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思いがけない一日

作者: 青式部

 まだ薄暗い明け方に目を覚ますと秀人はいつものように冷たい水で顔を洗って外へ出て、そのまま南の方へ向かって歩き出した。普段はデンモール駅前の幌馬車を停めるために使われている小さな広場、といっても人が集まるかといえば馬車に乗るためにやってくる者しかこない、が解放されており見慣れない人だかりが出来ている。


 高台にいた男は頃合いを見計らっていたが、時刻を確認すると大きな声で開始を告げたかと思うと、長蛇の列はゆっくりと動き出した。3月のポローキン海近隣に特有の乾いていてどこか物悲しい風が吹いてきて、秀人は上着を首元まで閉めなければならなかった。


 それからちょっとすると前方にいた青年が走り出したので、秀人も続いてスタートを切りジュペリ通りという幅のある幹線道路まで走った。通りは普段は自動車で混雑しているが、今日に限っては早朝の時間帯は交通規制がかけられているから車一台見当たらない。


 南東に位置するジタリア県には近海へと流れるツンドラ河が走っているが、その流れはゆったりとしており、河岸で染料染めをしている村落の女達が機械のコトコトという音の合間に顔をみせている。こうした染料染めはこの地域の主な産業となっており、古くからこの機械音は知れ渡っていた。


 整備されかけて放置されている両岸には時おりカラスが飛来してゴミを漁っているが、今日は朝から自治体の警護団がやって来て追い払うので寄りつかないでいた。だがこうした理由からおよそ走行には向かない場所であったから、走者は必ずしも競技に集中することは出来ないで、中には膝をついたまま休憩してしまうものや、走るのをやめるものも少なくなくなっていた。

 

 だが秀人には入賞することでえられる3レイリオンが重要な生活の資になるし、出来れば送金しようと考えていたのであるから、秀人は脇目もふらずに走り続けなければならなかった。しかし秀人はこれを苦痛と考えていたかというとそうでもなく、こうした環境は生まれ育った路地やその横にある雑踏、間断なく聞こえてくる生活音、小動物のたてる音や散乱しているゴミのすえた臭いと大差なく、慣れきってしまい、もはや頭の中にそれらが問題として提示され、思考の対象として現れることさえ少ないのであった。あるとすれば秀人と同じ走者達が次第に嫌悪感を顕にし、走行を中断して何か小言を行っているのが目についてくるだけなのである。


 そういうわけであったから競技が終わった時には秀人を除いて残っている走者は全く信じられないことにごく僅かであった。このことは秀人にとってはまたとないことで、賞金の3レイリオンを頭に浮かべながら走っていて一番辛い時でさえ、これまでになく浮き足立ち心臓の鼓動は高まり、頭の火照るのを抑えることが出来ないくらいで、両岸にいた色々な鳥や世界中の人々と比べてみても、自分がもっとも良い状況にいるのではないかとさえ思えてくるのであった。


 そうして実際に表彰台に並ばされて主催者から3レイリオンと賞状を手渡されたときには全くこれほどまでに人生が楽しく思えたことはないほどなのであった。思えば子どもの頃に父親に何度も連れて行って貰おうと植物園を前にせがんでみたがどうしても遊びにいくことが許されなかったのが、まったく思いがけないちょっとしたはずみで叶った時に、子どもの持つ単純さがその喜びを一層大きくするのと同じように働いて、これ以上なく自分が喜ぶべき境遇にあるのと思わせるように、そのことは秀人の心を弾ませた。


 それに自分が誰よりも早く走りきったということが嬉しさに華を添えていて、少しの休憩もとる必要がなく思えたので秀人はさっさと自宅へと歩き出した。心の軽々とした感覚に反し、賞状と擦れ合った3レイリオンが艶のある音を立てる度に、秀人はそのずっしりと重みを感じていた。

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