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「振り向くな、その声は底から来る   」  作者: やまちゃぁん


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スピンオフ:『水底の巫女(みこ)』

序章:最後の灯


山々に囲まれたその村は、地図には載っていない。

日が暮れると闇が早く、蝉の声は夕方五時を過ぎる頃には途絶える。

街の人間にとっては、単なる山奥の小さな集落にすぎないが、そこには百年以上も続く“ある風習”が、今なお生きていた。


桐野村。

古くから水神を祀るこの村では、毎年夏になると、夜にひっそりと行われる儀式がある。

村人の間では、それを「みたま送り」と呼ぶ。

だが、その実態を知る者は少ない。

――いや、誰も話したがらない。

まるで、それを口にすることが禁忌であるかのように。


「沙耶ちゃん、今日はすっごく綺麗だよ!」


村の広場で、幼い声が響いた。

夕日を受けて染まった空の下、紅白の提灯が並び、簡素な祭囃子が流れる。

屋台も、盆踊りもない。だが、この日だけは村の大人も子どもも、正装をして広場に集まる。


「ありがとう、湊」


そう答えたのは、白装束をまとった少女――沙耶さや

十五歳。しなやかな黒髪を結い上げ、額には紙の護符が貼られている。

まだ幼さの残る顔立ちに、白の装束はどこか異質だった。

彼女は、今年の“巫女”として選ばれたのだ。


湊――沙耶の弟で、まだ五歳の小さな少年は、彼女の手を握ったまま上目遣いに見つめる。


「お姉ちゃん、お神さまにお願いしてくれる? ぼく、来年の夏もいっぱい魚が釣れますようにって」


「うん、わかった。神さまにちゃんとお願いしておくね」


「やったー!」


湊は無邪気に笑った。

その笑顔を見て、沙耶の胸が締めつけられた。


――来年の夏。

自分は、そのとき、ここにはいない。


「ねぇ、湊。もし、お姉ちゃんが……どこかに行っちゃっても、ずっと、忘れないでくれる?」


「え? やだよ。どっか行っちゃうの?」


「もしもの話だよ。ううん、きっと帰ってくるけど……でもね、何があっても、お姉ちゃんのこと、覚えててくれたら……」


「うん! ぜったい、わすれないよ!」


湊は小さな手をさらにぎゅっと握りしめてきた。


沙耶は、それ以上は何も言えなかった。

ただ、微笑むことしかできなかった。




日が暮れる頃、村は静まり返る。

祭囃子はやみ、提灯の火だけが、ぽつりぽつりと赤く灯っている。


誰もが無言で、祠のある湖の方角を見つめている。

この時間になると、子どもたちは家に閉じ込められ、大人たちも口を閉ざす。


沙耶は一人、湖へと続く石畳を歩いていた。

まだ儀式は始まらない。

だが、心のどこかがすでに湖の底に沈みかけていた。


湖の名は「霧の湖」。

もともとは山の湧水が溜まってできた天然の池だったが、戦後に小さなダムが作られ、さらに深くなったという。

ダムと言っても、国に登録されていない。存在そのものが“村の秘密”だった。


「……水の神、様……」


沙耶は湖岸の小さな祠の前に膝をついた。

風が吹く。提灯の火が揺れ、湖面に映る。


そのときだった。


「……お前が、今年の“贄”か?」


背後から、ざらついた声がした。


振り返ると、そこには村の長老――杉本老人が立っていた。

年老いたその目は、深いシワの中から光を失っていた。


「巫女は、神の花嫁。決して恐れることではない」


「……でも、贄なんでしょう?」


沙耶の言葉に、老人は口をすぼめる。


「……恐れるな。お前がいなければ、村が滅びる」


「それって、本当に……?」


「神を疑う者は、罰を受ける」


その一言で、沙耶は口をつぐんだ。


老人が立ち去ったあと、風が止んだ。

湖はまるで、息を潜めるように沈黙していた。


そのとき、足元に黒い影がよぎった。


「……え?」


小さな“何か”が、彼女の足元をすり抜ける。

それは――黒猫だった。


真っ黒な毛並みに、まるで金色のような瞳。

全身が夜そのもののような気配を纏っている。


猫は、じっと沙耶を見つめていた。


「どこから来たの……?」


猫は答えない。ただ静かに、目を細める。


その瞳に、不思議なものを感じた。

恐れでも、怯えでもない。

むしろ、哀れみに近い。


「……私、怖くないよ」


猫は一歩、近づいた。

沙耶の膝に頭をこすりつけるようにして、体を預けた。


「……ありがとう」


その夜、沙耶は黒猫と共に湖を見つめながら、

誰にも話せなかった想いを心の中で呟いた。


(生まれてこなければ、よかったのかな……)


ふと、湖面に自分の顔が映った。

だが、それは少しだけ――笑っていた。


沙耶は自分の顔に笑い返そうとして、

そこで気づいた。


――湖面の“自分”は、瞬きをしていなかった。


【続く:第一章「湖の封印」】



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