第三章:湖の底
白無垢の袖が雨を吸い、じっとりと重さを増していた。
舟は誰の手によるものか、静かに水面に浮かんでいた。
まるで最初から、そこに在るべきだったかのように。
沙耶は言葉なく、周りを見渡した。
誰も見ていない。
見ていてはいけない。
――これは“神の領域”への、二度目の訪れ。
夜の湖は、無音だった。
耳鳴りがするほどの沈黙。
空に月はなく、雨はもうやんでいた。
舟がひとりでに滑り出す。
誰の手もないのに、水を切って進む。
(このまま、沈められるのかな)
そう思ったが、怖くはなかった。
むしろ、どこかで覚悟ができていた。
舟はやがて、湖の中心――小さな祠の前で止まる。
その石の祠は、前回と変わらず、苔むした扉を静かに閉ざしていた。
沙耶が舟を降りると、祠の前に立つ。
「……沙耶……」
誰かが呼んだ。けれど、それは彼女自身の声。
(また……わたし?)
祠の扉が音もなく開いた。
奥は闇。
闇の中から、もう一人の沙耶が出てくる。
白無垢に、髪を下ろした姿。
前と同じ顔。だが、目だけが――やはり黒かった。
「来たんだ」
「……ええ。来なきゃって、思ったから」
「もう逃げないの?」
「逃げないよ。だって……私が逃げたら、湊に何かが来る気がして」
「正解」
“影の沙耶”は微笑んだ。
けれど、それはまるで、人間の笑いではない。
無理やり皮膚の下で筋肉だけが笑っているような、不自然な表情だった。
「でも、あなたがここに来たことで、わたしは……やっと、帰れる」
「帰る? どこに?」
「お前の身体に、だよ」
影の沙耶が手を伸ばしてくる。
「わたしはずっと、ここに閉じ込められていた。初めて沈められた巫女。それがわたし。百年前にね」
「百年……?」
「そう。最初の“器”。この祠を、神の口に変えた贄よ」
沙耶は息をのむ。
「それから、たくさんの娘が来た。でも、みんな、ここで溶けた。魂だけが、重なって、重なって……わたしの中に沈んでる」
「じゃあ……私が来た意味は?」
影の沙耶はまた笑った。
「お前だけは違った。わたしの顔を“返さなかった”最初の巫女。だから、契約が未完だったの」
「……!」
「この顔を、お前が認めてくれたら、わたしは現世に戻れる。神の器として」
「それって……」
「お前を“中身ごと”抜いて、代わりに入るってこと」
湖がぐらりと揺れた。
湖面がざわめく。
水音が、次第に“声”になっていく。
「ウツワ カエセ」「マコトノ ミコヲ」「カミノ ミチビキ」
何十、何百もの囁きが、水の底から這い上がってくる。
舟が軋み、空気がぬるく重くなる。
「ふざけないで」
沙耶は一歩、祠の奥に踏み込んだ。
「そんなの、許さない。私は、私のままでいる。あなたに身体も魂も渡さない」
「じゃあ、どうするの?」
影の沙耶が目を細めた。
「戻ったら、また舟に乗せられて、今度こそ生贄になるだけ」
「それでもいい」
沙耶は震えながら言った。
「でも……誰かのために消えるなら、自分のまま消えたい。嘘の顔に上書きされるよりずっとマシ」
影の沙耶が、初めて言葉を止めた。
長い沈黙のあと、低く笑う。
「そう……やっぱり、あなたは“選ばれた”巫女だ」
「選ばれた?」
「“神”は、ただの偶像じゃない。選ぶのは……私たち、最初に沈んだ者」
沙耶はぎょっとした。
「じゃあ……神様なんて、いないの?」
「いるよ。でも、もう形がない。欲望と記憶と、贄の痛みだけが集まってる。神という名の、“怨念の溜まり”」
湖面が、さらに揺れる。
影の沙耶が背を向け、祠の奥へ歩いていく。
「来なさい。終わらせるなら、あの扉の向こうへ行くしかない」
祠の奥には、半ば壊れた石段が続いていた。
そこを下りていくと、水中に吸い込まれるように、空気が変わる。
視界がゆらめく。
ふと、足元を見ると、水の中に“人の顔”が浮かんでいた。
無数の、若い娘の顔。
白無垢姿で、目を閉じたまま沈んでいる。
その中心に、ひときわ大きな影がいた。
それは、人ではなかった。
“人の顔を貼りつけた何か”。
巨大な何かが、祠の底で眠っていた。
目が開く。
すべてが止まったように、音が消える。
沙耶の中に、直接響く声。
《 名ヲ ヨベ 》
名を呼べ?
誰の?
《 オマエノ ナマエヲ ココデ ヨベ 》
――私は……
喉が詰まる。言葉が出ない。
《 ナマエヲ ナクセバ ワレト ナレル 》
(……違う、違う!)
喉の奥から、叫びが込み上げてくる。
「わたしは――」
涙がにじむ。
「――柚木 沙耶!」
その瞬間、すべてが砕けた。
水が爆発のように飛び散り、視界が白く染まる。
水の神殿が崩れ、顔のない巫女たちが光に還っていく。
最後に見たのは、影の沙耶が笑いながら消えていく姿。
「ありがとう……わたしを、思い出してくれて」
気づけば、沙耶は地上にいた。
朝の光が、木々の間から差し込む。
湖は静かで、まるで何事もなかったように、鏡のような水面を湛えていた。
舟も、祠も、影もない。
ただ、足元に――
「……クロ?」
黒猫がいた。
ボロボロに濡れて、でも確かに、生きていた。
沙耶がしゃがみ込むと、クロは小さく「ニャア」と鳴いてすり寄ってきた。
そしてその背後。
湖の水面には、もう誰の顔も、映っていなかった。
【続く:第四章「境界の門」】




