モラル
二時間経ったが、未だ名前を呼ばれる気配はない。
冬野昂輝は宇宙ステーション第六層六十六区にある三つの医療センターのうちのひとつを訪れていた。
太陽代わりの人工恒星が数百年振りの故障を起こし、現在気温はセルシウス度で五まで下がっている。
古きよき、といったら悪趣味の謗りを受けそうではあるが、昔なつかしい寒さに慣れていない現人類にとっては体調を崩すのに十分な条件が揃ったといってよい状況だった。
熱と光不足で義務づけられている「自然食物」の摂取もままならない。最下層の人間にとっては毎日のことだが、富裕層にとっては人工食物のみの生活というのはさぞかし耐え難い苦痛となっていることだろう。
だが、それでもまさかこれほどに人が溢れていることは予想していなかった、と冬野は考える。
まさか呼び忘れられているのか、それともミスでもあったかなどの考えが一瞬脳裏をよぎったが、コントロールにて完璧に制御された現状では、そんなことは起こりえないということもわかりきってはいた。仮に不満を抱いたとしても応対する人間などいないのだ。受付のアンドロイドに尋ね、秒数以下まで正確な待ち時間を言い渡されるくらいなら、黙って待っていたほうがよっぽど精神衛生上喜ばしいことであったろう。
そうして、二時間、百二十分、イコール七千二百秒もの時間、冬野はじっと座って待ち続けていたのだ。
「隣、失礼していいかな」
声に向かって顔を上げれば、長身痩躯の男性が重そうな荷物を下げて立っていた。太い紐が右肩に食い込んでいる。
「どうぞ」
断る理由もなく返事を返すと、男性はにやっと嫌な笑いを浮かべて隣に腰掛けた。
先ほどは天井のライトで逆光になっていた顔が、今度はよく見えた。男性というより青年と言ったほうがいいだろうか。上半分は前髪に覆われて見えはしあにが、細い顎に若さ特有の鋭さが垣間見えた。と、彼と目が遭い慌てて顔を反らす。男はまるで気にしたそぶりも見せずに冬野に話しかけた。
「あんた、暇なのか」
「いや、暇ではないよ」
「だって、俺がここにきたのは一時間くらい前だけど、ずうっとここに座りっぱなしじゃないか」
「仕方ないよ。今ここは混んでるんだ。君だって一時間も待たされてるんだろう」
反撃するつもりで言い返せば、男は整った眉を寄せ、それでも笑みをたたえたまま、ふーんと言った。
「気のないへんじだな。君も、もう一時間は待たされるよ」
「いや、俺別に待ってねえし」
どういうことだ、という顔をしてみせた冬野を見ると、男は椅子においた荷物を持ち上げ、これみよがしに振って見せた。
どうやら柔らかいものが入っているらしく、振るたびに袋の形状が変化する。
「俺は運び屋なんだよ、これの」
ふざけているのが丸わかりの表情で言われても、反応に困ってしまう。
「運び屋って……。なんだか恥ずかしい響きじゃないか」
「まあ、ちょっとねえ」
そう言って少し頬を赤らめる青年は、意外にも常識のある青年なのかもしれない。
そう思えば、関わり合いになりたくないと思って聞かなかったことも聞いてしまっていいのかもしれなかった。
「それ、なにか大事なものが?」
「ああまあ」
「生き物とかそんなんじゃないだろうね」
「ああ……さあ。」
「爆弾とか麻薬とか、まさkそんな危険なものでもないだろう」
「んー」
どうやら本当のことを言うつもりはないらしかった。だが、会話に飽きたという風でもなく尚も此方をみつめる青年に、冬野は妙な概視感を感じた。
「あれ、なんだか君、どこかで見たことがあるような気がするんだが」
「あんたは『なんで渡すものを渡して帰らないんだ』とは聞かないんだな」
「君、ちょっと顔を見せてもらってもいいかな。」
「この中身は生き物なのかもしれねえよなあ」
「君は前髪が長いなあ。ちょっとの間でいい、上げてくれないか。」
「声も届かないほど、俺の顔にご執心かよ」
「なあ頼む、一瞬でいいんだ」
「だったら見せてやるよ。届け先のあんたにな」
青年は袋から素早くものを取り出し、冬野の眼前につきつけた。
それは冬野自身の頭だった。
しかし向き合う顔を顔は鏡のように対称をなしていない――。
「一時間もかかっちゃたぜ。あんたを眠らすまで」
青年は手に持ったままの生首を、冬野の顔面に押し付けた。
近づくほどにその顔の持つ皺やたるみ、しみがはっきりと視界に映り、おぞましさを感じた。しかもあろうことか、その顔は自らの顔面に吸収されているようでもあった。
鼻の頭が触れ合い、次に上唇が、そして睫が融合する。傍からみれば鏡に人が入り込んでいくような奇妙な光景に映ったことだろう。
「ちっ。いつ見てもグロいんだよ。」
青年は舌打ちをして、踵を返した。
「冬野さん、冬野昂輝さん。二番の扉にお入りください。」
冬野ははっと目を覚ます。
いつの間にか眠ってしまっていたのだろうか。時計をみれば、ここに来てからもう一時間半も経っている。いくら混んでいるといってもこれは待たされすぎだろう。
まさか眠っている間に呼ばれたのかとも思ったが、そもそも眠りの浅さを改善すべくここを訪れたくらいである。そんなはずはないだろう。
「どっこいしょ」
痛む腰をさすりながら、冬野は立ち上がった。
長い前髪に目元をすっぽりと覆われた青年が、薄汚れたデスクの前に突っ立ている。デスクの向こう側にはこれまた薄汚れた椅子に深々と腰をうずめるまだ若い女がいた。
「取立てお疲れ様、村瀬君。これで今後もローン・エイジからも定期的に仕事が入ることになりそうだわ」
「あっそ」
村瀬と呼ばれた男は素っ気無い返事を返す。その声音には明らかな苛立ちがみられたが、若き女社長はそれには敢えて目を瞑って言葉を継いだ。
「「若さ」ってやっぱ魅力なのよねえ。返したくなくなっちゃうのもわかるわあ。でもやっぱ特殊なものだし無理に奪い返すってできなかったじゃない。その点貴方は便利よねえ。」
それ、どういう力なの、と聞かれても村瀬には答えようもない。
「何度も言ってるけど、俺だって知らねーよ」
村瀬が冬野に示したような力は、いつの間にか備わっていたものだ。複雑な術式や化学式を用いて、厳密に限られた環境でしか「老若」を扱えないローン・エイジなどの企業とは、そもそもの仕組みが違うのかもしれない、と社長のマキは言うが、冬野にとってはそんなご大層なものではなく、体質のひとつに過ぎない。
「それにあのシーンはグロいし、もう見たくはないな。」
「でも、そしたらまた食っていけなくなるんでしょ。」
あっけらかんとマキは言う。
人を馬車馬のごとく扱い、雀の涙の給料で働かせようとするこの社長は最悪だが、一方でマキに見初められなければ生きていけたかも怪しい万年金欠だったのは確かなのだ。
「あ、あと今日はもう一件行ってもらうから。」
彼女の手でひらひらと舞う地図を、破る勢いでひったくる。
いつかこの手にかけてやる。村瀬は心の底でそう思った。




