母との溝
いやー、ほんといいね新英和大辞典。なんでんなもん私に、って思ったけど。
実を言うと、父から(勝手に)借りてた本の中には、専門用語も多くて、分からない箇所も沢山あった。これでも一応前世では英検2級までは持ってたんだけどね。さすがに専門用語となると、辞書無しでは難しくて。
新英和辞典は、学術分野の語句も載っている上級者向けの英和辞典だ。こんくらいじゃ無いと、専門書を読むのにはきついっていうか。語彙数が足りない。この辞書を読んでるだけでも楽しい。いろんな発見がある。
父から、本棚にある本は読んでも良いと言われたので、いろんな本を借りて読んでった。父と私とは、興味関心がある分野が被っているのだろう。どれも面白い。
分からないところがあったら父に聞く。大学教授にいつだって意見を聞けるなんて、恵まれた環境だと思う。父はいつからか、週末には必ず帰って来るようになっていたから。
母には幾度となく止められた気がする。兄は、兄は──どうだったっけ?
けど、知るものかと思う。だって、こんなにも毎日が楽しい。幼稚園も、本を持って行けば周囲の騒音だって気にならない。私はどんどん本にのめり込んだ。今まで辛うじて参加していた幼稚園の人間関係も切り捨てて。
──年長の夏、ついに母がキレた。
育ちの良い母は、怒るという機能が備わってないのかと思ってたくらいなんだけど。
「栞!いい加減になさい!」
「やだ。」
結局のところ、我慢して世間に合わせても、しょうが無かったんだって。だってそんなのつまんない。どうせあと数十年もすればジェンダーとか女性推進とかが叫ばれるのだ。じゃあ私が先駆けたとして、何が悪い?孫の顔を見せるのは、兄がやってくれるだろう。
「なんでお母さんの言うことが聞けないの!?」
「納得してないことに、うんって言いたくないから。」
これでも我慢した。私だって分かってる。私が転生者なのがおかしいんだって。ほんとはもっと元気よく遊ぶのが、正しい姿なんだろう。
でも、父は言った。やりたいならやれば良いだろうと。私は、これ以上つまらない人生を送りたくはない。そんなの、死んでるのと一緒だ。
「なんでもっとちゃんと出来ないの!?」
パァン、と乾いた音がして、一瞬遅れて頬が熱くなった。じわ、と涙が滲む。子供の体は痛みに弱く、涙腺も脆かった。
ぎゅ、と唇を噛み、母を見上げる。母は、見たこと無いくらい激高していた。兄が、凍り付いたような表情でこちらを見ているのが、視界のはしに映った。
かち、かち、と時計の音だけがした。
「じゃあ、ちゃんとってなに!?」
「お勉強ばかりしてないでもっと友達と遊びなさいっていっつも言ってるでしょう!?」
子供の体では感情が抑えられない。言いたいことがどんどん溢れてきて、それでも言葉に出来ない。喉の奥に熱い塊があるようだった。
「つまんないからやだ!」
「わがままばっかり言わないで!」
どうせ幼稚園のころの友人なんて、大人になったら会わない。なのにわざわざ、友達付き合いする必要なんてない。
「栞ちゃん誰とも遊ばないのよって言われて、どれどけお母さんが恥ずかしかったかわかる!?」
「知らない!そんなこと!」
私は身を翻して自分の部屋に駆け込んだ。そのまま布団を被る。ぼろぼろと涙がこぼれた。ここだけが自分の居場所な気がした。
生きるのはこんなにも、苦しい。