第二話:湖の底から来るもの
第二話:湖の底から来るもの
夜が明けても、奈々の腕に残った赤い引っかき傷は消えなかった。
「寝ぼけて自分で引っかいたのかも」と自分に言い聞かせてみるものの、どうにも夢の中の“声”が生々しく残っている。
「おいで……おいで、こっちにおいで……」
そんな声が、起きた今も耳にこびりついて離れなかった。
午前十時、奈々は再びダム湖の売店に向かった。今日も杉浦はぶっきらぼうな態度で出迎えたが、なぜか売店のカウンターの上に小さな木箱が置かれているのに気づいた。
「……それ、何ですか?」
杉浦は答えない。代わりにその木箱をポンと指で叩いた。
「よくわからんが…。おまえ宛らしいぞ」
「……え?」
送り主の名はない。ただ宛名の部分に、奈々の名前と“湖のほとりの娘へ”と書かれていた。妙な表現に、背筋がぞくりとする。
恐る恐る箱を開ける。中には……一本のリボンが入っていた。
淡いピンク色。見覚えがある。これは――
「……千佳の、髪リボン……?」
昨日、LINEでやり取りしていた親友・千佳の愛用していたリボンだった。だが彼女には今日、会っていない。まさか、ここに来たのか? その形跡はどこにもなかった。
「ねえ、これ……本当に、誰が持ってきたんですか?」
「知らん。朝にはもう、店の前に置いてあった」
杉浦の答えはそっけなかったが、その顔色はどこか険しい。
午後、風が強くなってきた。湖面が波打ち、空気がぬるりと湿っている。
そんな中、奈々は違和感を覚えた。誰かの視線を感じる。店の裏手、湖に面した崖の方向から。
振り向こうとして、足が止まる。昨日の白い影の記憶が、脳裏にこびりついていた。
(見ない方が、いい気がする)
それでも、恐怖に負けて振り向いてしまった。
だが、そこには何もいなかった。ただ一匹の、黒猫――クロがいた。
「……また、来てくれたの?」
黒猫は、なぜか奈々の前にリボンを咥えてきた。さっきの箱に入っていたものとは違い、少し古びている。けれど、それもどこかで見た記憶がある。
「……これ、だれの……?」
猫は、すっと湖の方を見た。奈々もそれに倣って視線を向ける。
その瞬間――湖面の奥、揺れる波の下に、女の顔が浮かび上がった。
「っ……!」
奈々は声を上げる。だが、それはすぐに消えた。見間違いかとも思ったが、クロはじっと湖を見つめている。まるで、「そこに確かにいた」とでも言いたげに。
その夜、奈々は千佳に連絡を取ろうとした。LINEを開いても、既読がつかない。
不安になって電話をかける。だが「おかけになった電話番号は――」という機械的な音声しか返ってこなかった。
何かがおかしい。
嫌な予感がして、千佳の家に電話した。母親が出た。
「ええ、今朝から家にいないんです。そちらには行ってませんか?」
奈々の心臓が、ぐっと冷える。
次の日、奈々はアルバイトを休ませてもらって、湖周辺を歩いた。千佳が来た可能性はある。彼女なら面白がって、突然サプライズで来るような子だった。
そして、湖岸の遊歩道の脇に――
スマホが落ちていた。
ケースは千佳のものだった。手に取ると水が滴った。
中身は水で壊れているのだろうか?、反応が無い。しかし、明らかに彼女の物。
「……なんでここに……千佳……っ」
思わず膝をついて泣きそうになったそのとき、背中に強い“視線”を感じた。
振り返る。
何かが――そこにいた。
今度は、はっきり見えた。
真っ黒な影。顔のない人影。だが、全身から水が滴っていた。
その“もの”は、奈々に向かって手を伸ばす。
「こっちへ……おいで……」
女の声だ。昨日、夢で聞いた声。
足がすくんで動けない。逃げようにも、体が冷えて動かない。
そこへ――黒猫の鳴き声が響いた。
「ニャアァ!!」
影が一瞬、ひるんだ。クロがその影に向かって、威嚇するように背中を丸めて飛びかかろうとした。
その瞬間、影は音もなく霧のように消えた。
「……た、助けてくれたの?」
クロは、そっと奈々の足元に寄り添った。
その夜、奈々は再び夢を見る。湖の底、泥の中で少女が座っていた。
顔は見えない。ただ、ひとつだけわかったこと――その少女は、奈々に似ていた。
(え……? これ、私……?)
するとその少女が、奈々に顔を向けて囁いた。
「三人目が必要なの……次は、あなた……」
奈々は目を覚ました。息が荒く、全身が汗まみれだった。
だが、夢から覚めたはずなのに、部屋の隅に“水の跡”が残っていた。
次の日。売店に着いた奈々は、杉浦からある話を聞かされる。
「……あのダム湖はな、元は村が沈んでる。昔の地図にも載ってるが、封印された“旧桐野村”という場所だった」
「封印……?」
「曰くがある村だった。毎年一人、若い娘が“湖の神”に捧げられてたってな。昭和に入ってそれが公になって、ようやく潰された村だが……」
「じゃあ、それって……今でも……?」
「消えた人間は、もう戻らん。だが、例外がある」
杉浦は奈々を見つめた。
「“猫が選んだ娘”だけは、生きて戻れるってな。お前に付きまとう黒猫……クロだっけ。あれは、おそらく“門番”だ」
奈々の背筋が凍る。
「クロは……私を守ってるってこと……?」
「いや――試してるのかもしれん。“振り向くか、振り向かないか”で、すべてが決まるんだ」
その夜、奈々は最後の決意を固めた。
千佳を取り戻すためには、もう一度“あの湖”に向き合うしかない。
だがその前に、クロが見せた最後の導き。
彼女が“振り向いた先”に、本当に見てしまったものは――