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第四章 種の革命軍

 川端で工藤達と別れてから約三十分後。

 黒尾は周囲を警戒しながら、心の中で、せめてもう一人でも同行者――できれば超能力者――がいればよかったのに、と嘆いた。超能力的警戒を一人で担当するのと二人以上で分担するのとでは、或いは警戒を二人で行うのと三人以上で行うのとでは、それによって圧しかかってくる負担に天と地ほどの差がある。埋めがたい差、越えがたい壁がある。

 まだたった三十分しか経っていないのに、まだ一時間も経っていないのに、既に黒尾の精神は少しずつ悲鳴を上げ始めていた。予想していたよりも消耗が激しかった。二人で「影響圏」の内側を歩く難しさを甘く見ていたつもりはないが、結果的にはそうなってしまった。つらさは予想以上のものだった。

 精神が物凄い勢いで磨り減っていくのがわかった。全身に倦怠感が纏わりついて心は沈み、思考力を始めとする知的能力が自覚できるほどに鈍り始めていた。もっとも、自覚できている今はまだいい。本当に恐ろしいのは自覚すらできなくなった時だ。その時こそが超能力者が力尽きる時であり、それは彼が泥酔した会社員以下の存在に成り下がることを意味する。

 精神力結晶や精神活性化剤などの回復剤はこれを見越して多めに持ってきたが、この分では、メダルの探索を終えて帰還する頃にはすっかり使い切ってしまうだろう。

 やはりこの魔界は二人組でうろつくべき場所ではない。今更ながらに、二人での探険を課した冷酷なITOへの怒りが湧いた。

 更にしばらく進み、そろそろ回復剤の世話になるべきか否かを黒尾が思案し出した時のことだった。

 銃声が聞こえた。小銃と拳銃の音だ。一発や二発ではない。それに超能力によると思しき破壊音も聞こえる。人間とそれ以外の何かが争っているのだ。

 黒尾もいっぱしの探険士だ。突然の異変への対応方法は心身に習性と言えるレベルで刻み込まれている。そしてそれは、消耗のせいで頭脳が鈍っていようと、意識があって体が動く限り問題なく機能する。

 音が聞こえた次の瞬間には、彼はもう状況の分析を始めていた。方向は三時から五時の間だろう。決して近くはないが、然程遠くもない。音の聞こえ方からして百メートルは離れていないはずだ。急げば数分程度で辿り着ける。こちらからあちらへも、あちらからこちらへも。戦闘など「影響圏」では茶飯事だが、これは少々距離が近すぎる。

 数秒もしない内に基本的な分析を済ませた彼は、同じく咄嗟の分析を済ませたと思われる岩井に促されるよりも先に鋭く告げた。

「確認します。しばらく警戒お願いします」

 了解の答えを確認すると同時に、黒尾は目を閉じ、音源の調査を始めた。

 周囲に薄く広く張り巡らせていた蜘蛛の巣のような超能力的警戒網を縮小し、それによって得た余力を音源の方角へと集中投入した。オオアシダカグモを探った時と同じ要領で、音源の方角に向かって感覚を投射していく。

 戦場と思しき場所が見えてきた。人の姿がある。相手方の探知網に引っかからないよう気をつけつつ、慎重に様子を探る。

 片方は一目で探険士とわかる集団だ。男と女が二人ずつという構成だが、既に男達は地に倒れ伏し、女達は絶望の面持ちで相手集団に捕らえられている。その運命は風前の灯だ。

 もう一方はヒトという種の形態を逸脱するほどに変異が進んだ甲種変異者の集団だ。銃器の類は持たず、みすぼらしいボロ切れを衣服のように体に纏わりつかせ、腕に相当する部分に黒い布切れを巻きつけている。

 種革兵だ。司令官である加納正憲の親衛隊や戦闘部隊ならば探険士並みの武装をしているはずだから、この連中は見習いか入隊希望者だろう。数は見えるだけで九人――内二人は倒れ伏しており、どうやら死んでいるようだ――ほどで、女探険士を縛り上げようとしている。人員と装備に飢えている種革軍しゅかくぐんに女と装備を献上することで入隊や昇格を果たすつもりなのだろう。

 黒尾は岩井にどう報告すべきか迷わずにいられなかった。

 種革兵がいると伝えたら、岩井は確実に攻撃の意向を示すだろう。自分達を新人類に位置付け、「旧人類の駆逐と支配」による「種の革命」を唱えて暴虐の限りを尽くす種革軍は、全ての人類――彼らの言うところの「旧人類」――の不倶戴天の敵だ。

 既に二名が殺害乃至暴行され、今まさに二名が拉致されようとしていることを伝えたら、やはり岩井は報復と救出の意向を示すだろう。探険士には相互扶助の義務がある。下手に手を出せば共倒れになりかねないという状況であれば話は別だが、そうでないなら、困っている同業者がいたら助けなければならない。

 人道と職業倫理に従うのであれば包み隠さず岩井に報告して助けに向かうべきだ。

 しかし今は課題の途中だ。予定外のことに時間と労力を費やすのは避けたい。それに、仮に課題がなかったとしても、人質を連れた七名の種革兵にたった二人で挑む気にはなかなかなれない。不意を打てば多分勝てるだろうが、勝った後が厄介だ。

 岩井に伝えるべきか握り潰すべきか。倫理を取るか実利を取るか。この葛藤は揺れ動く状況の後押しにより、あっさりと決着を見ることとなった。

 倒れた男達から手際良く装備を毟り取った変異者達は、女二人を縛り上げて担ぎ上げ、北に向かい始めた。互いがこのまま進めば、彼我の進路は遠からず交差することになる。

 これで握り潰してしまうわけにはいかなくなった。このまま行けば確実にぶつかる。事情を話して逃げるか迎え撃つかを決めなければならない。

「岩井さん、さっきのは種革兵でした。探険グループが襲われてたんです」

 どこで何がどのように起こっていたか。そこに誰がいて何をしていたか。黒尾は自分が見た光景を包み隠さずに語った。迫りくる脅威の情報を隠すことに意味はない。

 聞き終えた岩井は難しげな顔つきになった。

「君はきっと逃げるかやり過ごすかしたいんだろうが……」

 岩井の言わんとするところを察し、黒尾は顔を僅かに顰めた。

「まさか、戦うつもりですか」

「そのまさかだ。あいつら、女を攫ったんだろう。あの連中に連れていかれた女が何をされるか、君も知ってるだろう」

 黒尾は沈黙した。種革兵がなんのために女を拉致するかは、「影響圏」に関わる者なら誰もが知っている。繁殖のためだ。彼らは拉致した女を「ラブホテル」と呼ばれる施設に監禁し、優秀な兵士達に「妻」として与え、「影響圏」育ちの新世代種革兵を産ませ続ける。

 黒尾は、種革軍に関する資料に目を通す中で知った、モノリス管理支援群の派遣部隊と探険士の有志によって殲滅・解放された「ラブホテル」の惨状を思い出した。現地入りした探険士の中には精神を病んで引退を余儀なくされた者もいたというのも頷ける。人間のやることではない、と黒尾は思っている。彼は種革兵を「人間」と認める気などない。

「ほっとくわけにはいかない。助けに行くぞ。言い争ってる時間はない。試験官の指示に従って貰うぞ……安心してくれ。うまくいったら評価を上げてやるし、駄目でも減点はしないから」

 黒尾を安心させるように笑い、岩井は救出作戦の手順を説明した。


 黒尾は崩れかけたビルの玄関部分に身を潜め、インカムのスイッチを入れた状態で、荒廃した道路を「千里眼」で注意深く監視した。種革兵が所定の地点を通過次第、岩井に連絡して前後から奇襲攻撃を加える手筈だ。

 岩井が短時間で練り上げて提案した作戦は、熟練の探険士らしく、極めて単純なものだった。

 まず、待ち伏せは二手に分かれて行う。黒尾は種革兵の予想進路上に潜んで道路上を監視し、岩井は側面に潜んで黒尾の合図と共に道路上に出て背後から奇襲を加える。

 岩井による奇襲が成功したら、混乱している――うまくすれば敵全員が岩井に注意を集中してくれるかもしれない――ところに黒尾が追い撃ちをかけ、拉致された女達を奪回する。

 その後はひたすら攻撃あるのみ、種革兵を殲滅する。

 しばらく待つと、飛ばした視界の中に種革兵の姿が見えた。軟体動物めいた変異者と腕が何本もある阿修羅のような変異者が絶望と恐怖に震える女達を担いで捕まえており、他の変異者達が護衛するように周囲を囲んでいる。彼らは周囲からの襲撃と女達の逃亡を警戒しながら進んでいる。種革兵の死体はない。どうやら仲間の死体は捨ててきたらしい。

 種革兵が所定の地点を通り過ぎた。

 それを確認した瞬間、黒尾は無線機を通じて岩井に呼びかけた。岩井からは了解の答えが返ってきた。

「千里眼」の俯瞰視界の中で戦闘が始まった。戦場は黒尾から二十メートル近く離れている。

 物陰から身を乗り出した岩井が種革兵達に向かって八九式を連射した。放たれた弾丸は、後方の警戒を担当していたと思しき、昆虫と人間が融合したような外見の種革兵に命中した。音速の二倍以上の速度で撃ち出された五・五六ミリ弾は虫の甲殻のように変異した皮膚を易々と貫き、非人間的な体を打ち倒した。虫人間はまだ動いているが、戦闘能力の大部分を喪失したことは間違いない。差し当たり無力化完了だ。

 一人を無力化しても岩井の射撃は止まらない。虫人間の体が罅割れた舗装路に投げ出された頃には、彼はもう次の目標に攻撃を始めていた。

 次の標的は先程探険士達から奪い取ったと思われる銃器を装備した連中だった。

 まともな戦闘訓練を受けたことがないのか、種革兵達はこういう場合の基本を一切守っていなかった。遮蔽の確保を行なう素振りはおろか、伏せる素振りさえ見せず、立ったままその場で武器を構え始めている。

 戦闘に熟達した者にとって彼らは良い的でしかなかった。襲撃に反応して反撃を試みた者から順に、岩井の冷徹な銃撃を受けて倒されていく。

 変異者達の多くは環境に適応した強靭な肉体を持っており、一般に、その強靭さは変異が激化するほどに高まっていく。「影響圏」で暮らす甲種変異者ともなれば凶悪な殺傷力を持つ小銃弾にも耐え得るから、急所にでも当てない限り、一発や二発程度で沈黙させることはできない。取り敢えず行動を封じるくらいが関の山だ。彼らを本格的に無力化するのであれば、急所を狙い撃ちするか、動かなくなるまでしつこく弾丸を撃ち込み続ける必要がある。

 しかし、戦闘が一瞬一瞬の積み重ねによって進行していくものである以上、この場合はそこまでする必要はない。少しの間動きを封じるだけでも決定的な優勢を勝ち取ることができる。とどめはそれからでいい。

 岩井の的確な射撃が一人、また一人と種革兵を行動不能に追い込んでいく。それほどじっくり狙っているような感じでもないのに一発も外さない。流石の腕前だ。

 流れは岩井に向いていた。決定的なタイミングで二段階目の不意打ちを仕掛けるべく「千里眼」で戦況を見守る黒尾の脳裡に、このまま勝負がついてしまうのではないか、と楽観的な考えが浮かんだ。

 だが、やはり戦いはそれほど甘いものではなかった。三人が無力化された頃には流石に種革兵も反撃を開始していた。

 岩井の射撃に見逃されていた二人は、略奪品を放り出し、連携して岩井への攻撃を始めた。粘液に塗れた蛞蝓のような肌をした変異者が、岩井が潜む瓦礫に向かって短機関銃を連射して岩井の動きを制圧している。ねじくれた角や鋭い爪を具えたもう一人は、その状況を利用して、岩井が隠れている物陰へと突進した。格闘戦でけりをつけるつもりのようだ。初歩的だが効果的な連携だ。

 残りの二人も高みの見物を決め込んでいたわけではなかった。抱えていた女達を地面に放り出して戦闘態勢を整えつつある。彼らはすぐにでも岩井を攻撃している二人の援護を始めるだろう。

 奇襲効果は失われ、一対多の不利が代わって表れつつあった。

 そろそろ頃合であることを黒尾は悟った。岩井の動きはほぼ封じられてしまったが、そのおかげで、敵の注意も岩井に向いていた。しかも敵は獲物を手放した。今こそが第二の奇襲を仕掛けるべき瞬間だった。

「千里眼」を解除して、次の超能力発動のために精神を集中しつつ、物陰から顔を出す。幸いにも気づかれた様子はない。種革兵は全員こちらに背を向けている。彼らの意識は岩井に集中しており、地面に転がる女達は勿論、周囲の状況にもまるで注意が向いていないようだ。

 黒尾はまず人質を奪回するため、縛られたまま転がされている女二人に意識を集中する。二人の擬似芋虫に向かって念を凝らし、「念力」の見えざる手を彼女らに伸ばす。こういう時に何をイメージするかは人それぞれだが、彼の場合、こういった形で「念力」を使う時は不可視の手をイメージする。

 二つの物体を同時に持ち上げ、移動させる。言うのは簡単だが実行は至難だ。これは要するに「念力」を多重発動するということだ。右手で丸を書きながら左手で三角を書くようなものだから、気を抜くとそれぞれの「念力」の制御が疎かになり、最悪、暴走した「念力」が小規模な――それでも人間を挽肉にするには十分な――「破壊渦動」を形成しかねない。

 本当ならば彼もこんな危険なことはしたくない。しかしこの状況ではそんな悠長なことは言っていられない。これは奇襲であり、そうである以上、相手が反応する暇もないほど素早く、一息に全てを済ませてしまわなければならない。

 別々に伸ばされた不可視の「手」が女達を捕まえた。慎重に。しかし迅速に。突きつけられた要求を黒尾は申し分なく果たした。

 突然のことに女達が悲鳴を上げたが、悲鳴は銃声に紛れてすぐに消えた。

 幸いにも種革兵達は気づかなかったようだが、彼らの頭が戦闘の興奮に侵されていなかったなら、或いはこの時点で作戦が破綻していたかもしれない。黒尾は冷たい汗が腋の下を流れるのを感じた。早くこの綱渡りを終えてしまいたかった。

 女達をしっかりと捕捉したと確信が持てた瞬間、黒尾は荒っぽく二人を引き寄せた。この段階では隠密性や精確性よりも迅速性だ。

 衣服以外の装備を奪われた女達はとても軽く、「手」は彼女らを軽々と持ち上げた。女達は一本釣りされた鰹のように宙を舞い、黒尾が潜んでいる辺りを飛び越え、種革兵から三十メートル近くも離れた場所に転がった。相応の勢いがついていたし、防具も剥ぎ取られているから、もしかすると骨の何本かは折れたかもしれない。だがそれくらいのことは我慢して貰わなければならない。要は骨と人生のどちらが大切かという話だ。

 女達が無事――戦闘時の基準で――に着地するのを見届け、黒尾は遮蔽物の陰から、こちらに背を向けている種革兵への念動攻撃を開始した。

 散開もせず密集している愚かな二人――女達を捕まえていた軟体動物もどきと阿修羅もどき――に狙いを定めた。二人がいる辺りの空間を中心に、「破壊渦動」を発動させた。多重発動した「念力」が、方向も強弱もばらばらな無秩序な力の嵐を巻き起こす。オオアシダカグモに向かって内村と一緒に発動した時とは違い、今はたった一人での発動だ。あの時よりも効果範囲を絞ってあるとはいえ、消耗は激しい。気力を根こそぎ奪い取るような疲労が襲いかかってくる。

 圧倒的な負担に耐えながら「渦動」を維持し続ける黒尾の視界の中で、軟体動物もどきと阿修羅もどきが、夢に出てきそうなおぞましい悲鳴を上げながら壊れていく。手足がおかしな方向に捻じ曲がったかと思えば、肉が引き裂かれ、押し潰され、引き延ばされる。二人の種革兵は、ほんの十数秒で血腥い粗挽肉に成り果てた。

 胸の悪くなるような光景だった。種革兵を人間と認めたくはないが、その肉体が人間のものであることまでは否定できない。黒尾は人体を自らの超能力で挽肉にしたことを認識せずにいられなかった。

 吐く資格はない。種革兵達を殺したのは彼だ。吐く余裕はない。吐けばその分だけ体力と水分と栄養を失う。彼は込み上げる吐き気を必死に堪え、胸に手を当て、ゆっくりと深呼吸を繰り返した。もう戦いは終わったのだから、これくらいの休息を取っても罰は当たるまい。

 既に戦いは終わっていた。

 岩井と戦っていた二人も既に沈黙して荒れ果てた舗装路に転がっている。仲間の悲鳴と、仲間が惨殺される様に気を取られた隙を突かれ、岩井の八九式の餌食となったのだ。

 眩暈がした。頭がうまく働かない。そろそろ精神が限界を迎えつつある。

 だが悠長に瞑想している時間はない。錠剤型の精神活性化剤が入った容器と水筒をポケットから取り出した。モノリス水から精製された淡い輝きを放つ小さなビー玉のようなコーティング錠剤を手に取り、口に含んで噛み潰した。冷たさが口内に沁み出たかと思うと、頭全体に焼けるような感覚が生じ、全身に力がみなぎり、意識が清水のように澄み渡る爽快感が黒尾司郎という人間の中を駆け巡る。

 黒尾が心地良さに嘆息した時、腰の無線機が電波を受信した。

「こっちは終わった」

 インカムから聞こえてきた声は岩井のものだった。視線を向けると、岩井が物陰から姿を現すのが見えた。

「こっちも終わりです」

「こっちは俺に任せろ。君は二人を看てくれ」

「了解」と黒尾は答え、遮蔽物の陰から抜け出し、助け出した女達の方に歩き出した。

 戦場に背を向けた時、後ろから銃声が聞こえた。

 咄嗟に振り返ると、コルト・ガバメントを地面に向ける岩井の姿が見えた。銃声がもう一発。岩井の銃口が光った。岩井は「捕虜」達を処刑しているのだ。岩井は一人につき数発ずつ撃ち込み、容赦なく仕留めていく。

 圏内での犯罪の立証がほぼ不可能であることを踏まえれば彼らを逮捕して警察に引き渡す意味はないが、だからと言って彼らを見逃せば新たな被害者を生むことにも繋がりかねない。

 圏内での行動に関して探険士等はある程度の免責特権を与えられている。

 そもそも「種革兵は皆殺し」という不文律がある。

 あらゆる事情が岩井の行為を正当化し、後押ししている。

 しかし黒尾は、それが妥当な行為であることを認めつつも、嫌悪の念を禁じえなかった。先程まで刃を交えていた種革兵は既に無力化されている。種革兵を処分しているのだと思えば心は些かも痛まないが、抵抗したくても抵抗できない者達を殺していると考えると、その行為そのものには少しだけ心が痛む。黒尾はやりきれない思いで再び岩井達に背を向けた。

 銃声が響く。

 あれは仕方のないことだ、と自分に言い聞かせながら、黒尾は女達の許に向かった。

 女達は混乱と恐怖の眼差しを周囲に向けていた。猿轡を噛まされた口からは唸り声と呻き声しか出てこないが、何が言いたいかは簡単に理解できた。「一体何がどうなってるの」だ。

 人相を観察する。茶髪の方は黒尾と同年代くらいで、黒髪の方は黒尾よりいくらか年少と思われる。容姿はどちらも人並みより多少上といったところだ。容赦なく殴られたらしく、頬には赤黒い痣があり、唇も切れていた。

「大丈夫ですか。怪我はないですか」と声をかけながら、「鎮静」の精神波を放つ。とにかく落ち着いて貰わないことには話にならない。

 一時の激情を醒めさせる作用を持つ精神波は怯えて惑う女達を見事に落ち着かせた。その顔には依然として警戒心や恐怖心が見え隠れしているが、それらが薄れた分だけ理性の色が浮かび上がってきている。

「あいつらは無力化しました。もう大丈夫ですよ。今取りますから、じっとしててください」

 安心させるためにそう言い、二人が頷くのを確かめてから、黒尾はゆっくりと拘束を解いた。

 女達は身を起こすと、己の無事を確認するかのように、まず自らの体を抱き締めた。

「僕はお二人と同じ探険士の黒尾です。もう一人仲間がいて、その人は岩井さんと言います」

 黒尾は探険士が「影響圏」内で持ち歩く数少ない身分証明書である探険士免許証を見せた。笑顔も忘れない。とにかく安心させる必要がある。助けた相手に殺されるなど、笑い話にもならない。

「二人とも、怪我はありませんか」

 二人は、種革兵に殴られた頬と、「念力」で運ばれた時にぶつけた部分が痛いと答えた。

 黒尾は一言断りを入れてから二人に「治癒」の波動を送り込んだ。深手ではないから、直接患部に触れる必要はないし、時間も大してかからない。十秒もしない内に二人の傷は癒された。

 黒尾が念のために後で病院に行くように二人に勧めていると、処理を終えたらしく、岩井が近づいてきた。

「こっちは終わったぞ。後は盗られた物を取り返すだけだ。そっちはどんな具合だ」

 答えようと思って視線を転じると、その顔になんとも言えない苦しさと悩ましさが表れているのが見えた。

「岩井さん……どうかされたんですか」

 訊きづらかったが敢えて訊いた。

「……どうか、と言うと」

「いえ、その、なんと言うか、表情が暗いと言うか……」

 はっとした風に一瞬だけ顔を強張らせると、岩井は苦笑した。

「……いや、大したことじゃないよ。さっき斃した連中の中に、顔だけ辛うじて人間のままの奴がいてな。むしろそのせいで余計に気色悪かったりするんだが……まあ、なんだかあいつらが可哀想になっちまってね。世の中がもうちょっと寛容だったら、こいつらも、もうちょっとましな生き方ができたのかもしれんなあ、と」

 溜息と共に吐き出された答えは黒尾には共感しがたいものだった。伝え聞く種革軍の所業はそんなことで酌量できる程度のものではない。彼らに対しては無慈悲と不寛容こそが相応しい。彼らを――敵を人間と見做すべきではないのだ。

 しかしこんな所で議論をしても仕方がない。反論はせず「そうですか」と当たり障りのない相槌を打つ。

 考えの相違に気づいたらしく、岩井はそれ以上は言わなかった。視線を助け出した女二人に向け、探険士免許証とITOの社員証を取り出して提示した。

「災難だったな。俺はITOの岩井だ。もう本人から聞いただろうが、彼は黒尾。探険士だ」

 ITOの名前が効いたのか、女二人はあからさまな安堵を示した。直接助けたのは黒尾だというのに、女達は岩井の方により深い信頼を向けていた。

 岩井に名前を訊かれ、茶髪の女は宮内、黒髪の女は梅田と名乗った。

「黒尾が『千里眼』で確認したところだと、まだ二人ほど仲間がいるみたいだが……」

 黒髪の梅田が涙目になって頷いた。同じく泣くのを堪えるような声で茶髪の宮内が答える。

「……でも、もう二人とも、さっきの奴らに……」

「それも黒尾が確認した。これから君達を『外』まで送っていくつもりだが、君達さえ良ければ遺体も回収するぞ」

 岩井の言葉に梅田が目を丸くし、その拍子に目に溜まっていた涙が零れ落ちた。

「そんな……『外』まで連れてって貰えるってだけでも十分すぎるのに……本当にそこまでお願いしちゃっていいんですか」

「どうせ一度入口まで戻るんだ。多少寄り道したって変わらんさ。なあ、黒尾くん」

「え?……ええ、まあ、そうですね。一回戻るんですし……」

 答える黒尾の声には、迷いのない岩井とは対照的な歯切れの悪さがあった。救出作戦にそれが含まれていることは承知していたが、内心では、わざわざ開口部まで戻るなど冗談ではないと思っている。時間に余裕があることと時間を無駄遣いしていいことは違う。しかも無駄にするのは時間だけではない。工藤達と「相乗り」した意味がなくなる上、新たに仲間を探す手間もかかる。それに、再進入する際、今度は自腹で二万円の通行料を払わなくてはいけない。

「通行料はITOが負担するから、それで勘弁してくれ」

 黒尾の不満を察した様子の岩井が近寄り、耳打ちした。

 確かにこれで不満の一つは消えたが、不満はそれ一つではない。

「都合が悪いようだったら……」

 黒尾の焦燥を敏感に察したのか、宮内がおずおずと言った。

「そんなことはないさ。大体、こんな所に遺体を置いていけるわけがない。連れて帰ってやらなきゃかわいそうだ。さあ、まずは君達の装備を取り返そう。遺体捜しはそれからだ……ほら、早く! 急がないと、仲間の遺体が喰い尽くされちまうぞ」

 岩井は宮内と梅田を促し、種革兵の死体と装備が転がる方へと向かった。


 宮内と梅田の仲間二人の死体は種革兵を殲滅した場所から六十メートルほど離れた場所に転がっていた。すぐ横には種革兵の死体が二体転がっていた。

 裸にされた死体は、犬や猫ほどに巨大化して畸形化した変異ゴキブリや変異鼠、猛禽のような変異鴉、なんだかよくわからない気色悪い変異蟲――これらはどこにでもいる――といったスカベンジャーに覆われている。周囲にはぞっとするような羽音を響かせて、雀ほどの大きさの変異蝿も飛んでいる。スカベンジャー達はいつでもどこにでも潜んでいて、死体が放置されたと見るやたちまちその醜悪な姿を現す。

 探険士達の死体が打ち捨てられてから、大分時間が経っている。群がるスカベンジャーの塊を剥がした後に出てくるのは人としての尊厳を奪われた悲惨な屍だろう。

 自分達のパーティの装備を抱えて運んできた宮内と梅田は泣きそうな顔で仲間達の死体を眺めている。

 岩井が死体に群がるスカベンジャー達を不快そうに睨んだ。

「黒尾くん、あいつらを追っ払ってくれ。超能力でやった方が手っ取り早い」

 黒尾はスカベンジャー達に向けて弱い「殺気」の波動を放った。巨大化して凶暴化してはいるものの、彼らの習性そのものは変わっていない。ちょっと脅かしてやれば一目散に逃げ出していく。

「殺気」をぶつけられたスカベンジャー達は弾かれたように逃げ出した。「殺気」の発信源から離れることだけを考えた我武者羅な逃走の様は、蠢く黒い絨毯が引き摺られていくようでもあり、黒尾は生理的嫌悪感を催さずにはいられなかった。あれに取り込まれたらどうなるか、と疑問が浮かんだ瞬間には、もう脳がそれ以上の思索を拒否していた。

「お疲れさん」と黒尾の肩を叩き、岩井が死体の検分を始めた。

 黒尾も釣られて近づき、後悔した。

 死体は酷い有り様だった。小型のスカベンジャーに散々貪られたらしく、表皮の大半が毟り取られ、粘ついた体液が滲む真っ赤な肉が剥き出しになっていた。鴉にでも眼球を穿られたのか眼窩は空ろで、中では逃げ遅れた百足もどきが蠢いている。眼窩だけではなく、死因となったと思われる腹部の傷や首筋の傷も含む、体中の穴という穴が似たような状態だ。しかも筋肉が弛緩したせいで糞尿も垂れ流しになっている。

「糞虫が!」と毒づいて岩井が山刀(マチェット)を抜き、逃げ遅れたおぞましい生物達に向かって、苛立たしげに振り回した。一振りごとに不気味なスカベンジャー達が斬り飛ばされ、弾き飛ばされる。

 しかし埒が明かなかった。スカベンジャーは弾き飛ばす側から顔を出した。体の内側にはまだまだ大量に潜んでいるようだった。

 岩井がうんざりしたように言う。

「黒尾くん、もう一度頼めるか。今度は殺すつもりでやってくれ」

 黒尾は再び「殺気」を放った。今度は、向けられた相手の精神が「自分は殺された」と錯覚し、自ら体と心の機能を停止――死亡――させてしまうほどに強烈な、殺傷力を持つ正真正銘の「殺気」だ。

 喰い荒された傷口から顔を出していた目が四つある小さな鼠が、体を一瞬震わせ、そのままぐったりと倒れ伏した。見えない部分、死体の内側でも同様のことが起こったはずだ。

 まだ生き残りがいるかもしれないので、念のために「生体感知」を使用する。反応なし。忌まわしいスカベンジャーは全滅した。

 黒尾は岩井に「終わりました」と報告した。

「たびたび悪いな。じゃあ、さっさと遺体を袋に入れてここを離れよう」と言って岩井が宮内と梅田を見た。「君達、死体袋は持っているな」

 宮内が背嚢を探りながら頷いた。二人は週刊誌程度の大きさに折り畳まれた遺体収納袋を取り出し、舗装路の上に広げた。ほぼ完璧な断熱保温効果に、不燃性や衝撃吸収性まで備えた、高い耐久性能を誇る逸品だ。

「黒尾くん、扱き使って悪いが、遺体を袋に移して処置をしてくれ」

 岩井の指示に従い、黒尾は「念力」で男達の死体を持ち上げ、一人ずつ死体袋に収納した。それから収納した死体を「冷却」し、腐敗の進行を抑制する。

 女達は袋の中に化学反応を始めて急速に冷却しつつある瞬間冷却剤の袋を放り込み、可能な限り空気を排出した上で密封した。

 これで死体収納は終わった。

「宮内さんと梅田さん。俺達は周りを警戒しなくちゃならないから、つらいだろうが、彼らは君達が運んでくれるか」

 二人は躊躇いがちに顔を見合わせたが、少しの間を置いて承諾し、おずおずと死体袋を担いだ。体力的にも精神的にもつらいだろうが、主力となる岩井や黒尾が死体担ぎで手を塞ぐわけにはいかないから、配慮する余裕などなかった。

 宮内と梅田は各自の装備と共に持てる限りの死者の装備を背負おうとしていた。

「二人の装備はここに置いていった方がいいな」岩井が優しく諭すように言った。「体力が持たないだろう。ナイフや銃くらいの小物なら形見に持ち帰るのもいいが、それ以外の消耗品なんかは、必要分だけ取って残りは置いていくんだ……勿論、使えないようにした上でね」

 余程親しい仲――ひょっとすると恋人か夫婦――だったに違いない。宮内と梅田は岩井の言葉を素直に受け容れようとはしなかった。

 だが岩井が辛抱強く説得すると多少冷静になったようで、男達のナイフと持てるだけの消耗品だけを持ち帰ることで納得した。

 四人で手分けして装備を破壊した。銃器は銃身に土を詰め、歪め、折り曲げる他、部品を抜き取るなどして使用不能にし、弾薬は泥の中に浸し、その他の可燃性の装備品はガソリンをかけて強引に焼却した。煙が出るので変異生物や種革兵などの注意を引いてしまう危険があったが、急ぎである以上は已むを得なかった。

 十五分ほどかけて諸々の作業を終え、急造の四人組は、黒尾達が辿ってきた経路、川端経由での経路を通って開口部へと向かった。


 宮内と梅田を救助したことで帰還を余儀なくされた日の翌々日、二月十九日の午後四時頃、「午前八時」頃。

 黒尾と岩井は黒沢交差点の曲がりくねった信号機を見上げていた。その周囲には五名ほどの探険士の姿がある。黒尾と岩井がこんなにも早く黒沢へと舞い戻ることができたのは彼らのおかげだ。

 この予想外の援軍は宮内と梅田が手配してくれたものだ。死体を担いでの帰路、黒尾達がたった二人で行動しているのを訝しんだ梅田に事情を説明したところ、自分達のせいで試験を台無しにするわけにはいかない、自分達はしばらく戦えそうもないから代わりに腕の立つ知人を紹介する、と言い出し、帰還後すぐに知人達に連絡を取ってくれたのだ。

 宮内と梅田が自信満々に推薦しただけあり、五名の探険士は皆、それなりの腕前の持ち主だった。流石に岩井ほどではないが、黒尾に匹敵する程度の実力はあった。「神影市近郊」と呼ばれる「影響圏」の浅い領域を歩く分には十分だった。

 しかしその頼もしい援軍ともここでお別れとなる。岩井との約束により、他者の援助を受けられるのはここまでということになっている。当初の行動計画や実際の活動実績を踏まえれば、黒沢までならば護衛を受けても問題ない、というのが岩井の試験官としての判断だった。

 黒尾は護衛をしてくれた五人に礼を言い、岩井と共に黒沢交差点を後にした。


 今回の探険は前回にも増して順調だった。何一つとして問題は起こらなかった。まるで運命なるものが前回の不幸との帳尻合わせをしようとしているかのようだった。

 黒沢通過から四時間後の「正午」、黒尾と岩井は十四階建ての高層マンション「ヴィクトリアマンション」の門前に立っていた。

 ヴィクトリアマンション三〇二号室。それが目的地だ。鬼鉄悟郎や探協の情報と手持ちの写真資料を手掛かりに、ダウジングまで駆使して調べた結果、黒尾はここがメダルの隠し場所であると結論に至った。

 黒尾はじっと高層マンションを見上げた。植物や年月の侵食を受けてみすぼらしい姿を晒しており、壁の所々に穴が開き、酷い所では一部が崩落して内部が丸見えになっている。今にも崩れそうな危うさが感じられるが、よくよく見れば、建物自体はまだしっかりしている。あと数十年は倒壊しそうもない。

「行かないのか」

「行きたいのは山々なんですが……化け物の巣ですよ」

「まあ、こんな所だ、何もいない方がおかしいな」

 岩井が皮肉っぽく笑った。

「影響圏」内にある大きな建造物の御多分に漏れず、ヴィクトリアマンションも相当な危険地帯のようだ。動きが制限される屋内である上、黒尾の「生体感知」と「精神感知」が相当数の生物や精神生命体の存在を感知している。縄張りに踏み込まないように気をつければ大部分と遭遇せずに済むとは言え、危険であることに変わりはない。

 しかし引き返すわけにはいかない。ここに入らない限り課題の達成はないし、恐らく試験の合格もない。課題達成に至らなかったとしても合格の目はあるらしいが、この状況で逃げたらその目も消えてしまうだろう。ここの探索は決して不可能事ではないのだから。

 それに、一口に「危険」と言っても、「影響圏」の危険には三種類ある。己の才覚でどうとでもなる危険と、己の才覚だけではどうにもならない危険と、そもそもどうにもならない危険だ。そしてこのマンションに待ち受ける危険はおそらく一番目で、それならば黒尾でも乗り越えられないことはあるまい。

 意を決した黒尾は自らの退路を断つために宣言した。

「……行きます」

「大丈夫か」

「大丈夫です。行きます」

「わかった。行こう」

 二人はマンションの敷地に足を踏み入れた。神経を尖らせながら変異生物の巣窟を通り抜けていく。かつて植え込みだったと思しき危険な茂みを避け、毒性のある香りを飛ばす花を注意深く迂回し、最短経路ではなく安全経路を選んでマンション玄関近くまで辿り着く。

 玄関のガラス扉は、左右に僅かに欠片が生えている以外、跡形もない。もう電気など通っていないので内部は薄暗い。奥の方に至ってはモノリスの光さえも届かないらしく真っ暗だ。黒尾にはその様が、不気味な肉食昆虫が歪な顎を開けて獲物を待ち構えているように見えた

「ちょっと偵察しますね」

 黒尾は「千里眼」で内部の様子を探った。突入前に行き先を確認しておくのは基本中の基本だ。

 飛ばした視界にマンション内部の様子が映る。入ってすぐの所はロビーになっている。やはり荒れ放題の汚れ放題だ。床には死骸や排泄物が放置されているし、壁の塗装も剥がれ落ちている。酷く汚らしい。

 大量の生物の存在が感じられるが、その中にこちらに害意を持っている者やこちらを害する力を持っている者はいない。「影響圏」基準で「無害」な小動物ばかりだ。群れを成して襲いかかってくれば脅威だが、そうならなければ無視して構わない。

 ほぼ安全であることを確信しつつもあちらこちらに視界を移動させ、事前に入手した見取り図と実際の地形とを比較していく。

 確認作業の途中で彼は恐ろしい物を目にした。衝撃のあまり、「千里眼」の制御が一瞬失われかけた。

「どうした。何かあったか」

 黒尾の動揺を感じ取ったらしく、岩井が訝しげな声音で問いかけてきた。

「千里眼」を維持したまま答える。

「……オオアシダカグモの死体を見つけました。滅茶苦茶に壊されてます。まだ死んでから何日も経ってないみたいです」

 黒尾が目にして衝撃を受けたのは、部屋の隅に転がる徘徊性の変異蜘蛛の巨大な死体だった。乗用車ほどの胴体から丸太のような脚を生やした巨大蜘蛛が、「影響圏」内の食物連鎖の支配階級に属する大蜘蛛が、ひしゃげた肉塊になって転がっていた。

 一体どれほど凄まじい攻撃を受けたものか、体中の至る所を破壊されていた。抵抗や苦悶の形跡は見られなかった。即死だったに違いない。強力な「衝撃」を出会い頭に浴びせかけられ、そのまま気づくことなく死に至ったかのようだった。流れ出した体液などにはまだ湿り気があるから、死んでからまだそれほど時間が経っていないのだろう。

「アシダカがか……」岩井の声に緊張の響きが混じった。「どうする。やめるか」

 粗方の確認を終え、「千里眼」を解除した。

「……いえ、取り敢えず様子を見ます。行きましょう」

 オオアシダカグモより強い何かがいた或いはいることは確かだが、まだ詳しいことはわかっていない。怪しい時は退くのが生き残るコツだが、進まなければ何も得られないのもまた事実。時には一歩踏み込んでみることも必要だ。それに、その強い何かが優秀な探険士でないとも限らない。工藤達と「相乗り」した時にしたように、強力な超能力を使えばこのくらいの芸当は不可能ではない。

「『灯り』を飛ばしますよ」

 暗い屋内を照らすに当たり、黒尾は「灯り」を使うことにした。精神力の節約の観点から照明器具を使ってもいいのだが、「灯り」による消耗などたかが知れているし、操作性や光量などの面でも「灯り」の方に軍配が上がる。

 黒尾は精神を集中し、虚空に「灯り」を作った。蛍のような光の塊が生まれ、黒尾達に先行して玄関を潜り、内部を淡く照らし出した。光に驚いた小型の変異生物が逃げ去る音が聞こえる。

「近くの警戒お願いします」

「わかった」

 二人は蝸牛のようにゆっくりと不気味な玄関に進んだ。警戒作業のやり方そのものは屋外でのそれと変わらない。超能力者が目に見えない部分を担当し、それ以外が近くの目に見える範囲を担当する。違うのは危険度と重圧だけだ。

「……黒尾くん、アシダカっていうのはあれのことか」

 八九式小銃の代わりにコルト・ガバメントを油断なく構える岩井が指し示した先には、オオアシダカグモの破壊された巨体が鎮座していた。その全身にはスカベンジャー達が纏わりついている。

「あれです」

「ちゃんと死んでるんだよな」

「『生体感知』には引っかかりません」

 黒尾は明快さを欠く官僚的な答えを返した。死体は「生体感知」に反応しないが、「生体感知」に反応しない生物が全て死んでいるとは言いきれない。あくまでも蓋然性の話でしかない。

「まあ、あの見かけで生きてるとも思えんしな。先を急ぐとしよう」

「そうですね。さっさと階段昇って三階まで行きましょう。前衛お願いします」

 岩井を前衛に置いて二人は階段へと進む。目的地となる三〇二号室に最も近い位置にある階段だ。

 こういう狭苦しい通路には通行者を狙う肉食生物が潜んでいることがままあるが、熟達した探険士はそれらを容易に退け得る。天井から降ってくる変異百足。体色を変えて背景に溶け込む忍蜘蛛(シノビグモ)。催眠念波を発する催眠守宮(サイミンヤモリ)。注射針のような口を持つ搾血蚊(サッケツカ)。確かにどれも脅威ではあるが、それは奇襲されたとしたらの話だ。油断せずに周囲を警戒していればなんの問題もない。

 天井の変異百足は黒尾が「電撃」や「殺気」で撃ち落とし、岩井が分厚い靴底に踏み潰してとどめを刺した。シノビグモは「生命感知」に引っかかったところを岩井がマチェットで引き裂いた。サイミンヤモリの念波は黒尾と岩井の超能力抵抗の前に意味を成さず、不健康な色合いの白い皮膚に覆われたヤモリは岩井の無慈悲な蹴りで潰れて死んだ。不快な羽音を立てるサッケツカは嫌忌剤の効果でそもそも近寄ってこようとすらしない。

 大した問題もなく、二人は三階に到達した。階段を出てすぐの所が三〇一号室だから、三〇二号室は目と鼻の先だ。

 建物の中を歩く場合は、最低でも、左右の壁の向こう側と天井の上と床の下と扉の向こうまでを確認しておく必要がある。壁、床、天井を隔てていることなど、高い戦闘力を持つ危険生物や実体のない精神生命体の前にはなんの保険にもならない。精々、発見される可能性がいくらか下がる程度だ。ひび割れや穴がある所なども要注意だ。危険な小型生物は小さな亀裂を自由に行き来する。黒尾は慎重に周辺の様子を探った。

 安全を確認しつつ、ほんの十メートルにも満たない距離をゆっくりと進んでいく。

 二人は目当ての場所の前で立ち止まった。

「ようやく着きましたね」

 閉ざされた扉の「302」の表示を見て黒尾は笑った。ITOで受け取った写真と全く同じ風景だ。後はこの中のメダルを回収すれば終わる。

 逸る心を抑えつつ、まずは室内を探査する。御多分に漏れず変異蟲や変異鼠が棲みついているが、脅威となり得る危険生物の反応はない。更に隅々まで調べていくと、寝室らしき部屋のベッドにメダルと思しき金属円盤が放り出されているのが見えた。

 当たりだ、と黒尾は唇を綻ばせた。

 扉の傍に立ち、岩井を見る。

「準備はいいですか」

 扉から少し離れた所で拳銃を構え、岩井が頷いた。内部に敵性反応はないが、世の中に百パーセントはない。

 数を数えてタイミングを合わせた後、黒尾はノブを回し、ゆっくりと扉を引っ張った。錆びついた金属が擦れる耳障りな音と共に扉が開く。

 岩井が先に室内へ歩を進めた。慎重な足取りでじっくりと進んでいく。

 黒尾は後に続き、静かに扉を閉めた。最適な行動が何かはその時々によって変わるが、この場合の最適は、逃げ場を確保しておくことではなく、室外の生物の注意を引かないようにすることだと判断した。

 黒尾は岩井の後を追いかけ、かつて誰かの住居であった場所を土足で踏み荒らしていく。蟲と湿気と歳月に食い荒らされて繊維屑に成り果てた絨毯を踏み締め、薄暗い廊下を「灯り」を頼りに進む。周囲を警戒しつつ、迷いのない足取りで寝室を目指す。

 寝室に入った。寝室は夫婦か恋人達の部屋だったらしく、不快な液体の沁みついたボロの塊と化したダブルベッドや、鏡が罅割れ、樹脂製のテーブル部分が腐食して劣化した化粧台などが並んでいた。

 ご丁寧に「2007/H19」と刻印されたメダルが、ボロボロになった汚らしいベッドの上に放り出されているのを見つけた。

「あれですよね」

「あれだ」

 黒尾はメダルを手に取り、背嚢にしまった。これで後は「外」に出て報告書を書き、メダルと共にITOに提出するだけだ。彼は望ましい終わりの近づきを感じ、朗らかな気分になった。

「じゃあ帰りましょうか」

「おいおい、報告書を出すまでが仕事だぞ。気を抜く――戦闘準備! 何か来る! 廊下!」

 岩井はたしなめるように応じかけたが、不意に表情を強張らせ、緊張に満ちた囁き声で警告した。背嚢を床に放り出し、部屋の入口に銃を向け、何かに備えている。

 黒尾には何が何だかわからなかった。何かが近寄ってくる気配も感じない。岩井が何を感じ取ったのかもわからない。

 しかし岩井は、歴戦の、つまり彼よりも遥かに経験を積んだ実力者だ。彼が知らないことを沢山知っているだろうし、彼が気のつかないことにも気がつくだろう。その言葉は傾聴に値する。

 一瞬の内に色々なことが頭の中を駆け巡ったが、黒尾の体は困惑する思考を置き去りにして自然と動いていた。手は背嚢を放り出して腿のシグ・ザウエルを抜き放ち、薬室に弾丸を装填していた。口は言葉を吐き出していた。

「『透視』してみます」

 超能力者の最も重要な仕事。それは耳目となって情報収集を行うことで、超能力で敵を打ち倒すことは二の次。黒尾はその教えを骨の髄まで――それこそ意思とは無関係に体が動いてしまうほどに――叩き込まれていた。

 黒尾は廊下側の壁に視線を向けて意識を集中し、紫色の黴に蝕まれて腐食した壁紙の向こう側を「見」た。

 何もいない。誰もいない。

 拍子抜けしながら、誰もいませんでしたよ、と岩井に報告しようとする直前、黒尾はその言葉を呑み込んだ。歴戦の戦士である岩井が、緊張に満ちた声で「何か来る」と言ったのだ。勘違いであるとも思えなかった。

 黒尾は「透視」の強度を上げてもう一度よく確認してみることにした。「心理迷彩」を使用して自分を超能力的に透明化している可能性もある。

 特に力を籠めたわけではないが、それでもレベル八の超能力者の「透視」だ。並みの超能力者のそれに比べれば透視力は高い。それなのに「見」えなかったのだ。誰かが「迷彩」で隠れているのなら、かなり強力な超能力者だ。出し惜しみしている余裕はない。黒尾は全身全霊を籠め、脳の血管が弾け飛びそうなほどの集中と共に、「透視」を再発動した。

 壁の向こう側に、今度は何かが「見」えた。

 何かが何であるかを知った瞬間、黒尾は悲鳴を上げそうになった。そこにいたのは、同じ人間であることが信じられないほどにおぞましい変貌を遂げた、精神を病んだ者を責め苛む不条理な悪夢の世界から飛び出してきたかのような変異者と、それに率いられた四人の醜い変異者だった。彼らは全員、腕や腕に相当すると思われる部位に黒い布を巻いている。種革兵だ。

 彼らはこの距離まで岩井に何も感づかせなかった。またこの距離でも黒尾に何も気づかせずにいた。その上、最初の「透視」を無効化した。戦士としても超能力者としても相当な手練揃いだ。装備も良い。一流の探険士か自衛隊員並みだ。この間遭遇した種革軍の見習いだか入隊希望者だかとは明らかに格が違う。どうしてこんな「浅い場所」に進出してきているのかはわからないが、戦闘部隊の中でも精鋭に属する連中か、そうでなければ加納正憲の側近か親衛隊に違いない。

「種革――」

 慌てて岩井に報告しようとし、黒尾は息を詰まらせた。壁の向こう側の種革兵、その中でも最もおぞましく変異した種革兵と目が合ったのだ。間違いなくあの種革兵はこちらを「見」ている、と黒尾は確信した。

 壁を隔ててあちらを眺める透視者と、壁を隔ててこちらを眺める透視者の視線が真っ向からぶつかった。

 無際限の狂気と欲望だけが窺える、邪悪が極まっていっそ無邪気にすら感じられるその眼差しに黒尾は寒気がして、「透視」を解除する衝動に駆られた。その精神に長く触れていたら、心のどこかが壊れてしまいそうだった。これは最早人間の目ではない、と思った。知性を持つ怪物の目だ。人間が太刀打ちできる相手ではない。これに対抗する見込みがあるとしたら、それは鬼鉄や三摩地のような、同じく人間の枠を超えた超人だけだ。

 種革兵の顔が醜悪に歪んだ。黒尾はそれが笑みだとなぜだか理解できた。それが悪意に満ちた嘲笑であることも。

 次の瞬間、黒尾と岩井の眼前に、信じがたいほどに強烈な――黒尾が全身全霊を籠めてようやく出せるかどうかの――超能力の波動が発生した。種革兵が壁越しに超能力を発動させたのだ。

 超能力戦士として鍛えられた黒尾の頭脳が高速回転して状況を分析する。これだけの瞬間出力となれば、相手は最低でも黒尾と同じレベル八、悪くすればレベル十に迫る実力者だ。レベル八に過ぎない自分が、完全に先手を許してしまったこの状況で対抗するにはどうすればいいか。「抑制」と「抵抗」を試みると共に、まずは攻撃の種類を特定して岩井に伝えなければならない。この波動は精神感応の類ではない。念動だ。何が来るのか。閉鎖空間で残酷なまでの威力を発揮する「爆発」や「破壊渦動」か。安定した威力と高い汎用性を誇る「念力」や「衝撃」か。

 具現化しつつある敵意に対抗すべく「抑制」と「抵抗」を練り上げながら、黒尾は叫ぶ。

「超能力攻撃! 種類は念動! 詳細は不め――」

 言い終える前に衝撃が来た。大きな金槌で思い切り殴られたような衝撃が胸部で炸裂し、まるで車に撥ねられでもしたかのような勢いで後ろに弾き飛ばされた。コンクリートが剥き出しになった壁に思い切り叩きつけられ、そのまま古い絆創膏のように剥がれ落ち、受け身も取れずに顔から床に倒れ込んだ。痺れたように鈍磨した感覚の中、鼻の奥で流れるような温もりが生じ、鉄の臭いと味が塩気と共に広がるのが感じられた。

 痛みは遅れてやってきた。呼吸をするたびに胸に激痛が走る。最低でも肋骨か胸骨に罅が入ったはずだ。手足や背中も痛い。骨は折れていないようだが、痣程度では済まないだろう。

 意識は割合はっきりしているが、体が思うように動いてくれない。一瞬のことだったのでよく憶えていないが、壁に叩きつけられた時、頭をぶつけて脳震盪でも起こしたのかもしれない。

 満身創痍。しかし死んではいない。彼は自分がぎりぎりのところで命を長らえたことを知った。全ての精神が有する超能力に対する抵抗力の活性化。発動しようとしている超能力に対する「抑制」。胴体を守るボディアーマー。頭部を覆うヘルメット。この内のどれか一つでも欠けていたら、きっと自分は死んでいた。

 自分の状態を確かめながら、黒尾は、ロビーで岩井と一緒に見つけたオオアシダカグモの死骸を思い出していた。きっとあれを壊したのはこの種革兵だ、あの蜘蛛も今と同じようにいきなり「衝撃」を叩きつけられたのだ。自分がもっと早くにあの大蜘蛛とあの種革兵を結びつけていたならば、とほぞを噛んだ。

 それから、岩井のことを考える。岩井はどうなったのか。軋む体に鞭打ち、岩井がいた辺りに顔を向ける。

 室内は「灯り」が消えて暗くなっていたが、辛うじて見えた。岩井もなんとか生きているようだった。口から血を垂らし、呻き声を漏らしながら、死にかけた虎のような動きで身を起こそうともがき、左手で体を支え、右手で銃を捜し求めている。

 自分が試みた「抑制」と発しかけた警告は役に立ったのだろうか。そんな疑問が頭をよぎったが、今考えるべきはそれではないと打ち消し、思うようにならない体を叱咤した。神経の通わない泥人形のようになった体を必死で操り、黒尾も起き上がろうとする。

 その努力は見えない足に踏み潰された。強大な超能力の波動が再び感じられたかと思った直後、何かが圧し掛かってくるような感覚が黒尾の全身を襲った。体中に満遍なく重石を乗せられているような、巨人の靴底に踏みつけられているような重圧だった。息が詰まり、胸骨と肋骨が激しく痛んだ。身を起こすことはおろか、身動ぎすることすらままならない。意識が遠のいていく。

「念力」だと彼は直感した。抵抗力を振り絞って重圧を撥ね退けようとしても、逆ベクトルの「念力」で相殺しようとしても、不可視の重石はびくともしない。力が違いすぎる。

「その程度で動けなくなるのか。だらしないな」

 頭上から嘲るような声が聞こえた。人間以外の生き物の口で無理矢理日本語を発しているような不自然で歪んだ声だった。「げっげっげ」とえずくような、咳込むような音も聞こえる。笑い声だろうか。

「いつまで寝転がっているつもりだ。さっさと起きろ」

 黒尾は全身を乱暴に振り回されるのを感じた。体が持ち上げられ、視界が目まぐるしく動き出した。バネ仕掛けの人形のような勢いで体を垂直にされた時、動きに急制動がかかった。慣性に体中を痛めつけられ、黒尾は悲鳴を上げた。

 背後に種革兵四人を従えて、正面にあの醜悪な種革兵が立っていた。

 その種革兵が仲間達に命じる。

「こいつらの装備を剥ぎ取れ。服はまだ剥かなくていい。男の裸を長々見たいなら止めはしないが」

 種革兵が二人進み出て、黒尾と岩井の装備を剥ぎ取り始めた。他の二人は放り出された背嚢の中身を検分している。

 種革兵達が手際良く黒尾と岩井の装備を取り上げていく。岩井の八九式とコルト・ガバメントを奪い取り、黒尾のシグ・ザウエルをホルスターごと取り去り、ヘルメットを脱がし、タクティカルベストとボディアーマーを剥ぎ取る。ほんの数分足らずで、黒尾と岩井は被服のみにされてしまった。

 戦利品の検分を手下に任せ、リーダー格の醜い種革兵が口を開いた。

「自己紹介が遅れたな。俺は加納正憲。名前くらいは知っているだろう。お前達が大好きな大好きな、種の革命軍の司令官様だ。短い付き合いになるだろうが、一つよろしく頼む。こいつらは俺の親衛隊だ」

「そ、そんな……」

 黒尾は目の前が真っ暗になったように感じた。練度から戦闘部隊だろうと、ひょっとしたら親衛隊でもおかしくないと覚悟していたが、目の前にいるのはそれ以上の大物だった。

 これで全てが終わったと思った。抗おうとする心は圧し折られた。相手がただの戦闘隊員ならば、或いは親衛隊員であったとしても、まだ助かる見込みはあっただろう。だがこれが相手では無理だ。

「さあ、次はお前らの番だ。まずお前からだ。お名前は?」

 加納は脇腹から生えた得体の知れない触手の先を黒尾に向けた。

 歪な眼から放たれるぞっとするような光に黒尾は屈服した。

「……く、黒尾だ」

「名前なのか苗字なのかわからないな。フルネームでもう一度だ」

「……黒尾司郎」

「そうか。ならそっちのお前は……やっぱりそうだ。お前、岩井だろう。久しぶりだな」

 加納が岩井と知り合いであるような態度を見せたことに黒尾は驚いたが、考えてみれば、加納は人類に叛旗を翻す前、つまり五年ほど前までは探険士として活躍していたのだ。「一級探険士との違いは階級だけ」とまで言われた探険士だったのだから、同じく有能な探険士である岩井と知り合いであっても不思議ではない。

 岩井は答えなかった。

「相変わらず真面目腐った聖人君子みたいなお澄まし顔だな……返事くらいしたらどうだ」

 加納の声に険が混じった。

 加納がいつ怒り出すか、黒尾は気が気でなかった。岩井が早く沈黙を破ってくれるよう、心の中で強く祈った。

 祈りは通じたらしかった。

「……お前みたいなクズと話す気はない」

 ひとまず大人しくするのが得策と岩井も判断したようだ。無愛想に吐き捨てるのが聞こえた。首の動きまで封じられているせいで見ることができないが、きっと岩井は苦虫を噛み潰したような顔をしていることだろう。

「そんなことを言いながら返事をしているじゃないか。そうだ。人間素直が一番だ。素直ついでに、その化け物を見るような目をやめてくれないものかね。そういうのは地味に心にくるんだ、子供の頃のことを思い出すんだよ」

 黒尾は加納の少年時代についての、彼の親族や自称「知人」の談話を思い出した。それによれば、加納正憲の少年時代は全く不幸なものだったという。そのおぞましく変異した外見のせいで、愛情や友情の代わりに、恐怖と嫌悪と憐憫を向けられる生活をしていたらしい。そしてそれは成人後も変わらず、他に働き口がなかったことから探険士資格を取得した後も、彼は誰からも愛情や友情を得ることなく、孤独で寒々しい日々を過ごしていたそうだ。

 有り得ないことだが仮にそれが全て事実であったとしても、と黒尾は思った。周囲や社会の在り方が加納を歪めたのだとしても、そんなことは加納の数えきれない悪行を擁護する根拠にはならないし、黒尾が加納に殺されようとしている事実の前にはなんの意味も持たない。黒尾にとって加納正憲はただの犯罪者、憎むべき攻撃者、排除すべき敵に過ぎない。それ以外の意味を持つ存在では有り得ない。この状況ではむしろ、どうしてきっちりいじめ殺しておいてくれなかったのだ、と見知らぬ加納の隣人達を恨めしく感じさえする。

 黒尾の顔を見た加納が、体を震わせ、笑い声らしき耳障りな音を発した。

「良い目をしているな。『可哀想な奴』や『弱い奴』を殴り殺した後にぐっすり眠れる奴の目だ。お前は邪魔をする奴は赤ん坊だって殴り飛ばせるだろう。気に入った。顔と名前を憶えておいてやる」

 酷い言われ様だと思ったが、反論できなかった。「僕はそんなんじゃない」というたったそれだけを口にすることもできなかった。加納の機嫌を損ねた瞬間に死ぬことになりそうだからではなかった。それ以前の問題として、単純に加納の言葉を否定しきれなかったのだ。いざその時が来れば、彼はそうするかもしれない。そうしないとは言いきれない。現に今し方、彼は無辜の「加納少年」の理不尽な死を願ったばかりだ。

「それに引き換え……」と加納が岩井の方に視線を転じ、吐き捨てるように言った。「お前は相変わらず嫌な目をしているな。何様のつもりだ。人のことを馬鹿にしやがって……憐れみは蔑みなんだぞ」

 加納が岩井を睨みつけると「念力」の波動に変化が生じ、苦悶の声が上がった。それも一回や二回ではなかった。何度も何度も、前の悲鳴に被せる形で、岩井は新たな悲鳴を上げ続けている。

 岩井は一体何をされているのか。黒尾にはそれが気懸かりだった。岩井の身を案じる心も無論あったが、それ以上に、見えない所で起こる惨劇が恐ろしかった。

「気になるか。見せてやろう」

 その言葉と共に体の向きを変えられた。視界の中央を占める人物が、加納から岩井に変わった。

 痛みに顔を歪めながら、岩井を見る。一見、岩井の姿にはなんの変化もないようだった。顔を真っ赤にして苦しげに歪め、涙を流し、鼻水と涎を垂らし、荒い息を吐いているが、外傷の類は見られない。「念力」で締め上げられている時に特有の鬱血等も見られない。一体何をされていたのだろうか。

 解答は彼が内心で首を傾げた直後に与えられた。

 岩井の右手首がゆっくりとねじれていく。手首は少しずつ回っていき、遂に人体の構造が許す限りのところに行き着いた。しかし、手首の回る速度は落ちる気配を見せない。少しずつ限界を乗り越えていく。その間、岩井は脂汗を流しながら歯を食い縛っていたが、何かが砕けるような音が聞こえた後、一際大きな絶叫が上がった。その拍子に、口元から白い粒のような物がいくつか転がり落ち、鮮血色の涎が滴った。まるで別の人間の体のような無関心さで、それでも手首はねじれつづけていった。

 その無惨な拷問を目にして、黒尾は「は?」と間の抜けた声を出せただけだった。脳が目の前の光景の理解を拒否していた。

「わかりづらかったか。だったら、もっとわかりやすいようにしてもう一度だ」

 岩井の左手が黒尾に向かって突き出された。勿論、岩井の意思ではあるまい。加納の「念力」のせいだ。

 左手の指はどれもばらばらの方向を向き、間接の構造上有り得ない形に曲がっていた。見ている自分の手がむず痒くなってくるような光景だった。

「今度はゆっくりやってやるから、よく見ておけよ」

 目の前で岩井の左手首が時計回りに回転し始めた。その動きは関節の可動範囲を超えても停まらない。一定の速度でゆっくりとねじれていく。骨の砕ける音が聞こえたような気がした。

 黒尾は絶句した。「やめろ」と叫ぶことすらできなかった。口が突然利けなくなったかのように、「ああ、うう……」と意味を成さない呻きを漏らすだけだった。

 加納の姿が黒尾の視界に入ってきた。

「これくらいゆっくり見せればわかるな。関節を一つずつねじり壊しているんだよ……こんな風に」

 岩井の右足が半長靴ごと勢い良く一回転した。また悲鳴が上がった。今度は絶叫に近いものだった。

 黒尾は、岩井が無造作に、子供の手に捕らえられた昆虫のように弄ばれ、壊されていく様を見せつけられた。強大な「念力」に捕まった身には、目を逸らすことはおろか、目を閉じることも許されなかった。聴覚を遮断して悲鳴を聞かずに済ませることも許されなかった。意識を手放して全てから逃げるのも駄目だった。瞑想の要領で意識を飛ばしても、すぐに強力な精神波で覚醒させられてしまった。

 悪夢そのものの時間だった。

 だが、明けない夜はなく、醒めない夢はない。悪夢にもやがて終わりが訪れた。ここに至るまでに一体どれだけの時間が経ったのか、黒尾にはわからなかった。しかし、決して短い間ではなかったことは確かだった。それだけ長く、深く、岩井は苦しんだのだということに思い至り、黒尾は身震いした。

 彼の眼前に、浜に打ち上げられた蛸のようになった岩井の死体が転がされている。全身の関節は痛々しく捻じり壊されており、最早関節の体を成していない。その死に顔は苦悶に歪んでいる。岩井は想像を拒絶するほどの苦痛の中で死んでいったのだ。

 黒尾は岩井を惨殺した種革兵達に怒りと憎しみを抱いたが、それ以上に、次は自分が同じ苦しみを味わう破目になるのだろうかと恐ろしくなり、震え慄いた。手元に銃があったら躊躇うことなく、銃が手元にある幸運を喜びながら、自分のこめかみに銃口を押し当てただろう。

 加納が親衛隊員に手振りで合図した。親衛隊二人が動き、岩井の服を剥ぎ取り始めた。

「お前は殺さない」歪んだ声で、残酷な魔王のように加納が言った。「逃がしてやる。本当なら拉致して『水』をかけて兵隊にでもしてやるところだが、お前はちょっと気に入ったから、それは勘弁しておいてやる」

「……なんだって?」

 加納が何を言っているのか理解できなかった。逃がしてやると言ったのか。そんな馬鹿な話があるものか。

「逃がしてやると言っているんだ」

 再度言われ、黒尾は加納の思惑を理解した。加納は黒尾を生きた犯行声明として使うつもりなのだ。ほんの時たま、気紛れのような頻度でそういうことをする種革軍が、まさに今、その「気紛れ」を起こしたのだ。

「逃がしてやるから、もし生きて『外』に出られたら、知り合いやマスコミにでも俺達の怖さを触れ回っておいてくれ。勿論、自衛隊の連中も忘れるな。今の群長は藤谷だったかな。古い馴染みだ。よろしく言っておいてくれ。俺達がここを拠点にする予定だとな」

 黒尾は承諾も拒絶もできなかった。それは殺されるか卑怯者になるかの二択だった。苦悩せずにいられなかった。左右の皿に生命と倫理を載せた心の中の天秤は、常に揺れ動きながらも、全体としては均衡を保っていて、どちらかに傾く気配を見せない。

「お前の答えなんかどうだっていい。逃がせばどのみちお前は『外』を目指すんだろうからな。じゃあな、黒尾。また会えるといいな」

 加納が黒尾の胸部に痛烈な一撃を入れた。拳らしき部位が黒尾の肋骨にめり込み、黒尾の胸に激痛が走った。息が詰まり、涙が溢れ、脂汗が噴き出し、目の前が真っ白になった。胸の辺りで何かが砕ける音を聞いたような気がした。触れて確かめるまでもなく、折れた――砕かれた――と理解できた。

「念力」の拘束が解かれた。体を支えることができずにそのまま倒れ込み、体を団子虫のように丸めながら、掠れた呻き声を上げた。

 涙で滲む視界の中で、黒尾は加納達五人が装備を持ち去るのを見た。しかし、どうすることもできなかった。ただ指を銜えて見ているしかなかった。

 加納達が立ち去った後、黒尾は寝転がったまま、応急処置の手順に従って傷の治療を試みた。

 まずは激痛を必死に堪えて意識を集中し、精神力を振り絞り、「鎮痛」の自己催眠を施した。のたうち回りたくなる激痛が気になる鈍痛程度にまで和らいだ。

 痛みが薄らいだら、今度は傷の具合を確かめた。服の上から胸に触れ、軽く押してみた。肉はぶよぶよと腫れて若干熱っぽく、骨も普通では考えられないほどに凹んだ。折れている――ひょっとすると砕かれている――ようだった。

 肋骨と胸骨の位置を「念力」を駆使して可能な限り戻し、然る後「治癒」の波動で癒着させた。医師ならぬ黒尾の技術では応急処置が精一杯で、癒着はやや歪なものとなってしまったようだが、細かい所は後で医師に頼めばいい。今は行動可能な程度にまで回復すれば問題ない。

 応急手当てを終えたことで、ようやく黒尾は周囲に目を向ける余裕を得た。

 室内には、裸にされた岩井の無惨な遺体と黒尾の背嚢、小水筒、弾倉を装填したままのシグ・ザウエル、そしてナイフが転がされていた。黒尾達が持ち込んだ物品で残されているのはこれと今着ている服だけで、後は皆、元からここにあった物ばかりだ。他には何もない。何もかもが、それこそ財布や探険士免許証、|都市生活支援インテリジェント・カード《ULSICa》、宿泊所の鍵に至るまでの全てが奪われていた。

 変わり果てた岩井を見た黒尾の心に、怒りや悲しみ、憐れみ、悔しさなどの様々な感情が生まれ、荒れ狂った。激しい感情の発露が超能力の暴発を招き、「念力」や「衝撃」が家具を襲った。家具が砕け散る音で我に返り、慌てて超能力の制御を取り戻す。死体を傷つけはしなかったかと不安になったが、幸い、岩井の体は無事だった。

 岩井の体を眺めたことで、彼が死んでしまった事実を改めて突きつけられ、黒尾の目から涙が零れ落ちた。出会って一週間かそこらの間柄だが、それでも彼は探険行を共にした「仲間」だ。岩井の遺体に短い黙祷を捧げた。

 目を開けた黒尾は、感傷を振り払い、思考を切り替えた。死者と生者がいるのなら、後者を優先すべきだ。

 残された装備を確認する。

 銃を手に取った。銃本体には汚損や細工の形跡はなく、問題はなさそうだったが、肝心の弾丸が薬室に一発装填されているきりだった。どういう意図かは明らかだ。「ギブアップしたければどうぞ」と嘲る加納の姿が目に浮かび、黒尾は舌打ちした。

 幸いにも水筒は大丈夫のようだった。壊されてもいないし、おかしな物も混入されていないようだ。命の水は最低限残されている。

 背嚢の中身は半分以上持ち去られていた。数日分の食料と水、それと遺体袋が残っているだけで、他の物は全て持ち去られていた。

 食料と水が残されているのは納得できる。生存の必需品だ。加納が黒尾に証言者の役割を期待するなら、奪い取るわけにはいくまい。問題は遺体袋だ。あの狂気を全身にみなぎらせた邪悪な男が慈悲を示すはずもない。あの男ならば、剥き出しの死体を担げ、くらいのことを言っても不思議ではない。それがこうして袋を残しておくのだから、拳銃と同様、何か悪辣な意図が籠められているはずだ。

 少し考え、黒尾は理解し、歯軋りした。残された遺体袋には、加納正憲という男の捻じくれた悪意が籠められていた。つまり加納は、黒尾が岩井の遺体を捨てて身軽になることの正当性を、そうすることへの言い訳の材料を消し去ったのだ。遺体袋がないのであれば、遺体搬出を断念するのはほぼ不可抗力で、本人の能力と責任の範疇外だ。しかし、遺体袋があるのに遺体搬出を断念するのは本人の決断だ。少なくとも遺体を運ぶ手段とその状態で生還を果たす可能性がある――本人の中にその認識がある――のだから。

 このことでどんな結論を出そうと彼が裁かれることはない。法的にも社会的にも、彼を責められる者はいない。それが不可抗力によるものか臆病や怠慢によるものかは誰にもわからないのだから、人々は、その場にいる彼がそうしたのならそれは仕方のないことだったのだと納得するしかない。そこで彼を責めても、それは「言いがかり」にしかならない。

 だが黒尾自身は知っている。その決断が本当に不可抗力によるものなのかどうかを。その非難が本当に言いがかりであるのかどうかを。自分だけはごまかせない。もしかしたらなんとかできたのではないか。そんな思いを、誰にも裁かれない、誰にも裁いて貰えない罪を独りで抱えて、終わることのない後悔に苛まれ続けることになるのだ。それは酷くつらい人生に違いない。

 勿論、死んでしまったら今後の人生も何もない。しかし、死んだら何もかも終わりだと言うのなら、死後のことなど考えるだけ無駄だ。生き延びた場合のことだけを考え、どう生き延びるのがいいかを考える方が余程建設的というものだ。しかもこの場合は、どちらの道を選んでも生還の見込みが低いことに変わりはない。

 ならば話は簡単だ。ここからどれだけ離れて死ぬかが変わるだけなのだから。

 ならばどうすべきか。答えはもう出ている。どのみち死ぬのであれば、せめて悔いを少しでも減らして死にたい。

 後は決断し、踏み出すだけだった。

 黒尾は低く唸りながら悩んだ末、決断し、行動に移した。岩井の遺体を収納袋にしまい、保存処置を施す。こういう時のための瞬間冷却剤は奪われてしまったため、遺体の保存は定期的な「冷却」だけが頼りだった。

「よし」と気合いを入れ、遺体袋を担いだ。排泄された糞尿の分だけ軽くなっているとは言っても、そんなものは焼け石に水だ。やはり大柄で筋肉質な成人男性は重い。人間一人分の重みに苦い呻きを漏らす。

 これで装備が残っていたらどんなに重かっただろう、との考えが脳裡をよぎった。ほんの少しだけ、ほんの一瞬だけだが、装備を奪われたことを許してしまえそうな気分になり、黒尾は頭を振ってその馬鹿げた考えを否定した。

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