいました」
「は、はあ……あ、いえ、探険士として当然のことをしたまでですので……それに、工藤さん――私達を『圏外』まで運んでくれた方です――が通りがからなければ、そのまま行方不明になっていたでしょうし……」
予想外の言葉だった。有能な社員を死なせたことについて叱責なり嫌味なりが飛んでくることも覚悟していただけに、その慇懃な労いの言葉には困惑せずにいられなかった。
「それでも弊社は黒尾さんに感謝致します。黒尾さんが岩井を連れ帰る決断をなさらなければ、そもそも岩井が工藤氏に救われることはなかったのですから。それは紛れもなく黒尾さんの功績です」
言われてはっとした。黒尾が岩井を連れ帰る決心をしたからこそ、岩井は黒尾共々工藤に拾われた。これは逆に考えれば、岩井を連れて行動速度が鈍っていたからこそ、あの時あそこで黒尾は上手い具合に工藤達に発見されたのだと言える。岩井を助けたことが、結果的に黒尾自身をも救ったのだ。岩井は死んでもなお、黒尾を助けてくれた。このことに思い至り、黒尾は目元がかっと熱くなるのを感じた。
だが、連想が工藤達に及び、彼らのことを考え出したところで、その熱はすっと冷めていった。工藤達が黒尾達を拾えたのは、彼らが種革軍の戦闘部隊に遭遇してしまったことが原因だ。ならばそれは、間接的には部隊を動かした、あの忌々しい加納正憲のおかげとも言える。
岩井を殺して黒尾から身包みを剥いだのが加納ならば、工藤を撤退させて結果的に黒尾を救わせたのも加納。苦しめられた原因も救われた原因も加納。加納。加納。加納。結局、自分は加納正憲という大きな流れに翻弄される虫けらに過ぎなかったのか、と心の中に冷たくどす黒い怒りが込み上げてきた。
「……さん……黒尾さん。もしもし」
「えっ、あっ、なんでしょうか!? すみません、ぼうっとしていまして……」
呼びかけられ、怒りをひとまず忘れた。残ったのは鷹野を無視してしまっていたらしいことへの焦りだった。
「いえ、お気持ちはお察しします。岩井のことを考えていらっしゃったんでしょう。昨日今日の出来事ですから、気持ちの整理がつかなくて当然です。私が無神経でした」
「いえ、そんな……」
鷹野は都合の良い方に誤解してくれたらしいが、事実を知っている身からすれば、居心地の悪いことこの上なかった。「ちゃんと話を聞け」と怒鳴られる方がまだましだった。
「さて、次の用件ですが、試験の件です。今後の流れについてご説明します」
鷹野はそんな黒尾の気持ちに気づく様子もなく、何事もなかったように次の話題に移った。
「……試験ですか」
黒尾の全身に嫌な汗が噴き出した。居心地の悪さも一気に吹き飛んだ。今はただ、心臓を握り潰されつつあるような緊張があるだけだった。あんなことがあったのだ。好成績など期待できるわけがない。副社長直々に引導を渡す気かもしれない。「今後の流れ」というところに一抹の希望を見出せないこともないが、過分な期待は禁物だ。
黒尾がどれほどの緊張に苛まれているかも知らない様子で鷹野が話を進める。
「本来の流れでは、月末までに報告書を提出していただき、それと試験官の報告を基に選考を行なうことになっていますが、今回は状況が状況なので省略させていただきます」
形ばかりの選考すらせず、この場で不採用を告げるつもりらしかった。互いに余計な時間を使わずに済む分合理的で、ある意味慈悲深くもあるが、それは首切り役人の冷酷な優しさだ。
「もし今も黒尾さんが弊社を志望してくださっているのであればの話ですが、黒尾さんには報告書を書き上げ次第、それを弊社に持参の上で報告書の大まかなチェックと簡単な面接を受けていただき、特に問題がなければそのまま採用とさせていただきます」
「副社長、あの、それは一体……」
さっぱりわけがわからなかった。自分は今、引導を渡されようとしていたのではなかったのか。
「所謂内々定が出たと解釈していただいて問題ありません。もし並行して他社を志望しておられるようでしたら、辞退の準備を進めていただいて結構です」
「……ですが、私は課題を達成できませんでした。それに……岩井さんのことも……いえ、そもそも、報告書のチェックなんて、そんなにも早くできるものなのですか。その、失礼を承知でお伺いしますが……御社に限ってそういったことはないものと信じておりますが、どうしても気になってしまったので……それは温情措置というものでしょうか」
これを言ってしまっていいものかと最後まで躊躇いながらも、結局、黒尾は言わずにいられなかった。確かに、ITOに就職できれば嬉しい。しかし、彼にも一個の人間としての意地や矜持というものがあった。実力を評価されて採用されるのであればいいが、お情けで採用していただくのでは納得がいかなかった。それこそまさにあの加納正憲が忌々しげに否定した「憐れみ」そのものであり、それを甘受した瞬間、彼は尊厳を失って惨めな存在に成り下がってしまう。
「そういったことは一切ございません。誤解を招いてしまったようでしたらお詫びします。弊社は黒尾さんの能力を弊社に所属していただくのに十分なものであると評価しております」
「それは大変ありがたいお話なのですが……差し支えなければ、私のどこを評価していただけたのかを……評価の根拠を教えていただけませんでしょうか」
「岩井が宿泊所に遺したメモと、黒尾さんが岩井を見捨てなかったこと。この二つが評価の根拠です。メモを見た限りでは、岩井は黒尾さんを高く評価していました。探険士風に表現すれば『あいつと組みたい』というところでしょう。そして黒尾さんは岩井を連れ帰ろうとし、現に連れ帰ったことで、その評価の正しさを証明しました。仲間への誠実さは探険士第一の美徳ですし、途中までとは言え、あの地獄の中、たった一人で遺体を運ぶというのはなかなかできることではありません。付け加えて申し上げれば、私個人としても、命懸けの仕事を共にするのであれば黒尾さんのような方がよいと考えます。いえ、私だけではありません。弊社の社員の多くが、黒尾さんのことを高く評価しております。黒尾さんが成し遂げたことはそれだけの意味を持っているのです」
一応、理屈は通っているように思えた。少なくとも、これが真実であれ虚偽であれ、黒尾が「納得」するのに不足はない。ここまで言われたのなら、心の中の折り合いもつく。
「……鷹野副社長」
「なんでしょう」
「お話、謹んでお受けします」
「そうですか、それはよかった!」と嬉しそうに応じてから、鷹野は真面目な声で続ける。「これで黒尾さんのご意向の確認は済みましたが、最後に、一つだけ確認させていただきたいことがあります。よろしいでしょうか」
「……なんでしょうか」
「弊社の探険業務はあくまでも業務、営利行為であり、利潤追求を第一とするものです。それ以上のものでもそれ以外のものでもありません。その点をご了承いただけますか」
「それはどういった意味でしょうか」
「そのままの意味です。探険士を目指す方の大半は一般に、富よりも、たとえば冒険や名誉などを求める傾向にあると言います。勿論、私もそうでしたし、今も本当はそうです。しかし、現実は我々が認識するよりも常に厳しいものですから、ほとんどの場合、そうした夢は、叶えることどころか追いかけることさえも許されません。たとえば黒尾さんがお会いした三摩地氏や鬼鉄氏や工藤氏のように、心の赴くままに『影響圏』を駆け巡ることができるのは、今やごく一部の例外です。最早自由な冒険の時代は幕を閉じつつあり、今は退屈な商業の時代が幕を開けつつあります。黒尾さんはそれに耐えられますか」
「それは……」
「もし耐えられそうもなければ、入社を考え直されるべきでしょう。もしかすると、探険士を続けるか否か、それ自体を検討なさるべきかもしれません。業界は確実に利潤優先の方向へと進み出しています。夢や浪漫は捨て去られつつあります。この流れに従えない者はごく一部の例外を除き、遅かれ早かれ業界を去ることになります。もし将来的にそうなることが避けられないと感じられたのであれば、早々に、つまり若い内、再起が容易な内に別の道を選ぶ方がご自身のためになるかと思います。私などと違って、黒尾さんくらいの年齢であれば、まだ方向転換の余地がありますし、培った技術や経験は他の職業でもきっと無駄にはなりません」
業界を何十年も渡り歩いてきた先達の冷徹な言葉は黒尾の心を強烈に殴りつけた。脳裡に、六年近く前に聞いた三摩地の言葉が蘇った。彼は鷹野と同じようなことを言っていた。
彼らが語ったことは黒尾も重々承知していた。それだからこそ、未来のない個人探険士に見切りをつける決意を固め、企業探険士の道へ進もうとこうして足掻いているのだ。
それなのに、その決意は、鷹野から投げかけられた問いかけであっさりと揺らぎ始めていた。現実に手が届くとなった途端、尻込みし始めていた。
あれは所詮その程度の決意だったのか。黒尾は自問した。そんな安い決意で武智を裏切ったのか。武智との自由な探険業への未練がまだ残っているのか。散々悩み抜いた上での決断だというのに、まだ自分は悩み足りないのか。
そんなことはないはずだ、と黒尾は迷いを振り払おうとした。決意はしっかり固めたし、悩むのももう十分すぎる。何より、ここで退いては、裏切ってしまった武智と死なせてしまった岩井に申し訳が立たない。
「問題ありません。耐えられます」
諸々の思いを呑み込み或いは振り切るように、きっぱりと答えた。
「然様ですか……まあ、人の心は良くも悪くも移ろうものです。今日思っていることを明日も思うとは限りませんし、今日思ってもみないことを明日思うことにならないとも限りません。仕事さえ真面目にこなしていただけるのであれば、入社後もじっくり考えてくださって構いませんし、その上で改めて結論を出していただいて構いません。弊社の方針の一つに『来る者は選び、去る者は追わず』というものがあります。何度来ていただいても結構ですし、何度去っていただいても結構です。黒尾さんに然るべき実力がある限り、弊社は黒尾さんを歓迎します」
黒尾は強引に捻じ伏せた葛藤を見透かされたような気分になった。否、実際、鷹野は全てお見通しなのに違いなかった。だからこそこんなことを言うのだ。
「ともあれ、株式会社アイティーオーは黒尾司郎探険士を歓迎致します。なるべく早い内に面接にお越しください。それでは、予定が詰まっておりますので、もし黒尾さんの方から何もないようでしたら、そろそろ失礼させていただきたいのですが……」
「いえ、私からは何も……貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、つまらない長話に付き合ってくださってありがとうございました。それでは」
通話が切れた。
電話を耳に当てたまま、黒尾は深い溜息を漏らした。
本当にこれで良かったのだろうか。
良かったに決まっている。
これから良くするのだ。




