序章 曖昧な決意
大企業のそれを思わせる、利便性だけでなく快適性にも注意が払われた応接室がある。「超能力者の自由を守る会」本部の応接室だ。
いかにも値段の高そうな木製テーブルを挟んで、四十歳過ぎくらいの男と、もうじき中学を卒業するくらいの年頃の少年が向かい合っている。卓上にはコップが二つあり、中では注いだばかりのサイダーが泡を弾けさせている。
喪服めいた背広を着た痩せ型の男は死んだ魚のような丸い眼で少年を見据え、中学校の制服を着た少年は困惑した様子でその視線を受け止めている。
傍から見る限りでは、どこに接点があるのかまるでわからない。親子には見えないし、兄弟でもなさそうだ。親戚であるようにも見えない。友人でもないだろう。向かい合う二人の態度からはそういった親しさを臭わせる情愛の類は欠片も窺えない。かと言って顧客と業者というほどの事務的な雰囲気も窺えない。
男は昔話に登場する「悪い魔法使い」を現代風に仕立て直して若返らせたような風貌の持ち主だ。肌の色は青白く不健康で、死を待つばかりの病人か、墓から起き上がってきた死者を思わせ、顔立ちは不機嫌な髑髏を思わせる。
少年は取り立てて逞しくもないが、目の前の男とは違い、健康的な体格をしている。男の背を十センチほど縮めつつも、肩幅や手足は同様の比率では縮めず、均整の取れた比率を維持したような体つきだ。普通の範疇内に収めてしまっていいだろう。顔立ちは繊細で気難しそうで、それでいてどこか気弱な印象がある。
男は三摩地総一郎、少年は黒尾司郎という。
黒尾司郎は状況の変化にただただ戸惑うばかりだった。どうしてこんなことになったのか全くわからなかった。彼は単に素朴な疑問を三摩地総一郎に投げかけただけなのだ。三摩地さんはどうして会長にならないんですか、と。
会本部の廊下で出会った三摩地に対して黒尾がそう問いかけると、三摩地は「どうして、私が会長に、などという話になる。ちょっと順序立てて説明してみろ」と問い返してきた。
黒尾は次のように答えた。
三摩地は超能力者の自由を守る会設立の立役者であり、超能力強度十に認定された世界最高峰の超能力者の一人でもあるから、客観的に見て会長の地位に就く資格は十分にある。それに、そもそも会長を始めとする会の幹部達は三摩地の傀儡に過ぎない。幹部達の態度を見れば一目瞭然だ。誰も彼もが三摩地に敬意以上の何か――たとえば依存心や恐怖心――を抱いている。このように資格と実力が揃っているのに、どうして表に出ようとしないのか。
聞き終えた三摩地は、道端で綺麗な石ころを見つけでもしたような表情を浮かべ、そのことについてどこかで腰を下ろして話をしようと黒尾を誘った。
黒尾はそれを謝絶しようとした。いくら相手が三摩地とは言え、初対面の相手の誘いを受けることが怖かったからだ。彼は「両親と来ているので……」とやんわりと断ろうとした。
ところが、驚いたことに三摩地は引き下がらず、本部内で挨拶回りをしていた黒尾の両親を探し当て、「息子さんと少し話をさせていただきたいのですが」と持ちかけた。
両親は断らなかった。彼らはむしろ誘いに応じるように息子に促しさえした。彼らにとって息子が三摩地との繋がりを得ることは願ってもない話だった。そもそも二人が超能力者の自由を守る会に入会したのは、小学校に上がる少し前に超能力に覚醒してしまった息子の将来を慮ってのことだから、会の有力者との接近を嫌がるはずがなかった。
単純素朴な問いを投げかけ、その疑問の理由を述べたら、なぜだか腰を下ろして話をすることになってしまった。黒尾が置かれている状況を要約するとこうなる。
三摩地はサイダーを一口飲み、「さて」と話し始めた。
「君はなぜ私が会長にならないのか知りたいんだったな」
「……その前に、どうして僕なんかにここまでしてくれるのか、伺いたいんですけど……」
「私は原則的に人間が……人間に限らず、私に対して鬱陶しく存在感を主張してくる他者が大嫌いだ。他人が視界の中をうろちょろするだけで苛々する。誰かと一緒にいるのが苦痛で堪らない」
「それなら――」
「話は最後まで聞け。例外のない原則は原則として存在しない。私にだって誰かと話したくなる時はあるし、そういう時なら私は誰とでも話す。私は招かれざる客が嫌いなだけだ。招いた客は歓迎する」
それは誰でもそうだろう、と黒尾は内心で呟き、要するに三摩地は偏屈で我儘なのだと納得した。
黒尾の知る限りでは最高の精神感応能力者である三摩地は、黒尾の心中などお見通しに違いないが、そんなことは態度にも示さずに続ける。
「まあ、早い話が、『人と話がしたかった。誰でもよかった』ということだ」
「はあ、そうですか……」
ただ目に留まったから。ただ誰かと話がしたかったから。その程度の理由だというのは、互いの関係性を思えば、ある意味で最も納得できる理由ではあったが、黒尾司郎という個人を無価値と断じられたようで、複雑な気分だった。
「他に質問は? なければ最初の質問に答えようかと思うが」
黒尾の心境に気づいているだろうに、三摩地の態度は至って冷淡なものだった。
「……いえ、ないです。話の腰を折っちゃってすみませんでした」
「なら、今度こそ質問に答えよう。私が会長になろうとしないのは、他にもっとやりたいことがあるからだ。私は別に超能力者の自由を守るために生きているわけじゃない。守る会の活動はその目的をより円滑に達成するための、つまり私の行動の自由を確保するための手段に過ぎない。憶えておくといい。大抵の場合、ある目的はより大きな目的の手段でしかない。誰かが目的を口にしたら、そいつがその先の何を狙っているか、よく考えることだ」
守る会設立に一枚噛んだ男が口にしたとは信じられない酷い言葉、耳を疑わずにはいられない信じがたい告白だった。
しかし黒尾は、驚きつつも、心のどこかで納得していた。彼はここまでのやりとりで、三摩地はそういう男であると認識していた。社会。理想。正義。盟友。それらは窮極的にはなんの意味も成さない。他の全ての前にまず己の願望がある。己の目的に適えば助け、そうでなければ関わらず、背けば潰す。恐らく三摩地はそういう男なのだ。
「だから私は会の運営にはほとんど口を出さない。目的を幹部達に訓令するだけだ。私が命令するのは、彼らが私の目的を逸脱しそうになった時だけだ。今日もそうだった。連中は何をしようとしていたと思う」
「僕にはちょっと……」
「漫画雑誌の新連載の内容に抗議と言う名の言いがかりをつけようとしていた。誰も明言しなかったが、大々的な自主規制要請――矛盾した言葉だ――の足がかりにでもする気だったんだろう。『一握りの楽園』という作品だが知っているか。『青年チャンプ』とかいうパチ物臭いマイナーな月刊誌の今月号から連載が始まったんだが」
「そんな雑誌があること自体、知らなかったです」
「私もそうだった。今度本屋で見かけたら、立ち読みくらいはしてやろうかと思う。今回の騒動でサンプルとして提出された雑誌に、意外と面白い作品が多かったからな。事によると、変に読者に媚びずに好き勝手やっている分、大手より面白いかもしれない」と三摩地はおかしそうに笑った。「……『一握りの楽園』の筋を簡単に説明しよう。近未来の日本が舞台で、簡単に言うと、人類の少数派にして特権階級たる超能力者と、人類の多数派にして奴隷階級である非超能力者の苛烈な闘争を描く話のようだ。下層階級を家畜としか思っていない少数の支配階級と虐げられる下層階級の対決という、王道中の王道だ。もっとも、まだ第一話でこの辺りはいくらでも変更の余地があるから、断言はできないが。物語の先がどう転ぶかなんて誰にも――時には作者にも――わからない。学園物格闘漫画がいきなり異世界ファンタジーに路線変更するようなことだってきっとあるだろう。ところで、連中の言いがかりの根拠はなんだと思う」
「……もしかして、超能力者が悪役だから、とか」
「要するにそういうことだ。超能力者が残虐無比な支配者として描かれることによって超能力者への悪感情や差別を助長云々と言っていた。もっともだと私も思う。言い訳の種やこじつけの種を探している連中の良い燃料になるだろう。はっきり言っていろいろな意味において悪書だよ、あれは」
三摩地の言葉そのものは「一握りの楽園」に対する批判以外の何物でもなかった。つい先程自分が否定したばかりの幹部達に賛同しているようにしか聞こえなかった。
だが彼の愉快そうな声音は、その印象を真っ向から否定し、発する言葉に字面とはまるで異なる意味合いを与えていた。三摩地はきっとその作品を気に入ったのに違いなかった。
「だが、たかがそれだけのことだ」三摩地は傲然と言いきった。「そんなことで面白い作品を潰されて堪るか。面白さが……私の楽しみが最優先だ」
三摩地があまりにも堂々と言うものだから、黒尾は一瞬納得しそうになってしまったが、すぐに夢から醒めた。これは凄まじいまでの、単なる我儘だ。
三摩地は全てを見透かしたように傲慢な微笑を浮かべた。
「これが私の我儘だということは理解している。その上で私は私の我儘を全てに優先させるだけのことだ。私の邪魔をする者は残らず叩き潰す。それが嫌なら私を黙らせてみろ……とは言っても、今回の件はあまり私の我儘とは関係がない。何しろ、会の暴走、全くの暴挙だからな。君は会の標語を憶えているか」
「確か……『同じ権利と同じ義務を』でしたっけ」
「憶えやすくていいだろう」と三摩地が頷いた。「私が憶えやすいのにしろと言ったんだ」それから雄弁を振るい始める。「それが会の存在意義だ。会はそれ以上のものであってはならないんだ。特権階級を作り出すための組織であってはいけない。超能力者が超能力者であることを理由に不自由を強いられた時に立ち上がって、超能力者が特権を求め始めた時にその動きを潰す。それだけの、単なるバランサーでいい。それ以上を求めると面倒なことになる」
「……それほどの理念があるのに、どうして積極的に動こうとしないんですか」
黒尾にはその点が心底から疑問だった。三摩地ほどの人物が陣頭指揮に当たれば、その理念は確実かつ容易に実現するだろうに。秋刀魚自我それを本心から実現させたいと望むのであれば、そうするべきなのだ。
「もう答えたよ。他にやりたいことがあるからだ」
「それは一体」
「私が探険士として活動していることは知っているな」
「よく知ってます。三摩地さんのことが書かれた本を沢山読みました。『影響圏』への立ち入りが解禁される前から探険を続けてるんですよね」
探険士を目指す黒尾にとって、三摩地は英雄に等しい。伝説の中で生きる人物だ。
「それだ、私のやりたいことは」
三摩地は世界屈指の「影響圏」探険者としても知られている。その活動歴は長く、実力は高い。超能力者の自由を守る会はもとより超能力振興協会や全国探険士業協同組合連合会などの設立にも関与しているようだし、日本探険史上の重大事の大半に関わってもいる。実績も申し分ない。最も優秀な探険士は誰か。この誰もが一度は思いつくであろう子供じみた格付け大会が実際に開催されたとしたら、他の凄腕達と共に確実に最終候補に残る。
「私達はずっとモノリスに挑み続けてきた」三摩地はそのまま続けた。それは応答と言うよりも独白であった。「敗残者として九月十日の地獄から惨めに逃げ出し、政府の探険隊の水先案内人として地獄の中をうろつき、今は侵略者として地獄を踏み荒らしている。私達の人生はあの忌々しいモノリスにどうしようもなく縛られている」
「三摩地さんは……どうしてそこまで――『影響圏』に何を求めているんですか」
富や名誉ではないはずだ。なんの根拠もなく、ただ直感から黒尾はそう思った。三摩地はそんな俗っぽいものに執着する人物ではない。或いはその思いは分析などではなく、三摩地がそんなつまらない人物であっては嫌だという彼自身の願望の反映かもしれなかったが。
三摩地はいきなり答えを教えるようなことはしてくれなかった。彼は答えの代わりに問いを寄越してきた。
「『影響圏』とは……モノリスとはなんだと思う」
「何、ですか。それはどういう……」
「そのままの意味だ。別に哲学的な話をする気はない。包丁とは、調理器具の一種として知られる刃物であり、食材の加工に用いられる。この程度の答えでいい。少し考えてみろ」
言われた通り、黒尾は自分なりにモノリスについて考えてみた。
モノリスとは何か。人類の悪夢。学術的発見の鉱脈。富をもたらす宝の山。色々な答えが浮かんだが、どれも物足りないように思えた。
「……僕にはわかりません」
黒尾は降参した。
「そうか」と三摩地は大して気に留める風もなく頷いた。元々、上手い答えなど期待していなかったのだろう。「それなら私なりの答えを言おう。力を育む場所だ」
「力を?」
「生命力、精神力、戦闘力……モノリスはあらゆる可能性を引き出し、力を育む。直接的、間接的に。モノリスに関わる者達の能力や機能の向上率の素晴らしさがそれを証明している。探険士と変異者はその顕著な例だ。拡大解釈すれば、モノリス産業による経済や科学の発展もそうだと言える」
モノリス出現から十六年が経った今でも、あの巨大な柱についての研究はまるで進んでいない。経験から導き出された推論や仮説は無数にあるが、明確に立証された事実は一つもないと言ってよかった。肝心の証拠が手に入らないのだ。
その「あとは証拠を見つけて証明するだけ」の仮説の一つに、「モノリスは生物の心身を強化或いは変異させる作用を持つ」というものがある。
この仮説によればモノリスは、確認されているだけでも、生物の超能力を覚醒させる、胚子を突然変異させるなどの作用――具体的な原理は現時点では一切不明――を有している。またこの仮説には、それぞれの強化や変化は一律に起こるものではなく、それぞれごとに存在するなんらかの条件を満たして初めて起こるものであるという説も付属している。「なんらかの条件」としては遺伝やモノリスからの距離などが考えられているが、いずれも限りなく定説に近い仮説の域を出ていない。
「十六年前の御門市で私はそのことを知ったよ」
日本時間で一九八五年九月十日午後七時五十六分四十二秒。世界八ヶ所にモノリスが同時出現した正確な日時については複数の証言や説があり、未だ特定されていないが、これが最も可能性が高いとされている。
「私はモノリスの力で人々が超能力に覚醒するところに立ち会った。その時、鬼鉄や兵頭、井原、それと、そう、緒方もいたな……あいつらと居酒屋にいたんだが、最初は何が起こっているのかわからなかった。想像してみろ、自分の周りにいる酔っ払い共がいきなり超能力に目覚めて、超能力のあの波動が四方八方から伝わってくるんだ。しかもその発信源の内の二つは一緒に馬鹿話をしていた相手だ。人と豚とトドを掛け合わせたような井原と、傷口を見るのが三度の飯より好きな変態の緒方だ。冗談としか思えん。だがそれは事実だった。モノリスが人間の力を目覚めさせた」
「だから、モノリスは人間を成長させる物だと?」
発言の一部を礼儀正しく無視し、黒尾は相槌を打った。
「私は、あれはそのために用意されたシステム以外の何物でもないと……ひょっとしたらある程度の知能なり意思なりを具えているんじゃないかとすら考えている。そう考えると、キューブリックとクラークの『2001年宇宙の旅』から『モノリス』の名前を持ってきた奴は、無意識的に真相を見抜いていたのかもしれないな。もっとも、モノリスを目指すのはボーマン船長ではなくて、レドリック・シュハルトだが」
ボーマン船長は有名なので黒尾にもわかったが、レドリック・シュハルトはよくわからなかった。だが、多分本筋にはそれほど関わりないだろうと判断して、疑問を喉の奥に呑み込んだ。それに、三摩地の見解はあまりにも馬鹿馬鹿しすぎたから、黒尾はそれどころではなかった。最初黒尾は、三摩地が空気を読まずに冗談を言っているのかと思ったくらいだった。
だが三摩地の顔を見る限り、どうも彼は、その荒唐無稽な空想を本気で信じているようだった。
「そんな……まさか。あんな物に意思や知能なんてあるわけ……それにあれが人間のために存在してるなんて……そんな学説、聞いたことも……」
黒尾は自身の身に具わった超能力について調べる過程で「影響圏」に関する資料にもいくらか目を通している。多くの専門家が著したそれらの中に、今三摩地が述べたような説を展開する物が皆無だったわけではない。しかし、そのごく僅かな例外は、学界で一つの説として市民権を主張できるほどの完成度と権威を持つものではなく、「南極にはナチスの秘密基地があり、ナチスの残党がそこでUFOを製造しつつ第三次世界大戦を待っている」といった都市伝説や与太話とほとんど変わらないものでしかなかった。真面目に主張すれば失笑を買う。
「真実を知っているのが学者だけだと誰が決めた」黒尾の反論に三摩地はゆっくりと首を横に振り、自信満々に言った。「要するに知能と情報の問題だ。この二つが伴っていれば誰だって真理に辿り着ける」
「……三摩地さんにはそれがあるって言うんですか」
言ってから後悔した。少し生意気ではなかったか。
「無論だ。私は決して馬鹿じゃないつもりだし、職業柄、そこいらの学者には負けないくらい『影響圏』の情報を持っている。最前線でしか知り得ないことも中にはあるから、そういう意味では学者以上の知識がある」
「だからって……どうしてモノリスが成長のためのシステムだなんてことが言えるんです」
「色々と理由はあるが……一言で言えば、モノリスはあまりにもご都合主義的だ」
三摩地は楽しげに言った。まるで推理ゲームでもしているかのような態度だった。
「ご都合主義ですか……」
「外堀から埋めていこうか。まずモノリスを包むあの『海苔』だ。あれは液体や気体や地殻変動には一切の影響を与えないくせに、光を完全吸収し、固体や一部のエネルギーを残らず遮断する。その上、透過した液体その他からモノリス汚染を除去する濾過機能めいたものまで備えている。仮にこうした機能のどれか一つでも欠けていたとしたら、『影響圏』周辺の環境は大変化を遂げただろうな。たとえば川の流れが変わったり、地殻が歪んだり。そういう意味じゃ、絶妙のバランスだ。どうだ、まるで、人類の生活環境への影響を最低限に押し留めようとしているかのようじゃないか。もっとも、日当たりの変化で、周りの農業がかなり打撃を受けはしたようだが……そうそう、それに、閉鎖系を形成しても問題ないだろうに、どうぞこちらからお入りくださいとばかりに出入口まで開いている」
「それは確かにご都合主義って言えばご都合主義かもしれませんけど……少し強引すぎないですか。なんて言うか、結論先にありき、みたいな感じで……別に特に『人類への配慮』なんて結論を選ぶほどのものじゃないんじゃ……」
黒尾は三摩地が語るような「トンデモ学説」に対する典型的な反論を口にした。
「勿論、それだけじゃない。次は『中』の話をしよう。『中』で生物が凄まじい変異を遂げていることは周知の事実だが、その変異の仕方は極めて不自然なものだと私は思う。何せ、インフルエンザでさえ毎年のように新型が出てくるんだ、あれだけの変異――進化か――の坩堝なら、空気感染して一晩で国の一つや二つを全滅させるような病原体くらい生まれてもよさそうなものだろう。もう十年以上経っているんだぞ。それなのに、探険士でそういう病気にかかった奴はいない。記録にもないし、私自身も見たことがない」
「それは偶々……そう、たとえば擬似的な閉鎖系の中で、系そのものを破滅させかねないような危険な要素が他の生物に淘汰されたとか、そういう可能性もありますよ」
これもトンデモ学説への常套句、悪魔に対する祈祷の定型文句だ。
「その可能性は否定しない。だが、だからと言って、それ以外の可能性を否定するのは感心しないな。むしろ、あのなんでもありの魔境では、有り得ないということが有り得ない、と考えるべきだ」
大悪魔である三摩地には祈祷などなんの効力もないようだった。そして熟練の探険士である彼の「有り得ないということが有り得ない」との述懐には重みがあった。
「それは……理屈の上ではそうなんでしょうけど……」
「さて、次のツッコミといこう。次は……そうだな、地理だ。モノリスが『中』のどの辺りにあるか知っているか」
「天道区ですよね」
モノリスが「影響圏」の北端部に位置していることは、「影響圏」について少しでも真面目に調べたことがある者ならば、誰もが知っている事実である。
「そうだ。この位置取りに違和感を覚えたことはないか。それから、『影響圏』の形については? モノリスが周囲に影響を及ぼしている以上は、『影響圏』は円形かそれに近い形になって、モノリスの位置は中央付近になるのが妥当なところだ。それなのに『影響圏』は、御門市と周辺都市の一部を取り込んで、楕円ですらない、やや南北に細長い歪な形をしているし、モノリス自身も中央どころか北の端に陣取っている。開口部を『セフィロトの樹』の『王国』とするなら、丁度『王冠』の位置だ。煙じゃないんだから、北風に流されたということもないだろう。私がここまでに示した推測と合わせて考えれば、まるでここまで辿り着いてみろ、と言わんばかりじゃないか」
「それは……」と黒尾は言葉に詰まった。確かに不自然ではあるし、一つ一つは頼りない他のいくつもの要因と合わせて考えれば、それなりの説得力があるようにも思えた。
しかし、一つ一つの要因が不確かで頼りないものであること自体は変わらない。やはりこれも不確かな仮説だ。
「でも、それも偶然かもしれないじゃないですか。別になんでもかんでも円にならなきゃいけないわけじゃないでしょうし……仮にそうだとしたって、他の条件に邪魔されてそうならないことだってあるはずですよ。もっとちゃんとした根拠じゃないと、ただのトンデモですよ」
「ちゃんとした根拠か……」三摩地は将棋やチェスで次の一手を思案しているような顔で呟いた。「そうだな、それなら……君は御柱信仰や世界樹信仰、男根崇拝といった言葉を聞いたことがあるか」
どれも聞き覚えのない言葉だった。黒尾は素直に「いいえ」と答えた。
「ならば簡単に説明しよう。ちょっと長くてややこしい話になるかもしれないが、なるべく簡単に話すから我慢してくれ。これが私の仮説の核なんだ。まず御柱信仰というのはその名の通り柱を崇拝対象とする信仰体系で、同様に、世界樹信仰は世界樹を、男根崇拝は男根を、それぞれ崇拝対象とする信仰体系と考えてくれて差し支えない……この場合は」
「……この場合は?」
「学問的には色々と細かな違いがあるし、私の解釈の上でも色々と事例ごとの分類がある。が、今はわかりやすくするためにその辺りの違いは無視しようということだ。君だって、延々と民俗学や宗教学の講義を受けたくないだろう」
「僕はそれでも構いません」
黒尾はその辺りの分野に関心がないでもない。
三摩地は人の悪い笑みを浮かべた。
「だが私は一日中君と話すのは御免だ。話を戻そう。……私はさっき挙げた各信仰体系が本質的には同一のものであると考えている。ヤハウェとアッラーの関係が近い。主要な根拠を順に述べていこう。まず大地に屹立する棒状の何か――これは樹木や塔なども含めてだ――への崇拝は世界中に存在する。次にその崇拝対象――便宜上、『柱』とでも呼ぶか――の大半はその神話の中で社会や世界に大きな変化をもたらす重要な役目を果たしている。天変地異を起こしたり、創世を担ったりな。そうした役目を負わない『柱』にしても、たとえば『創世記』に出てくる『知恵の樹』や『生命の樹』、北欧神話の『世界樹』のように、他者の能力向上を促す役目を果たしていることが多い。子孫繁栄と豊饒を司る『男根』は大地という睾丸からエネルギーを汲み上げて放出する男根という形を取って、しばしば女の腹に、神の子とでも言うべき、強大な力や異形の肉体を持つ子を宿しているし、時には男性の生命力の強化も果たす……どうだ、どこかで聞いたような話じゃないか」
「まさか……モノリスも『柱』の一種だ、と仰るんですか」
「逆だよ。『柱』とはモノリスのことじゃないのか、と言っているんだ。つまり、モノリスは地球の歴史上、幾度となく世界各地に出現していて、それがそのまま神話という形で伝承されたんじゃないか、というのが私の仮説だ」
「完璧にトンデモじゃないですか。だって、神話ですよ神話。神話なんて、支配者の都合に合わせて作られた御伽噺じゃないですか。そんなものを真に受けるのは……」
黒尾は口調、語調、声音、表情、身振り手振り――全身で以て疑念を表明した。
「神話もそう馬鹿にしたものじゃないぞ。仮に創作だとしても、元ネタのない創作なんかそうあるものじゃない。考察を重ねていけば、なんらかの真実に行き当たることがないとは言い切れない。現に、神話を真に受けたシュリーマンは大発見をした。要は解釈する知性の問題だ」
「それだって、シュリーマンはトロイア遺跡の実在を証明しただけで……別にギリシャ神話が真実だって主張したんじゃないですよ」
「だが、『柱』の正体がモノリスだと仮定すると、色々なことが一気に説明できるようになるぞ。たとえば、天使や悪魔、妖精や魔獣の伝説は、変異生物を目撃した古代人達によって作られたと考えることができる。事実、私は『影響圏』で、多頭犬や竜を始め、巨人や得体の知れない混合生物、多首蛇、鬼、大蜘蛛や大百足などを飽きるほど見てきた。『圏外』にも『創世記』のメトセラのような人間や中華の神仙を説明づける存在がいる。直接間接にモノリスの恩恵を受けて矍鑠たる長寿を謳歌する老人達だ。『奇跡』や『魔術』の話も超能力で説明がつく。不思議な現象はなんでも魔術か奇跡だった時代だ。超能力をそうと認識したとしてもなんの不思議もない」
「でも、結局、なんの証拠もないじゃないですか。それは……こう言ってはなんですが、空想でしかないと思います」
「証拠がない、か。これは痛い所を突かれた。確かにその通りだ。今のところ、この仮説にはなんの証拠もない。否定する証拠も、肯定する証拠も。他のいくつもの仮説と同じだ」
「ですけど、常識的に――」
黒尾の反駁は三摩地に遮られた。
「常識の何がそんなにありがたい。常識がモノリスの出現を予測したか。常識でモノリスの存在を説明できるか。常識で量れるのは常識的なことだけだ。元々からして非常識なことに常識は意味を成さない」
「それはそうですが……」
「いずれにせよ、私の仮説を否定したいのなら、相応の知識を身につけ、知性を磨くことだ。そうだな、どうしてもこの問題に白黒をつけたいんなら、探険士か研究者にでもなって、モノリスの謎を解いてみたらどうだ。もっとも、そういう目的があるなら、探険士になるのはお勧めしないが」
「なぜ探険士は駄目なんです」
黒尾は顔を顰めた。そう偉そうに語る三摩地自身は探険士であり、現になんらかの真実に辿り着こうとしている。黒尾からすれば英雄に等しい。その英雄が探険士を否定するのは理解しがたかった。
「探険業が安定しつつあるからだ。全てが手探りだった黎明期と違って、今では産業として構造が出来上がりつつある。ゆくゆくは――そう遠くない内に――一つの産業として完成を見る。そして、安定や完成の先にあるのは停滞と腐敗だ。完全に構造化された業界では、その性質上、自由な行動や発想は制限される。儲けるための一定の方式が確立された時、第一に要求されるのはそれから外れないようにすること、冒険の否定だ。これは探険士の在り方と矛盾する。探険士とは本来、個人的興味や個人的欲求のために『影響圏』に入る者だからだ。勿論、そうなっても私は思い通りに行動する自信があるが、君にはまず無理だろう。君は私になれない」
一流の探険士の口から出てきた言葉は予想外のもので、驚かずにはいられなかったが、冷静に考えてみれば至極もっともなことだった。やや悲観的すぎる気もするが、三摩地は基本的には何一つとして間違ったことを言っていない。これはあらゆる分野の真理を突いている。たとえば、漫画なども同じだ。一度売れ筋が決まると、業界全体がそれに追従して、似たり寄ったりの無難な作品ばかりを出すようになる。
「まあ、研究者には研究者のしがらみがあるんだろうが、探険労働従事者と化した探険士よりはまだ自由があるんじゃないか、と思う」
「研究者ですか……でも、僕は……」
研究者ではなく探険士になりたいのだ。黒尾は十八歳になったらすぐに探険士試験を受け、高校卒業後は探険学部のある大学に入るつもりで、中学校三年生の身にして既に人生の設計図を描いていた。
「それでも、僕は……探険士を目指します」
黒尾は真っ直ぐに三摩地を見返した。三摩地の口から暗い未来予想図を聞かされ、むしろ決意が固まった。三摩地を見返してやろうと、状況を撥ね退けてやろうと、彼は負けん気を刺激された。
三摩地は薄ら笑いを浮かべた。
「……大分話が本筋から外れてしまったな。確か私達は、私がなぜ探険士をやっているかについて話していたんじゃなかったか」
黒尾は「あ」と声を上げた。議論に熱中するあまり、すっかり忘れてしまっていた。
「そうですよ。元々その話だったんです。三摩地さんはなんのために『影響圏』を探険してるんです」
「既に言ったように、私は、モノリスは人類を成長させるためのシステムだと考えている。そこまではいいか」
「はい」
「それが気に入らないんだ」と奇妙に平板な声音で呟くように語り出した。「余計なお世話だと思わないか。一体何様のつもりだ。誰がそんな物を寄越してくれと頼んだ。どうしてあんな光る石ころを押しつけられなきゃならない。どうして私があんな石ころ如きに尻を叩かれて進化しなきゃならない。なぜ、たかがその程度のために私の生活が破壊されないといけない。私は私の上に絶対者面をして君臨する者の存在を認めない。私の権利を侵害する者、私の平穏を乱す者、私に喧嘩を売る者の存在も許さん。黒尾くん、私の目的と言うのはな、あの忌々しい黒い石ころに辿り着いて、泥靴で蹴りを入れ、落書きをし、小便をかけてやることだ。よくも我々の平穏をぶち壊してくれたな、とな。勿論、その背後に『神』のような奴がいるとしたら、そいつも同じ目に遭わせてやる。蹴り倒して踏み躙り、額に『肉』と書いて、小便をかけてやる」
死んだ魚の目か髑髏の眼窩を思わせる三摩地の丸い目には寒気がするほどの憎悪と憤怒の苛烈な光が灯っていた。
黒尾は思わず目を逸らした。たとえ一秒でもこれと目を合わせているのは嫌だった。息詰まる緊張の中、新鮮な空気を求めて呻きつつ、彼は自分が踏み込むべきでない領域に踏み込もうとしていることを理解した。
三摩地が顔を顰めた。
「……すまない。もう十年も経ったから多少は冷静に語れるようになったかと思ってたが、いざ口に出してみると、やはり、なかなかそういうわけにはいかないらしいな。仲間内でなら冗談にもできるんだが」
三摩地の丸い目からは負の感情が消えていた。強靭な自制心を発揮して心の奥底に封印し直したのだろう。
落ち着いて改めて考えてみると、この目的は三摩地総一郎という男によく似合っているように思えた。気に入らないから攻撃する。害を為す或いは為したから攻撃する。身勝手かつ明快な行動原理であり、それを臆面もなく口に出す厚顔さからは清々しささえ感じられる。
深い納得に頷く黒尾に三摩地が見透かしたような眼差しを向ける。
「利己的で身勝手なのは私だけじゃない。実際、私の友人達が『影響圏』に挑む理由もろくなものじゃない。鬼鉄は命懸けの戦いがしたいだけの戦闘中毒者だし、緒方は新鮮で珍奇な傷口を診たいだけの変態外科医だ。井原の奴はストレス発散のために『影響圏』をうろつく暇な金持ちだし、兵頭は自分を鍛えることにしか関心のない訓練馬鹿だ。勿論、我儘な変態は私の友人に限らない。他にも沢山いる。要するに、人間などという生き物はどいつもこいつも利己的で身勝手な望みを持っていて、その内、欲望に命懸けの忠誠を誓う奴だけが一廉の人物になれる。欲望から目を逸らして蓋をするような奴は何も掴めずに根腐れして終わるんだ」
文句なく「一廉の人物」である利己心の化身のような男の言葉には無視し得ない説得力があった。
三摩地が髑髏の眼窩を連想させる目でじっと見てきた。
「君は自分の欲望に忠誠を誓う勇気があるか。そうでなければ、君は自分が根腐れしていくのを実感しながら死ぬことになる」
三摩地は静かに繰り返した。
「君には勇気があるか」
黒尾は答えられなかった。




